状態変化あり
百合の指が、追加された包みへ触れた。
「使わないでください」
私は盆と千代さんの間へ手を入れた。
「母の夜の薬です」
「正式な指示にない物が含まれています。千代さんも断っています」
「先生が必要だと言っているでしょう」
百合は盆を自分の側へ引いた。
私は会社端末で撤退の符号を送った。長い文は打たない。服薬前連絡ですでに、正式指示との差と中止要請は宮本へ届いている。
「ここで勤務を中止します。薬へ触らないでください」
冬彦が私とベッドの間へ半歩入った。
「撤退するかは会社の判断でしょう。母の状態は僕が見ています」
「会社へ送りました。宮本さんが入ります」
「今、家へ外の人間を入れたら、母がもっと興奮する」
千代さんは枕から頭を上げた。
「あんたが、うるさい」
冬彦は一度、黙った。
その隙に百合が盆を持ち上げた。私は手を伸ばしたが、冬彦の肩に進路を塞がれた。
「百合さん、やめてください」
百合は千代さんの右上腕をつかみ、起き上がろうとした体を寝具へ押し戻した。薄くなっていた痕と、指の位置が重なった。
「飲めば朝になるから」
「ならない」
千代さんは顔を左へそむけた。
冬彦が、追加された物を含む薬を百合へ渡した。
私はベッドの反対側へ回り、百合の手と千代さんの口元の間へ入ろうとした。
「本人が拒否しています。入れないで」
百合は私の腕を肘で押し返し、千代さんの顔を自分へ向けた。薬と水が口へ入る。千代さんの喉が一度動き、その直後、体が前へ折れた。
咳が続いた。
百合がもう一度水を近づける。
「足さないでください」
私はコップを盆へ戻し、千代さんの口へそれ以上何も入らないようにした。名前を呼ぶ。目は開くが、返事は一語にならない。咳の間に吸う息へ湿った音が混じり、肩が大きく上下し始めた。
「千代さん、私の声が聞こえますか」
左手がシーツをつかんだ。声は出なかった。
冬彦が手首へ触れた。
「むせただけです。少し待てば」
「呼吸が開始時と違います」
「救急を呼ぶほどかは、僕が」
会社端末の表示が、外部時刻の21:43へ変わった。
私は記録欄を開かなかった。緊急ボタンを押し、119へ発信した。
発信時刻と位置が会社側へ自動送信される。呼出音のあと、通信指令員の声がした。
「救急です。火事ですか、救急ですか」
「救急です。高齢女性。服薬を明確に拒否したあと、ご家族が実施しました。直後からむせて、呼吸と応答が悪くなっています」
住所を伝えた。意識、呼吸、年齢、いつから変わったかを聞かれる。
私は千代さんのそばに膝をついたまま、一つずつ答えた。指令員の指示に従い、呼吸を妨げない体勢を保つ。口から見える範囲と胸の動き、声かけへの反応を伝え、それ以上の飲食はさせなかった。
百合が会社端末へ手を伸ばした。
「家のことを、そんな言い方で」
私は端末を胸側へ寄せ、通話を切らない。
「電話を取らないでください」
「私の母です」
「今は救急へ状態を伝えています」
百合はもう一度つかもうとした。私はベッドへ背を向けず、体を横へずらして手を避けた。
冬彦は通話口へ向かって言った。
「主治医ではありませんが医師です。現時点で搬送は本人の負担になります。こちらで経過を」
指令員は、電話をしている私へ質問を続けた。
「救急隊は向かっています。患者さんのそばを離れないでください」
「離れません」
玄関の呼び鈴が鳴った。
百合は動かなかった。冬彦も寝室にいる。
廊下にいた律が走った。
「門、開けます」
「律」
百合が呼んだが、足音は止まらなかった。
門の作動音、玄関の開く音が続いた。宮本が寝室へ入り、最初に千代さんと私、次に百合の手、床頭台の盆を見た。
「真柴さん、通話を続けてください。救急は私が誘導します」
「勝手に入らないでください」
百合が宮本の腕をつかんだ。
冬彦は玄関へ向かおうとした。
「救急車を止めます。母は搬送を望んでいない」
千代さんは、その言葉へ返事ができる状態ではなかった。
宮本は百合の手を外し、私物のスマートフォンから110へ通報した。家族が119通話を妨げ、救急隊の入場と搬送を止めようとしていることを伝える。会社の安全計画で決めた撤退条件に達した、と会社にも連絡した。
律が救急隊を連れて戻った。
私は場所を譲りながら、開始時の状態から順に申し送った。
外部主治医と薬剤師の文書に、嚥下時の注意があること。千代さんは今夜の内服を明確に拒否したこと。正式指示にない包みが加えられ、会社から中止を求めたこと。百合が実施し、喉が動いた直後にむせ、呼吸と応答が変わったこと。追加の飲食は止めたこと。
「追加された分の名前と量は」
「私は中身を確認できていません。正式な今夜分は、会社端末に写しのある指示書と一致していました。盆に、その空包と、表示のない空包が一つあります」
百合が盆を持ち上げかけた。
「これは家で片づけます」
宮本が手を出さずに止めた。
「そのままにしてください。救急隊へ確認してもらいます」
救急隊員が盆と指示書を見て、持参する物を分けた。私は判断へ口を挟まず、どこから出た物かだけを答えた。
千代さんの左手は、まだシーツをつかんでいた。隊員が声をかけると、指が一度動いた。私が名前を呼んでも、目は開かなかった。
担架へ移す間、百合は廊下の壁際に立っていた。
「私も行きます」
救急隊員は、同乗について現場の手順で調整すると答えた。百合は同じ言葉を繰り返さず、玄関に置いた自分の鞄を取った。持ち手には、千代さんの薄紫のカーディガンが掛かっていた。
冬彦は救急隊員から、正式な主治医、普段の薬局、自分が今夜加えた物について尋ねられた。質問を言い換えようとしたが、警察官が到着すると、誰が用意し、誰が実施したかを分けて答えるよう求められた。
律は自分のスマートフォンを宮本へ見せた。
「家族ノートの監査履歴です。保全の受付番号も、ここにあります」
「端末は操作せず、その画面のままにしてください」
律は画面へ触れず、食卓へ置いた。
担架が門を出たあと、家の中から呼吸の音がなくなった。
私は追いかけなかった。指令員の指示どおり患者のそばにいた役目は、救急隊へ渡った。搬送先は会社と家族へ連絡される。
宮本が会社端末で、私の勤務終了を記録した。
「予定していた休憩の前です。未取得のまま終了。ここから警察の指示で残る時間は、別に開始します」
最初の九夜は、一時間ずつ休憩を取り、実労働は合計九十時間。今夜を予定の十時間へ丸めることはできない。宮本は急変対応までの実時間で閉じた。
警察官が、会社端末と家族ノートの端末を操作せず、その場で表示だけ確認した。私と宮本は横から画面を見た。薬の盆を含め、以後は触らないよう求められた。
家族ノートには、私の署名画像が付いた完成版がある。
21:41。服薬済み。夜間状態変化なし。家族確認済。
会社端末には、緊急発信の自動記録があった。
21:43。119発信。位置、鷺宮家。
二つの画面には、どちらも外部標準時と同期していると表示されていた。




