第九話 四十年前の目撃者
「アラムを二度殺した者は、まだ生きている」
謎の電話が告げた言葉。
四十年前の写真に写っていた葛原修二。
彼はなぜ、今になって死んだのか。
怜司たちは、葛原修二が残したものを探す。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
アラムを二度殺した者は、まだ生きている。
通話は切れた。
だが、その言葉だけが雪の森に残った。
三上怜司は、スマートフォンを握ったまま動けなかった。冷たい空気が肺に入り、吐く息が白く広がる。目の前には二本の十字架。片方は神にされた男の名を覆い、もう片方は罪人を身代わりとして覆っていた。
そして今、さらに別の罪が姿を見せようとしている。
一度目の死。
アラムという子どもの命が奪われたこと。
二度目の死。
その名が奪われ、物語に変えられたこと。
では、二度目にアラムを殺した者とは誰なのか。
「今の電話、誰からですか」
澪が震える声で尋ねた。
怜司は首を横に振った。
「分かりません。声は加工されていました」
「内容は?」
「昭和四十八年の写真を知っていました。葛原修二さんが写っていることも」
その名を聞いた瞬間、葛原重蔵の顔がさらに青ざめた。
「修二が……」
老人は杖を握りしめ、雪の上に視線を落とした。
「修二は、何を知っていたんですか」
怜司は尋ねた。
葛原はすぐには答えなかった。
また沈黙か。
怜司の中で怒りが湧きかけたが、今度は飲み込んだ。
葛原の沈黙は、これまでとは少し違っていた。隠すためというより、思い出すことを恐れている沈黙だった。
「重蔵」
十和田の祖母が静かに言った。
「ここまで来て、まだ守るものがあるのかい」
葛原の肩が小さく震えた。
「守っていたつもりだった」
「そうだね」
「だが、誰も守れなかった」
老人の声が雪に沈む。
「伊佐衛門も、アラムも、宗一郎も、修二も」
怜司は父の名に反応した。
「父も?」
葛原は顔を上げた。
「宗一郎もまた、守られなかった」
その言葉は、怜司の胸に鈍く刺さった。
父は守る側だった。
隠す側だった。
墓守だった。
だが同時に、誰かに守られるべき人間でもあったのかもしれない。
「修二は四十年前、何を見たんですか」
怜司はもう一度尋ねた。
葛原は、ゆっくりと写真に目を向けた。
昭和四十八年の雪景色。
二本の十字架。
傾いた影。
そして、カメラを見ている若い葛原修二。
「修二は、あの日、宗一郎の後をつけた」
葛原は言った。
「なぜです」
「わしが頼んだ」
「葛原さんが?」
「あの頃、久我玲一は村の記録に近づきすぎていた。宗一郎は久我を止めると言っていたが、わしは不安だった。宗一郎は優しすぎた。止めると言いながら、本当は久我の言葉に揺れていた」
透が険しい顔をした。
「父を止めるために、監視をつけたのか」
葛原は頷いた。
「修二はまだ若かった。二十歳そこそこだ。力もあり、口も堅いと思っていた」
「実際は?」
葛原は苦しげに目を閉じた。
「あいつは、見てしまった」
「何を」
「久我玲一が消えるところだ」
雪の森が、さらに静かになった。
久我透の呼吸が一瞬止まった。
「消えるところ?」
透の声は低かった。
「父は、どう消えた」
葛原は透を見た。
その目には、長年逃げてきた者の怯えがあった。
「海見の場で、久我は宗一郎と口論になった」
「父と三上宗一郎が?」
「そうだ。久我は、すべてを公表すると言った。アラムのこと、伊佐衛門のこと、清之進のこと、村の罪を全部世に出すと」
「当然だ」
透は怒りを抑えた声で言った。
「それをなぜ止めた」
「宗一郎は、出し方を間違えれば死者がまた利用されると言った」
怜司は父の手紙を思い出した。
真実を暴くな。
名を返せ。
村を裁くな。
父は四十年前から同じことを言っていたのだ。
葛原は続けた。
「久我は聞かなかった。いや、聞けなかったのだろうな。研究者として、真実を見つけた以上、止まれなかった」
透は唇を噛んだ。
「それで?」
「揉み合いになった」
怜司は息を呑んだ。
「まさか、父が久我玲一を?」
「違う」
葛原は即座に言った。
「宗一郎は殺していない」
「では、誰が」
葛原の視線が揺れた。
「修二だ」
透の顔が凍りついた。
澪も声を失った。
「修二さんが、久我玲一を殺した?」
怜司が確認する。
葛原は深く頭を垂れた。
「殺すつもりはなかった。修二は、久我を止めようとした。久我は手記と布の写しを持って、崖の方へ逃げた。修二が掴み、もみ合いになり……」
「落ちた」
透が掠れた声で言った。
葛原は頷いた。
「海見の場の崖下へ」
透は一歩後ずさった。
雪を踏む音が、妙に大きく響いた。
「父の遺体は」
「見つからなかった」
「探したのか」
「探した。だが、あの下は沢があり、雪解け水で流れが強かった。遺体は見つからなかった」
「警察には?」
葛原は答えなかった。
透が怒鳴った。
「答えろ!」
葛原は肩を震わせた。
「言えなかった」
透が葛原に詰め寄ろうとする。
怜司が間に入った。
「透さん」
「どけ」
「今ここで殴っても、戻りません」
「分かっている!」
透の声は悲鳴に近かった。
「分かっているから、余計に許せないんだ」
怜司は何も言えなかった。
もし、自分の父が四十年前に誰かに死なされ、その事実を村が隠していたと知ったなら。
冷静でいられるはずがない。
透は拳を握りしめ、葛原を睨んだ。
「修二は、なぜ今まで生きていた」
葛原は沈黙した。
「村が守ったのか」
「わしが守った」
葛原は言った。
「修二は甥だった。まだ若かった。殺意はなかった。久我の死を表に出せば、アラムのことも伊佐衛門のことも出る。宗一郎も巻き込まれる。十和田の死も掘り返される」
「だから父を消したのか」
「違う!」
葛原は叫んだ。
「消したのではない……隠したのだ」
「同じだ!」
透の声が森に響いた。
その通りだった。
死体が見つからなかったとしても、事故を隠した。行方不明として終わらせた。久我玲一という人間を、村の秘密の下へ埋めた。
それは、アラムに起きたことの繰り返しだった。
命を奪われた者。
名を奪われた者。
物語に変えられた者。
「アラムを二度殺した者」
澪が呟いた。
「それは、修二さんのことですか」
怜司は考えた。
葛原修二は久我玲一の死に関わった。
だが、電話の声はこう言った。
アラムを二度殺した者は、まだ生きている。
修二はもう死んでいる。
なら、修二ではない。
「違います」
怜司は言った。
全員が彼を見る。
「電話の相手は、修二さんではないと言いました。“修二は殺されたんじゃない。口を閉じた”と」
「口を閉じた?」
澪が聞き返す。
「つまり、修二さんは何かを話そうとしていたのかもしれない」
葛原の顔が変わった。
「まさか……」
「修二さんは、昨日まで資料館の倉庫を見張っていた。木箱の中身が盗まれた。そして彼は死んだ」
怜司は写真を見た。
「四十年前、彼は久我玲一の死を見た。もしかすると、アラムの真相だけでなく、久我玲一の死の真相も知っていた。そして今、それを誰かに話そうとした」
透が低く言った。
「それを止めた者がいる」
「はい」
怜司は頷いた。
「それが、アラムを二度殺した者」
澪が眉をひそめる。
「でも、アラムを二度殺すとは、名を奪った者という意味では?」
「そうです」
怜司はスマートフォンを握りしめた。
「アラムの真実を利用しようとしている者。あるいは、四十年前にも真実を利用し、今も利用しようとしている者」
「四十年前にも?」
透が聞く。
怜司は写真を見た。
「久我玲一は真実を公表しようとした。父は止めた。葛原さんは隠した。修二さんは事故を起こした。では、その情報を外へ流そうとした人間は本当に久我玲一だけだったのか」
澪の目が細くなる。
「他にもいた?」
「ええ」
怜司は、第一話からの出来事を思い返した。
木箱が出た。
倉庫が焼かれた。
木簡と布片が盗まれた。
追手の男たちは伝承を金にしようとしていた。
しかし、葛原修二の死は彼らの仕業ではない可能性が高い。
では、誰が資料館の保管場所を知り、修二の過去を知り、昭和四十八年の写真の存在まで知っていたのか。
村の内部を知り、外部の業者とも繋がる人物。
「資料館の管理記録は誰が持っていますか」
怜司は警官に尋ねた。
「今、確認中です」
「村の観光関係者は?」
「関係者には事情を聞くことになります」
怜司は葛原を見た。
「葛原さん。資料館や墓の観光管理に、昔から関わっている人はいますか」
葛原は考え込んだ。
「村役場の観光担当、保存会、地域の有志……」
「その中で、昭和四十八年のことを知っている年代の人は?」
「もう多くは死んだ」
老婆が静かに言った。
「だが、一人いる」
怜司は老婆を見た。
「誰ですか」
「榊原道隆」
葛原の顔が強張った。
「やめろ」
老婆は葛原を無視した。
「当時、村の寄合座の末席にいた男だ。今は、キリストの里保存会の顧問をしている」
「保存会の顧問……」
怜司はその肩書きを頭に刻んだ。
「その人は、アラムのことも、伊佐衛門のことも、久我玲一のことも知っている?」
老婆は頷いた。
「知っている」
「なぜ今まで名前が出なかったんですか」
葛原が苦しげに言った。
「榊原は、口がうまい。村の外との繋がりも強い。観光化を進めたのも、あの男だ」
怜司の中で線が繋がる。
伝承を金に変える者。
追手の男たちは外部の業者かもしれない。
だが、その背後に村の内部協力者がいるとすれば。
保存会の顧問。
古い秘密を知る老人。
観光資源として「キリストの墓」を利用してきた人物。
「アラムを二度殺した者」
澪が言った。
「アラムを殺した清之進ではなく、アラムの死を伝承として利用し続けた人……」
「可能性があります」
怜司は言った。
透が冷たい目をした。
「その男が、父の死にも関わっているのか」
葛原は首を振った。
「直接ではない。あの日、海見の場に榊原はいなかった」
「本当に?」
葛原は口を閉ざした。
また、言い切れない沈黙だった。
怜司は警官に向き直った。
「榊原道隆さんに連絡を取ってください」
警官は頷いた。
「確認します」
そのとき、澪のスマートフォンが鳴った。
画面を見た瞬間、彼女の表情が変わった。
「祖母の家からです」
「出てください」
澪が通話を押す。
「もしもし」
電話の向こうから、荒い息が聞こえた。
若い女性の声だった。おそらく近所の人か、警察関係者ではない。
「澪ちゃん? 大変、家が……」
澪の顔が青ざめる。
「家がどうしたんですか」
「蔵が開けられてる。おばあさんの古い歌帳がないの」
澪の手が震えた。
「歌帳……」
老婆の表情が変わった。
「まさか」
怜司は尋ねた。
「歌帳とは?」
澪が電話を切り、祖母を見た。
老婆は厳しい顔で答えた。
「十和田家に伝わる、ナニャドヤラの古い詞と道順を記した帳面だ」
「それが盗まれた?」
老婆は頷いた。
「榊原だ」
葛原が呻くように言った。
「やはり、あの男は最初から……」
「どこに向かうと思いますか」
怜司が聞いた。
老婆は即答した。
「アラムの墓だ」
「海見の場の先ですか」
「そうだ。あそこには、まだ本当の墓標がある。歌帳があれば、雪の下でも場所が分かる」
透が険しい顔で言った。
「奴はアラムの墓を掘る気か」
「掘るだけではない」
老婆の声は低かった。
「アラムの墓には、最後の布がある」
「最後の布?」
澪が聞く。
「アラムが海から来た時に持っていた、本当の布だ」
怜司は息を呑んだ。
これまで見つかっていた布片は、写しや一部だった可能性がある。
本物が、アラムの墓に眠っている。
それが外に出れば、追手たちが欲しがる理由にもなる。
伝承を金に変える者にとって、最高の“証拠”になる。
「急ぎましょう」
怜司は言った。
警官が無線で指示を出す。
だが、その時すでに、遠くからエンジン音が聞こえていた。
資料館側ではない。
森の裏手、海見の場へ続く古い道の方から。
老婆が耳を澄ませた。
「遅かったかもしれない」
怜司は父の写真と文箱をコートの内側へ入れた。
「まだです」
澪が祖母を見る。
「おばあちゃん、アラムの墓へ行く道を教えて」
老婆は首を横に振った。
「教えない」
「なぜ」
「道は教わるものではない」
老婆は澪を見つめた。
「歌いなさい」
澪の目が揺れた。
「今?」
「十和田の声で、アラムの墓を開く。今度は隠すためではない。守るためだ」
澪は唇を噛んだ。
祖母がゆっくりと歌い始めた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
だが、それに続く節は、これまでとは違っていた。
ウミミノサキニ。
ナナツノイシヲ。
ヒダリニミツ。
カエルナ、カエスナ。
澪が息を呑む。
「海見の先に、七つの石。左に三つ。帰るな、返すな……」
怜司は言った。
「アラムの墓への道ですね」
老婆は頷いた。
「アラムは、海へ返されなかった。だから歌は、帰るな、返すなと歪んだ。本当は違う」
「本当は?」
老婆は静かに訂正した。
「帰れ。返せ」
澪は目を閉じた。
そして、祖母の後を継ぐように歌い始めた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
ウミミノサキニ。
ナナツノイシヲ。
ヒダリニミツ。
カエレヨ、カエセヨ。
歌が変わった。
隠す歌から、返す歌へ。
怜司は、その瞬間を確かに感じた。
伝承が、初めて嘘をほどいている。
「行きましょう」
澪は涙を拭い、前を見た。
「アラムを、もう一度殺させないために」
一行は海見の場へ戻り始めた。
雪は再び強くなっていた。
しかし夜明けの光は消えていない。山の向こうから、薄い朝の色が雪の上へ広がっている。
怜司は歩きながら、編集デスクへ短い原稿を送った。
見出しはこうした。
――新郷村伝承地で未確認情報拡散 関係者「故人と地域への配慮を」
煽りではない。
断定でもない。
だが、線は引いた。
すべてを守るには足りないかもしれない。
それでも、今の怜司にできる最初の抵抗だった。
海見の場へ続く道に入ると、車の轍が残っていた。
新しい。
雪の上を深く抉り、山道の奥へ続いている。
透が拳を握った。
「榊原か」
「たぶん」
怜司は答えた。
警官が無線で応援を急がせる。
だが、山道は狭い。車両がすぐに入れる場所ではない。結局、先に進めるのは怜司たちだけだった。
海見の場に着くと、石碑の前に足跡があった。
複数。
その足跡は、さらに斜面の先へ続いている。
老婆が指さした。
「あちらだ」
「危険です」
警官が言う。
「崖があります」
「だから急ぐ」
透が先に進んだ。
怜司と澪が続く。
七つの石は、海見の場の先、雪に半分埋もれた斜面にあった。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
そこから左に三歩。
澪が歌を口ずさむ。
ヒダリニミツ。
カエレヨ、カエセヨ。
三歩進んだ場所で、雪が不自然に沈んでいた。
誰かがすでに掘っている。
怜司の心臓が強く鳴った。
その先、木々の間に人影が見えた。
白髪の老人。
高級そうな防寒着。
手には古い帳面。
足元には、掘り返された雪と土。
そして、彼のそばには、小さな木箱があった。
「榊原道隆」
老婆が低く呼んだ。
老人が振り返った。
その顔には、罪悪感はなかった。
むしろ、長い計画がようやく成就した者のような、満足げな笑みが浮かんでいた。
「遅かったな」
榊原は言った。
怜司は前へ出た。
「そこから離れてください」
榊原は笑った。
「三上宗一郎の息子か。よく似ている」
「父を知っているんですね」
「知っているとも。あの男は、最後まで臆病だった」
怜司の拳が固まる。
「アラムの墓を掘って、何をするつもりです」
「返すのだよ」
榊原は帳面を掲げた。
「世界へ」
澪が声を震わせた。
「返す? 違います。あなたは売るつもりです」
「売るのではない。価値を与えるのだ」
追手の男と同じ言葉だった。
怜司は吐き捨てるように言った。
「アラムは商品じゃない」
「商品ではない。象徴だ」
榊原の目が光った。
「この村は、長く嘘を抱えてきた。だが嘘も、磨けば文化になる。伝承になる。観光になる。人を呼び、金を生み、村を生かす」
「そのために、子どもの墓を掘るのか」
「アラムはもう死んでいる」
榊原は平然と言った。
「死者に必要なのは静けさではない。意味だ」
その言葉に、怜司は怒りを覚えた。
「あなたが意味を決めるんですか」
「誰かが決めなければ、死はただの死で終わる」
「ただの死でいい」
怜司は言った。
榊原の目が細くなる。
「何?」
「アラムは、ただの子どもだった。伊佐衛門も、ただの人間だった。久我玲一も、葛原修二も。あなたたちは、死者に意味を着せすぎた」
榊原の笑みが消えた。
「若いな」
「ええ」
怜司は一歩進んだ。
「でも、もう死者を物語に変えさせない」
榊原は木箱に手を伸ばした。
「なら、これはどうする」
箱の中には、布があった。
古びた、小さな布。
これまで見た布片よりも色が濃く、端には見慣れない文字が連なっている。だが、その中央には、幼い手で縫ったような不揃いな模様があった。
波。
三本の波線。
海の印。
澪が小さく泣いた。
「アラムの……」
榊原は布を持ち上げた。
「これがあれば、物語は完成する。海から来た子。異国の文字。村の罪。聖者伝承。これ以上の題材があるか?」
透が低く言った。
「お前が、父の手記を狙ったのか」
「久我玲一は惜しかった」
榊原は笑った。
「あの男は真実に近づいた。だが、使い方を知らなかった。学者はいつもそうだ。見つけるだけで、活かせない」
「父を殺したのは修二だ」
透が言った。
「だが、その後に隠したのは、お前たちだ」
榊原は肩をすくめた。
「村のためだ」
葛原と同じ言葉。
だが、その響きはまったく違った。
葛原の「村のため」は、罪悪感に押し潰されていた。
榊原の「村のため」は、利益と支配の言葉だった。
「修二さんを殺したのは、あなたですか」
怜司が尋ねた。
榊原は笑った。
「修二は弱くなった。年を取ると、人は懺悔したがる。あいつは宗一郎が死んだと聞いて、急にすべてを話すと言い出した」
「だから殺した?」
「殺してはいない」
榊原は静かに言った。
「少し背中を押しただけだ」
澪が息を呑んだ。
葛原老人が叫んだ。
「榊原!」
榊原は眉一つ動かさない。
「修二は四十年前にも崖で人を落とした。なら、自分も沢へ落ちるのが似合いだろう」
透が飛び出そうとした。
警官が止める。
「落ち着いて!」
怜司は榊原を睨んだ。
「あなたが、アラムを二度殺した者ですね」
榊原は布を見下ろした。
「違うな」
「何が違う」
「アラムは、私がいなければ忘れられていた」
「忘れられることと、利用されることは違う」
「綺麗事だ」
「そうかもしれない」
怜司は認めた。
「でも、綺麗事すら残らない場所に、人は住めない」
榊原の顔が歪んだ。
その時、澪が一歩前に出た。
「その布を返してください」
「十和田の娘か」
榊原は彼女を見た。
「お前の先祖が殺した子だぞ。偉そうに言える立場か」
澪の顔が白くなる。
だが、彼女は退かなかった。
「だから返してください」
「罪滅ぼしか」
「いいえ」
澪ははっきり言った。
「罪を、これ以上あなたに使わせないためです」
榊原は鼻で笑った。
「歌守の家がよく言う」
澪は目を閉じた。
そして、歌い始めた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
榊原の顔色が変わった。
「やめろ」
澪は止めない。
ウミミノサキニ。
ナナツノイシヲ。
ヒダリニミツ。
カエレヨ、カエセヨ。
歌が雪の斜面に広がる。
老婆も重ねた。
二つの十和田の声。
怜司には分かった。
これは墓を開く歌ではない。
閉じる歌だ。
アラムを、誰の物語にもさせないための歌。
榊原が布を握りしめた。
「やめろ!」
その瞬間、足元の雪が崩れた。
榊原が立っていた場所は、掘り返されたせいで脆くなっていた。雪と土が一気に崩れ、彼の体が斜面へ傾く。
警官が叫んだ。
「危ない!」
榊原の手から布が離れた。
風に舞う。
怜司は反射的に飛び出した。
布を掴む。
同時に、足元が滑った。
視界が傾く。
澪の叫び声。
透の手が伸びる。
怜司は片手で布を握り、もう片方の手で雪の下の根を掴んだ。
体が斜面に引きずられる。
下は崖だった。
「三上さん!」
澪が手を伸ばす。
透が怜司の腕を掴んだ。
「離すな!」
「布を!」
「お前が先だ!」
怜司は布を胸に押し当てた。
崖下から、冷たい風が吹き上げる。
遠くに、海が見えた気がした。
本当に海だったのか。
雪雲の切れ間だったのか。
分からない。
ただ、怜司はその時、小さな子どもが海の方へ手を伸ばす姿を想像した。
アラム。
帰りたかった子。
「返すから」
怜司は歯を食いしばって呟いた。
「今度こそ、名前を返すから」
透と警官の力で、怜司は斜面の上へ引き上げられた。
雪の上に倒れ込む。
布は胸の中にあった。
榊原は数メートル下の斜面で木に引っかかり、警官たちに確保された。命に別状はなさそうだったが、顔からは余裕が消えていた。
澪が怜司のそばに膝をつく。
「大丈夫ですか」
「たぶん」
「無茶しすぎです」
「記者なので」
「それ、理由になっていません」
怜司は少しだけ笑った。
だが、すぐに布を澪へ渡した。
「お願いします」
澪は両手で受け取った。
老婆が近づき、布を見た。
そして、深く頭を下げた。
「おかえり、アラム」
雪が静かに降り始めた。
今度の雪は、何かを隠すためではなく、荒れた土を休ませるために降っているように見えた。
怜司は空を見上げた。
アラムを二度殺した者は、まだ生きている。
その言葉の答えは、榊原だった。
だが同時に、それは榊原一人のことではなかった。
死者を利用しようとする心。
美しい物語で罪を覆おうとする村。
刺激的な見出しを求める世間。
そして、真実を扱う自分自身。
アラムを二度殺す危険は、誰の中にもある。
怜司はそう思った。
だからこそ、書かなければならない。
慎重に。
正確に。
名を奪わない形で。
澪が歌を終えた。
海見の場に、静けさが戻る。
その時、怜司のスマートフォンが震えた。
編集デスクからだった。
画面には短いメッセージが表示されていた。
――原稿、出した。反響が来ている。次を頼む。
怜司は目を閉じた。
次。
次に書くものが、この物語の形を決める。
父の手紙が胸の内で蘇る。
真実を暴くな。
名を返せ。
村を裁くな。
怜司は、初めてその言葉に頷けた気がした。
そして、もう一つだけ心の中で付け加えた。
それでも、罪は曖昧にしない。
雪の向こうで、警察車両のサイレンが近づいていた。
長い夜は終わりに近づいている。
だが、三上怜司が書くべき物語は、ここから始まるのだった。
お読みいただきありがとうございます。
第9話では、葛原修二が四十年前に久我玲一の死に関わっていたこと、そして「アラムを二度殺した者」が保存会顧問・榊原道隆であることが明らかになりました。
アラムの本当の布は守られましたが、情報はすでに外へ流れ始めています。
次回、怜司は記者として、この真実をどう世に出すのかという選択に向き合います。




