第八話 二本目の十字架
アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる。
久我玲一の手記に残された最後の言葉。
夜明けの雪の中、怜司たちは再び二本の十字架へ戻る。
そこに眠っているのは、聖者か。
身代わりか。
それとも、罪を隠した者なのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
夜明けの新郷村は、白く沈んでいた。
空は薄い灰色に変わり、山の稜線だけが青く浮かび上がっている。雪は弱まっていたが、風はまだ冷たい。吐く息は白く、頬に触れる空気は刃のようだった。
三上怜司は、海見の場から戻る道を歩きながら、久我透の言葉を何度も思い返していた。
――アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる。
その意味を考えようとすると、思考が二つに割れた。
一つは、現実的な解釈。
墓の中に、犯人の遺骨や証拠がある。
アラムを殺した人物が、どこかの墓に葬られている。
二本の十字架のどちらかが、その墓なのかもしれない。
もう一つは、もっと嫌な解釈だった。
犯人は人ではなく、墓そのもの。
つまり、伝承。
名を奪い、罪を隠し、美しい物語に塗り替えた仕組みそのもの。
だが、久我玲一は民俗学者だった。
彼が最後にそんな詩のような言葉だけを残すだろうか。
何か具体的なものを見たのではないか。
「三上さん」
隣を歩いていた十和田澪が声をかけた。
「顔色が悪いです」
「寝ていないので」
「それだけじゃありません」
澪は雪を踏みしめながら言った。
「お父さんのことを考えていますね」
怜司は答えなかった。
否定できなかった。
父・宗一郎は、三上伊佐衛門の名を知っていた。
アラムの存在も知っていた。
海見の場の石碑も、地下の道も、十和田の歌も知っていた。
そして、すべてを隠した。
いや、隠しただけではない。
死後に怜司をここへ導いた。
止めたかったのか。
託したかったのか。
それとも、自分では背負いきれなくなったものを、息子に渡しただけなのか。
「父を許せるか分かりません」
怜司は呟いた。
澪は少しだけ目を伏せた。
「許さなくてもいいと思います」
「え?」
「許すことと、理解することは別です」
澪の声は静かだった。
「私も祖母を許せるか分かりません。叔父のことを隠していた。歌の意味も、地下道のことも、何も言わなかった。でも、なぜ隠したのかは少し分かってしまった」
怜司は澪を見た。
彼女の目は赤くなっていた。
泣いた跡がある。
「分かってしまうと、怒りが消えるわけではありません。ただ、怒りだけでは進めなくなる」
「厄介ですね」
「はい」
澪は小さく笑った。
「厄介です」
前方では、警察官たちが慎重に道を確認していた。
追手の男たちはすでに確保され、村の入口へ移送されることになった。だが、彼らが外部へ情報の一部を送った可能性は残っている。警察も、村の関係者も、誰もが落ち着かない表情をしていた。
葛原老人は、海見の場から戻る途中で一度座り込み、今は警官に付き添われてゆっくり歩いている。甥の死、伊佐衛門への謝罪、アラムの名。いくつもの重みが、老いた体に一気にのしかかっていた。
十和田の祖母は、何事もなかったように前を歩いていた。
小柄な背中。
雪を踏む音。
時折、かすかに漏れる歌の節。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
もう怜司には、その歌が不気味には聞こえなかった。
悲しい歌だった。
名前をなくした者のための歌。
帰れなかった者のための歌。
そして、隠した者たちが、自分たちの罪を忘れないための歌。
透は一番後ろを歩いていた。
額の傷には澪が応急処置をしたが、血はまだ少し滲んでいる。それでも彼は痛みを訴えなかった。むしろ、父・久我玲一の最後の足跡を辿ったことで、今までよりも表情が硬くなっていた。
彼にとっても、これは父の物語だった。
父を探すために来た男が、父の残した言葉によって、さらに深い闇へ連れて行かれている。
怜司と似ている。
そのことが、少しだけ苦しかった。
やがて、一行は墓のある森へ戻った。
二本の十字架は、朝の雪の中に立っていた。
観光地として整えられた場所。
だが今の怜司には、そこがまったく別の場所に見えた。
地上の墓。
地下の石棺。
木棺の中の三上伊佐衛門。
海見の場の石碑。
アラムという名。
すべてがこの二本の十字架を中心に繋がっている。
「ここに戻ってくるとはな」
久我透が言った。
「父も同じことをしたのでしょうか」
怜司が尋ねると、透は墓を見たまま頷いた。
「手記では、海見の場を見たあと、父はもう一度ここへ戻っている」
「なぜ?」
「二本目の墓を調べるためだ」
澪が十字架を見比べた。
「伝承では、片方がキリストの墓、もう片方がイスキリの墓とされています」
「でも、地下の木棺には三上伊佐衛門がいた」
怜司は言った。
「では地上の二本は何を表しているのか」
葛原老人が杖をつきながら近づいてきた。
「片方は、名の墓だ」
「伊佐衛門をキリストと呼ぶための?」
老人は頷いた。
「もう片方は?」
怜司が聞く。
葛原は口を閉ざした。
十和田の祖母が代わりに答えた。
「罪の墓だ」
その言葉に、全員が黙った。
「罪の墓……」
怜司は父の手紙を思い出した。
あれは神の墓ではない。罪の墓だ。
父は最初から言っていた。
この墓は、神の墓ではない。
罪の墓だと。
「どちらですか」
怜司は祖母に尋ねた。
老婆は二本の十字架のうち、向かって右側を指さした。
「世間がイスキリの墓と呼ぶ方」
澪が小さく息を呑んだ。
「身代わりの墓……」
「そうだ」
老婆は静かに言った。
「身代わりの墓とは、都合がよかった。誰かが誰かの代わりに死ぬ。罪をかぶる。そういう話を隠すのに、これほど都合のいい名はない」
怜司は右側の墓を見た。
雪が積もった小さな盛り土。
その上に立つ十字架。
観光客が見れば、珍しい伝承の一部にしか見えない。
だが、その下にあるのが罪だとしたら。
「ここに、アラムを殺した犯人が眠っている?」
怜司が言うと、葛原老人の顔が強張った。
老婆は答えなかった。
それが、答えに近かった。
警官が厳しい顔で言った。
「ここから先は、正式な手続きが必要です。勝手に掘ることはできません」
「もちろんです」
怜司は頷いた。
「ただ、調べる前に確認したいことがあります」
「何ですか」
怜司は透を見た。
「久我玲一さんの手記には、二本目の墓について何か書かれていましたか」
透は内ポケットから防水袋に入れた古い手帳のコピーを取り出した。
何度も読み返したのだろう。紙の端は擦り切れている。
「原本は安全な場所に置いてある。これは写しだ」
透はページをめくった。
「父は、こう書いている」
彼は読み上げた。
「一つ目の墓は、名を偽るための墓。二つ目の墓は、罪を埋めるための墓。だが罪は、死者の下にはない。十字架の影にある」
「十字架の影?」
怜司は墓を見た。
朝日は低く、森の向こうから差し込んでいる。二本の十字架の影は、雪の上に長く伸びていた。
一本は、まっすぐ森の方へ。
もう一本は、わずかに資料館側へ斜めに伸びている。
「影にあるとは、時間を指しているのかもしれません」
澪が言った。
「どういうことですか」
「影は、太陽の位置で変わります。特定の日、特定の時刻にだけ、何かを示す可能性があります」
「昭和四十八年、一月十七日」
怜司は呟いた。
父の写真の日付。
久我玲一が海見の場に至った日。
村で青年が死に、研究者が消えた日。
「今日とは日付が違う」
透が言う。
「でも、時刻は?」
澪がスマートフォンを確認した。
「今は夜明け直後です。影が一番長く出る時間帯」
怜司は父の写真を取り出した。
古い写真。
雪の中の二本の十字架。
今まで、墓そのものばかり見ていた。
だが、怜司は初めて写真の下部に注目した。
雪の上に、影が写っている。
十字架の影。
一本は長く伸び、もう一本は少し折れるように曲がって見える。
「この影……」
怜司は写真と目の前の風景を見比べた。
写真の影は、現在の影とほとんど同じ方向へ伸びている。だが、一本だけずれている。
「十字架の位置が変わっている?」
澪が写真を覗き込んだ。
「いえ、位置ではなく、角度かもしれません。今の十字架はまっすぐ立っています。でも写真の右側の十字架は、少し傾いている」
透も写真を見た。
「傾きが影の先を変えていた」
怜司は右側の十字架へ近づいた。
今は整備され、まっすぐ立っている。観光地として見栄えよく直されたのだろう。
だが、四十年前は違った。
傾いた十字架が、特定の場所を指していた。
「写真の影の先は、どこですか」
怜司は澪に聞いた。
澪は写真を見ながら、雪の上を慎重に歩いた。
「角度からすると……おそらく、こちらです」
彼女が指したのは、右側の墓そのものではなかった。
墓の少し外側。
杉の根元。
今は雪で覆われている。
「そこに何かあるのか」
警官がライトを向けた。
雪を掘ることはできない。だが、表面を払う程度なら問題ないと判断された。
警官が慎重に雪を払った。
杉の根元に、平たい石があった。
ただの自然石に見える。
しかし、表面に何か刻まれていた。
澪が膝をつき、雪を払う。
文字が現れた。
――伊佐衛門、ここに誓う。
――アラムを殺した者を、神の名で隠さぬ。
怜司は息を呑んだ。
伊佐衛門自身の誓い。
つまり、伊佐衛門はただ罪を着せられたのではない。
犯人を知っていた。
そして、それを隠さないと誓った。
だが、その誓いは破られた。
村は犯人を隠し、伊佐衛門を神にした。
「続きがあります」
澪が言った。
石の下部に、小さな文字がある。
だが、雪と苔で見えにくい。
警官が写真を撮る。澪がライトの角度を変える。
透が低く読み上げた。
「罪は……血にあらず……座にあり」
「座?」
怜司が聞き返す。
葛原老人が呻いた。
「やはり……」
「知っているんですか」
怜司が振り向く。
老人は青ざめた顔で、右側の十字架を見ていた。
「座とは、村の寄合座だ」
「寄合座?」
澪が説明するように言った。
「昔の村の有力者たちが集まって物事を決める場です。正式な行政機構というより、村内の権力構造に近いものです」
「つまり、アラムを殺したのは個人ではなく、村の上層部?」
怜司が言うと、葛原は首を横に振った。
「殺したのは一人だ」
「では、座とは?」
「その一人を守った」
老婆が静かに言った。
「アラムを直接殺した者はいた。だが、その者を罰すれば村が割れる。だから座は、罪を伊佐衛門に着せた」
怜司は拳を握った。
「誰ですか」
誰も答えなかった。
だが、葛原老人の目が、ある場所へ向いた。
右側の墓。
罪の墓。
「そこに眠っているんですね」
怜司が言う。
老人は答えなかった。
警官が険しい表情で言った。
「正式な発掘が必要です。今すぐ掘ることはできません」
「分かっています」
怜司は言った。
「でも、名前だけでも教えてください」
葛原老人は苦しそうに口を閉ざした。
十和田の祖母も、何も言わない。
沈黙。
また沈黙だ。
怜司の中で怒りが湧いた。
「まだ隠すんですか」
雪の森に、怜司の声が響いた。
「伊佐衛門の名は返しました。アラムの名も戻した。でも、殺した者の名だけはまだ隠すんですか」
葛原が震えた。
「それは……」
「それも守るためですか。村を守るため? 子孫を守るため? それとも、もう死んだ人間の名誉を守るためですか」
「違う」
「では何です」
葛原は何度も口を開き、閉じた。
その姿は、怜司の父を思い出させた。
語れない男。
語らずに守ろうとする男。
そして、語らないせいで次の世代を傷つける男。
「葛原さん」
澪が静かに言った。
「もう、私たちに隠さないでください」
葛原は澪を見た。
「お前は、その名を聞けば傷つく」
「それでも聞きます」
「後悔するぞ」
「隠され続ける方が、もっと後悔します」
澪の声は震えていた。
だが、逃げていなかった。
十和田の祖母が、ゆっくりと目を閉じた。
「重蔵」
老婆が葛原の名を呼んだ。
「もうよい」
葛原老人は、杖を雪に突き立てた。
長い沈黙のあと、彼は震える声で言った。
「アラムを殺した者の名は、十和田清之進」
澪の顔から血の気が消えた。
「十和田……」
怜司は澪を見た。
十和田家。
歌を守る家。
澪の家。
「私の……先祖?」
老婆は静かに頷いた。
「そうだ」
澪は一歩後ずさった。
「嘘……」
葛原は続けた。
「清之進は当時、歌を預かる家の当主だった。アラムを匿っていたのは十和田家だ。だが、外からの詮索が強まり、村が危ういと恐れた清之進は、子を逃がすふりをして……」
老人の声が詰まる。
老婆が代わりに言った。
「殺した」
澪は口元を押さえた。
怜司は言葉を失った。
歌を守る家。
道を守る家。
アラムを海へ返すはずだった家。
その家の者が、アラムを殺した。
「伊佐衛門は止めようとした」
老婆は続けた。
「だが間に合わなかった。清之進は村の寄合座に泣きついた。異国の子を匿っていたことが露見すれば、村に災いが来る。自分を裁けば、十和田家が守ってきた歌も道も失われる、と」
「それで、伊佐衛門に罪を着せた」
怜司が言った。
「伊佐衛門は、なぜ受け入れたんですか」
老婆は悲しげに目を伏せた。
「アラムの墓を守るためだ」
「え?」
「清之進を裁けば、アラムの存在も表に出る。アラムは死んでもなお、外の者に晒される。伊佐衛門は、それを恐れた」
怜司は胸が締め付けられた。
伊佐衛門は、罪を着せられてもなお、アラムを守ろうとした。
その結果、村は彼を利用した。
罪人として葬るのではなく、後に聖者の名を着せた。
名誉を与えたように見せて、真実を奪った。
澪は膝をついた。
雪の上に手をつき、震えていた。
「私たちは……歌で守っていたんじゃない」
彼女は呟いた。
「歌で、隠していた」
老婆は澪のそばに立った。
「そうだ」
「おばあちゃんも知っていたの?」
「知っていた」
「なぜ言わなかったの」
「お前が背負うには重すぎた」
「それでも、私は十和田です」
澪の声が崩れた。
「知らないまま、民俗学だなんて言って、歌を研究して、伝承を守りたいなんて……」
「だからこそ、お前が必要だった」
老婆は静かに言った。
「十和田の罪は、十和田の声で終わらせなければならない」
その言葉に、澪は顔を上げた。
「終わらせる?」
老婆は右側の墓を見た。
「清之進の名も、隠されている」
「この墓に?」
「そうだ。だが、罪人としてではない」
怜司は嫌な予感がした。
「どういう意味ですか」
老婆は十字架を見つめた。
「イスキリの墓。身代わりの墓。そこに眠る者は、清之進だ」
葛原が低く続けた。
「だが村は、清之進を犯人として葬らなかった。身代わりになった者として葬った」
「待ってください」
怜司は混乱した。
「アラムを殺した清之進が、身代わりとして祀られた?」
「そうだ」
葛原の声には、深い恥が滲んでいた。
「罪人すら、物語の中で役割を与えられた。犯人ではなく、身代わり。悪人ではなく、村のために罪を背負った者。そうすれば、子孫も傷つかず、村も割れずに済む」
怜司は吐き気に似た感覚を覚えた。
伊佐衛門は神にされ、清之進は身代わりにされた。
どちらも、本当の名と罪を奪われた。
この村は、死者を二度殺している。
「だから、久我玲一は“犯人は墓の中にいる”と書いた」
透が言った。
「清之進の墓が、イスキリの墓として残っているから」
怜司は右側の十字架を見た。
観光地の一部として並ぶ二本の墓。
片方は、神にされた男。
もう片方は、身代わりにされた犯人。
二つの嘘が、雪の上に立っていた。
その時、警官の無線が鳴った。
応援部隊が資料館付近に到着したという連絡だった。
だが同時に、別の報告も入った。
警官の表情が変わる。
「何ですか」
怜司が聞く。
警官は無線を聞き返し、顔を強張らせた。
「ネット上に、地下の棺の画像が出ています」
澪が息を呑んだ。
「もう?」
「拡散が始まっているそうです」
追手の男が送った情報。
それが動き出した。
警官は続けた。
「見出しは……」
彼は言葉を詰まらせた。
怜司は先を聞く前から分かった。
どうせ、こういう類の言葉だ。
キリストの墓の地下に謎の人骨。
青森の聖地に隠された真実。
村が隠した衝撃の歴史。
死者の名など、そこにはない。
三上伊佐衛門も、アラムも、清之進も。
すべてが刺激的な物語に飲み込まれていく。
父が恐れた通りだった。
「止められますか」
澪が聞いた。
警官は苦い顔をした。
「すぐには難しいです。発信元の特定と削除要請はできますが、拡散したものを完全に消すのは……」
怜司はスマートフォンを取り出した。
新聞社の編集デスクから、着信が入っていた。
一件ではない。
何度も。
続けてメッセージが表示される。
――三上、今どこにいる。
――新郷村の件、本当か。
――お前が現場にいるなら至急連絡。
――これは大きい。第一報を取れ。
大きい。
その言葉が、追手の男の「使える」と重なった。
怜司は画面を見つめた。
記者としては、今すぐ連絡すべきだ。
誰よりも早く、正確な情報を出す。
それが仕事だ。
だが、何をどう出すか。
ここで間違えれば、伊佐衛門はまたキリストにされる。
アラムは異国の謎にされる。
清之進の罪は、子孫への好奇の目に変わる。
真実は、扱い方を間違えると暴力になる。
怜司はスマートフォンを握りしめた。
「記事を書きます」
澪が顔を上げた。
「今?」
「はい」
「でも、まだ整理できていないことが多すぎます」
「だからです」
怜司は画面を見たまま言った。
「誰かが勝手に物語にする前に、こちらが最低限の線を引く必要があります」
「どんな記事にするんですか」
怜司は少し考えた。
そして答えた。
「速報ではなく、声明に近い記事です」
「声明?」
「新郷村の伝承地で未確認情報が拡散している。現場では警察と関係者が確認を進めている。人骨や資料に関する断定は避けるべき。実在地域、信仰、故人、関係者への配慮が必要。刺激的な見出しによる拡散は控えてほしい」
透が怜司を見た。
「それでは真相は出ない」
「今は出しません」
「隠すのか」
「違います」
怜司は透を見返した。
「守るために、順番を決めるんです」
透は黙った。
怜司は父の手紙を思い出した。
真実を暴くな。
名を返せ。
村を裁くな。
今なら、少しだけ分かる。
暴かないとは、隠すことではない。
乱暴に剥がさないことだ。
名を返すとは、事実を人間の形に戻すことだ。
村を裁かないとは、罪を曖昧にすることではない。
単純な悪者探しにしないことだ。
怜司は編集デスクへ電話をかけた。
すぐに繋がった。
「三上! お前、現場にいるのか!」
電話の向こうで、上司の声が響いた。
「います」
「何が起きてる。ネットに画像が出てるぞ。キリストの墓の地下から――」
「その言い方はやめてください」
怜司は遮った。
電話の向こうが一瞬黙る。
「何?」
「その見出しで出したら、うちは終わります」
「お前、何を言ってるんだ。これは大きな――」
「大きいからです」
怜司は二本の十字架を見た。
「未確認情報です。人骨がある可能性はありますが、宗教伝承との直接関係は確認されていません。現場は警察対応中。刺激的な見出しは、地域と関係者を傷つけます」
「でも、他社が出すぞ」
「出せばいい」
「三上」
「うちは正確に出すべきです」
怜司の声は震えなかった。
「第一報は、拡散注意の記事にしてください。僕が本文を書きます」
「お前、現場の当事者じゃないのか」
「当事者です」
「なら客観性が――」
「だから、事実確認と配慮に絞ります。僕の名前は出さなくていい。社として出してください」
電話の向こうで、上司が沈黙した。
長い数秒。
やがて、低い声が返ってきた。
「三十分で書け」
「十分で送ります」
怜司は電話を切った。
澪が静かに言った。
「記者なんですね」
「今さらですか」
「少しだけ、そう見えました」
「普段は見えませんか」
澪は泣きそうな顔で、小さく笑った。
「すみません」
怜司も少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
まだ終わっていない。
右側の墓には清之進が眠っている。
だが、それを証明するには正式な調査が必要だ。
そして、調査が始まれば、十和田家は傷つく。澪も、祖母も。
それでも隠すことはできない。
澪は右側の十字架の前に立った。
「清之進」
彼女はその名を呼んだ。
声は震えていた。
「あなたが何をしたのか、私はまだ全部を知りません。でも、もう身代わりの名には隠しません」
老婆が目を閉じた。
澪は続けた。
「十和田の声で、あなたの罪を終わらせます」
そう言って、彼女は歌い始めた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
だが、今度の歌は送り歌ではなかった。
断ち切る歌だった。
長い間、罪を包んでいた布を、一枚ずつほどくような声。
雪の上に、二本の十字架の影が伸びている。
左の影。
右の影。
怜司は、父の写真をもう一度見た。
写真の端に、今まで気づかなかったものがあった。
影の先。
杉の根元の石。
そのさらに奥。
小さな人影が写っている。
写真が古く、ぼやけていたため見落としていた。だが、確かに誰かが立っている。
怜司は目を凝らした。
それは若い男だった。
昭和四十八年の写真に写る、若い男。
父ではない。
久我玲一でもない。
十和田の叔父でもない。
だが、葛原老人はその写真を見た瞬間、顔色を変えた。
「なぜ……」
「知っているんですか」
怜司が聞く。
葛原は震える指で写真を指した。
「修二だ」
「葛原修二さん?」
「若い頃の修二だ」
怜司は息を呑んだ。
葛原修二。
昨日、資料館裏の沢で遺体となって見つかった男。
彼は四十年前の写真に写っていた。
つまり、四十年前の事件にも関わっていた。
怜司は写真を見つめた。
葛原修二は、ただの倉庫番ではなかった。
彼は、四十年前にここで何かを見ている。
そして今、殺された。
「修二さんは、何を知っていたんですか」
怜司が尋ねる。
葛原老人は震えながら首を振った。
「分からん……あいつは当時、まだ若かった。ただの手伝いで……」
「本当に?」
葛原は答えられなかった。
その時、透が写真を覗き込み、低く言った。
「違う」
「何がです」
「この男が見ている方向だ」
透は写真の中の修二を指した。
「墓ではなく、撮影者を見ている」
怜司は写真を見直した。
確かにそうだった。
修二は十字架を見ていない。
父のカメラを見ている。
いや、父を見ている。
まるで、撮られることを分かっていたように。
あるいは、撮らせたように。
怜司のスマートフォンが震えた。
知らない番号。
嫌な予感がした。
怜司は通話を押した。
「三上怜司さんですね」
声は加工されていた。
低く、機械的だった。
周囲にいた全員が怜司を見る。
「誰ですか」
「写真を見ましたか」
怜司の血が冷えた。
「何の話です」
「昭和四十八年の写真です。そこに葛原修二が写っている」
怜司は写真を握りしめた。
「あなたは誰ですか」
相手は笑った。
「修二は殺されたんじゃない」
「何?」
「口を閉じたんです。四十年遅れで」
「どういう意味です」
「清之進の墓を掘れば分かる」
「あなたが修二さんを殺したんですか」
相手は答えなかった。
代わりに、こう言った。
「アラムを殺した者は墓の中にいる。だが、アラムを二度殺した者は、まだ生きている」
通話は切れた。
雪の森に、静寂が落ちた。
怜司はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。
アラムを二度殺した者。
一度目は、命を奪った者。
二度目は、名を奪い、物語に変えた者。
それは誰だ。
村か。
三上家か。
葛原家か。
十和田家か。
それとも、四十年前に真実を知りながら、別の目的で利用した者か。
怜司は二本の十字架を見た。
雪の中で、影が少しずつ短くなっていた。
夜明けは終わりつつある。
だが、罪の朝はまだ始まったばかりだった。
お読みいただきありがとうございます。
第8話では、二本目の十字架が「罪の墓」であり、アラムを殺した者が十和田清之進であることが明かされました。
しかし、昭和四十八年の写真に葛原修二が写っていたこと、そして謎の電話により、四十年前の事件にもまだ隠された真相があることが示されます。
次回、「アラムを二度殺した者」の正体へ迫ります。




