第24話 町ごと止める覚悟
中央塔の階段は、いつもより長かった。
地震ではない。迷宮核が脈打つたび、校舎全体の時間感覚が揺れているのだと、アルシャールには分かった。足を上げたはずの一歩が妙に遅く、次の一歩だけ不自然に速い。後ろを走るジェシーの息遣いまで、拍がずれて聞こえる。
最上階へ飛び込むと、主機構はもう唸っていた。
止まっていたはずの巨大な歯車が、動ききれないまま無理に回ろうとしている。銀の輪の一部が赤く焼け、文字盤の裏で火花が散った。
ジェシーは一目で状態を見切る。
「迷宮核がこっちを引いてる」
「切り離せるか」
「今からじゃ無理。受けるしかない」
「受けるなら、全部受ける」
アルシャールは主軸へ手をかけた。
冷たさの奥に、戦場で触れた懐中時計と同じ震えがある。
ジェシーが振り向きざま、階段口へ向かって叫ぶ。
「同調鍵を持つ人、上へ! それ以外は持ち場!」
下から駆け上がってきたのは、ズドラフコヴィチ、キンバリー、カトリーナ、クヌーティラだった。
全員、顔色は違うのに目だけは同じだった。
逃げない顔だ。
ジェシーは作業机から布包みを取り、五つの同調鍵を並べた。
「説明は短くする」
彼女の声は鋭かった。
「主機構が町規模の停止へ入ったら、動けるのは鍵と同調した人だけ。鍵は離さないこと。割らないこと。気を失っても手放さないこと」
キンバリーが息を呑む。
「ほんとに町ごと止めるの?」
アルシャールが答える。
「通常停止じゃ範囲が足りない。今の暴走を止めるには、それしかない」
クヌーティラがすぐに問う。
「反動は」
沈黙が一瞬落ちる。
ジェシーが口を開く前に、アルシャールが言った。
「俺がいちばん重い」
「どれくらい」
カトリーナの声は静かだった。
「分からん」
正直にそう返すしかない。
「長く眠るかもしれない。目が覚めない可能性もある」
誰もすぐには返事をしなかった。
風が塔の隙間を抜け、焼けた金属の匂いが広がる。
最初に鍵を取ったのはズドラフコヴィチだった。
無骨な指で銀の輪をつまみ、首から下げる。
「崩落防止は俺だな」
次にキンバリーが飛びつくように自分の鍵を掴んだ。
「避難路、任せて」
カトリーナは紐付きの鍵を首へ回し、頷く。
「負傷者を運ぶ」
クヌーティラは最後の一つを受け取り、扇子の代わりみたいに一度だけ揺らしてみせた。
「封鎖扉と証拠書類だね。優雅じゃないが、得意分野だ」
残る一つを、ジェシーが自分の掌に載せる。
主機構補助用の鍵。
彼女はそれを見つめてから、アルシャールの前へ立った。
「私は塔に残る」
「分かってる」
「止めないで」
「止める気はない」
それでも彼女はさらに一歩近づく。
「今から言うこと、ちゃんと聞いて」
アルシャールは頷いた。
ジェシーは深く息を吸った。
「私は時計を直す。町の時刻も、あなたの無茶の尻拭いも、全部」
塔の歯車が一段大きく鳴る。
その音に負けないように、彼女は続けた。
「だから、戻ってきて。仕事が残る」
アルシャールの胸の奥が、きしむみたいに熱くなる。
返した言葉は、たぶん普段よりずっと素直だった。
「努力する」
「努力じゃ足りない」
「じゃあ、戻る」
ジェシーはほんの一瞬だけ目を閉じ、それから頷いた。
下の町で悲鳴が上がった。
次の脈動で、塔そのものが傾きかける。
時間切れだった。
アルシャールは主軸を両手で掴む。
耳の奥で、あの懐中時計の蓋が閉じる音がする。戦場の泥の匂い、王都の冷たい軍法会議、黒板の前で眠り込んだ朝、食堂の湯気、講習室の白墨、診療所の記録、試作品市の笑い声、晩餐の熱。ここへ至るまでの全部が、手の中へ重なってくる。
「アルシャール!」
ジェシーの声。
彼は主機構へ向かって、はっきりと言った。
「時間よ止まれ」
瞬間、中央塔の文字盤へ銀の光が走った。
外の空が、風を振りほどけないまま固まり、校庭を駆けていた人影が光の筋の中で静止する。崩れかけた石壁の砂が、宙に散ったまま止まる。町じゅうの音が、一枚の厚い布で包み込まれたみたいに消えた。
だが、完全な静寂の中で、同調鍵だけが低く鳴っていた。
ジェシーの手の中で。
ズドラフコヴィチの胸元で。
キンバリーの腰で。
カトリーナの首元で。
クヌーティラの指のあいだで。
動ける。
自分たちはまだ動ける。
アルシャールの膝から力が抜ける。
視界が白く沈みかけたところを、ジェシーが肩を支えた。
「ここから先は、みんなでやる」
その声が遠くなる前に、アルシャールはかすかに笑った。
ようやく、そうなったのだと思った。
止まった町の向こうで、迷宮核の濁った銀だけが、なお不気味に脈打っている。
総力で動くべき時間は、ここからだった。




