第12話 借金の向こう側
夜の事務室には、紙の擦れる音だけが残っていた。
食堂の火を落とし、教室の灯りが一つずつ消え、最後に中央塔の影だけが窓へ長くかかる。そんな時間になると、白銀騎士学校はようやく昔の静けさを思い出す。
けれど今の静けさは、諦めの静けさではなかった。
明日のために帳面をめくる音がある。
机の上には帳簿が山になっていた。
現行の売上帳。寄付の控え。閉鎖前の支出簿。暖房燃料の納品書。食糧搬入の受領印。ジェシーが年ごとに積み分け、アルシャールが横へ開き、クヌーティラが脇から別口の商会名簿を差し込む。
窓際では小さなランプが二つ揺れ、紙の端を黄ばんだ色に照らしていた。
「ここ」
ジェシーが爪の先で一行を押さえる。
「冬季燃料。銀貨四十七枚」
アルシャールは別の帳簿を開く。
「納品量が合わないな」
「半分しか入ってない」
クヌーティラが受領印のある紙を覗き込んだ。
「この商会、当時はバルディエン家の御用達に近かった」
「偶然にしてはできすぎだ」
暖房だけではない。
屋根修理の見積もりは出ているのに、実際に入った職人の数が合わない。食糧搬入費が二重に計上されている月がある。迷宮監視の名目で出ている手当が、監視人の名簿に存在しない人間へ流れている。
しかも帳簿の見た目は整っていた。細かい数字で埋め、素人には見抜きにくくしてある。
「手が込んでる」
アルシャールが低く言う。
「雑に抜いてない。最初から、長く枯らすつもりで切ってる」
ジェシーは黙って次の紙束を差し出した。
その動きが少しだけ硬い。
この数年、彼女は一人でこれを抱えていたのだ。足りない金額だけでなく、足りない冬、足りない食糧、足りない人手まで。
「閉鎖の直前、診療所も燃料を絞られた」
扉のところで声がした。
カトリーナが薬箱を持って立っている。夜の回診帰りらしく、肩の布に冷気が残っていた。
「うちの記録ならある。熱を出した子どもを湯たんぽ一つで回した日が続いた」
彼女は机に小さな帳面を置く。
「学校だけじゃない。町全体を、少しずつ冷やしてた」
クヌーティラがその帳面を開き、細く息を吐いた。
「時期が一致する」
「わざとだと思う?」
アルシャールが聞く。
「思う、では弱いな」
クヌーティラは頁をめくる手を止めた。
「思いたくなかった、が正しい。けれどここまで並ぶと、もう趣味の悪い偶然では済まない」
ズドラフコヴィチも遅れて顔を出した。
石粉だらけの手を桶で洗いながら、机の上の紙束へ顎をしゃくる。
「昔、屋根修理に呼ばれたことがある」
「この学校にか」
「いや、町外れの倉庫だ。だがそのとき、学校のほうは予算がないって話だった。変だと思ったさ。あの年は石の値も下がってたからな」
彼は手を拭き、古い納品書を一枚見て鼻を鳴らす。
「この署名、現場を知らん奴の字だ」
「分かるのか」
「本当に荷を受けた職人は、もっと雑に書く」
事務室の空気が、少しずつつながっていく。
帳簿の数字。診療所の記録。職人の記憶。貴族の商流。
点だったものが線になり始める。
ジェシーは引き出しの底から、最後の封書を出した。
赤い蝋は割れているが、押された紋章はまだ残っていた。鋭い角を持つ鳥と、三本線の盾。バルディエン家の紋章だ。
「これ、閉鎖通達の前に来た」
彼女は封を切った紙を机へ広げる。
文面は丁寧だ。だが中身は冷たい。
支援打ち切り。経営継続は困難。整理売却を勧告。
最後に、協力を申し出る一文までついている。
「親切そうに見えるのが腹立つな」
キンバリーが扉にもたれて言った。
いつのまにか豆をつまみながら聞いていたらしい。
「腹立つように書いてある」
アルシャールが紙を置く。
「追い詰めたあとで、救いの顔をして買い取るつもりだったんだろう」
「町の連中が学校を諦めるのを待ってたわけか」
ズドラフコヴィチが低く唸る。
「それで土地と地下を丸ごと」
クヌーティラが受ける。
「学校が弱れば、迷宮の管理も崩れる。崩れたあとに誰が拾うかは、最初から決まっていたんだろうね」
しばらく誰も喋らなかった。
ランプの火が小さく鳴る。
外では、風が止まった掛け時計の文字盤を撫でていた。
アルシャールは静かに帳簿を閉じた。
「ただの再建話じゃないな」
ジェシーが頷く。
「最初から、潰されてた」
「なら」
アルシャールは椅子の背にもたれず、まっすぐ座り直した。
「直すだけじゃ足りない。抜かれたものを塞いで、誰がどう抜いたかまで押さえる」
「面倒な相手になるよ」
クヌーティラが忠告する。
「最初から楽な相手じゃなかった」
アルシャールは答えた。
「食堂の火を入れた日から、たぶん向こうは気づいてる」
ジェシーは一枚の紙を引き寄せ、新しい見出しを書いた。
《不自然な流出一覧》
その字は細いのに迷いがない。
カトリーナが診療所の記録を横へ並べ、ズドラフコヴィチが昔の工期を思い出し、クヌーティラが商会名を書き足す。キンバリーまで豆を齧りながら、町で聞いた噂話を口にした。
紙が一枚ずつ埋まっていく。
気づけば、事務室は最初のころとは違う人数でいっぱいになっていた。
止まった学校を一人で守っていた夜はもう終わっている。
帳簿の闇をのぞく夜でさえ、今は机を囲む手がある。
最後にランプの油を足しながら、ジェシーがぽつりと言った。
「学校を閉じるための数字ばかり、ずっと見てきた」
その声は小さかった。
「でも今は、開けるための数字を見てる」
アルシャールは返事の代わりに、一覧の一番上へ線を引いた。
この先、校舎を狙う相手ははっきりしていく。
だが同時に、守る理由もはっきりしていく。
借金の向こう側にいたのは、単なる不運ではなかった。
白銀騎士学校は、閉じるべくして閉じたのではない。
誰かに、閉じるよう仕向けられていたのだ。




