エイブリル
リベカの部屋を出たミーガンが屋敷の廊下を遠回りしながら自室に向かっていると、ティーセットを持った、一人の召使の女がのっそりのっそりと、歩いているのが見えた。
「エイブリル」
ミーガンが名前を呼ぶと、召使の女は忌々しそうな顔をこちらに向ける。
「ああ、ミーガンお嬢さん。帰って来られたんですか? まだこちらに帰って来られなくともよろしかったのでは? 私にはまた、ミーガンお嬢さんに飲み物をお部屋までお届けしなければならないという仕事が増えたんですね」
遠慮なく不平不満を口にするエイブリルに反論する言葉も思いつかない。ミーガンのことなどお構いなしに、エイブリルは小言、いや大言を続ける。
「お世話しなければならない方が増えると、私の仕事も増えるんですよ。いくら片付けても仕事がとんと終わりゃしない。今日だって、朝から何度あのばあ……大奥様に呼び出されたか。ギャレット様だって、怪我が良くなったのだから、自分の領地に帰ったらば、いいのに、一向に帰ろうとしない。あの人はああやってうまいこと言って、カンニガム家の一員に滑り込もうとしているのでしょうね。ああ、嫌だ嫌だ。この家にはミゲル様という尊い存在の方がすでにいらっしゃるというのに」
なぜだか彼女は昔から妙にミゲルを傾倒しているのだ。ミゲルの何が彼女をそこまで動かすのかはミーガンも知らない。聞いても、彼女の性格では聞きたい言葉を返してくれないだろうと思うので、聞くのも億劫なのだ。
エイブリルはミーガンが生まれる前からこのカンニガム家に仕えている。現在この屋敷で一番古参のメイドと言っても過言ではないだろう。年齢をはっきりとは聞いたことはないが、ミーガンの亡き母親と変わらない年齢だと聞いたことがあるので、四十代なのだろうと思う。その亡き母がカンニガム家に嫁いだ際に、生家から一緒に連れてきたメイドの一人だとも。もちろん、彼女一人だけではなかったようだが、他のメイドたちは様々なライフスタイルの変化で辞めた者も少なくない。その中で、エイブリルだけが、ずっとそのまま。彼女がそうである理由は、言わずもがな。
「私は私自身の家に戻って来ただけだわ」
ミーガンは務めて冷静に言った。彼女に癇癪を起こされる方が面倒だったのだ。
「ミーガン様、それはおっしゃる通りです。そして、貴女様が心の中で私のことを小馬鹿にしているだろうことは、このエイブリルだってわかっていることですよ」
「そんなことは……」
「一度でも思ったことがないと? 随分と、聖人君主なことをおっしゃるのですね。それとも、そういった返答をするようにと、学園で教わったのですか?」
「……」
ミーガンは口を閉ざす。エイブリルがミーガンをわざと怒らせようとして言っているのだと思ったから。その手に乗れば、どんな結果になるか、それが避けるべき結果であることは十二分にわかっていた。今までのミーガンであれば言い返していたかもしれない。だけど、少なくとも学園で貴族としての処世術を学んだミーガンは、過去の自分の対応が悪手であったことを理解していた。そんなミーガンの態度が面白くなかったのだろう。エイブリルは急に興味を失ったようにため息をついた。
「賢いお嬢様でしたらお分かりになるかと思うのですが、この屋敷はどんどん住人が増えていく割には、使用人の数を増やそうとされないのです。主人であるカンニガム伯爵様を悪く言うつもりはありません。私が言いたいのは、現伯爵家を取り仕切られている、ランディ様はもう少し、屋敷の中に目を向けてくれないのかと。その点で言うとミゲル様は本当にお優しい方でいらっしゃって」
ミゲルに心酔した様子のエイブリルと会話を続けていても、泥沼にはまりそうだと思ったので、これ以上の口論にならないうちに、逃げ道を探していると、エイブリルが両手に持つティーセットのトレーが目に飛び込む。
「それはランディお兄様の執務室に持っていくものかしら」
ランディはミーガンの一番上の兄だ。彼は剣の腕は今ひとつなものの、頭脳だけで言えば、彼に敵うものは現カンニガム家にはいない。
「ええ、そうですよ。それ以外何があると?」
「私が持っていくわ。帰って来てまだお兄様に挨拶をしていないものだから」
顔を顰めて文句を言い始めるエイブリルの言葉を遮り、そう言って両手で抱えるようにして持っていたティーセットをトレーごと受け取る。エイブリルはそのまま、パッと手を離した。
「まあ、ミーガンお嬢様。学園に行かれて、ひとまわりもふたまわりも賢くなられた様子で、亡き奥様が聞いていらっしゃれば、感動されたでしょう。せっかくのお嬢様の厚意を無駄にするわけにもいきませんから、ではお願いいたしますね。私は他にもやらなければならない仕事が山積みになっていますからね。具体的に申し上げましょうか? 洗濯の残っている分を片付けて、玄関の床を磨いて。あと、それから……今日も忙しい忙しい」
エイブリルはそう言い残し、嵐のように通り抜けていった。
彼女の口ぶりだけ聞いていると、全てを一人でやろうとしていると思われるかもしれないが、他にも使用人はいる。ただ、使用人が増えないのはエイブリル自身にも責任があることをわかってほしいと思いながらも、それを理解してくれることはないのだろうと思う。だってもし、勤め先で毎日のようにあのような小言を言われていたら、なかなか人が定着しにくいという状況も理解いただけると思う。そして、エイブリルのあの小言を助長した原因は、ミーガンの母親にあるので、ミーガン自身も、屋敷の誰もが強くは言えなかった。
亡くなったミーガンの母親はエイブリルについて、故郷を離れ、残された家族を養うために仕事を続けなければならない彼女のことを憐んでいた。そのため、せめてもの思いで、彼女の訴えを蔑ろにせず、ほとんどの訴えを聞き届けていたらしい。本来であれば一人の使用人に対して優遇するのは良くない。しかし、自身の婚姻に伴い、半ば強制的に連れてきたエイブリルに対して、思うことがあったのだと思う。
当時も今も、亡き母親の決めたしきたりに対して異を唱えるものは誰もいない。それを良いことにエイブリルは以前にも増して、小言がひどくなったのも事実である。




