禁じられた書
図書館全体に響いた鐘の音が、いつまで経っても耳の奥から離れない。
カァン――カァン――と、遠くから何重にも重なって聞こえてくる。その音に呼応するように、さっきまでゆっくり近づいていた白い光が一斉に動き始めた。
「これ、完全に俺のこと探してるよね」
認めたくなかったが、どう考えてもそうだろう。距離はまだあるものの、白い影は馬なんかと比べものにならない速度で書架の間を飛んでくる。
俺は急いで手にしていた本を棚へ戻し、とりあえず周囲を見渡してみた。
「えーっと、出口……出口はどこですかね」
右を見ても本棚。左も本棚。振り返っても当然のように本棚が続いている。
「出口ないじゃん」
いや、そんなわけない。入ってきた以上、どこかに出入口くらいあるはず。
……もっとも、俺の場合はエルヴィアで突然魔法陣に飲み込まれて、気付けばここへ落とされていた。正規の入口を通った記憶なんてないが。
「だいぶ……詰んでない?」
その瞬間だった。
頭上から鋭く風を切る音が落ちてくる。
「――っ!」
反射的に横へ飛ぶ。直後、俺が立っていた床へ白い槍が突き刺さり、ズドンッ、と重い衝撃が響いた。
床には細かな亀裂が走っている。
「おいおいおい! 挨拶くらいしろよ!」
見上げると、そこに浮かんでいたのは人の形をした「何か」だった。
白銀の鎧に、背中には大きな白い翼。顔立ちは人間に近いが、肌は異様なほど白く、その瞳には感情らしいものがほとんど見えない。
手には、さっき俺を串刺しにしかけたものと同じ白い槍が握られていた。
しかも、一体だけじゃない。書架の上、階段の途中、頭上の足場。気付けば十体以上の天使が、俺を取り囲むように浮かんでいた。
「……困ったな、神域でも俺は人気者か」
本を盗んだとかなら、まだ分かる。
いや、盗んでないけど。ちょっと勝手に読んだだけ。
にしても、まるで俺が大罪を犯したかのような振る舞いだ。
「ちなみに、話し合いとかってできる?」
返事はない。
一番近くにいた天使が、無言のまま槍を構える。
「そりゃ無理か。でもまぁ、恨むなよ」
仕方ない、俺も右手を前へ出す。
「《炎槍》」
火属性魔力を収束させ、形を固定し、射出軌道を設定する。普段なら一秒もかからない。赤い術式が展開され、その先に炎の槍が生まれる――はずだった。
「……あれ?」
一瞬だけ指先に火花が散り、そのまま消えた。
考える暇もなく、白い槍が飛んでくる。慌てて身を伏せると、槍は頭上を通過して、そのまま奥の本棚へ向かう。
ぶつかる。
そう思った瞬間、槍だけが白い粒子へ変わって消滅した。本棚には傷一つついていない。
天使からの攻撃は本に通らない仕様となっているみたいだ。
「……なるほど?」
俺は負けじともう一度魔力を練る。
「《雷槍》」
今度は雷属性。だが結果は同じだった。
術式は途中まで成立している。魔力も動いている。それなのに、外への現象を成立させようとした最後の段階で、何かに押し潰されるような感覚。
「なんでだ」
魔力量が元の一割まで減っているせいか?
いや、違う気がする。
さっき《火灯》は一応発動した。魔力不足なら単純に威力が落ちるか、発動に必要な量を満たせないだけだ。
術式そのものが途中で崩される説明にはならない。
すると、三体の天使が同時に突っ込んでくる。
「今考え中だから、ちょっと待てって!」
身体強化ならどうだろう。
「《身体強化》!」
今度は問題なく発動した。脚へ魔力を集中させ、一気に床を蹴る。三本の槍が俺のいた場所を通過し、そのまま空を切った。
「お、これは使えるっぽいな!」
本棚の縁を蹴って上の足場へ飛び乗り、そのまま走り出す。当然、天使たちも追ってくる。
《火灯》は一応発動し、身体強化も問題なく使えた。逆に《炎槍》と《雷槍》は、術式の最後で崩されている。
違いは威力か。消費魔力か。
いや、それだけじゃない。もっと単純な共通点があるはずだ。
走りながら指先へ魔力を集める。
「《水球》」
小さな水球が生まれた。
「じゃあ……《水刃》」
水球を高速回転させ、切断力を持った刃として外へ成立させようとした瞬間、術式が崩れる。
「あー……なるほど」
天使の槍を避けながら、思わず笑う。
《火灯》と《水球》は、俺の身体のすぐ近くで小さな現象を起こしているだけ。身体強化も自分自身への作用だ。
逆に《炎槍》や《雷槍》、《水刃》は、身体から離れた場所に現象を成立させる必要がある。
「外に出すほど、潰されるのか?」
完全に魔法が禁止されているわけじゃない。
身体から離すほど、規模が大きいほど、外の空間へ強く干渉しようとするほど、この場所そのものに術式を押さえ込まれているのか。
でも、考えてみれば当然かもしれない。天使は本に攻撃は通らない仕様だが、こんな場所で人間が好き勝手に大魔法を撃てば、一瞬で何冊燃えるか分からない。
つまり、この空間そのものに対人間用の巨大な保護機構が組み込まれている。
「なら、その仕組みを解析して解除すれば――」
顔の横を槍が通過した。
「危なっ!」
今はさすがに、それどころじゃないらしい。
足場を蹴って下へ飛ぶ。高さは十メートル以上あるが、身体強化で足を固めて着地した。
「解除する時間もくれないのか」
もちろん返事はない。むしろ天使の数が増えている。
さっきまで十体程度だったはずが、今では二十を超えていた。さらに書架の奥からも白い光が次々と集まってくる。
「増えすぎだろ!」
俺一人相手に何人出すつもりだ。
天使たちが一斉に翼を広げ、その頭上に白い槍が次々と生成されていく。
「……あ、こりゃやばそう」
走る。
次の瞬間、数十本の槍が雨のように降ってきた。
一発目を避け、二発目も身体を捻って抜ける。三発目は床を蹴ってかわしたが、四発目が左腕を掠めた。
「っ……!」
熱い。
制服の袖が裂け、その下から血が流れ出す。続く槍を身体強化で飛び越え、さらにもう一本を空中で避ける。
だが、その次は間に合わない。
「《魔障壁》!」
透明な障壁を展開する。
外部へ展開する術式だからか、普段より明らかに薄い。それでも一瞬くらいは保つだろう。
白い槍が激突する。
次の瞬間、呆気なく砕け散った。
「……は?」
普段なら、この程度の攻撃で破られるはずがない。
だが今は、魔力そのものが元の一割しかない上に、この場所からも術式を押さえ込まれている。
槍がそのまま肩へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
勢いに押されて身体が吹き飛び、本棚の側面へ叩きつけられる。
「っ、いてて……」
肩に刺さった槍をすぐに引き抜く。幸い、深くは入っていない。傷口へ手を当てる。
「《治癒》」
魔力が傷へ流れ込み、裂けた肉がゆっくり塞がっていく。
これは使える。
やっぱり、自分の身体へ直接作用させる魔法ほど、この場所の影響を受けにくいみたいだ。
「面倒くさいな、この場所……」
立ち上がった頃には、天使たちがすでに床へ降りていた。白い槍を手に、一定の距離を保ちながらゆっくりこちらへ近づいてくる。
「お前ら、いい加減俺が何したかくらい教えてくれない?」
その時、一体の天使が初めて口を開いた。
『人の子よ』
「お、喋った」
『この地は神域』
「うんうん」
『人が触れることは許されない』
「知らなかったんだって」
『禁を犯した』
「だから事故だって。俺は誰かに罠に嵌められて、勝手にここへ飛ばされたんだよ!」
『神の知を盗んだ』
「……盗んでない。そこに本があったからちょっと読んだだけ」
『罪は同じ』
「全然違うだろ」
天使の瞳が淡く光る。
『知を返せ』
「……どうやって?」
『死をもって』
「めちゃくちゃだな、一応天使だろ、お前」
死ねば俺が読んだ知識も消えるということか。それとも、俺ごと消せば外へ持ち出されないという意味なのか。
どちらにしても、話し合いで解決する気がないことだけは分かった。
「それに、俺死にたくないんだけど」
『ならば何故、神域へ足を踏み入れた』
「だから勝手に飛ばされたんだよ!」
『偽り』
「本当だって!」
『人は神域へ至れない』
「俺もそう思ってたわ!」
なんなんだ、こいつら。
いや、正確には少し違う。
こいつらにとっては、そもそも「人間がここへ来られる」という前提自体が存在しないんだ。
なら俺が何を言っても、最初から嘘として処理されるのだろう。
「……仕方ない」
姿勢を低くする。
正面から戦うのは無理だ。魔力は少ないし、魔法にも制限がかかっている。
相手は二十どころか、まだどんどん増え続けている。
だったら答えは一つ。
「逃げるしかないな」
足元へ魔力を流す。
「《加速》」
身体へ直接作用させる風系統の補助魔法。問題なく発動した。
《身体強化》と重ね、一気に床を蹴る。
『逃走を確認』
「確認しなくていいよ!」
天使たちが一斉に追ってくる。
俺は本棚の間を右へ左へ走り、階段を駆け上がる。そのまま手すりを飛び越えて下の足場へ飛び降り、とにかく翼のある天使が動きにくそうな狭い場所を選んで進んだ。
それでも速い。
「おかしいだろ!」
普通に追いついてくる。
背後から飛んできた槍を右へ避け、続く二本目を左へ抜ける。だが三本目が、その先の逃げ道を塞いだ。
「《偏光壁》!」
身体の周囲、ほんの数メートルだけ光を歪ませる。
本来ならもっと広く展開できる術式だが、今はこれが限界だった。
景色が揺らぎ、天使たちの狙いが一瞬だけ外れる。
「よし!」
その隙に書架の奥へ滑り込み、見つけた細い通路へ飛び込む。
そこは、さっきまでの明るい書架とは明らかに雰囲気が違っていた。本の数は少なく、その代わり一冊一冊に異様なほど厳重な結界が張られている。
鎖。封印。警告。
「……あれ?」
見覚えがある。
さっき見つけた黒い書架と、同じ造りだ。
「もしかして……禁書区画?」
だったら結構まずそうだな。
いや、元々もう十分まずいけど。
『侵入者、禁域へ進入』
背後から天使の声が響いた。
「はいはい。そうなるよな! でも今さら罪一個増えても同じだろ」
そのまま走る。
しばらく進んだところで足を止めた。
「……嘘だろ」
行き止まりだった。目の前には巨大な黒い壁が立ちはだかり、左右にも逃げ道はない。
振り返ると、入口側から白い光が次々と近づいてくる。十体、その後ろにもまだいる。
「まずいな」
自分の魔力残量を確認する。
今の最大値を基準にして、もう半分近く使っていた。元々の魔力総量から考えれば、残っているのは五%程度。
身体強化、加速、治癒。逃げるためだけに、思った以上に魔力を使わされてしまった。
「くっそー」
このまま戦えば、どう考えても負ける。
俺は周囲の本へ視線を走らせた。
『因果改竄論』
『魂魄転写』
『死者再構築』
『神性侵食』
『虚無領域』
「なんだか物騒な本しかないな!」
でも今は何でもいい。
逃げるために使えそうなもの。せめて、この状況をひっくり返せる何か。
天使が通路へ入ってくる。
『人の子よ』
「ちょっと待って、今いい感じの本探してるから」
『ここで終わりだ』
「そう言われると、余計終わりたくないんだよなー」
さらに視線を走らせる。
そして、一冊の本で目が止まった。
「……ん?」
他の禁書とは違う。
鎖がない。結界も見えない。ただ一冊だけ、黒い台座の上に置かれている。
真っ黒な表紙。その中央には、赤い瞳のような紋章が刻まれていた。
「何これ。面白そうなものはっけーん」
口元が勝手に緩む。
「……そそるねぇ」
背表紙に書かれていたのは、たった二文字。
『天帝』
その瞬間、天使たちの動きが止まった。
ほんの一瞬。
でも、俺は見逃さなかった。
「……あれ?」
さっきまで何を言っても、何をしても、表情一つ変えなかった連中が。
今。
明らかに、その本を見て怯えた。
俺は黒い本へ手を伸ばす。
「さては、お前ら……これ、読まれたくないの?」
『触れるな! その書から離れよ!』
即答だった。
初めて聞く、明確に焦った声。
「へぇー……」
『人の子よ。その書を読むことは決して許されぬ』
「ふむふむ。なるほど」
『やめろ!』
「それってフリ? 逆に読みたくなるじゃん」
勢いよく、本を開く。
その瞬間、視界が黒く染まった。




