十夜目の空白
「門の緊急開放を、もう一度試してください」
制服へ着替えて戻ると、私は律と玄関へ立った。
門は普段どおり施錠する。ただし、会社の撤退符号を受けた時や連絡が切れた時は、外で待つ宮本が家族の許可を取り直さず入れる。律が家側の操作をし、宮本から会社端末へ開放確認が届いた。
玄関から千代さんの寝室まで、床には物を置かない。私物は玄関脇の一か所。会社端末と緊急連絡端末は身につける。
深夜には別の交代職員が来る予定だった。そこから一時間は、その人が千代さんと端末を引き受け、私は外へ出る。今はまだ、勤務が始まったばかりだった。
午後八時。開始を打刻した。
最初の定時連絡へ、入場、安全条件変化なし、と送る。宮本から受信だけが返った。
千代さんは寝室で、薄紫のカーディガンを脱ぎたがっていた。
「暑い」
「右腕は最後に抜きます」
「最後ならいい」
左、頭、右の順に、布のほうを動かす。右上腕に残る黄色い痕は、前夜とほぼ同じだった。触れずに本人へ痛みを聞くと、「袖を引かなければ、痛くない」と答えた。
呼吸、声、皮膚の色、覚醒、姿勢を会社原本へ保存する。家族ノートは開かなかった。
「空けるって、私は約束していません」
カーディガンを畳みながら言った。
「知ってる」
「何を起こすか知らないまま、協力はできません」
「何も起こさない」
千代さんは枕元の水へ手を伸ばし、自分で一口飲んだ。コップを左側へ戻す。
言葉は一度に続かなかった。私は問いを一つにして、返事が来るまで待った。
「家が書くのを、先にさせる」
「どうして、私なんですか」
「金がないから」
答えは早かった。
「佐伯さんから聞いたんですか」
「百合が、律に話してた。前の家で赤いところを書いて、でも最後まで行ったって」
「細かく書いても、逃げないと思った」
「九枚目までは」
「うん」
私は畳んだカーディガンの袖をもう一度開いた。右袖が内側へ折れ込んでいた。指で引き出し、縫い目をそろえる。
「三年前、百合さんを受任者に選んだのも千代さんですね」
「あの時は、百合が眠ってなかった」
百合の夫が病気になった時、千代さんが費用を出し、この家へ戻るよう言った。律の学費も、冬彦の診療所も支えた。
「出したら、口も出した」
千代さんは自分から言った。
「百合がどこへ行くか。律をどうするか。冬彦が、いつ返すか」
「守っていたんですか」
「言うことを聞かせた」
廊下を、百合の足音が通った。寝室には入らず、台所のほうへ消える。
「それでも、あとを百合さんへ任せようとした」
「自分で払うのが、難しくなったから」
「今は嫌になった」
「薬が違った。書いたのも違った」
外部主治医の訪問で訴えた時、百合と冬彦が同席していた。市へ電話した時は、途中から百合が受話器を持った。家族ノートを見せてほしいと律へ頼み、自分の言葉が「夜の混乱」に変わっているのを知った。
「律さんと、いつから十枚目の話を」
「前の人が、来なくなってから」
「朱音さんが」
千代さんの目が私へ戻った。
「あかね」
本名を聞いたのは初めてのはずだった。千代さんは二音を確かめるように、もう一度言った。
「朱音」
「律さんが教えたんですか」
「声で言ってた」
朱音が残した音声を、削除される前に律が一度聞かせたという。千代さんが話したのは、クラウドや履歴の仕組みではない。朱音の名が家族ノートでは東綾子へ変えられ、会社へ「異常あり」と書いたあと来なくなったことだった。
「だから、私へ何も書くなと」
「律が、先に書いた時刻が残るって」
「私が九夜まで残ると見込んで」
「そう」
私はカーディガンを椅子の背へ掛けた。
「私を使ったんですか」
「うん」
千代さんは目をそらさなかった。
そのあとを待った。ありがとうでも、ごめんでも、言い訳でもよかった。千代さんは何も足さず、コップをもう一度手に取った。
左手の指が濡れていた。私はタオルを渡した。
「これで、私が仕事を失っても?」
「私が死んでも、あんたの金は戻らない」
「そういう言い方をすれば、私が引き受けると思っていますか」
「思ってない」
タオルを握る力が弱かった。私は手のひらを拭くか聞き、千代さんがうなずいてから、指の間の水だけを取った。
「薬を拒むことも、計画に入れましたか」
千代さんは眉を寄せた。
「嫌なものは、前から嫌だよ」
「今夜、わざと具合を悪くするつもりは」
「ない」
その返事を会社原本へ入れた。第十夜の先行保存を家族にさせたいという話も、千代さん本人から聞いた範囲として宮本の受付へ送る。
定時連絡の返信が来た。宮本は外にいる。寝室の戸は開いている。
百合が服薬の盆を持ってきた。外部主治医と薬剤師の書面にある今夜分を、私は会社端末で照合した。
盆の端に、薬局の表示がない小さな包みが一つあった。
「これは指示書にありません」
百合が冬彦を呼んだ。
冬彦は上着を脱ぎながら寝室へ入り、包みを指した。
「以前外していた分を、今夜は戻します」
「外部主治医か薬剤師から、更新された文書はありますか」
「僕が状態を見て判断しました」
「安全条件では、正式指示外の使用は中止です」
「指示外ではありません。医師として必要だと判断している」
「千代さんの普段の主治医として出された指示ですか」
冬彦は答えを変えた。
「家族として、今夜の不穏を長引かせないためです。明日は面談もある」
「では、使用しないでください。私は介助しません」
私は正式指示との差と、家族が追加しようとしていることを服薬前連絡で宮本へ送った。撤退条件に近づいている。会社側から中止確認が返るまで、盆へ誰も触れないよう求めた。
千代さんは冬彦を見た。
「それ、前に嫌だと言った」
「母さん、今夜は眠ったほうがいい」
「飲まない」
百合は盆を床頭台へ置いた。指示書どおりの今夜分も、追加された包みも、まだ手つかずだった。
家族ノートを置いた食卓から、短い確定音がした。
私は寝室を離れず、律へ画面をこちらへ向けるよう言った。第十夜の当日欄に、保存された二行がある。
21:41
服薬済み。夜間状態変化なし。
私はまだ家族ノートへ一字も入れていない。千代さんは薬を飲んでいない。
「誰が保存しましたか」
律は履歴を開きかけた。
百合が、床頭台の盆へ手を伸ばした。
「飲まない」
千代さんは今度、百合の手を見て言った。




