第27話 延期された約束
迷宮核が砕けた日の夕方、ルクスグレイには久しぶりにまともな風が吹いた。
止まっていた雲は流れ、畑の葉先は揃って揺れ、町のあちこちで「なんだか身体が軽い」と言い合う声が上がる。中央塔の主機構はまだ修理中だったが、空気のずれた感じだけは確かに消えていた。
その一方で、アルシャールは目を覚まさなかった。
地下講堂から運び上げられた彼は、あの仮眠室へ寝かされた。
最初に倒れたとき、ジェシーが「倒れられるほうが迷惑」と言って作った空き教室だ。今では窓に厚手の布が掛かり、簡素な寝台の脇には水差し、記録板、替えの布まで揃っている。
寝かせる部屋として、あまりに出来すぎていた。
カトリーナは毎日、脈と呼吸を確かめた。
「浅くない。ちゃんと眠ってる」
そう言われても、ジェシーの眉間の皺は取れない。
目を閉じたアルシャールは、驚くほど静かだった。普段なら寝息の合間に少し顔をしかめたり、寝返りで布を蹴ったりするのに、今回はそれもない。ただ深く沈んでいる。
ジェシーは机を引き寄せ、仮眠室の隅で主機構の修理図を描き続けた。手を止めると余計なことばかり考えるからだ。
花火は上がらなかった。
花火の計画を立てた夜に作った予算表は、食堂の壁にそのまま貼ってある。紙の端にはキンバリーが書き足した落書きみたいな花火印まである。けれど誰も、「今夜打ち上げよう」とは言わなかった。
町を救った本人が寝たままなのに、先に夜空だけ明るくする気にはなれなかったのだ。
一日目、白銀騎士学校は忙しかった。
崩れた回廊の補修、地下講堂の封鎖、診療所への説明、バルディエン家の兵の聴取、押収文書の仕分け。やることが山ほどある。
クヌーティラは領都へ向かう使者を仕立て、バルディエンの不正資料と迷宮核保守費の流用命令文を一括で送った。
「今度は言い逃れできない形にする」
彼は珍しく笑わなかった。
ズドラフコヴィチは若者たちを連れ、北棟の本補修へ入った。授業を受けていた連中が今度は現場側に回り、教わった通りに支柱を測る。
キンバリーは食堂を閉めず、むしろ鍋を増やした。
「こういう時こそ食わせる」
彼女のその理屈に、誰も反対しない。
カトリーナは診療所と仮眠室を往復し、ジェシーは主機構と仮眠室を往復した。
二日目、町の動きは落ち着き始めた。
差し押さえの兵だった者のうち、何人かはバルディエンに真相を知らされていなかったと分かる。中には学校の補修を手伝いたいと言い出す者までいた。
「飯がうまかったからな」
そう言った元兵士に、キンバリーは呆れながらも芋を一個多く盛った。
食堂はそういう場所だった。
ジェシーは二日目の夜、仮眠室の椅子でうたた寝しかけた。
手から落ちた羽根筆が床へ転がり、その音で自分で目を覚ます。
寝台の上のアルシャールは動かない。
彼女は静かに立ち上がり、布のずれを直した。
「戻るって言ったのに」
聞こえない相手へ、小さく吐く。
怒っているのか、泣きたいのか、自分でも分からなかった。
三日目、主機構の仮修復が終わった。
ジェシーが塔から戻ると、キンバリーが食堂の入口で待っていた。
「花火、どうする」
「まだ」
「だよね」
キンバリーはそれ以上ふざけなかった。
代わりに布袋を渡してくる。
中には塩焼き豆が入っていた。
「食べないと倒れる。寝る人の隣で倒れたら笑えない」
その言い方が少しだけアルシャールに似ていて、ジェシーは返事の代わりに袋を受け取った。
夜になると、仮眠室へ人が一人ずつ顔を出した。
ズドラフコヴィチは黙って新しい寝台の脚を締め直し、クヌーティラは領都からの速報だけ置いていく。バルディエンは拘束命令、学校の保全請求は仮受理。ひとまず負けは消えた。
カトリーナは最後に入り、眠るアルシャールの脈を取り、ジェシーへ言った。
「たぶん、朝よ」
「根拠は」
「治療師の勘」
「曖昧」
「でも外さない」
カトリーナは微笑んで出ていった。
四日目の朝は、やけに明るかった。
窓布の隙間から入る光が白く、仮眠室の床へ細長く伸びている。ジェシーは机へ突っ伏したまま眠っていて、目を覚ましたとき、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
小さな音がした。
布が擦れる音。
顔を上げると、寝台の上でアルシャールの指がわずかに動いていた。
ジェシーは立ち上がろうとして椅子へ膝をぶつけた。
そんなことはどうでもいい。
寝台へ駆け寄る。
「アルシャール」
返事はない。
だがまぶたが震え、ゆっくり開いた。
焦点の合わない目が天井を見て、それから少しずつ横へ動く。
ジェシーの顔を捉えるまで、数秒かかった。
「……仕事は」
開口一番がそれだった。
声は掠れていて、ひどく小さい。
それでもジェシーは、胸の奥がぐしゃぐしゃになるのを止められなかった。
「まだそれ言う」
「四日」
「三日と半分」
「長いな」
「長かった」
思わず語尾が震えた。
アルシャールはようやく状況を飲み込んだらしく、少しだけ眉を寄せる。
「怒ってるか」
「怒ってる」
「そうか」
「すごく」
「そうか」
それだけ言って、彼は弱々しく笑った。
その笑い方がいつもどおりで、ジェシーはとうとう目を逸らした。
泣きそうな顔を見られたくなかった。
だから窓のほうを向いたまま、できるだけいつもの調子で言う。
「花火、延期してある」
「予算は」
「キンバリーが守った」
「えらい」
「みんな守った」
沈黙が落ちる。
朝の光だけが少しずつ強くなる。
ジェシーは深く息を吸った。
ここで黙ったら、たぶん一生言えない気がした。
だから振り向かないまま、言う。
「花火を見に行こうよ」
自分でも驚くほど、声が細い。
それでも続けた。
「今度は、仕事の途中じゃなくて」
仮眠室の空気まで止まったみたいだった。
返事が来るまでの数秒が、町ごと止めた時間より長い。
「……行く」
掠れた声が背中へ届く。
ジェシーはそこでようやく振り向いた。
アルシャールはまだ起き上がれないくせに、妙に真面目な顔をしていた。
「絶対に」
その言い方が可笑しくて、情けなくて、安堵でどうにかなりそうで、ジェシーは笑った。
笑いながら、とうとう少しだけ泣いた。
延期された約束は、ようやく本当の予定になった。




