第25話 時間の止まった町で
町は、音のない水底みたいだった。
中央塔の窓から見えるルクスグレイは、崩れかけた石壁も、逃げ遅れた人影も、空へ舞った砂も、そのままの形で止まっている。旗ははためきかけた角度のまま固まり、食堂の煙だけが白い柱になって空中へ残っていた。
その静けさの中で動けるのは、同調鍵を持つ六人だけだった。
アルシャールは主機構の前へ膝をついたまま、呼吸を整えようとする。胸の奥を直接掴まれたような重さがあり、瞼の裏へ暗い波が何度も寄せてきた。
だが倒れるにはまだ早い。
まだ段取りを渡していない。
「聞け」
彼は歯を食いしばって立ち上がった。
「ズドラフコヴィチは北棟と東棟の崩落防止。支え木を入れて、人が通る筋だけ残せ」
「了解だ」
無骨な返事は短い。
「キンバリーは避難路。子どもと足の遅い人から講習室と食堂裏へ移す。荷車は使えない、手搬送と布橇を使え」
「任せて」
「カトリーナは診療所組の引き継ぎ。止まってる人間は重さだけ本物だ。無理はするな」
「そんな指示、あなたに返すわ」
「クヌーティラは地下封鎖扉と文書の押収。バルディエンの手が入った記録があるなら、今しか抜けない」
「もっと優雅な役を期待していたけど、実益があるなら十分だ」
「ジェシーは主機構補助」
「最初からそのつもり」
ジェシーは工具袋を肩へ掛け直し、言葉より先に歯車の側へ走った。
アルシャールは最後に息を吸う。
「俺は地下講堂への経路確認をする。迷宮核を止めない限り、これは続かない」
キンバリーがぎょっとして振り向く。
「一人で行く気?」
「一人じゃない」
アルシャールはジェシーを見る。
彼女は主機構を見たまま言った。
「主機構の固定が済んだら下りる。先に道だけ見てきて」
その言い方に、アルシャールはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
六人は、そこで散った。
時間の止まった町で、それぞれの仕事場へ向かうために。
ズドラフコヴィチは北棟へ走るなり、止まった若者の肩を軽く叩いた。
返事はない。
だが気持ちは分かるような顔をして、彼はすぐに支え木を選び始める。石工道具を抱え、傾いた梁へ潜り込み、崩れかけた壁の荷重を読む。教室で石積みを教えた日の延長だった。喧嘩ばかりしていた若者たちへ、石は殴るものではなく支えるものだと教えた、あの授業の続きである。
「お前ら、後で見てろ」
止まったままの若者へ向けて言い、彼は一本目の支柱を打ち込んだ。
乾いた音が、動ける者だけの世界へ響く。
キンバリーは食堂脇の物置を蹴り開けた。
中から布袋、縄、まな板代わりの薄板、搬送に使えそうな長椅子の脚を引っ張り出す。避難訓練なんて立派なものではない。だが彼女は知っていた。腹を空かせた子どもがどこで泣くか。老人の足がどこで止まるか。狭い通路で人はどう詰まるか。
「重い人は二人持ち、軽い子は背負う。転ばないほうが早い」
自分へ言い聞かせるみたいに呟き、最初に市場通りの角へ向かった。
止まったまましゃがみ込んでいた子どもを抱き上げ、食堂裏の安全地帯へ運ぶ。次は膝をついたままの老人、次は荷車の陰にいた親子。
食べ物を売るために町を走り回った足が、そのまま避難路の足になっていた。
カトリーナは診療所へ入り、止まった助手たちの配置を一目で見た。
転倒しかけた患者、棚から落ちかけた薬瓶、外へ運び出す途中で止まった担架。動けないのに、急ぐべき順番だけは見える。
彼女は薬瓶を先に押さえ、床へ布を敷き、担架の手前側だけ持ち上げて一人ずつ位置を変える。怪我人は時間が止まっていても、目覚めた瞬間に痛む。目覚めた瞬間に安全な場所へいるよう、今のうちに整えるのだ。
「失敗した人も、遅れた人も、ここへ戻ってきていい」
誰へともなく口にしながら、彼女は止まった少年の額から落ちかけていた汗を拭った。
診療録に書いてきた言葉が、ここで手の動きに変わる。
クヌーティラは地下の古文書庫へ滑り込んだ。
優雅な靴には似つかわしくない埃が舞う。だが本人は気にも留めない。封鎖扉の錠を調べ、設計図どおりの刻印を確かめると、同調鍵を当てた。
小さく銀音が鳴り、補助錠だけが外れる。
「嫌らしいほど、よく出来ている」
彼は鼻先で笑った。
中にあったのは寄付台帳の原本、領主家との往復書簡、学校閉鎖直前の地下調査記録、そしてバルディエン家の印が押された命令文だった。迷宮封印機構の保守費用を別用途へ回す指示。しかも数年分。
これがあれば逃がさない。
クヌーティラは必要な書類だけを油布へ包み、さらに地下講堂へ通じる封鎖扉の閂を上げに向かった。
社交場で磨いた手際が、今は泥臭い証拠固めに使われていた。
中央塔ではジェシーが主機構へ潜り込んでいた。
焼けた銀輪へ冷却油を垂らし、ずれた副針を戻し、噛み合いきらない歯車へ薄金具を打ち込む。主機構は巨大だが、壊れ方はいつだって細い。たった一枚の歯、たった一本の軸受けが狂うだけで、町の時間は傾く。
「持ちなさいよ」
誰へともなく吐き捨てる。
「今まで散々放っておかれて、それでも回ろうとしてたんだから」
返事をするのは機械だけだ。
だがジェシーはそれで十分だった。
彼女は白銀騎士学校に残った最後の事務官であり、時計技師見習いであり、この塔の癖を知る者だ。アルシャールが止めた時間を、今度は自分がつなぐ。
アルシャールは石段を下り、地下講堂へ続く通路を進んだ。
時間停止の中でも、迷宮核の脈動だけは遠雷みたいに足元へ伝わってくる。完全には止まっていない。主機構が町を守るため、無理に食い止めているのだ。
曲がり角の先で、石壁がひび割れたまま止まっていた。
あと少し遅ければ塞がっていた道だ。
彼は目印の白墨線を追い、封鎖教室から見つけた旧地図を頭の中で重ねる。地下講堂は、かつて封印管理の講義を行った場所。その先に迷宮核へ至る監督回廊がある。
途中で眠気が一気に強まった。
足が止まり、壁へ肩がぶつかる。
視界が暗く狭くなり、戦場の泥の冷たさが一瞬だけ蘇る。
あのときもこうだった。止めた時間のあと、身体のほうが自分を止めようとする。
「まだ寝るな」
聞き慣れた声がして、手首を掴まれた。
ジェシーだ。
主機構の仮固定を終えて降りてきたらしい。頬に煤をつけたまま、息を切らしている。
「今寝たら、運ぶ側が増える」
「うるさい」
「元気なら歩ける」
アルシャールは壁から背を離した。
「主機構は」
「二刻は持つ。二刻で終わらせる」
「言うな」
「言う」
彼女は手を放さないまま、前を向く。
「ここまで来たんだから」
二人が地下講堂へ入るころ、他の持ち場も形になり始めていた。
北棟ではズドラフコヴィチが主要梁の支え替えを終え、東棟の通行止め札を止まった若者の腕に括りつけていた。目が覚めた瞬間、何をするか分かるようにするためだ。
食堂裏ではキンバリーが避難者を一列に並べ替え、鍋、毛布、水袋を手の届く位置へ置いていく。時間が戻った瞬間、そこがそのまま臨時避難所になる。
診療所ではカトリーナが薬と包帯と木板の位置を全部入れ替え、搬送順を紙へ大きく書いた。
地下ではクヌーティラが文書束を確保し、封鎖扉の先でアルシャールたちを待っていた。
「遅かったね」
クヌーティラは埃だらけの袖を見てため息をつく。
「こんな姿を王都の連中に見せたくない」
「似合ってる」
ジェシーが即答した。
クヌーティラは肩を竦め、油布包みを掲げる。
「証拠は取った。ついでに最後の扉も開いたよ」
扉の向こうから、冷たい銀の光が漏れていた。
アルシャールはその光を見つめる。
ここまで来た全員の役割が、一本の道になって繋がっている。
食堂も、教室も、診療所も、帳簿も、修理場も、全部ここへ続いていた。
「行くぞ」
彼が言うと、誰も迷わなかった。




