第28話 動き出す掛け時計
花火の夜は、迷宮核が砕けてから六日後に決まった。
中央塔の主機構は完全修復とまではいかないが、町へ新しい時刻を告げるには十分なところまで戻っている。ジェシーは最後の二日、ほとんど塔から降りなかったし、ズドラフコヴィチたちは塔の足場を組み直し、キンバリーは祭り向けの食堂札を書き換え、クヌーティラは領都からの正式文書を間に合わせ、カトリーナは「倒れそうな人を先に寝かせる席」を祭り会場へ確保した。
白銀騎士学校らしい準備だった。
夕方、校庭と町の広場をつなぐ道には、灯りが並んだ。
焼き芋、塩焼き豆、薄切り肉の串、薬草蜜の温飲み、迷宮浅層で取れた鉱石片の飾り。食堂兼売店は臨時の屋台へ姿を変え、講習室で字を覚えた子どもたちが札を書き、補修組の若者が台を組み、診療所組が人混みの端へ救護卓を置く。
学校で学んだことが、そのまま祭りの形になっていた。
アルシャールは、まだ本調子ではなかった。
歩ける。話せる。だが油断するとすぐ眠気が差す。
そのせいで夕方から三度も座らされ、四度目にとうとうジェシーから言われた。
「今日は倒れたら許さない」
「倒れない」
「さっき欠伸した」
「空がきれいだった」
「言い訳が雑」
隣でキンバリーが吹き出す。
「寝るのも仕事なんでしょ、校長代行」
「今日は仕事が多い」
「寝る仕事も含めて管理して」
食堂側から飛んでくる容赦のない言葉に、アルシャールは肩を竦めるしかなかった。
それでも、校庭へ出た瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。
以前は草に埋もれていた訓練場跡に、今は人がいる。
空き部屋だった教室には灯りがあり、校舎脇には補修した石壁がまっすぐ立ち、食堂からは湯気と笑い声が流れてくる。診療所の窓には柔らかい布が掛かり、中央塔は止まっていない。
戻ったのは時間だけではなかった。
人の居場所が戻ったのだ。
日が落ちきる少し前、広場中央へ簡素な壇が置かれた。
クヌーティラが正式文書を手に上がる。
今日は派手な上着ではなく、落ち着いた濃紺の服だ。それでも立つだけで目を引く。
「領都より通達。白銀騎士学校の保全および再編成を正式認可」
拍手が起こる。
彼はそこで一拍置き、続きを読み上げた。
「新規の役割は、騎士訓練に限らず、迷宮対策、町防衛、応急医療、石工補修、兵站、読み書き算術の再教育を含む」
拍手がさらに大きくなる。
子どもも、元兵士も、未亡人も、職人も、同じように手を打っていた。
それが、この学校の新しい看板だった。
ズドラフコヴィチが若者たちを連れて前へ出る。
「北棟の補修、来週から本格再開だ。授業受けた連中は逃げるなよ」
野次と笑いが飛ぶ。
カトリーナは救護卓の前で、「倒れた人は診るけど、無理した人は説教もする」と穏やかに宣言した。
キンバリーは屋台の前で、「売り切れたら追加は走るから待ってろ!」と叫び、もう半分祭りの親玉みたいな顔になっている。
そして最後に、ジェシーが中央塔の下へ立った。
彼女の手には修復を終えた起動鍵がある。
塔の文字盤は夜空を背に、ほんのり金に光っていた。
「時間、合わせるよ」
そう言って彼女はアルシャールを見る。
自然と皆の視線もそちらへ集まった。
アルシャールは一歩前へ出る。
この前の停止のときとは違う。
もう一人で抱え込むために塔へ向かうのではない。
みんなで動かしてきた時間を、みんなに返すために立つのだ。
彼はジェシーから起動鍵を受け取り、主機構へ差し込んだ。
歯車の噛み合う低い音が塔の内側で回り、次いで大きな振動が足元から立ち上がる。
止まっていたわけではない。だが本当に動き出す瞬間は、やはり違う。
文字盤の長針が、ためらいなく一目盛り進んだ。
次の瞬間、白銀騎士学校の掛け時計が、町じゅうへ鐘を打った。
一打目で広場が静まり、
二打目で誰かが息を呑み、
三打目で、誰からともなく歓声が上がる。
止まったままだと思っていたものが、確かに動いた音だった。
その合図を待っていたかのように、広場の端から火花が駆け上がる。
花火だ。
最初の一発は少し低く、けれど十分に明るい。次の赤、次の青、最後に金の尾が夜空へ広がる。
キンバリーが子どもと同じ声で「上がった!」と叫び、ズドラフコヴィチは珍しく口を開けて見上げ、クヌーティラは服の袖へ飛んだ火の粉を払いながら笑う。カトリーナは泣きそうな子どもの肩を抱き、安心したように空を見ていた。
アルシャールはしばらく花火ではなく、人を見ていた。
自分が守りたかったのは、こういう顔だったのだと思う。
食べて、笑って、働いて、学んで、疲れたら休める顔。
誰かが倒れても、次の手があると信じられる顔。
その視線の先へ、ジェシーが並んだ。
今日は作業着ではない。
祭り用の落ち着いた私服で、髪も少しだけいつもと違う。
アルシャールは横目で見て、数拍遅れてから気づいた。
また言葉が遅れる。
ジェシーはそれに先回りする。
「何」
「いや」
「また制服の時と同じ顔してる」
「そんなに分かりやすいか」
「分かりやすい」
花火の光が彼女の頬へ落ちる。
いつものように無駄がない声なのに、その横顔は少しだけ柔らかい。
アルシャールは空を見上げてから、言った。
「約束、守れたな」
「うん」
「仕事の途中じゃない」
「そうね」
「でも明日、片づけがある」
ジェシーは呆れたように息をついた。
「今それ言う?」
「参謀だからな」
「今日は違うでしょ」
「じゃあ今日は」
彼は少し考えた。
「寝るのも仕事だ」
その瞬間、ジェシーは顔をしかめ、それから笑った。
「ほんとにそれ好きね」
「大事だぞ」
「知ってる」
彼女の返事は、前よりずっと近かった。
花火が最後の大輪を開く。
金色の光が校舎、塔、広場、人々の顔をまとめて照らし、消えたあとも余韻だけが空へ残る。
その下で、白銀騎士学校はもう古い看板の残骸ではなかった。
騎士だけの場所でもない。
働く者、守る者、学び直す者、倒れたら眠る者を受け入れる場所として、はっきり立っていた。
ジェシーが軽く顎で塔を示す。
「最後の鐘、鳴らしに行く?」
アルシャールは頷く。
「一緒に来るか」
「最初からそのつもり」
二人は並んで塔の階段へ向かった。
背後ではまだ屋台の声が続き、講習室の子どもたちが花火の数を言い合い、食堂からは焦げた芋の匂いがする。
止まっていたものが、全部少しずつ先へ進んでいる。
塔の上で、アルシャールは次の鐘を鳴らした。
澄んだ音が夜の町へ遠くまで伸びていく。
その音を聞きながら、ルクスグレイの人々は明日の段取りを思い、今日の熱を胸へ残し、ようやく安心して夜空を見上げた。
時間は、もう止まっていない。
だから明日も動ける。
眠って、起きて、また始めればいいのだ。




