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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第八話 二本目の十字架

アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる。


久我玲一の手記に残された最後の言葉。

夜明けの雪の中、怜司たちは再び二本の十字架へ戻る。


そこに眠っているのは、聖者か。

身代わりか。

それとも、罪を隠した者なのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

夜明けの新郷村は、白く沈んでいた。


空は薄い灰色に変わり、山の稜線だけが青く浮かび上がっている。雪は弱まっていたが、風はまだ冷たい。吐く息は白く、頬に触れる空気は刃のようだった。


三上怜司は、海見の場から戻る道を歩きながら、久我透の言葉を何度も思い返していた。


――アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる。


その意味を考えようとすると、思考が二つに割れた。


一つは、現実的な解釈。


墓の中に、犯人の遺骨や証拠がある。

アラムを殺した人物が、どこかの墓に葬られている。

二本の十字架のどちらかが、その墓なのかもしれない。


もう一つは、もっと嫌な解釈だった。


犯人は人ではなく、墓そのもの。

つまり、伝承。

名を奪い、罪を隠し、美しい物語に塗り替えた仕組みそのもの。


だが、久我玲一は民俗学者だった。


彼が最後にそんな詩のような言葉だけを残すだろうか。

何か具体的なものを見たのではないか。


「三上さん」


隣を歩いていた十和田澪が声をかけた。


「顔色が悪いです」


「寝ていないので」


「それだけじゃありません」


澪は雪を踏みしめながら言った。


「お父さんのことを考えていますね」


怜司は答えなかった。


否定できなかった。


父・宗一郎は、三上伊佐衛門の名を知っていた。

アラムの存在も知っていた。

海見の場の石碑も、地下の道も、十和田の歌も知っていた。


そして、すべてを隠した。


いや、隠しただけではない。


死後に怜司をここへ導いた。


止めたかったのか。

託したかったのか。

それとも、自分では背負いきれなくなったものを、息子に渡しただけなのか。


「父を許せるか分かりません」


怜司は呟いた。


澪は少しだけ目を伏せた。


「許さなくてもいいと思います」


「え?」


「許すことと、理解することは別です」


澪の声は静かだった。


「私も祖母を許せるか分かりません。叔父のことを隠していた。歌の意味も、地下道のことも、何も言わなかった。でも、なぜ隠したのかは少し分かってしまった」


怜司は澪を見た。


彼女の目は赤くなっていた。

泣いた跡がある。


「分かってしまうと、怒りが消えるわけではありません。ただ、怒りだけでは進めなくなる」


「厄介ですね」


「はい」


澪は小さく笑った。


「厄介です」


前方では、警察官たちが慎重に道を確認していた。


追手の男たちはすでに確保され、村の入口へ移送されることになった。だが、彼らが外部へ情報の一部を送った可能性は残っている。警察も、村の関係者も、誰もが落ち着かない表情をしていた。


葛原老人は、海見の場から戻る途中で一度座り込み、今は警官に付き添われてゆっくり歩いている。甥の死、伊佐衛門への謝罪、アラムの名。いくつもの重みが、老いた体に一気にのしかかっていた。


十和田の祖母は、何事もなかったように前を歩いていた。


小柄な背中。

雪を踏む音。

時折、かすかに漏れる歌の節。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


もう怜司には、その歌が不気味には聞こえなかった。


悲しい歌だった。


名前をなくした者のための歌。

帰れなかった者のための歌。

そして、隠した者たちが、自分たちの罪を忘れないための歌。


透は一番後ろを歩いていた。


額の傷には澪が応急処置をしたが、血はまだ少し滲んでいる。それでも彼は痛みを訴えなかった。むしろ、父・久我玲一の最後の足跡を辿ったことで、今までよりも表情が硬くなっていた。


彼にとっても、これは父の物語だった。


父を探すために来た男が、父の残した言葉によって、さらに深い闇へ連れて行かれている。


怜司と似ている。


そのことが、少しだけ苦しかった。


やがて、一行は墓のある森へ戻った。


二本の十字架は、朝の雪の中に立っていた。


観光地として整えられた場所。

だが今の怜司には、そこがまったく別の場所に見えた。


地上の墓。

地下の石棺。

木棺の中の三上伊佐衛門。

海見の場の石碑。

アラムという名。


すべてがこの二本の十字架を中心に繋がっている。


「ここに戻ってくるとはな」


久我透が言った。


「父も同じことをしたのでしょうか」


怜司が尋ねると、透は墓を見たまま頷いた。


「手記では、海見の場を見たあと、父はもう一度ここへ戻っている」


「なぜ?」


「二本目の墓を調べるためだ」


澪が十字架を見比べた。


「伝承では、片方がキリストの墓、もう片方がイスキリの墓とされています」


「でも、地下の木棺には三上伊佐衛門がいた」


怜司は言った。


「では地上の二本は何を表しているのか」


葛原老人が杖をつきながら近づいてきた。


「片方は、名の墓だ」


「伊佐衛門をキリストと呼ぶための?」


老人は頷いた。


「もう片方は?」


怜司が聞く。


葛原は口を閉ざした。


十和田の祖母が代わりに答えた。


「罪の墓だ」


その言葉に、全員が黙った。


「罪の墓……」


怜司は父の手紙を思い出した。


あれは神の墓ではない。罪の墓だ。


父は最初から言っていた。


この墓は、神の墓ではない。

罪の墓だと。


「どちらですか」


怜司は祖母に尋ねた。


老婆は二本の十字架のうち、向かって右側を指さした。


「世間がイスキリの墓と呼ぶ方」


澪が小さく息を呑んだ。


「身代わりの墓……」


「そうだ」


老婆は静かに言った。


「身代わりの墓とは、都合がよかった。誰かが誰かの代わりに死ぬ。罪をかぶる。そういう話を隠すのに、これほど都合のいい名はない」


怜司は右側の墓を見た。


雪が積もった小さな盛り土。

その上に立つ十字架。


観光客が見れば、珍しい伝承の一部にしか見えない。


だが、その下にあるのが罪だとしたら。


「ここに、アラムを殺した犯人が眠っている?」


怜司が言うと、葛原老人の顔が強張った。


老婆は答えなかった。


それが、答えに近かった。


警官が厳しい顔で言った。


「ここから先は、正式な手続きが必要です。勝手に掘ることはできません」


「もちろんです」


怜司は頷いた。


「ただ、調べる前に確認したいことがあります」


「何ですか」


怜司は透を見た。


「久我玲一さんの手記には、二本目の墓について何か書かれていましたか」


透は内ポケットから防水袋に入れた古い手帳のコピーを取り出した。


何度も読み返したのだろう。紙の端は擦り切れている。


「原本は安全な場所に置いてある。これは写しだ」


透はページをめくった。


「父は、こう書いている」


彼は読み上げた。


「一つ目の墓は、名を偽るための墓。二つ目の墓は、罪を埋めるための墓。だが罪は、死者の下にはない。十字架の影にある」


「十字架の影?」


怜司は墓を見た。


朝日は低く、森の向こうから差し込んでいる。二本の十字架の影は、雪の上に長く伸びていた。


一本は、まっすぐ森の方へ。

もう一本は、わずかに資料館側へ斜めに伸びている。


「影にあるとは、時間を指しているのかもしれません」


澪が言った。


「どういうことですか」


「影は、太陽の位置で変わります。特定の日、特定の時刻にだけ、何かを示す可能性があります」


「昭和四十八年、一月十七日」


怜司は呟いた。


父の写真の日付。

久我玲一が海見の場に至った日。

村で青年が死に、研究者が消えた日。


「今日とは日付が違う」


透が言う。


「でも、時刻は?」


澪がスマートフォンを確認した。


「今は夜明け直後です。影が一番長く出る時間帯」


怜司は父の写真を取り出した。


古い写真。

雪の中の二本の十字架。


今まで、墓そのものばかり見ていた。

だが、怜司は初めて写真の下部に注目した。


雪の上に、影が写っている。


十字架の影。


一本は長く伸び、もう一本は少し折れるように曲がって見える。


「この影……」


怜司は写真と目の前の風景を見比べた。


写真の影は、現在の影とほとんど同じ方向へ伸びている。だが、一本だけずれている。


「十字架の位置が変わっている?」


澪が写真を覗き込んだ。


「いえ、位置ではなく、角度かもしれません。今の十字架はまっすぐ立っています。でも写真の右側の十字架は、少し傾いている」


透も写真を見た。


「傾きが影の先を変えていた」


怜司は右側の十字架へ近づいた。


今は整備され、まっすぐ立っている。観光地として見栄えよく直されたのだろう。


だが、四十年前は違った。


傾いた十字架が、特定の場所を指していた。


「写真の影の先は、どこですか」


怜司は澪に聞いた。


澪は写真を見ながら、雪の上を慎重に歩いた。


「角度からすると……おそらく、こちらです」


彼女が指したのは、右側の墓そのものではなかった。


墓の少し外側。

杉の根元。


今は雪で覆われている。


「そこに何かあるのか」


警官がライトを向けた。


雪を掘ることはできない。だが、表面を払う程度なら問題ないと判断された。


警官が慎重に雪を払った。


杉の根元に、平たい石があった。


ただの自然石に見える。

しかし、表面に何か刻まれていた。


澪が膝をつき、雪を払う。


文字が現れた。


――伊佐衛門、ここに誓う。

――アラムを殺した者を、神の名で隠さぬ。


怜司は息を呑んだ。


伊佐衛門自身の誓い。


つまり、伊佐衛門はただ罪を着せられたのではない。

犯人を知っていた。

そして、それを隠さないと誓った。


だが、その誓いは破られた。


村は犯人を隠し、伊佐衛門を神にした。


「続きがあります」


澪が言った。


石の下部に、小さな文字がある。


だが、雪と苔で見えにくい。


警官が写真を撮る。澪がライトの角度を変える。


透が低く読み上げた。


「罪は……血にあらず……座にあり」


「座?」


怜司が聞き返す。


葛原老人が呻いた。


「やはり……」


「知っているんですか」


怜司が振り向く。


老人は青ざめた顔で、右側の十字架を見ていた。


「座とは、村の寄合座だ」


「寄合座?」


澪が説明するように言った。


「昔の村の有力者たちが集まって物事を決める場です。正式な行政機構というより、村内の権力構造に近いものです」


「つまり、アラムを殺したのは個人ではなく、村の上層部?」


怜司が言うと、葛原は首を横に振った。


「殺したのは一人だ」


「では、座とは?」


「その一人を守った」


老婆が静かに言った。


「アラムを直接殺した者はいた。だが、その者を罰すれば村が割れる。だから座は、罪を伊佐衛門に着せた」


怜司は拳を握った。


「誰ですか」


誰も答えなかった。


だが、葛原老人の目が、ある場所へ向いた。


右側の墓。


罪の墓。


「そこに眠っているんですね」


怜司が言う。


老人は答えなかった。


警官が険しい表情で言った。


「正式な発掘が必要です。今すぐ掘ることはできません」


「分かっています」


怜司は言った。


「でも、名前だけでも教えてください」


葛原老人は苦しそうに口を閉ざした。


十和田の祖母も、何も言わない。


沈黙。


また沈黙だ。


怜司の中で怒りが湧いた。


「まだ隠すんですか」


雪の森に、怜司の声が響いた。


「伊佐衛門の名は返しました。アラムの名も戻した。でも、殺した者の名だけはまだ隠すんですか」


葛原が震えた。


「それは……」


「それも守るためですか。村を守るため? 子孫を守るため? それとも、もう死んだ人間の名誉を守るためですか」


「違う」


「では何です」


葛原は何度も口を開き、閉じた。


その姿は、怜司の父を思い出させた。


語れない男。


語らずに守ろうとする男。


そして、語らないせいで次の世代を傷つける男。


「葛原さん」


澪が静かに言った。


「もう、私たちに隠さないでください」


葛原は澪を見た。


「お前は、その名を聞けば傷つく」


「それでも聞きます」


「後悔するぞ」


「隠され続ける方が、もっと後悔します」


澪の声は震えていた。


だが、逃げていなかった。


十和田の祖母が、ゆっくりと目を閉じた。


「重蔵」


老婆が葛原の名を呼んだ。


「もうよい」


葛原老人は、杖を雪に突き立てた。


長い沈黙のあと、彼は震える声で言った。


「アラムを殺した者の名は、十和田清之進」


澪の顔から血の気が消えた。


「十和田……」


怜司は澪を見た。


十和田家。


歌を守る家。


澪の家。


「私の……先祖?」


老婆は静かに頷いた。


「そうだ」


澪は一歩後ずさった。


「嘘……」


葛原は続けた。


「清之進は当時、歌を預かる家の当主だった。アラムを匿っていたのは十和田家だ。だが、外からの詮索が強まり、村が危ういと恐れた清之進は、子を逃がすふりをして……」


老人の声が詰まる。


老婆が代わりに言った。


「殺した」


澪は口元を押さえた。


怜司は言葉を失った。


歌を守る家。

道を守る家。

アラムを海へ返すはずだった家。


その家の者が、アラムを殺した。


「伊佐衛門は止めようとした」


老婆は続けた。


「だが間に合わなかった。清之進は村の寄合座に泣きついた。異国の子を匿っていたことが露見すれば、村に災いが来る。自分を裁けば、十和田家が守ってきた歌も道も失われる、と」


「それで、伊佐衛門に罪を着せた」


怜司が言った。


「伊佐衛門は、なぜ受け入れたんですか」


老婆は悲しげに目を伏せた。


「アラムの墓を守るためだ」


「え?」


「清之進を裁けば、アラムの存在も表に出る。アラムは死んでもなお、外の者に晒される。伊佐衛門は、それを恐れた」


怜司は胸が締め付けられた。


伊佐衛門は、罪を着せられてもなお、アラムを守ろうとした。


その結果、村は彼を利用した。


罪人として葬るのではなく、後に聖者の名を着せた。


名誉を与えたように見せて、真実を奪った。


澪は膝をついた。


雪の上に手をつき、震えていた。


「私たちは……歌で守っていたんじゃない」


彼女は呟いた。


「歌で、隠していた」


老婆は澪のそばに立った。


「そうだ」


「おばあちゃんも知っていたの?」


「知っていた」


「なぜ言わなかったの」


「お前が背負うには重すぎた」


「それでも、私は十和田です」


澪の声が崩れた。


「知らないまま、民俗学だなんて言って、歌を研究して、伝承を守りたいなんて……」


「だからこそ、お前が必要だった」


老婆は静かに言った。


「十和田の罪は、十和田の声で終わらせなければならない」


その言葉に、澪は顔を上げた。


「終わらせる?」


老婆は右側の墓を見た。


「清之進の名も、隠されている」


「この墓に?」


「そうだ。だが、罪人としてではない」


怜司は嫌な予感がした。


「どういう意味ですか」


老婆は十字架を見つめた。


「イスキリの墓。身代わりの墓。そこに眠る者は、清之進だ」


葛原が低く続けた。


「だが村は、清之進を犯人として葬らなかった。身代わりになった者として葬った」


「待ってください」


怜司は混乱した。


「アラムを殺した清之進が、身代わりとして祀られた?」


「そうだ」


葛原の声には、深い恥が滲んでいた。


「罪人すら、物語の中で役割を与えられた。犯人ではなく、身代わり。悪人ではなく、村のために罪を背負った者。そうすれば、子孫も傷つかず、村も割れずに済む」


怜司は吐き気に似た感覚を覚えた。


伊佐衛門は神にされ、清之進は身代わりにされた。


どちらも、本当の名と罪を奪われた。


この村は、死者を二度殺している。


「だから、久我玲一は“犯人は墓の中にいる”と書いた」


透が言った。


「清之進の墓が、イスキリの墓として残っているから」


怜司は右側の十字架を見た。


観光地の一部として並ぶ二本の墓。


片方は、神にされた男。

もう片方は、身代わりにされた犯人。


二つの嘘が、雪の上に立っていた。


その時、警官の無線が鳴った。


応援部隊が資料館付近に到着したという連絡だった。


だが同時に、別の報告も入った。


警官の表情が変わる。


「何ですか」


怜司が聞く。


警官は無線を聞き返し、顔を強張らせた。


「ネット上に、地下の棺の画像が出ています」


澪が息を呑んだ。


「もう?」


「拡散が始まっているそうです」


追手の男が送った情報。

それが動き出した。


警官は続けた。


「見出しは……」


彼は言葉を詰まらせた。


怜司は先を聞く前から分かった。


どうせ、こういう類の言葉だ。


キリストの墓の地下に謎の人骨。

青森の聖地に隠された真実。

村が隠した衝撃の歴史。


死者の名など、そこにはない。


三上伊佐衛門も、アラムも、清之進も。

すべてが刺激的な物語に飲み込まれていく。


父が恐れた通りだった。


「止められますか」


澪が聞いた。


警官は苦い顔をした。


「すぐには難しいです。発信元の特定と削除要請はできますが、拡散したものを完全に消すのは……」


怜司はスマートフォンを取り出した。


新聞社の編集デスクから、着信が入っていた。


一件ではない。


何度も。


続けてメッセージが表示される。


――三上、今どこにいる。

――新郷村の件、本当か。

――お前が現場にいるなら至急連絡。

――これは大きい。第一報を取れ。


大きい。


その言葉が、追手の男の「使える」と重なった。


怜司は画面を見つめた。


記者としては、今すぐ連絡すべきだ。


誰よりも早く、正確な情報を出す。

それが仕事だ。


だが、何をどう出すか。


ここで間違えれば、伊佐衛門はまたキリストにされる。

アラムは異国の謎にされる。

清之進の罪は、子孫への好奇の目に変わる。


真実は、扱い方を間違えると暴力になる。


怜司はスマートフォンを握りしめた。


「記事を書きます」


澪が顔を上げた。


「今?」


「はい」


「でも、まだ整理できていないことが多すぎます」


「だからです」


怜司は画面を見たまま言った。


「誰かが勝手に物語にする前に、こちらが最低限の線を引く必要があります」


「どんな記事にするんですか」


怜司は少し考えた。


そして答えた。


「速報ではなく、声明に近い記事です」


「声明?」


「新郷村の伝承地で未確認情報が拡散している。現場では警察と関係者が確認を進めている。人骨や資料に関する断定は避けるべき。実在地域、信仰、故人、関係者への配慮が必要。刺激的な見出しによる拡散は控えてほしい」


透が怜司を見た。


「それでは真相は出ない」


「今は出しません」


「隠すのか」


「違います」


怜司は透を見返した。


「守るために、順番を決めるんです」


透は黙った。


怜司は父の手紙を思い出した。


真実を暴くな。

名を返せ。

村を裁くな。


今なら、少しだけ分かる。


暴かないとは、隠すことではない。

乱暴に剥がさないことだ。


名を返すとは、事実を人間の形に戻すことだ。

村を裁かないとは、罪を曖昧にすることではない。

単純な悪者探しにしないことだ。


怜司は編集デスクへ電話をかけた。


すぐに繋がった。


「三上! お前、現場にいるのか!」


電話の向こうで、上司の声が響いた。


「います」


「何が起きてる。ネットに画像が出てるぞ。キリストの墓の地下から――」


「その言い方はやめてください」


怜司は遮った。


電話の向こうが一瞬黙る。


「何?」


「その見出しで出したら、うちは終わります」


「お前、何を言ってるんだ。これは大きな――」


「大きいからです」


怜司は二本の十字架を見た。


「未確認情報です。人骨がある可能性はありますが、宗教伝承との直接関係は確認されていません。現場は警察対応中。刺激的な見出しは、地域と関係者を傷つけます」


「でも、他社が出すぞ」


「出せばいい」


「三上」


「うちは正確に出すべきです」


怜司の声は震えなかった。


「第一報は、拡散注意の記事にしてください。僕が本文を書きます」


「お前、現場の当事者じゃないのか」


「当事者です」


「なら客観性が――」


「だから、事実確認と配慮に絞ります。僕の名前は出さなくていい。社として出してください」


電話の向こうで、上司が沈黙した。


長い数秒。


やがて、低い声が返ってきた。


「三十分で書け」


「十分で送ります」


怜司は電話を切った。


澪が静かに言った。


「記者なんですね」


「今さらですか」


「少しだけ、そう見えました」


「普段は見えませんか」


澪は泣きそうな顔で、小さく笑った。


「すみません」


怜司も少しだけ笑った。


だが、すぐに表情を戻した。


まだ終わっていない。


右側の墓には清之進が眠っている。

だが、それを証明するには正式な調査が必要だ。

そして、調査が始まれば、十和田家は傷つく。澪も、祖母も。


それでも隠すことはできない。


澪は右側の十字架の前に立った。


「清之進」


彼女はその名を呼んだ。


声は震えていた。


「あなたが何をしたのか、私はまだ全部を知りません。でも、もう身代わりの名には隠しません」


老婆が目を閉じた。


澪は続けた。


「十和田の声で、あなたの罪を終わらせます」


そう言って、彼女は歌い始めた。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


だが、今度の歌は送り歌ではなかった。


断ち切る歌だった。


長い間、罪を包んでいた布を、一枚ずつほどくような声。


雪の上に、二本の十字架の影が伸びている。


左の影。

右の影。


怜司は、父の写真をもう一度見た。


写真の端に、今まで気づかなかったものがあった。


影の先。

杉の根元の石。

そのさらに奥。


小さな人影が写っている。


写真が古く、ぼやけていたため見落としていた。だが、確かに誰かが立っている。


怜司は目を凝らした。


それは若い男だった。


昭和四十八年の写真に写る、若い男。


父ではない。

久我玲一でもない。

十和田の叔父でもない。


だが、葛原老人はその写真を見た瞬間、顔色を変えた。


「なぜ……」


「知っているんですか」


怜司が聞く。


葛原は震える指で写真を指した。


「修二だ」


「葛原修二さん?」


「若い頃の修二だ」


怜司は息を呑んだ。


葛原修二。


昨日、資料館裏の沢で遺体となって見つかった男。


彼は四十年前の写真に写っていた。


つまり、四十年前の事件にも関わっていた。


怜司は写真を見つめた。


葛原修二は、ただの倉庫番ではなかった。


彼は、四十年前にここで何かを見ている。


そして今、殺された。


「修二さんは、何を知っていたんですか」


怜司が尋ねる。


葛原老人は震えながら首を振った。


「分からん……あいつは当時、まだ若かった。ただの手伝いで……」


「本当に?」


葛原は答えられなかった。


その時、透が写真を覗き込み、低く言った。


「違う」


「何がです」


「この男が見ている方向だ」


透は写真の中の修二を指した。


「墓ではなく、撮影者を見ている」


怜司は写真を見直した。


確かにそうだった。


修二は十字架を見ていない。

父のカメラを見ている。


いや、父を見ている。


まるで、撮られることを分かっていたように。


あるいは、撮らせたように。


怜司のスマートフォンが震えた。


知らない番号。


嫌な予感がした。


怜司は通話を押した。


「三上怜司さんですね」


声は加工されていた。


低く、機械的だった。


周囲にいた全員が怜司を見る。


「誰ですか」


「写真を見ましたか」


怜司の血が冷えた。


「何の話です」


「昭和四十八年の写真です。そこに葛原修二が写っている」


怜司は写真を握りしめた。


「あなたは誰ですか」


相手は笑った。


「修二は殺されたんじゃない」


「何?」


「口を閉じたんです。四十年遅れで」


「どういう意味です」


「清之進の墓を掘れば分かる」


「あなたが修二さんを殺したんですか」


相手は答えなかった。


代わりに、こう言った。


「アラムを殺した者は墓の中にいる。だが、アラムを二度殺した者は、まだ生きている」


通話は切れた。


雪の森に、静寂が落ちた。


怜司はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。


アラムを二度殺した者。


一度目は、命を奪った者。

二度目は、名を奪い、物語に変えた者。


それは誰だ。


村か。

三上家か。

葛原家か。

十和田家か。


それとも、四十年前に真実を知りながら、別の目的で利用した者か。


怜司は二本の十字架を見た。


雪の中で、影が少しずつ短くなっていた。


夜明けは終わりつつある。


だが、罪の朝はまだ始まったばかりだった。

お読みいただきありがとうございます。

第8話では、二本目の十字架が「罪の墓」であり、アラムを殺した者が十和田清之進であることが明かされました。


しかし、昭和四十八年の写真に葛原修二が写っていたこと、そして謎の電話により、四十年前の事件にもまだ隠された真相があることが示されます。


次回、「アラムを二度殺した者」の正体へ迫ります。

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