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天帝の試練

 

 視界が黒く染まった。

 光も、音も、足元の感覚も消える。身体が浮いているのか、立っているのか、それすら分からない。転移された時と似ているが、今回は胃が浮くような感覚すらなく、世界から丸ごと切り離されたような不気味さだけが残っていた。


「……またこれかよ」


 しばらくすると、正面に細い赤色の光が生まれた。それはゆっくりと上下へ開き、やがて俺の身体より遥かに巨大な一つの瞳へと変わっていく。


「……でかっ。って、何だこれ。目? 気持ち悪……」


 見られている。

 そう感じた瞬間、声が頭の奥へ直接響いた。


『契約適合者を確認』


「うわ、頭の中で誰か喋った」


『《天帝の魔眼(てんていのまがん)》の契約試練を開始する』


「やっぱこれがいわゆる魔眼なんだ……って、ちょっと待って。今なんて? 俺まだ契約するなんて一言も――」


『第一条件――万象魔術への完全適合』


「こちらも話聞かないタイプね」


 神域は誰も話を聞かないらしい。

 次の瞬間、何もなかった暗闇を無数の光が埋め尽くした。


「……?」


 文字。術式。魔法陣。

 数え切れないほどの情報が、俺を中心に展開されていく。

 火、水、風、土、雷、光、闇。俺が知っている一般的な属性魔法はもちろん、結界、召喚、治癒、錬金、空間といった学校でも扱う魔術体系まで並んでいた。

 さらにその先には、さっきアカシックレコードで読んだ高度な魔術理論まである。


 だが、それだけじゃなかった。


「何だ、これ」


 知らない。初めて見る術式がある。

 一つや二つじゃない。むしろ、見たことのないものの方が圧倒的に多かった。


『《虚空転位(こくうてんい)》』


『《魂魄固定(こんぱくこてい)》』


『《因果偏向(いんがへんこう)》』


『《存在隠蔽(そんざいいんぺい)》』


『《次元断層(じげんだんそう)》』


『《魔力反転(まりょくはんてん)》』


 名前を見ただけでは何をする魔法なのかすら分からないものまである。その術式構造は、俺が今まで学んできた魔法とは根本から違っていた。


「これが……! これがロストマジック!」


 心臓が跳ねた。

 今まで、一度も本物を見たことがなかった。


 魔法を少しでも知っている人間なら、名前くらいは聞いたことがあるだろう。

 どこの国も血相を変えて奪い合い、一つ発見されただけで戦争の理由になりかねない代物。


 失われた魔法。

 それが今、目の前に数え切れないほど浮かんでいる。

 しかも、偽物じゃない。術式を見れば分かる。


「……やば、ここにずっといたい」


 こんな状況じゃなかったら、一週間くらい眺めていたい。


『全術式を記憶せよ』


「え?」


 目の前の術式が、一斉に動く。


『理解せよ』


「ちょっ――」


『再現せよ』


 その瞬間、最初の術式が一気に俺の頭の中へぶち込まれた。


「ぐっ――!」


 情報量が多すぎる。

 ただ文字を読むのとは訳が違う。術式構造、魔力の流路、発動条件、世界へ干渉するための情報。

 それらが意味も整理されないまま、全部まとめて頭の中へ流れ込んでくる。


 ……だが、一度入ってしまえば忘れない。


 俺には《絶対記憶》がある。

 記憶に関しては大丈夫。

 問題は、その先。覚えているだけでは魔法は使えない。

 頭の中へ保存された術式を、自分で理解しなければならない。どこから魔力を流すのか。どの段階で世界へ干渉するのか。何を起点として、何を結果とするのか。

 分からない部分は、すでに流れ込んできた別の術式と照らし合わせて対応。

 構造を一つずつ分解し、自分の中で意味のある形へ組み直していく。


 集中しろ、俺!


「なるほど……こことこっちが繋がって――」


 頭の中で術式が一本に繋がる。


「よし、理解は完璧」


『再現せよ』


「そうなるよなー、でも再現って」


 その瞬間、術式が俺の魔力回路へ強制的に展開される。


「っっ……!」


 身体の内側が焼けるように痛む。

 実際に炎が出たわけじゃない。だが魔法を発動する直前の状態まで、俺自身の魔力回路を使って術式を成立させられている。

 ただ、ここで一つ妙なことが起きてる。

 術式へ流れ込んでいる魔力は、俺自身のものではない。

 どこからともなく供給された魔力が、俺の魔力回路を無理やり通って術式を形作っている。

 つまり、魔法を動かすための魔力は向こう持ち。

 でも、それを通している魔力回路は俺のもの。

 だから当然、どんなに魔力があっても壊れるのは俺だ。


「なるほど。燃料はそっち持ちで、壊れるのは俺だけってことね」


『然り』


「優しいんだか、残酷なんだか」


 つまりこの試練は、術式を覚えれば終わりじゃない。


「全魔法を……一回ずつ俺の身体の中で成立させろってことか」


 最初は火属性だった。

 《火灯》。《炎槍》。《爆炎》。《灼界》。

 知っているものもある。

 だが途中から、見たことのない術式が次々と混ざり始めた。

 それでも、見る。記憶する。理解する。そして最後に、自分の魔力回路で成立させる。


 一つ終われば、次。

 また次。


『適合確認』


 水。氷。雷。風。土。光。闇。

 属性が変わるたび、魔力回路へ掛かる負担まで変化した。炎なら全身を内側から焼かれ、氷なら血液まで凍りつくような寒さが襲い、雷なら神経を直接引き裂かれるような痛みが走る。


「っ……ああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 思わず声が漏れる。

 それでも術式の再現は体内で止まらない。

 一度入った情報は忘れない。だから次へ進める。進んでしまう。

 術式を成立させるための魔力そのものは《天帝》側から供給されているが、それを何百回、何千回と通し続けているのは俺自身の魔力回路だ。

 当然、身体の内側には少しずつ損傷が積み重なっていく。しかも、理解だけは俺自身でやらなければならない。

 普通なら、知らない術式をいきなり魔力回路へ展開された時点で暴発したりするんだろう。

 だが、術式の構造が分かれば、魔力の流れがおかしい場所も、どこが危険なのかも大体分かる。

 そこを自分で修正して、次へ進む。

 我ながら、自分の魔法センスが少し怖い。


 やがて通常魔法が終わり、そこから先は完全に俺の知らない領域へ入った。


『ロストマジック領域へ移行』


「……ははっ。こ、こっからや、やっと本番……?」


 冗談半分で言ったつもりだった。


『《重圧界(じゅうあつかい)》』


「ぐっ!」


 身体が床へ叩きつけられたような感覚に襲われる。上手く呼吸ができない。

 これは重力へ直接干渉する魔法。

 術式を見る。記憶する。構造を理解し、自分の魔力回路で再現する。


『適合確認』


『《虚空転位》』


 空間座標そのものを一瞬だけずらす術式。


『適合確認』


『《魂魄固定》』


 肉体と魂の接続を強制的に維持する。


『適合確認』


『《幻覚夢想(げんかくむそう)》』


 対象の認識へ直接干渉し、存在しない光景を現実として認識させる。


『適合確認』


『《虚無空間(きょむくうかん)》』


「……?」


 今までとは比べものにならない情報量が流れ込んできた。

 物理的にはさっきより幾分マシだが、今までにない情報量に頭が爆発しそうだ。

 現実空間から切り離された独立領域を生成し、その内部法則を術者が一定範囲で定義する。

 果たして、こんなのを魔法って呼んでいいのか……?


『適合確認』


 次。


『《因果偏向》』


「待て」


 原因と結果の接続へ干渉する術式。

 剣が当たった。だから傷ができた。

 その「だから」の部分へ直接触れる、魔法。


「……いやいや」


 これはさすがに意味わからない。

 俺が知っている魔法は、どれだけ強くても現象を起こすもの。

 だけど、ロストマジックは違った。

 現象ではなく、世界の仕組みそのものへ触れているような魔法ばかり。

 確かにめちゃくちゃ面白い。だけど同時に、少し怖かった。

 こんなものが本当に存在していいのかとさえ思う。


 そんなことを思いつつも、とんでもない術式が当たり前のように俺の中で展開され続けた。

 記憶、理解、再現。

 それを気が遠くなるほど繰り返す。

 一つ、十、百、千。

 途中から数える余裕なんてなくなった。


『四千七百二十一』


「今、数教えてくれた?」


『四千七百二十二』


 いや集中しているあまり、外部の声や音が一切聞こえなくなっていたのか。

 再び術式が身体を走り、身体が叩き起こされる。


「ぐっ……!」


 痛い。とんでもなく痛い。

 何度も意識が途切れそうだ。

 死にたいわけじゃない。むしろ死ぬのは普通に嫌だ。

 母さんもいる。ティアナたちとの約束だってある。

 でも、ここまで来て「怖いからやめる」のも嫌だった。

 もし次の術式を理解、再現できないなら、そこが今の俺の限界地点。その時、この試練が俺をどうするのかは知らない。失敗した瞬間に死ぬ可能性だってある。

 けれど、この試練を放り出したところで、外へ戻れば天使たちに殺されるだけ。

 それなら、魔法に挑んで死ぬ方がまだ百倍マシだ。


 少しでも耐えられるよう、治癒術式で魔力回路の損傷を抑え、精神防護で意識を繋ぐ。《魂魄固定》で、身体と意識の接続も補強する。ただし、今やっている補助は試練によって強制的に再現させられている魔法とは違うから当然、消費するのも俺自身の魔力。

 ただでさえ最大容量が元の一割しかないが、ここで全部使い切るわけにはいかない。

 だから最低限。死なないために必要な分だけ。

 ついさっき覚えた魔法を、次の魔法へ適合するために使い、応用していく。


「これ、試験しながら使い方まで覚えろってことか」


 合理的だけど、性格悪いな。作った奴。

 それでも、妙な確信だけはあった。


 できる。

 全部覚えられる。全部理解できる。全部再現できる。

 なら、全部使えるようになる。


「……これだから魔法は面白い」


 口元が勝手に笑う。


「全部寄越せよ。忘れないから」


 そこからどれくらい時間が経ったのか分からない。一日なのか、数日なのか。

 この場所には時間を測れるものが何もなかった。


 そしてついに、最後の術式が俺の中で完成し、静寂が戻る。


 俺はその場へ膝をつき、荒い息を吐いた。

 身体中が痛い。指一本動かすだけでも面倒だった。

 それでも、頭の中には今まで存在しなかった膨大な知識が確かに残っている。


 通常魔法。古代魔法。禁忌魔法。

 そして、ロストマジック。


 見せられた全てを覚えている。

 意味も、発動方法も分かる。

 まるで神にでもなったかのような万能感だ。


「……これで俺……」


 自分でも少し信じがたい。


「全魔法、使えるのか……?」


『全魔術体系への記憶、理解、再現を確認』


 巨大な赤い瞳が俺を見下ろす。


『第一条件、成立』


 思わず拳を握った。

 途中から、天使だとか試練だとか、そんなことはどうでもよくなっていた。


 ただ魔法の凄さに見惚れていた。


 だが――。


『第二条件を開始する』


「え、ちょっと待って。まだあるの?」


 そりゃ当然、第一があれば第二もあるか。

 視界が歪む。


「せめて数日間の休憩を!」


 聞いてくれない。

 容赦なく世界が切り替わる。

 次に足元の感覚が戻った時、俺は薄暗い荒野に立っていた。


 赤黒い空。地面には無数の亀裂が走り、遠くには折れた剣のような岩が突き出している。

 まるで世界の終わりみたいな場所だった。


「ほんと人使い荒いことこの上ない試験だ」


 身体にはまだ第一条件の痛みが残っている。

 自前の魔力もかなり使ってしまった。


 ただ、さっきまでとは決定的に違う。

 俺の頭の中には、世界中の魔法がある。

 目を閉じれば、数千の術式がすぐに浮かぶ。


「早く……早く使ってみたい……!」


 こんな状況なのに、そっちの方が気になってしまう。

 この荒廃した場所なら、どんな魔法をぶっ放しても怒られないんじゃないか。

 そんなことを考えながらいい感じの場所を探していると、数十メートル先の正面、一人の女が立っていた。


「女の子……?」


 青みがかった短めの髪。

 異国風の軽装に、顔の半分を隠した狐の面。

 腰には、細身ながら異様な存在感を放つ一本の刀。


「あれ、君は誰ー? 同じ試験受けてる人ー?」


 聞こえるように声を張るが、返事はない。

 俺が一歩進んだ。

 その瞬間、女が消えた。


「――っ!」


 首筋に寒気が走る。

 考えるより先に身体を伏せた。

 頭上を刃が通過した直後、遅れて凄まじい風圧が髪を何本か裂いた。


「……まじか」


 地面を転がって距離を取る。

 女は、さっきまで俺がいた場所に立っていた。

 刀を振り抜いたまま、静かにこちらを見る。

 残像すら見えなかった。


 単純な強さなら、さっきの天使たちなんて比較にならない。


 女が初めて口を開く。


「人間、名を」


「アカナ・インリアス。十六歳、男。レグナス王国の魔法学校に通ってる。身長はたぶん百七十二くらい。好きな食べ物は肉、嫌いなのは野菜。好きなタイプは優しくて、話してて疲れなくて、ちゃんと笑ってくれる子。あと俺よりちょっとしっかりしてる方がいいかな。俺が適当だから。でも完璧すぎると緊張するから、多少抜けてる方がいい。あと料理できたら嬉しい。俺、食べるの好きだし。髪は長くても短くてもいいけど、目は綺麗な方が好き。身長は俺よりちょっと低いくらいが――」


「待て」


「はい?」


「私は名を聞いただけ」


「うん」


「何故、伴侶の好みまで聞かされている」


「初対面だし、一応の話題提供だよー、できる男は女の子に気を遣わせない」


「不要だ」


「でも、もしかしたら条件に当てはまってるかもしれないじゃん?」


「私が?」


「うんうん、まだ狐面で顔よく見えないけどね」


「斬るぞ」


「そういう物騒なのはタイプじゃないけどなー? でもまあ、顔が可愛かったら加点。普段面つけてるのに、外したら可愛いとかギャップ過ぎる」


「いい加減黙れ。何度も言うが、私は名を聞いただけ」


「え、あ、そう? じゃあアカナで」


「最初からそう言え」


「アカナ」


 女は俺の名前を一度だけ口にすると、刀をゆっくり構えた。


 やっぱりそうだよね。

 対峙することになるよね。

 なんとか話題を逸らそうとしたけど、無駄だったみたいだな。


「私はシンシア・グラ」


 その名前と同時に、頭の奥へ情報が流れ込む。


『十屍の悪魔――シンシア・グラ』


「……十屍? って、あの……十屍?」


「あの、がどの十屍かは知らんが、おそらくその十屍だ」


 十屍(じゅっし)。


 悪魔の頂点に存在すると言われる十体の悪魔。

 その顔ぶれは数百年間ほとんど変わっておらず、一体現れただけで国家が討伐の可否を議論するほどの存在だ。


「で、なんでそんな化け物さんがここに?」


「……それはこちらの台詞だ」


「どういうこと?」


「《天帝》へ至ろうとする人間など、もう二度と現れぬと思っていた。化け物か、ただの大馬鹿者か」


 シンシアの薄青色の瞳が、真っ直ぐ俺を射抜く。


「……証明しろ」


「何を?」


「お前が、《天帝》を持ち、我らの主となるに足る存在か」


「主? 急に何の話かわからないけど、つまり戦えってこと?」


「そうだ。もし、私がお前を《天帝の魔眼》の所持者として認めれば、第二条件は成立する。その時、お前は《天帝》の所有者となる」


「じゃあ、それでお前らを従えられるってこと?」


「勘違いするな。《天帝の魔眼》を持ったからといって、全ての悪魔を好き勝手扱えるわけではない」


「違うの?」


「あくまで、私たちを従える資格を得るだけ。契約するかどうかは、それぞれの悪魔が決める」


「なるほど」


「だが――」


 シンシアが刀を僅かに持ち上げる。


「この第二条件を満たしたなら、私はお前を主と認め、生涯忠誠を誓ってやってもいい」


「お、太っ腹」


「手始めに、お前を襲っていた天使どもを皆殺しにしてやろう」


「急に物騒」


 それはなかなか魅力的な提案だ。

 正直悪魔が従いたい訳でもないし、魔法と一緒に遊んで暮らせたらそれだけでいい。

 けど、ここから逃げられたとしても、外にはあの天使どもが待っている。


「とりあえず、第二条件については分かった。でも今の俺、魔力ほぼないんだけど」


「知らん」


「酷くない? 数日くらいリフレッシュ休暇を」


 答えの代わりに、シンシアの姿が消える。


「っ!」


 横へ避けるか。

 いや、間に合わない。

 頬が裂け、少量の血が飛び散る。


 次の瞬間には、もうシンシアは元の位置へ戻っていた。


「さっきから……速すぎだろ」


「《閃光の魔眼(せんこうのまがん)》」


 シンシアの瞳が、淡い青から鋭い光へ変わる。


「リフレッシュ休暇代わりに教えてやろう。私の魔眼は一定時間、私の動作速度を通常時のおよそ百倍まで引き上げる」


「ひゃ、百倍?」

 

 聞かなければよかった。

 非現実的過ぎて、思わず笑ってしまう。


「それは反則……」


「不満なら大人しく死ぬがいい」


 また消える。

 当然、見えない。

 気付いた時には右肩に斬撃。


「ぐっ!」


 次は腹。

 辛うじて身体を捻ったが、服と皮膚が浅く切れる。

 次は足。

 地面を蹴って距離を取る。


「いやー、普通にやったら無理だな」


 絶対に勝てない。

 その判断だけは早かった。

 今の俺には元の一割しか魔力容量がない。しかも第一条件の最中、自分で使った補助魔法のせいで、その僅かな魔力すらかなり減っている。


 でも。


「普通にやる必要もないか」


 さっき得た術式が、頭の中へ次々と浮かぶ。

 数千の魔法。

 その中から、今の少ない魔力でも成立させられそうなものだけを選ぶ。


「《重圧界》」


 低出力。効果範囲、一メートル。

 俺の正面だけ。


 シンシアが消える。

 直後、目の前に展開した《重圧界》が一瞬だけ乱れた。


「そこでしょ」


 横へ飛ぶ。

 次の瞬間、シンシアの刀が、さっきまで俺の首があった場所を通過した。


 シンシアがこちらを見る。


「……今、私を捉えた?」


「いや、見えてないよ」


「何?」


「《重圧界》に何か入れば、魔力場がほんの一瞬だけ歪む。これで位置くらいなら拾える」


 百倍で動けても、そこに存在している以上、何の影響も残さないわけじゃない。

 とはいえ分かるのは、一メートルの範囲へ入った瞬間のみ。

 追い続けられるわけじゃないが、それでも今の俺には十分だった。


「便利だな、これ」


 得意げに笑ってみせる。

 その間も待たず、シンシアが再び消えた。


「《因果偏向》――極小」


 術式を起動した瞬間、身体からごっそり魔力が抜ける。


「うわ、燃費悪っ!」


 今の魔力量じゃ、因果そのものを書き換えるなんて到底できない。

 でも、完全に結果を変える必要はない。


 ほんの少し。

 元々成立しかけている結果を、僅かに傾けるだけ。

 後ろからシンシアが刀を振る。

 俺の肩へ当たるはずだった刃が、数センチだけ逸れた。


「……?」


「おお。本当にズレるもんなんだなー」


 原因と結果の間へ、ごく小さな誤差を作っただけ。

 「肩へ当たる」という結果を、「肩の横を通る」程度へ傾けた。

 今の魔力量ならこれくらいが限界だが、十分すぎる効果だ。


「これは何回も無理だな」


 ただでさえ少なかった魔力が、一気に減った。

 元の魔力量があればなぁ。


 とりあえず、この術式はこれからの切り札に取っておこう。


「お前」


 シンシアの声音が少し変わる。


「今の術は何だ」


「さっき覚えた」


「何?」


「でも実戦で使ったのは初めて」


 理屈は分かっている。

 でも、実際に使うのは今が初めてだ。

 第一条件で何千回も殺されそうになった甲斐はある。

 シンシアは刀を構え直し、さっきより深く腰を落とす。


「ならば、これはどうする」


「え?」


 姿が消えた。


 同時に。

 前。右。左。後ろ。


「――っ!」


 斬撃が四方向から襲ってくる。

 おそらく、これは残像じゃない。

 高速で移動しながら、ほとんど同時に四方向から攻撃している。


 このタイミングでは使いたくなかったが、しょうがない。


「《虚空転位》!」


 術式を起動する。

 身体が一瞬だけ空間から消えた。


 ほんの二メートル程度自分の座標をずらし、シンシアの包囲から抜ける。

 次の瞬間、少し離れた場所へ転がり出た。


「っつ……!」


 吐き気がする。

 座標転位に身体が慣れていない。

 しかも、さっきの術式ほどではないが、これもなかなかに消費魔力が重い。


「便利だけど酔うな、これ」


 顔を上げる。

 シンシアは、もうそこにいた。


「早っ」


 刀。避けられない。


 やむを得ない。

 最後の魔法。


「《魔力反転》!」


 俺の身体へ向けられたシンシアの魔力の流れを、一瞬だけ逆方向へ乱す。


「――っ?」


 シンシアの動きが僅かに鈍った。

 ほんの一瞬だったが、今の状況ではそれで十分。

 身体を捻ると、刀が胸元を掠め、制服を裂いた。


「危な……!」


 魔力はもうほとんど残っていない。

 シンシアには傷一つない。


 それどころか、戦いながら分かってきた。

 こいつは明らかに、俺を殺さないよう攻撃を選んでいる。

 魔眼そのものは使っているだろう。

 でも、攻撃する場所も、回数も、間隔も、俺がぎりぎり反応できるように調整されているような気がしてならない。

 もし、シンシアが本気なら、最初の一振りで俺の首は落ちていたはず。


「強すぎだろ、お前」


「お前が弱すぎる。《天帝》に触れた者だからと期待していたが、私の当てが外れたようだな」


「今の状態で言われると腹立つ。魔力が元に戻れば、もっとやれるし」


 でも、分かったこともある。

 新しく得た魔法は結構使える。

 威力は出せないし、大規模な術式も無理。


 それでも、使い方次第では百倍速の魔眼持ちにも一瞬くらいは食らいつける。

 ふと、昔師匠が何度も口にしていた言葉を思い出した。


「……魔法は全てのものを平等にする、か」


 魔力量が九割なくなった俺でも、魔法を知り、使い方さえ考えれば、こんな化け物相手に一瞬だけでも抗える。


 なるほど。

 今なら、あの言葉の意味が少しだけ分かる気がした。


「なぜ、死を目前に笑える?」


「だって今、初めて使う魔法ばっかなんだぞ? そりゃ興奮もする。初めて魔法を使った時を思い出すね」


 シンシアが黙る。

 変な奴を見るような目をしている気がした。

 狐面で半分隠れているけど。


「ただ」


 息を整える。


「さすがに、これ以上は無理だな」


 魔力はほぼ空。

 シンシアを倒すなんて夢のまた夢。


 なら、やることは一つしかない。


「シンシア」


「何だ」


「さっき、俺にお前を倒せとは言ってなかったよな」


 シンシアの瞳が僅かに動く。


「証明しろ、と言った」


「そう。お前らを従えるに足る存在かを」


「それがどうした」


「なら、勝つ必要ないよな」


 俺は笑う。


「要は、お前に認めさせればいい」


 シンシアは何も言わない。

 正解とも、不正解とも答えない。でも、否定はしなかった。


「よし」


 だったら勝ち目はある。

 俺は姿勢を落とす。


「もう一回来い」


「何?」


「同じ攻撃でも違う攻撃でもいい。好きにしていいから」


「死ぬぞ」


「だろうな。嫌だけど」


「なら何故?」


「覚えるため」


 シンシアが初めて、はっきり怪訝そうな顔をした。


「……覚える?」


「俺、一度見たものは忘れない」


 ただし、百倍速はまともには見えない。

 なら、一回で全部見る必要はない。


 一撃目で踏み込み。

 二撃目で肩。

 三撃目で腰。

 四撃目で刀の角度。

 何度でも受けて、情報を一つずつ拾えばいい。


「十回で足りなきゃ百回。百回で足りなきゃもっと」


 もちろん、死なない程度に。

 そこだけはめちゃくちゃ頑張る。

 ただ、おそらくシンシアはまだ俺を殺すつもりがない。

 これは試験だからだ。


 不合格となれば死ぬのかもしれないが、それまでは試してもらえる。……と、信じたい。


「死ぬまでに、お前の動き全部覚える」


 シンシアはしばらく俺を見つめていたが、やがて刀を構える。


「愚かだな」


「よく言われる」


「延命できたところで、遅かれ早かれ死ぬことに変わりはない。その努力は徒労に終わる」


「じゃあ死ぬまでに認めてくれることを祈ろうか」


 薄青色の瞳が光る。

 一瞬だけ、少し笑ったように感じた。


「来いよ」


 俺も笑う。

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