第18話 カトリーナの診療録
カトリーナは、紙へ書くときだけ少し厳しい字になる。
診療所の記録帳に向かうと、普段の柔らかな話し方が嘘みたいに、線が細くまっすぐ伸びる。熱の高さ、傷の深さ、薬草の量、眠れた時間。曖昧にしていいものがひとつもないからだ。
その日の最後の頁には、こう書かれていた。
《ロエル 右手首軽度捻挫 冷布。石運び中の無理。翌朝再確認》
名前を書いたあと、カトリーナは羽根筆を少し止めた。
昼間の石積み授業で、ロエルが無理に大石を持ち上げかけたのを見ていた。あの年頃の男の子は、痛いときほど平気な顔をする。だから記録へ残しておく。
自分の記憶だけに頼ると、こういう子はすぐに「大丈夫なこと」にされる。
夜風が診療所の窓を鳴らした。
外では食堂の片づけが終わり、遠くで鍋を重ねる音がしている。少し前まで、この時間の町はもっと早く暗くなった。今は遅くまで、人が動いている。
それ自体はいい変化だ。
けれど人が動けば、痛みも、迷いも、失敗も増える。
扉が三回、控えめに叩かれた。
「入って」
返すと、入ってきたのはロエル本人だった。
石粉のついた上着を着たまま、右手を後ろへ隠している。隠したところで、診療所へ来る時点で白状しているようなものだ。
「見せて」
カトリーナが言うと、彼は少しだけ唇を尖らせた。
「そんな大したもんじゃ」
「大したものでなくても見る」
諦めたように差し出された手首は、やはり少し腫れていた。
カトリーナは冷布を巻きながら、わざと明るく言う。
「石に勝とうとしたの?」
「勝てると思ったわけじゃない」
「じゃあ何」
ロエルはしばらく黙ってから、ぼそりと言った。
「遅いって思われるのが嫌だった」
冷布を結ぶ手を、カトリーナは止めなかった。
「誰に」
「……分かんない」
その答えは、だいたい本当だ。
あの年頃の子どもは、特定の誰かより先に、自分の中の見えない相手へ急ぐ。
包帯を巻き終えても、ロエルは帰ろうとしなかった。
椅子の端に座ったまま、診療所の床ばかり見ている。
カトリーナは薬箱を閉め、正面の椅子へ座った。
「言いたいことがある顔」
「ない」
「ある顔」
彼はようやく顔を上げた。
「俺、明日から行かないでもいいかな」
予想していた言葉だった。
驚くほどではない。むしろ今日の石垣を見ていたら、ここで一度言い出すだろうと、どこかで分かっていた。
「白銀騎士学校に?」
ロエルが頷く。
「向いてない。字も遅いし、石も遅いし、迷宮はまだ怖いし」
言葉が出るほど、目線が下がる。
「今日だって、ハルトのほうがよく見えてた。ズドラフコヴィチも、アルシャールも、たぶん分かってる」
「分かってるでしょうね」
カトリーナはあっさり答えた。
ロエルが顔を上げる。
「否定しないの」
「見えていることを、見えてないとは言わない」
「じゃあ」
「でも、遅いことと、要らないことは違う」
診療所の壁には、小さな木札が並んでいる。
熱、咳、切り傷、打撲、やけど。どれも治る順番は違う。同じ薬を同じ日に使っても、翌朝歩ける人とまだ寝ている人がいる。
カトリーナはいつもそれを見ている。
「あなた、今日は戻ってきたでしょう」
「……は?」
「石垣のところ」
カトリーナは指を折った。
「午前に喧嘩しかけた。昼前に石の向きを覚えた。午後に無理して手首をひねった。でも、逃げずに最後まで壁の前にいた」
ロエルは何も言えない。
「私は診療所に来る人をたくさん見てきたけど、戻ってくる人は案外少ないの。痛かった、恥ずかしかった、向いていない気がした。その時点で来なくなる」
カトリーナは少しだけ身を乗り出した。
「あなたは戻った。痛くても診療所へ来た。明日休みたいって言葉にできた。だったら、まだ途中でしょう」
ロエルの喉が小さく動いた。
強い言葉で叱るより、この種の子には効くときがある。
自分が終わっていないと言われることのほうが。
「でも」
「でも、は朝になってから言って」
カトリーナは立ち上がった。
「行くわよ」
「どこに」
「教室」
「今?」
「今」
夜の校舎は、昼とは違う顔をしている。
廊下の灯りは半分落ち、遠くの食堂からだけ薄い明かりが漏れている。講習室の黒板には昼間の字の練習が残り、端に誰かが描いた小さな花火まで残っていた。
カトリーナはロエルをそこへ座らせる。
「白墨持って」
「俺、字」
「きれいに書けとは言ってない」
机の上には、ジェシーが昼間使った名簿が置いてあった。
入学式の日の、代筆だらけの頁だ。
ロエルの名前も、クヌーティラの流れるような字で書かれている。
「自分で書き直す?」
カトリーナが聞くと、ロエルは長く黙った。
それから、ぎこちなく白墨を握る。
最初の一文字で線が曲がり、二文字目で少し詰まり、三文字目はずいぶん大きくなった。
きれいではない。
だが、自分の名前だった。
「下手だ」
ロエルが自分で言う。
「初日はだいたいそう」
カトリーナは答える。
「診療所の字だって、最初からまっすぐだったわけじゃない」
「ほんとに?」
「ひどかったわよ。薬草の名前を自分で読めなくて怒られたもの」
それは半分本当で、半分は昔を丸くした話だった。
ロエルはもう一度、自分の名前をなぞった。
今度は最初より少しましだ。
たったそれだけのことで、肩の位置が少し戻る。
「白銀騎士学校はね」
カトリーナは黒板に残った花火の絵を見ながら言った。
「昔は受かる人と落ちる人を分ける場所だったのかもしれない。でも今は違う」
「違う?」
「戻ってきていい場所」
ロエルは白墨の先を見たまま、小さく息をついた。
その息に、昼間より少しだけ力がある。
廊下の向こうで足音がした。
アルシャールが書類を抱えて通りかかり、講習室を覗いて足を止める。
「何してる」
「診療の続き」
カトリーナが言う。
アルシャールは黒板の自分の名前と、机の上の名簿を見比べた。
事情をすぐに察したらしい。
「明日の石運びは片手で済む仕事に変える」
ロエルが慌てて顔を上げる。
「え」
「仕事をなくすとは言ってない」
アルシャールは淡々と言った。
「右手首を使わない役目ならある。資材数え、目地砂の配分、戻り道の札書き。遅いなら遅いなりに向く仕事へ回す」
それだけ言って去ろうとしたので、ロエルは思わず呼び止めた。
「……俺、明日も行っていいのか」
アルシャールは振り向いた。
「今日入学したんだろ」
答えはそれで十分だった。
夜が深くなってから、カトリーナは診療所へ戻った。
記録帳を開き、さっきの頁の下へもう一行を書き足す。
《同日夜 講習室にて自署一回。明日も来るつもりあり》
医術の本には載っていない診療記録だ。
けれど白銀騎士学校と診療所が今やっている仕事には、たぶん必要な記録だった。
窓の外で、止まったままの中央塔が夜空へ黒く立っている。
その下の教室では、また一人、戻ってきていい人間が増えた。




