神々の書庫
落ちる。
ただひたすらに、落ち続ける。
上下の感覚はとうに消えていた。
白く染まった視界の中で、身体だけがどこかへ引っ張られている。胃が浮くような気持ち悪さが何度も押し寄せてきて、さすがに吐きそう。
「うっわ、なにこれ普通に吐きそう……! 誰かー!」
当然、返事をする相手なんていない。そもそもこんな場所で誰に助けを求めているんだ。
そんなことを考えた次の瞬間、身体を包んでいた光が一気に消える。
「――っ!」
視界が戻る。真っ先に見えたのは、ものすごい勢いで近づいてくる硬そうな床。
「ちょ、待っ――!」
受け身を取ろうと身体を捻る。だが間に合わず、背中から思い切り床へ叩きつけられた。
「いっってぇ……!」
しばらくその場から動けなかった。
背中は痛むが、腕も足も動く。骨も折れていないらしい。なら魔力で痛みを和らげればいい。
そう思って身体の奥へ意識を向けたところで、ようやく違和感に気付いた。
「……ん?」
落ちている途中から、妙な感覚はあった。いつもなら呼吸するのと変わらないくらい自然に感じ取れる魔力が、今日はやけに遠く、薄い。
試しに右手へ魔力を集めてみる。
一応集まりはするが、明らかに遅かった。普段なら意識するより先に集まるはずの魔力が、今はわざわざ身体の奥から意識的に引っ張り上げないと出てこないような感覚。
「え、なにこれ」
もう一度。
今度はさっきより強く意識して魔力を引き上げる。それでも結果は変わらない。反応が鈍いだけじゃなく、そもそもの量がおかしい。
立ち上がり、自分の中に残っている魔力総量を探るように意識を集中させる。
数秒後。
嫌でも答えが分かった。
九割くらい、なくなってない?
少し減ったなんてものじゃない。元々持っていた魔力を百とするなら、今残っているのは十前後。何度確認しても変わらない。
「いやいやいやいや、ありえないって」
思わず自分の腹を触る。当然、穴なんて空いていない。
「……俺の魔力ちゃん、どこへ?」
十六年間ずっと一緒だったのに。薄情な奴だ!
って、笑ってる場合じゃない。
単純な魔力切れとも違う。使い果たした時の感覚ではないし、少し休めば元に戻るとも思えない。
まるで今まで百入っていた器が、最初から十しか入らない入れ物に変えられたような感覚だった。
「これが、王国の罠……?」
可能性は高い。
ただ、まだ断定するには早い。今はそれより先に、ここがどこなのかを確認した方がいい。
人がいるのか。出口はあるのか。
そして何より――帰れるのか。
そこでようやく周囲へ目を向けると、俺は言葉を失った。
「……え?」
目の前にあったのは、巨大な本棚。
いや、本棚という言い方では足りない。右を見ても左を見ても、振り返っても書架が続いている。
見上げても終わりはなく、遥か上まで積み重なった本棚の間を、無数の階段や足場が縫うように伸びていた。
さらに奥にも同じ光景が続いている。どこまで広がっているのか、本当に分からない。
「……図書館? だよな」
そう呼ぶには、あまりにも大きすぎた。
建物の中に本棚があるというより、一つの世界そのものが本棚で出来ているように見える。
それなのに、人の気配はまるでない。風もなく、足音も聞こえない。ただ、どこからともなく紙を捲るような音だけが微かに響いている。
「気色悪……」
できれば一人で長居したい場所じゃない。
とりあえず出口を探そうと思ったが、その前に近くの棚だけ確認してみることにした。背表紙には見たことのない文字がびっしり並んでいる。
「うん、読めない」
適当に一冊抜き取る。黒い表紙の古びた本で、表紙に書かれた文字もまったく理解できない。
試しに開いてみた。
「……あれ?」
読める。
『火属性魔力における第一原理。熱量とは魔力振動に伴う副次的現象であり――』
「待て待て」
一度閉じて背表紙を見る。
「読めない」
もう一度開く。
「読める」
閉じる。
「読めない」
開く。
「読める」
何だこれ。
「本の方が読ませてきてる?」
意味は分からない。
ただ、内容の方はもっと気になった。
頁を捲る。そこに書かれているのは、俺が学校で習ってきた魔術理論とはかなり違うものだった。
「魔力を熱へ変換してるんじゃない……?」
さらに読み進める。
今まで俺たちは、魔力を熱へ変換することで炎が発生すると考えていた。
だが、この本に書かれている理論では違う。魔力そのものの性質を変え、その振動によって熱という現象を生み出しているらしい。
「じゃあ、この部分要らなくない?」
頭の中で、普段使っている火属性術式を分解する。
余計な部分を削り、繋ぎ直す。今まで当たり前のように入れていた変換処理を省き、必要な部分だけを残していく。
「……こうか?」
指先へ魔力を集める。
「《火灯》」
小さな炎が灯った。
「おお」
明らかに消費が少ない。
普段なら術式を安定させるために無駄になっていた魔力が、ほとんど消えている。
今の俺は魔力を九割失っているが、この理論を使えばある程度は補えそうだ。
「……いや、すごいなこれ」
ただ、炎は数秒後に不自然に揺れ、そのまま消えた。
「ありゃ?」
術式自体は失敗していない。
魔力不足でもない。それなのに、身体の外へ出した魔法だけが妙に不安定になる。
「魔法にも何かあるのか?」
また分からないことが増えた。
普通なら面倒になるところだが、俺は手元の本を見てしまった。
「……おもしろ」
出口探しは、一旦後回しにした。
二冊目は『水属性術式における分子干渉』。
三冊目は『魔力回路と肉体構造』。
その次は『治癒術式の限界と生命定義』に『空間座標の固定法』。
読む。覚える。また読む。
《絶対記憶》がある俺は、一度見た文章を読み返す必要がない。
ただし、覚えることと理解することは別だ。文字が頭に残ったからといって、その意味まで勝手に分かるわけじゃない。
そこは俺自身で考える必要がある。
それでも、一冊読むごとに理解する速度は上がっていった。
「……あ」
火属性魔法の本に書かれていた考え方が、空間魔法の本にも使われている。空間魔法の構造は、結界術の一部にも出てきた。治癒術式に書かれていた生命の定義は、別の本では魂について説明する前提になっている。
一冊。また一冊。
知識が増えるたび、それまで別々だと思っていたものが繋がっていく。
「……これ、全部同じ根っこから出来てる?」
手が止まった。
今まで学校では、魔法はそれぞれ別の技術として教えられてきた。
炎は炎。
水は水。
結界は結界。
治癒は治癒。のように。
でも、ここにある理論では違う。
見た目も用途も違う。ただ、根本まで辿っていけば、どれも同じものから派生している。
「魔法って……一つ?」
思わず笑った。
「やば」
楽しい。
こんな場所に放り込んだ奴には腹が立つ、いつかぶん殴ってやりたい。なぜか魔力を九割持っていかれたのも最悪だし、帰る方法だって分からない。
でも、それとは別。
「これは帰りたくなくなる」
ここをマイホームにするか。
我ながら現金だった。
◇
どれくらい時間が経ったのか分からない。
一時間かもしれない。数時間、数日かもしれない。そもそもここには窓も太陽もなく、ずっと同じ明るさが続いているせいで時間の感覚が狂ってくる。
「さて、何時間くらい経ったかな」
考えても答えは出ない。
それでも、読む手は止まらなかった。
通常魔法、魔力制御、結界、召喚、錬金、治癒、魂、空間、重力、記憶。
知らない分野が、いくらでも出てくる。
一度見れば《絶対記憶》に残る。理解し切れない部分は一旦頭へ置いておき、別の本を読む。すると、そっちの知識が前の疑問を埋めてくれる。
完全に目的を忘れそうになりながら棚を移動していると、ある場所で足が止まった。
「ん?」
そこだけ、明らかに雰囲気が違う。
棚そのものが黒い。金属なのか木なのか分からない材質で出来ていて、その周囲だけ空気が重く感じられる。
並んでいる本には一本ずつ鎖のようなものが巻き付き、中央には赤い文字が浮かんでいた。
『閲覧禁止』
「……」
ついに見つけてしまった。
こういう場所には絶対あると思ってた。
ものすごく読みたい。
「いや、でも禁止って書いてあるしな」
一応、考える。
罠に飛ばされた。魔力は九割消えた。場所も分からないし、帰り道もない。
その上、目の前にはわざわざ鎖まで巻かれた禁書。
ここで触るのは、さすがに馬鹿か。
「……でも読ませる気ないなら本にするなよ。それに俺、ここの利用規約とか同意してないし」
なら問題ないか。
言い逃れの言い訳を考えながら鎖へ手を伸ばした。
「痛っ!」
触れた瞬間、指先に強烈な熱が走る。反射的に手を引くと、指先が僅かに焼けていた。
「結界、付きか」
鎖の周囲に薄い術式が浮かんでいる。
見たことのない構造。
ただ、さっきまで読んでいた本の知識を組み合わせれば、何となく仕組みが見える気がした。
「でもこれ……解除できそう」
右手を翳し、魔力を流そうとして――止めた。
「……いや待て」
もう一度、『閲覧禁止』の文字を見る。
解除自体は、多分できる。
でも、解除した後に何が起きるかは分からない。
そもそも俺は、この場所の正体すら知らないし、果たしてこれは今することか?
「……後にしてやるか」
珍しく自制に成功。
俺だって何でもかんでも触るわけじゃない、多分。
棚から離れようとした、その時だった。
――カァン。
「……ん?」
どこか遠くから、鐘のような音が聞こえた。
金属同士がぶつかったような、低く響く音。
しばらくして、もう一度。
――カァン。
さっきより近い。
「誰かいる?」
少し大きめに声を出すが、返事はない。
代わりに、遠くの書架の隙間が僅かに明るくなった。
白い光が、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
「……人?」
目を凝らす。
一つや二つじゃなかった。
いくつもの人影らしきものが、書架の間をこちらへ向かっていた。
ただ、その背中には白い何かが伸びている。
「……翼?」
その瞬間、頭の中にさっき読んだ一冊の内容が浮かんだ。
『天界に属する高次生命体――天使』
「……あ」
俺は改めて周囲を見渡した。
果ての見えない書架。人間には読めない文字。俺が知っている魔術体系を遥かに超えた知識。鎖で封じられた禁書。
そして、天使。
「……まさか」
急に昔、魔術師向けの本でも読んだことを思い出す。
この世界に存在するあらゆる知識を記録し続ける、神々の書庫だという話。
人間が辿り着くことはなく、実在するかどうかすら分からない。もはや御伽噺の類だ。
でも感覚的にわかった。
この非日常感にまるで天使を模した存在まで。
「ここ、《アカシックレコード》…か…?」
その名前を口にした瞬間、遠くにいた白い影が一斉にこちらを向いた。
「……」
嫌な予感しかしない。
「ていうか、本当に実在したんだな……」
少しだけ感動する。
そして、すぐに別の問題へ気付いた。
「あっ、これ、もしかしなくても俺、不法侵入?」
――カァン。
今度は一つではなかった。
図書館全体を揺らすように、無数の鐘の音が重なって鳴り響く。
白い翼が、俺へ向かって一斉に動いた。




