第19話 時間を喰う迷宮核
地下迷宮の空気は、季節を忘れている。
白銀騎士学校の地下講堂からさらに下へ降りる石段には、春先の地上とは違う冷えがまとわりつき、壁の苔だけが妙に青かった。先頭を行くジェシーはランプを高く掲げ、アルシャールはその半歩後ろで床石の継ぎ目を見ている。ズドラフコヴィチが後ろから荷縄と楔を担ぎ、キンバリーは鼻をひくつかせながら左右の暗がりを警戒していた。
「浅層の癖に、静かすぎる」
キンバリーが小声で言う。
「魔物がいない」
「いないんじゃない」
アルシャールは壁へ手を当てた。
「寄ってこられないんだ」
「何それ、いいことじゃん」
「そう見えるうちはな」
床にはところどころ、古い円環の印が刻まれていた。
時計の文字盤を崩して埋め込んだような意匠で、針の代わりに細い溝が何本も伸びている。ジェシーはしゃがみ込み、手袋の指で縁をなぞった。
「摩耗が変」
「変?」
「踏まれた減り方じゃない。削られてる」
アルシャールも屈んで覗く。
銀を混ぜた石粉が、外側から内側へ向かって吸われたように欠けていた。
さらに先へ進むと、壁の向こうから鈍い拍動が聞こえ始めた。
鼓動に似ているのに、生き物の気配がない。
遅く、重く、けれど確実に何かを削り取っていく音だった。
地下講堂跡へ着いたとき、誰もすぐには口を開かなかった。
講堂の中央に、半ば石へ埋もれた巨大な核があったからだ。
球体に見えるが、表面は絶えず歪み、濁った銀色の膜の下で数字にも傷にも似た線が浮いては沈む。周囲の床へは、主機構の設計図で見たのと同じ溝が幾重にも走り、そのいくつかはもう黒ずんでいた。
ジェシーが息を呑む。
「……迷宮核」
アルシャールは頷いた。
「掛け時計の反対側だ」
「反対側?」
「地上で時を整え、地下で時を喰う。たぶんそういう組みだ」
キンバリーが顔をしかめる。
「喰うって、どういう意味」
答えたのは、後ろで壁を見ていたズドラフコヴィチだった。
「石の風化が場所ごとに違う。ここへ近いほど新しい傷でも古く見える」
彼は壁面を拳で軽く叩く。
「地上で見た作物の育ちの狂いも、住民の疲れも、同じだろうな」
アルシャールの頭に、ここ数日の小さな違和感が一つずつつながっていく。
芽が出るのが早すぎる畑と、逆にいつまでも青いままの畑。
よく眠ったはずなのに足が重いと言う元兵士。
日暮れの鐘がないだけでは説明のつかない、町全体の妙なずれ。
中央塔の時計だけが止まっていたのではない。
町そのものの時間感覚が、少しずつ削られていたのだ。
ジェシーは講堂の端に残る机へ歩み寄った。
朽ちかけた木箱を開けると、油紙に包まれた設計図がもう一枚入っていた。彼女は広げ、膝をつく。
「主機構と副針部品の接続図……」
「読めるか」
「読める。読めるけど、嫌なことも分かる」
彼女の声はいつもより低かった。
「町規模で止めるには、中央塔の主機構だけじゃ足りない。時計と同調した副針を、外で動く人間に持たせないといけない」
キンバリーが顔を上げる。
「つまり?」
「止まった時間の中で動ける人間を、先に決めておく必要がある」
「人数は」
「多くて五」
ジェシーは図面の数字を指で追った。
「副針部品は五つ。たぶんこれが限界」
ズドラフコヴィチが短く息を吐く。
「少ないな」
「町ごと止めること自体、想定外なんだろ」
アルシャールは核から目を離さずに言った。
「本来は、ここまで放っておく前に手を打つ仕組みだったはずだ」
そのとき、核の表面で銀の膜が脈打ち、講堂のランプが一斉に揺れた。
キンバリーが反射で短剣を抜く。
だが斬る相手はいない。代わりに、全員の腕時計代わりの砂計が、ほとんど同時に一瞬だけ遅れた。
ジェシーが立ち上がる。
「今の、地上にも影響が出てる」
「戻るぞ」
アルシャールは即座に言った。
「ここで戦う段階じゃない。理屈が揃っただけで十分だ」
「悔しいけど、賛成」
ジェシーは設計図を巻き、木箱ごと抱えた。
「副針部品を修復する。急ぐ」
キンバリーが核を睨みつける。
「じゃあ、あいつが町の時間をちびちび盗んでた犯人ってことね」
「犯人というより、放置され続けた病巣だ」
アルシャールは答えた。
「だが切らなければ、いずれ全部が重くなる」
地上へ戻ると、夕方の市場で小さな騒ぎが起きていた。
朝に仕込んだはずのパン生地が、樽によって膨らみすぎたり、まるで進まなかったりしている。診療所では、よく寝た者ほど体が重いと訴え、逆に一睡もしていない職人が変に冴えていると笑っていた。
ばらばらな異常が、ばらばらではなくなる。
その夜、中央塔の作業机へ設計図と副針部品が並べられた。
五つの小さな銀片は、どれも欠け、曲がり、黒い錆を噛んでいる。
ジェシーは作業着の袖をまくり、ランプの位置を決めた。
「直す」
アルシャールは椅子を引き、部品洗浄用の布と油を手元へ寄せる。
「俺もやる」
「あなたは不器用」
「参謀は細かい作業もやる」
「今から嘘をつかないで」
口ではそう言いながら、ジェシーは洗浄の順番を説明し始めた。
つまり、手伝わせる気らしい。
窓の外では、止まったままの掛け時計が夜空へ黒く浮いている。
その下で、町の時間を取り戻すための小さな針が、一つずつ人の手で磨かれ始めていた。




