第13話 今日だけの入学式
朝の校庭には、椅子が足りなかった。
白銀騎士学校に残っていた長椅子を運び出しても、広場の半分も埋まらない。だからアルシャールは、食堂の木箱を裏返し、壊れた訓練台を板で渡し、石段まで席として使うことにした。見た目は立派ではない。けれど集まってきた人間にとって、今日は見た目より座る理由のほうが大事だった。
元兵士が三人。
読み書きに自信のない若者が五人。
市場で働き口をなくした未亡人が四人。
親を失って行き場のあやふやな子どもが六人。
ほかにも、食堂の湯気を理由に様子を見にきた者、迷宮で拾える仕事があるならと立ち止まった者、ただ面白がって見物にきた者までいる。
制服姿はほとんどいなかった。
洗い古した前掛け。継ぎの当たった上着。石工の革手。市場の荷運び紐。誰もが自分の暮らしの延長でここへ来ていた。
「本当にやるの?」
ジェシーが黒板を抱えたまま言う。
「やる」
アルシャールは答えた。
「入学式なんて言い方をしたら、帰る人も出る」
「帰るならそれでもいい。残る人間だけで始める」
「強気」
「腹が減ってる町では、曖昧に始めるほうが贅沢だ」
黒板には大きく、
《働くための入学式》
と書かれていた。
字を書いたのはジェシーだが、最後の一画だけはキンバリーが面白がって太くなぞった。おかげで式という字だけ妙に勢いがある。
校庭の隅では、クヌーティラがわざわざ古びた卓を一つ持ち込み、その上へ紙束と印章台を並べていた。式らしい空気を出すためだという。
「形は大事だよ」
彼は涼しい顔で言った。
「形があると、人は昨日までの自分と少しだけ決別しやすい」
「決別なんて大げさじゃない?」
キンバリーが首を傾げる。
「今日から帳面に名前が載るんだ。十分に大げささが必要さ」
ズドラフコヴィチは校庭の外れで腕を組み、集まってきた若者たちの立ち姿を見ていた。
カトリーナは子どもたちの襟元を直し、誰かが朝から何も食べていない顔をしていないかを静かに見分けている。
定刻になっても鐘は鳴らない。
だからアルシャールは中央塔を一度見上げ、それから自分の手で卓を軽く叩いた。
ざわめきが止む。
「座れる人は座れ。立っているほうが落ち着くなら、そのままでいい」
最初の一言がそれだったので、緊張していた空気が少しだけほどけた。
「今日は、騎士を作る式じゃない。偉い肩書を配る日でもない。読み書きができる者が上、剣を振れる者が上、そういう並べ方もしない」
アルシャールは、集まった顔を一人ずつ見た。
「今日ここへ来た者は、働くために名前を預ける。食堂で働く。迷宮の荷運びをする。石を積む。包帯を巻く。数字を覚える。地図を読む。誰かに教わり、いずれ誰かへ教える。そのために、この学校へ入る」
前のほうに座っていた元兵士が、眉を寄せた。
「年寄りもか」
「立って歩けるなら入れる」
「字が読めなくても?」
若者の一人が続ける。
「だから入る」
アルシャールは言い切った。
「読める奴は読めない奴の横に座れ。怪我が少ない奴は多い奴の荷を持て。今日からこの校舎では、できることを持っている人間が、持っていない人間を笑うのを禁じる」
静かになった校庭で、風が黒板の端を揺らした。
「ここは、やり直すための場所だ」
その言葉に、未亡人の一人がわずかに顔を伏せた。
カトリーナが、その横で何も言わずに背をさする。
アルシャールは続けた。
「ただし、甘やかしはしない。来たからには役目を持ってもらう。役目のない人間を増やす余裕は、うちにはない」
そこで彼は黒板の横へ回り、別の札をかけた。
《本日の役割》
読み書き補助/食堂補助/石運び/迷宮外周警戒/洗濯場整備/薬草乾燥
「今日だけでいい。今日だけの役目を選べ。続くかどうかは、働いてから決めろ」
キンバリーが勢いよく手を上げた。
「食堂補助、いっぱい欲しい! 皿洗い遅いと昼が詰まる!」
ズドラフコヴィチも低い声で言う。
「石運びは腕力より段取りだ。力自慢だけ寄越すなよ」
クヌーティラは紙束を掲げた。
「名前を書けない者は、こちらで代筆する。あとで自分で書けるようになれば、書き直せばいい」
少しずつ、集まった者たちが前へ出る。
最初に動いたのは、片腕に古傷のある元兵士だった。迷宮外周警戒の札の前に立ち、「走るのは若いのに任せるが、交代表なら見られる」と言う。
次に、洗濯場整備へ未亡人が二人。
薬草乾燥へ、以前カトリーナの手伝いをしていた娘が一人。
食堂補助の札の前には、子どもたちまで並びかけて、キンバリーに「包丁持てる歳だけ!」と追い返された。
読み書き補助の札の前で立ち止まった少年がいた。
十六か十七くらい。肩は広いのに、紙を見る目だけ怯えている。
アルシャールが近づくと、少年はぶっきらぼうに言った。
「名前、書けない」
「だからここにいる」
「笑われる」
「誰が笑う」
アルシャールが周囲を見ると、近くにいたジェシーがすかさず言った。
「笑った人は、今日の帳簿整理を三倍」
それが妙に効いたらしく、周りの若者が一斉に目を逸らした。
結局その少年も、代筆の列へ並んだ。
クヌーティラが紙へ名前を書き、ゆっくり読み上げる。
少年はその音を、悔しそうに、それでもきちんと耳へ入れていた。
式の最後、アルシャールは用意しておいた木札を一枚ずつ配った。
立派な入学証ではない。役割を書いただけの札だ。けれど受け取った者たちは、思ったより真面目な顔をした。
自分の居場所が、たった一日のぶんでも目に見える形になるのは、それだけで効く。
「校歌は?」
子どもの一人が聞いた。
「ない」
アルシャールは即答した。
「ええ」
「代わりに昼飯がある」
その一言で、場がどっと笑った。
式が終わると、校庭はそのまま仕事場に変わった。
長椅子は食堂へ戻され、黒板は北棟の廊下へ運ばれ、役割札を持った者たちがそれぞれ散っていく。ジェシーは名簿の最初の頁を丁寧に押さえ、今日の日付を書き入れた。
「本当に入学式になった」
「なったな」
「制服もないのに」
「仕事着のほうが似合ってた」
ジェシーは少しだけ目を細めた。
「いい言い方だけど、誤魔化してる」
「何を」
「自分も、ようやく少し学校らしくなったと思ってる」
図星だったので、アルシャールは返事をしなかった。
昼どき、食堂ではいつもより大きな鍋が二つ並んだ。
新しく入った食堂補助たちがぎこちなく皿を拭き、未亡人たちが手早くパンを切り、子どもたちが水差しを運ぶ。仕事はまだ遅い。失敗も多い。だが、校舎の中へ人の手が増えていく音は確かだった。
玄関脇の黒板には、ジェシーが新しい文字を書き足していた。
《本日入学 二十名》
その数字を見上げたアルシャールは、胸の内でだけ小さく息をつく。
白銀騎士学校は、ようやく自分たちの学校になり始めていた。




