第21話 そっと触れる手
同調鍵の調整は、夜にしか進まなかった。
昼は食堂、授業、工事、町との調整で人の出入りが多い。中央塔の主機構を止めたまま細かな副針部品を合わせるには、どうしても静かな時間が要る。
そのため白銀騎士学校の夜は、最近ずっと遅い。
塔の作業机には、五つの同調鍵が並んでいた。
懐中時計より一回り小さい銀の輪に、修復した副針部品を収め、持ち主ごとに刻印を変える。ジェシーは設計図を読み、アルシャールは角度と歯の噛み合わせを確かめる。手先の細さではジェシーが勝ち、全体の流れを見る速さではアルシャールが勝つ。気づけば、息の合わせ方がだいぶ自然になっていた。
「ズドラフコヴィチ用は、衝撃に強く」
ジェシーが言う。
「キンバリー用は軽く。走るから」
「クヌーティラのは?」
「飾り気があると喜ぶ」
「偏見だ」
「だいたい当たる」
アルシャールが工具を置く。
「カトリーナは手が塞がるだろうから、首から下げられる形にする」
「賛成」
ジェシーはうなずき、最後の一つへ視線を落とした。
「あなたの分は、いちばん難しい」
「主機構の近くにいるからか」
「それもある。たぶん反動も、いちばん大きい」
ランプの火が揺れる。
塔の歯車はまだ本格稼働していないのに、夜ごと息を潜めて機会を待っているようだった。
アルシャールは返事の代わりに、主軸近くの調整ボルトへ手を伸ばした。
昼間から眠気はあった。
迷宮核を見て以来、あの重たい拍動が耳の奥へ残っているせいか、ただの疲労より深いところが鈍い。けれど止めるわけにはいかなかった。
五つの同調鍵が揃わなければ、町規模の停止は机上の話で終わる。
「少し休めば」
ジェシーが言う。
「まだ平気だ」
「その言い方をする時は、あまり平気じゃない」
「よく見てるな」
「倒れられる回数で学んだ」
アルシャールは苦笑し、もう一度ボルトを締めた。
次の瞬間、視界の端がふっと暗くなる。
塔の床が遠くなり、ランプの火だけが妙に近い。まずいと思ったときには、身体が傾いていた。
「アルシャール」
ジェシーの声が、思ったより近くで響いた。
肩を打つはずだった衝撃は来なかった。
代わりに、冷たくも温かくもある細い手が、彼の手をしっかり掴んでいた。ジェシーが椅子を蹴って立ち上がり、作業机と自分の身体で支えたのだと分かるまで、数秒かかった。
アルシャールの右手を、ジェシーの両手が包んでいる。
工具油の匂いが少しして、その下に昼間と同じ石鹸の気配がある。
「座って」
いつもより低い声だった。
命令に近いのに、どこか震えている。
アルシャールは言い返せず、そのまま椅子へ落ちるように腰を下ろした。
ジェシーは手を離さなかった。
離したらまた崩れると思っているのが、その力の入れ方で分かる。
「脈、速い」
「悪い」
「謝るところじゃない」
彼女は息を整えるように一度だけ目を閉じた。
「……びっくりした」
その小さな本音が、アルシャールの胸へ思いのほか深く落ちる。
塔の外では風が鳴っている。
誰もいない夜の校舎で、歯車の匂いとランプの熱と、重なった手の感触だけがやけにはっきりしていた。
「仮眠室へ行く」
ジェシーが言う。
「今から」
「今すぐ」
「同調鍵が」
「逃げない」
「迷宮核は」
「今夜いきなり町を丸ごと齧りきるなら、そもそも手遅れ」
強い。
強いのに、その指はまだ少し震えている。
アルシャールは観念して立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。
するとジェシーは、今度は手を引くように持ち直した。
掌の中央へ指先がそっと触れ、そこから熱が移る。
大げさな抱擁でも、涙でもない。ただ手を取って支える、それだけなのに、何かが決定的に変わった気がした。
階下へ下りる途中、踊り場でキンバリーと鉢合わせた。
夜食用の豆皿を抱えていた彼女は、二人の手元を見て目を細める。
「へえ」
ジェシーが即座に言う。
「転ぶから」
「そういうことにしとく」
キンバリーはにやにや笑い、わざとらしく道を開けた。
「仮眠室、毛布増やしといたよ。校長代行は寝るのも仕事だもんね」
アルシャールは返す余裕がない。
ジェシーだけが「助かる」と短く答えた。
仮眠室へ着くと、空き教室の窓辺に小さなランプが灯されていた。
毛布も増え、水差しも置かれ、机の隅には薬草茶まである。誰かがいつ倒れても困らないように、校舎そのものが少しずつ仕組みになっているのだと分かる。
ジェシーはアルシャールを寝台へ座らせ、ようやく手を離した。
離れた途端、さっきまでそこにあった感触が、逆にはっきり残る。
「少し寝て」
「……ああ」
「起こすまで起きなくていい」
「命令が増えたな」
「増やさないと、あなたは勝手に減る」
アルシャールは毛布へ背を預けた。
視界が重く沈んでいく。
けれど眠りへ落ちる寸前、扉のところでジェシーが立ち止まり、振り返ったのが見えた。
「さっきの」
彼女が言う。
「手、離したくなかっただけ」
それだけ残して、彼女は扉を閉めた。
静かな教室に、ランプの火だけが揺れる。
アルシャールは天井を見つめたまま、閉じていく意識の中で何度もその言葉を反芻した。
そして珍しく、仕事の段取りより先に、誰かの手のぬくもりを思いながら眠りへ沈んだ。




