私を使うつもりだった
「私がいないと、母は長く話せません」
百合は車椅子の後ろに立ったまま言った。
「必要になったら呼びます。まず、お部屋の外で待ってください」
中村の問いは短かった。百合はハンドルから手を離したが、客間の戸までは行かなかった。
「今日は眠気が強いんです。今、無理に聞くことですか」
冬彦が窓際から口を挟んだ。
「眠気があることも確認します。千代さん、私と二人で話したいですか」
千代さんは顔を上げた。昼に会った時より瞼が重そうだった。
「百合は、なし」
「お母さん」
「なし」
二度目は小さかったが、聞き直す必要はなかった。
中村は百合と冬彦に、廊下で待つようもう一度頼んだ。冬彦は動かなかった。百合は千代さんの膝掛けを直し、車椅子の横へ自分の椅子を置いた。
「家族がいるなら話さない、という意味ですか」
中村が尋ねると、千代さんは目を閉じた。
「疲れた」
百合がすぐに言った。
「だから、今日は」
「今の『疲れた』は、千代さんの言葉として記録します。ご家族の説明とは分けます」
百合は椅子へ座らなかった。
中村は市の端末で、千代さんの過去の相談を確認した。同じ住所から、二か月ほど前に一度電話がある。本人が「薬が違う」「書いた物が変わる」と話した途中で、家族へ代わっていた。
「私です」
百合が言った。
「母が電話番号を間違えて、混乱していたので」
「そのあと、市の職員が来ていますね」
「私と弟で説明しました」
訪問時、千代さんは眠っており、起きたあとの会話にも家族が同席していた。家族と離れた確認はできず、外部主治医への照会が途中のままになっている。
「前の担当者へ引き継がれなかったんですか」
私が聞くと、中村は首を横へ振った。
「ここでは市の内部経過までお話しできません。ただ、今日の通報と以前の相談を同じケースへつなぎます」
千代さんが目を開けた。
「明日、来る?」
「朝、もう一度来ます。その時は、千代さんと二人で話します」
「百合なし」
「はい」
中村は百合と冬彦にも向き直った。
「今の確認だけでは、一時的にご家族と離す必要があるほど切迫していると、私がここで判断できる事実はそろっていません。だから終わりにはしません。今から会社の記録と、普段の主治医、薬局へ確認します。明朝、本人と一対一で再訪します」
冬彦の眉が動いた。
「医療情報の照会には手続が必要です」
「必要な手続を取ります。先生だけから伺って終わることはしません」
中村は、家族が電話、郵便、外出を管理している理由を聞いた。百合は詐欺や転倒を防ぐためだと答える。中村は反論せず、誰が鍵と電話を持ち、千代さんが一人で使える連絡手段があるかを確認した。
「公証人へ電話したい」
千代さんが言った。
「どなたと契約について話すか、千代さんが選べるようにします。私が契約をやめさせることはできません。明日、法律の相談先とも、ご家族を通さず話せる時間を準備します」
「私が付き添います」
百合の声は早かった。
「千代さんは、百合さんを入れないと二度おっしゃいました」
中村はそれ以上説明せず、翌朝の訪問を記録した。百合が協力すると答えなかったことも、そのまま入れた。
百合と冬彦が中村を門まで送っている間に、律が客間の茶箪笥から罫線のある紙を出した。千代さんが佐伯へ送った手紙の書き損じだという。
「書いたのは、おばあちゃんです。出したのは僕」
「いつから、私をここへ呼ぶつもりだったんですか」
「佐伯さんが、候補の記録を母さんへ送ったあとです」
家族が読んだ藤井案件の抜粋を、千代さんも聞いていた。細かいことに気づき、報告しても、契約が終わるまでは残ろうとした職員。母の施設費を急いでいる。
「九夜までは来るって、おばあちゃんが」
「私を使うつもりだったんですね」
律は否定しなかった。
千代さんは、眠そうな顔で書き損じを見下ろしていた。
「手紙は、千代さんが書いたんですか」
「書いた」
「律さんへ、出すよう頼んだ」
「頼んだ」
「十枚目を空けたいと言ったのは、おばあちゃんです。時刻を残す方法を決めたのは僕です。薬のことまでは、計画していません」
長い説明を求めると、また誰かが千代さんの代わりに順序を作る。私はそこで止めた。
中村を見送ったあと、宮本と門前の会社車まで戻った。宮本は運転席には座らず、後部座席の扉を開けたまま、配置中止の書面を見せた。
「今夜、入らなくても、九夜分の賃金は支払います。高梨さんの音声も会社と市へ渡りました。真柴さんが残る必要はありません」
「別の人を出せますか」
「家族は、主担当が替わるなら今夜のサービスを断ると言っています」
断れば、家の中には家族だけが残る。市は朝に戻る。今夜すぐ危害が起きると確認されたわけではない。それでも、前回の市訪問と同じ空き時間ができる。
金に困っていることまで数に入れられ、九夜までは残ると当てにされていた。腹が立ったままでも、帰れば今夜の千代さんは見えなくなる。
「会社から、行けと言われたくありません」
「言いません」
「私が行くと選んだ場合の条件を聞かせてください」
宮本は書面を裏返した。
家から歩いて二分もかからない場所で、宮本自身が待つ。決めた時点と服薬の前後に連絡する。撤退の符号を受けた時、連絡が切れた時、会社が緊急入場する。身体的な威圧、施錠、通信を奪う行為、正式指示にない薬、救急を妨げる行為が一つでもあれば、観察や記録をやめて勤務を中止する。
深夜には、これまでどおり別の交代職員が来る。宮本が近くにいても、休憩の代わりにはならない。交代職員が直接ケアと端末を引き継ぎ、私は一時間、完全に仕事から離れる。
「家族が一つでも拒めば、配置しません」
「今夜は、記録を取りに入るんですか」
「違います。千代さんのケアです。危険に達したら、証拠の都合は捨ててください」
私は銀行の残高を思い出した。簿外の十万円を申告しても、次の施設費はなくならない。最終夜の正規賃金も必要だった。
「市には伝えました。会社にも、高梨さんの声を渡しました。朝まで同じ人が見るという家族の条件を使えば、千代さんを一人にしないで済みます」
「それだけですか」
宮本は、私が午前に答えたのと同じ聞き方をした。
「金も要ります」
「今の理由を全て、継続意思の欄へ入れます」
「入れてください」
私が署名する前に、家族側の受諾が必要だった。
宮本は鷺宮家の食卓で、百合、冬彦、律へ条件を一つずつ読んだ。百合は近隣待機に反対し、冬彦は医師の判断へ会社が介入するのかと聞いた。
「正式な主治医・薬剤師の指示と異なる薬の使用は、撤退条件です。医療上必要なら、正式な経路で更新してください」
宮本は言い争わず、拒否なら今夜の配置はしないとだけ答えた。
百合は、翌朝の本人面談の通知を見た。今日決まった市の再訪も、同じ朝に加わっている。
最初に署名したのは、律だった。門の緊急時入場方法を宮本へ渡し、履歴保全の識別番号も書いた。
冬彦は長く書面を読み、正式指示外の使用はしないという欄へ署名した。
百合は最後だった。
「休憩の方が来ても、主担当は真柴さんですね」
「休憩中のケア担当は交代職員です。表紙をどう呼ぶかに関係なく」
百合はペンを置きかけ、また持った。自分の名前を書き終えると、紙を宮本へ押し返した。
三人の署名を確かめてから、私は継続意思の欄へ自分の名を書いた。宮本は四人分の署名を会社へ送り、配置の保留を解いた。
客間から、千代さんの声がした。
「十枚目だけ、空ける」
私は返事をしないまま、制服を取りに行った。




