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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第七話 墓の下の海

神にされた男、三上伊佐衛門。

その名を取り戻した瞬間、祠の奥に新たな道が開いた。


久我玲一の手記に残された一文。


「墓の下には、海がある」


青森の山奥にある墓の下で、怜司たちはさらに古い謎へ踏み込む。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

墓の下には、海がある。


久我透が口にしたその言葉は、地下の祠にいる全員を黙らせた。


青森の山奥。

雪に閉ざされた村。

二本の十字架。

地下の石棺。

三上伊佐衛門の名が記された木棺。


そのさらに奥に、海。


言葉としては矛盾している。

だが、祠の奥から聞こえてくる水音は、確かにそこに何かがあることを告げていた。


ぽたり。

ぽたり。

ぽたり。


地下水の滴る音かもしれない。

だが怜司には、それが波の遠い反響のようにも聞こえた。


「海って、どういう意味ですか」


三上怜司は、久我透に尋ねた。


透は奥の暗闇を見つめたまま答えた。


「父の手記にも詳しい説明はなかった。ただ一文だけだ。墓の下には海がある。海を見た者だけが、なぜ男がここへ来たかを知る、と」


「男とは、三上伊佐衛門のことですか」


「おそらくな」


澪がライトを奥の通路へ向けた。


祠の壁が開き、狭い道が現れている。人一人がようやく通れるほどの幅だった。壁は土ではなく、途中から岩肌に変わっている。冷たい空気がそこから流れ出し、湿った匂いを運んでいた。


「自然洞窟を加工した通路かもしれません」


澪が言った。


「新郷村に海はありません。でも、川や沢、地下水脈はあります。古い人がそれを海と呼んだ可能性はあります」


「比喩ですか」


怜司が聞く。


「分かりません。ただ、民俗伝承では、地下の水脈や洞窟を“海”や“竜宮”と呼ぶ例があります。実際の海でなくても、外の世界へ通じる場所として語られることがある」


透が頷いた。


「父も似たことを書いていた。海は地理ではなく、道だと」


「道……」


怜司はナニャドヤラの歌を思い出した。


歌は道である。

墓の下には海がある。


この村に残る言葉は、いつも何かを別の形に変えていた。


墓は、ただの墓ではない。

歌は、ただの歌ではない。

海もまた、ただの海ではない。


そのとき、警官の一人が無線で応援を呼ぼうとしていた。


しかし地下では電波が弱いのか、途切れ途切れの音しか返ってこない。


「一度、外へ出た方がいい」


警官が言った。


「この場所は危険です。全員、上へ戻ってください」


当然の判断だった。


死者が出ている。

追手もいる。

地下の祠には、身元不明ではないにせよ、古い人骨がある。

現場保存の観点から考えても、素人がこれ以上奥へ進むべきではない。


怜司にも分かっていた。


記者としてなら、ここで止まるべきだ。

警察と行政に任せ、専門家を入れ、手続きを踏むべきだ。


だが、胸の奥で別の声がした。


父はここまで来させた。


三上伊佐衛門の名を返しただけで終わりなら、なぜさらに奥への仕掛けが開く。

なぜ「墓の下には海がある」という言葉が残された。

なぜ追手たちは、ここまで執拗に筒を奪おうとした。


まだ終わっていない。


「僕は行きます」


怜司は言った。


警官が眉をひそめた。


「駄目です」


「この先に、事件の理由があります」


「危険です」


「分かっています」


「分かっているなら戻ってください」


警官の声は正しかった。


だからこそ、怜司はすぐに答えられなかった。


その時、床に押さえつけられていた追手の男が笑った。


「行かせてやれよ」


警官が男を睨む。


「黙っていろ」


男は口の端を上げた。


「どうせ、その先にあるものは隠せない。あんたら警察が止めても無駄だ。もう外には連絡してある」


「何?」


怜司が男を見る。


「ここで見つかったものは、すぐに広まる。キリストの墓の地下に謎の棺。村が隠した人骨。神にされた男。最高の見出しだろ?」


澪の顔が青ざめた。


「まさか、配信したんですか」


男は答えずに笑った。


怜司は胸の奥に冷たい怒りが湧くのを感じた。


この男は、三上伊佐衛門の名が返された瞬間すら、商品として見ていた。


人間として戻されたばかりの死者を、もう一度、見世物にしようとしている。


「まだ全部は出していない」


男は言った。


「でも、仲間には送った。俺が戻らなければ、勝手に出る」


「脅しか」


透が低く言った。


「保険だよ」


男は透を見た。


「お前らがきれいに守ろうとしても、世間はそう見ない。謎の墓、古代文字、隠された人骨。人は物語が欲しいんだ。真実なんて、見出しの後でいくらでも変えられる」


怜司は父の手紙を握りしめた。


――真実を暴くな。

――名を返せ。

――そして、村を裁くな。


父は、この危険を知っていたのかもしれない。


真実は、出し方を間違えると誰かを救うどころか、もう一度傷つける。


村を裁くな、という言葉は、隠蔽を許せという意味ではない。


真実を刃物にするな、という意味だったのかもしれない。


「だからこそ、先へ行く必要があります」


怜司は言った。


「この先に、三上伊佐衛門がなぜ神にされたのか、その理由があるなら、そこまで見ないといけない」


澪が怜司を見た。


「三上さん」


「中途半端な情報だけが外に出れば、彼はまた物語にされる。キリストではなかった、村の罪だった、三上家が隠した。そんな断片だけが一人歩きする」


怜司は奥の通路を見た。


「だから、こちらが先に事実を掴む」


警官は険しい顔をした。


「認められません」


「同行してください」


「何?」


「あなたたちが一緒なら、現場保全の記録にもなる。僕たちだけで勝手に入るよりましです」


警官は迷った。


その判断が正式に正しいかどうかは分からない。

だが、今この場で追手を押さえ、古い地下構造を発見し、さらに奥に事件に関わる可能性がある場所が開いた。応援はすぐに来ない。電波も不安定。


判断は難しい。


葛原老人が、床に膝をついたまま言った。


「行かせてやってください」


警官が振り返る。


葛原の顔は、涙と土で汚れていた。


「この道は、三上と十和田が揃わなければ開かん。今閉じれば、次に開くのがいつになるか分からん」


「しかし」


「修二は死んだ」


葛原の声が震えた。


「わしの甥は、もう死んだ。わしはまた守れなかった。ならせめて、なぜ死ななければならなかったのかを知りたい」


澪が目を伏せた。


警官はしばらく沈黙した。


やがて、短く息を吐いた。


「五分だけです」


「ありがとうございます」


「ただし、勝手に触れない。撮影はこちらでも行う。危険があれば即撤退。いいですね」


怜司は頷いた。


「分かりました」


追手たちはその場で警官の一人に見張られることになった。先頭の男はまだ笑っていたが、その目には焦りが見えていた。


自分たちより先に、怜司たちが奥へ進むことを嫌がっている。


つまり、奥には本当に何かがある。


怜司、澪、透、そして警官一人が、開いた通路へ進んだ。


葛原も立ち上がろうとしたが、澪が止めた。


「葛原さんはここにいてください」


「わしも行く」


「今の体では無理です」


葛原は何か言おうとしたが、足が震えていた。


修二の死。

伊佐衛門への謝罪。

長年の秘密が一気に崩れたことで、老人の体は限界に近かった。


「頼む」


葛原は怜司を見た。


「伊佐衛門を、もう一度殺さないでくれ」


怜司はその言葉を受け止めた。


「はい」


それは約束だった。


奥の通路は、想像以上に狭かった。


壁は岩でできていて、ところどころ水が染み出している。足元は滑りやすく、古い木板が渡されている場所もあった。長い年月で腐りかけているのか、踏むたびに不穏な音を立てる。


警官がライトで足元を照らしながら進む。


「かなり古いですね」


澪が壁を観察しながら言った。


「自然の割れ目を人の手で拡げています。道具跡があります」


「いつ頃のものですか」


怜司が聞く。


「すぐには分かりません。ただ、祠より古い部分と、新しく補修された部分が混ざっています」


「誰かが使い続けていた」


透が言った。


「三上家か」


怜司は壁に手を触れた。


冷たい。


その冷たさの奥に、長い時間がある。


父もここを通ったのだろうか。

祖先の三上たちも。

三上伊佐衛門の名を封じた者たちも。


通路の途中に、古い札が打ちつけられていた。


澪がライトを向ける。


そこには、薄く文字が残っていた。


――海より来たりしもの、海へ返さず。


怜司は声に出して読んだ。


「海より来たりしもの、海へ返さず」


透が低く言った。


「父の手記にもあった一節だ」


「意味は?」


「父は、伊佐衛門ではなく、さらに前の誰かを指していると考えていた」


「さらに前?」


「村に異国の痕跡を持ち込んだ者だ」


澪が頷いた。


「つまり、本当に外から来た人物はいた可能性がある。でも、それがキリスト本人ではなく、別の渡来者だった」


「その痕跡を利用して、後の時代に三上伊佐衛門を聖者に仕立てた」


怜司は言った。


少しずつ、形が見え始めていた。


古い時代、この村には外から来た者の記憶があった。

異国の文字、布、道具、あるいは歌。

それは交易か漂着か、逃亡かもしれない。


だが時代が下り、その記憶は伝承へ変わった。


さらにある時期、村はその伝承に「キリスト」という名を重ねた。


そして三上伊佐衛門という一人の男が、その物語の中心に置かれた。


死者の名を消し、聖者の名を着せた。


なぜ伊佐衛門だったのか。


それがまだ分からない。


通路の奥から、水音が大きくなってきた。


ぽたり、ではない。


さらさらと流れる音。


地下水が流れている。


やがて道は広くなり、小さな空間に出た。


そこには、地下の沢があった。


岩の割れ目から水が流れ、細い川のようになって奥へ続いている。天井は低く、ところどころに木の支えが組まれていた。


警官が驚いたように呟いた。


「こんなものが村の下に……」


澪も息を呑んだ。


「地下水路……」


怜司は川の流れを見た。


水は黒く見えた。ライトを当てると、表面が鈍く光る。流れは緩やかだが、確かに奥へ向かっている。


「これが海?」


「たぶん、違う」


透が言った。


「海へ続く道だ」


水路の横には、狭い歩道のような岩棚があった。人が通れるよう、ところどころ削られている。


誰かがこの地下水路沿いに道を作った。


かなり昔に。


「何のために」


怜司は呟いた。


澪が周囲を見回した。


「隠し道、避難路、あるいは物資の運搬路」


「山奥で物資?」


「今は山奥に見えても、昔の人の移動経路は現代とは違います。川、沢、峠道、海への道。表の街道ではなく、隠れた移動路があった可能性はあります」


透が奥を指さした。


「父の手記では、この水路は“舟の道”と呼ばれていた」


「舟?」


警官が眉をひそめる。


「この狭さで?」


「今は崩れて狭くなっているだけかもしれない。あるいは、本当に舟を通したわけではなく、海から来た物を運ぶ道という意味かもしれない」


怜司は水路の壁に、何か刻まれているのを見つけた。


「ここに文字があります」


全員が近づいた。


岩肌に刻まれた文字は、非常に古く、摩耗していた。日本語のようにも、記号のようにも見える。澪がライトの角度を変える。


「これは……」


「読めますか」


「全部は無理です。でも、いくつか漢字が見えます」


澪は指でなぞらず、少し離れて読んだ。


「海……人……匿う……罪……」


「罪」


怜司はその字に反応した。


父の手紙にもあった。


罪の墓。


澪はさらに目を凝らした。


「ここ、名前かもしれません」


「伊佐衛門?」


「違います。もっと古い」


澪は息を整え、読み上げた。


「アラム……」


「アラム?」


怜司が聞き返す。


透の表情が変わった。


「アラム」


「知っているんですか」


「父の手記に何度も出てきた」


「人名ですか」


「そう考えていた。だが、地名か民族名かもしれないとも書いていた」


澪が慎重に言った。


「アラムという言葉自体は、中東地域の古い名称とも関係します。ただし、ここに刻まれているからといって、直接結びつけるのは危険です。後世の創作や当て字の可能性もあります」


怜司は頷いた。


「断定しない」


「はい。ここで断定すると、追手の男たちと同じになります」


その言葉は重かった。


真実を求めることと、都合よく物語にすることは紙一重だ。


怜司は、改めて自分に言い聞かせた。


断定しない。

飛びつかない。

利用しない。


名を返す。


そのために調べる。


水路の奥へ進むと、空間がさらに広がった。


そこには、木製の古い箱がいくつも置かれていた。


ほとんどは朽ちている。蓋が崩れ、中身は土と同化しているものもある。だが、いくつかは形を保っていた。


澪が近づこうとすると、警官が止めた。


「触らないで」


「分かっています」


澪は距離を取ったままライトを当てた。


箱の側面には、同じ印があった。


三上家の印。


円の中に縦線。

左右に羽のような短い線。


だが、その横に別の印もあった。


波のような三本線。


「海の印……」


澪が呟いた。


透が拳を握った。


「父はこれを探していた」


「何ですか」


「舟箱」


「舟箱?」


「手記にあった。海から来た者の持ち物を納めた箱。村はそれを舟箱と呼んだ」


「中身は?」


透は首を横に振った。


「父は見ていない。宗一郎が見せなかった」


怜司は胸が重くなった。


また父だ。


父は、久我玲一にここを見せなかった。

だから久我は消えた。

十和田の叔父は死んだ。

四十年後、息子たちがここへ来ている。


「開けられますか」


警官が険しい声で言う。


「駄目です。現場保存です」


「分かっています」


怜司は箱を見つめた。


ここに、古い渡来者の痕跡がある。

それが本物かどうかは分からない。

だが、村が長い間守ってきた何かであることは確かだった。


その時、水路の奥から風が吹いた。


湿った空気ではない。


冷たく、塩の匂いがした。


怜司は顔を上げた。


「今の匂い……」


澪も気づいた。


「潮の匂い?」


警官が首を振る。


「ここは内陸ですよ」


透が水路の先を見た。


「行くぞ」


「まだ進むんですか」


警官が言う。


「五分は過ぎています」


「そこに出口がある」


透の声は確信に満ちていた。


水路はさらに奥へ続き、やがて上り坂になった。


足元は滑りやすく、何度も転びそうになる。天井は低く、怜司は何度も頭をぶつけそうになった。


潮の匂いは、少しずつ強くなっていく。


あり得ない。


新郷村の地下で潮の匂い。


現実的に考えれば、何か別の鉱物臭かもしれない。あるいは古い有機物の匂いを、脳が潮と誤認しているだけかもしれない。


だが、そう思おうとしても、怜司の体は別の答えを感じていた。


この道は、本当にどこかへつながっている。


やがて、前方に光が見えた。


朝の光ではない。


月明かりに近い、青白い光。


通路の出口だった。


四人は慎重に進み、岩の隙間から外へ出た。


そこは、山の斜面だった。


眼下に、白い谷が広がっている。遠くには、雪を被った山々。夜空は雲が切れ、星がわずかに見えていた。


海はない。


だが、岩場の前に、古い石碑が立っていた。


苔と雪に覆われ、半分ほど埋もれている。


澪が近づき、雪を払った。


文字が現れた。


――海見の場。


「うみみのば……?」


怜司が呟く。


透が首を横に振る。


「父は“かいけんのば”と読んでいた」


「海を見る場所?」


澪は石碑の向こうを見た。


そこには山しかない。


しかし、透は岩場の端に立ち、遠くを指さした。


「天気が良ければ、あの稜線の向こうに海が見えるらしい」


「本当に?」


「父の手記にはそうある。昔、この場所から海を見た者たちは、ここを海見の場と呼んだ」


怜司は遠くを見た。


今は夜で、雪雲も残っている。海など見えない。


だが、風の向こうに広がる暗闇のさらに先に、日本海か太平洋か、どこかの海がある。


昔の人にとって、海は距離ではなく記憶だったのかもしれない。


海から来た者。

海へ返されなかった者。

海を見せられた者。


その人間が、この山の村で死んだ。


そして、後の時代にその記憶が聖者伝承と結びついた。


「ここで何があったんですか」


怜司は透に尋ねた。


透は石碑の裏へ回った。


「これを見ろ」


石碑の裏にも文字があった。


澪が雪を払い、ライトを当てた。


そこには、思ったより新しい文字が刻まれていた。


昭和四十八年 一月十七日。

久我玲一、ここに至る。

三上宗一郎、これを止む。


怜司は息を呑んだ。


父の写真の裏と同じ日付。


昭和四十八年、一月十七日。

開けてはならないものを見た。


「父と久我玲一は、ここまで来ていた」


怜司は呟いた。


透は石碑の下を見た。


そこに、小さな金属板が埋め込まれていた。錆びているが、文字は読める。


――伊佐衛門は、アラムを殺していない。


澪が声を失った。


「アラム……」


怜司は混乱した。


「どういうことですか」


透の顔が険しくなる。


「父の仮説と違う」


「久我玲一の仮説?」


「父は、伊佐衛門が村の罪を背負わされた男だと考えていた。だが、この文はもっと具体的だ」


「伊佐衛門は、アラムを殺していない」


怜司は繰り返した。


つまり、伊佐衛門は誰かを殺した罪を着せられた。


その相手が、アラム。


海から来た者。


外から来た異国の痕跡を持つ人物。


「だから神にされた……?」


澪が呟く。


「罪人として処理できない何かがあった。だから、罪を隠すために、別の物語を被せた」


怜司は石碑の文字を見つめた。


村の罪。


それは、伝承を作ったことだけではない。


殺人。


あるいは、殺人の隠蔽。


「父は、ここで何を止めたんですか」


怜司が言った。


透は答えなかった。


そのとき、背後の通路から声がした。


「そこまでだ」


追手の男の声ではなかった。


もっと年老いた声。


怜司たちは振り返った。


岩の出口に、十和田の祖母が立っていた。


雪の中を歩いてきたのか、半纏の肩に白い雪が積もっている。息は乱れていない。まるでこの場所に来ることを、最初から分かっていたようだった。


その後ろには、葛原老人もいた。警官に支えられながら、どうにか立っている。


「おばあちゃん」


澪が駆け寄ろうとする。


老婆は手で制した。


「そこから先は、見るだけで済まない」


怜司は尋ねた。


「この場所を知っていたんですね」


老婆は怜司を見た。


「十和田は歌を守る家だ。道の終わりを知らずに歌は守れない」


「では、教えてください」


怜司は石碑を指さした。


「アラムとは誰ですか。伊佐衛門は何の罪を着せられたんですか」


老婆はすぐには答えなかった。


風が吹いた。


雪が石碑の文字を少しずつ覆っていく。


やがて老婆は、低い声で言った。


「アラムは、海から来た子だ」


「子?」


「異国人ではない。神でもない。ただの子どもだった」


怜司は言葉を失った。


「村は、その子を匿った」


老婆は続けた。


「どこから来たのか、何の血を引くのか、誰にも分からなかった。ただ、持っていた布に見たことのない文字があった。話す言葉も違った。だが、泣き方は村の子と同じだった」


澪が震える声で聞いた。


「その子が、アラム?」


老婆は頷いた。


「そう呼ばれていた」


「誰が殺したんですか」


怜司が聞いた。


老婆の目が揺れた。


葛原老人が呻くように言った。


「村だ」


その一言で、風の音が消えた気がした。


「村が殺した」


葛原は繰り返した。


「いや、正確には、村の恐れが殺した」


老婆は目を閉じた。


「外から役人が来た。異国の血を持つ子を匿っていると知られれば、災いになると大人たちは恐れた。疫病、戦、徴発、噂。何を恐れたのかは時代によって語りが変わった。ただ一つだけ変わらない」


老婆は石碑に手を置いた。


「村は子を守れなかった」


「その罪を、伊佐衛門が背負った」


怜司は言った。


老婆は頷いた。


「伊佐衛門は、アラムを逃がそうとした。だが失敗した。子は死んだ。村はその死を隠し、伊佐衛門に罪を着せた」


「なぜ、後に聖者に?」


「罪人として葬れば、村の罪が残る。だから逆に、尊い者にした。異国から来た聖なる者を守った墓。そう語り替えれば、誰も本当の死を問わない」


澪の声が震えた。


「そんな……」


「人は、罪を隠すためなら美しい物語を作る」


老婆の声は厳しかった。


「そして美しい物語ほど、長く残る」


怜司は全身が冷えていくのを感じた。


キリストの墓。

異国の聖者。

身代わりのイスキリ。

ナニャドヤラ。

二本の十字架。


それらは、青森へ来た神の伝説ではなかった。


村が守れなかった一人の子どもと、その罪を背負わされた一人の男を隠すための物語だった。


「では、本当の墓は」


怜司は聞いた。


「アラムの墓はどこですか」


老婆は、海見の場の先を指さした。


そこには、雪に覆われた斜面があるだけだった。


「海が見える日に、あの子をそこへ埋めた」


「なぜ海が見える日に?」


「帰りたがっていたからだ」


老婆の声がわずかに震えた。


「海の方へ、いつも手を伸ばしていたそうだ」


怜司は言葉を失った。


青森の山奥で、海へ帰りたいと願った子ども。


その子を守れなかった村。

逃がそうとして罪を着せられた伊佐衛門。

その罪をさらに聖者伝承で覆った人々。


父は、ここまで知っていたのか。


「宗一郎さんは、なぜ公表しなかったんですか」


澪が尋ねた。


老婆は怜司を見た。


「公表すれば、アラムも伊佐衛門も、また奪われると思ったからだ」


追手の男の言葉が蘇る。


最高の物語だ。


怜司は拳を握った。


「でも、隠したから同じことが起きた」


老婆は頷いた。


「そうだ」


葛原が泣きながら言った。


「わしらは間違えた。宗一郎も、わしも、皆、間違えた」


怜司は何も言えなかった。


間違えた。


その一言で済む話ではない。


死者がいる。

隠蔽がある。

罪がある。


だが同時に、簡単に裁ける話でもなかった。


父が言った通りだった。


村を裁くな。


それは、村に罪がないという意味ではない。


あまりにも長く続いた罪は、誰か一人を裁けば終わるものではないという意味だった。


その時、警官の無線がようやく繋がった。


雑音の中から、応援の声が聞こえる。


「こちら――応援隊、村入口に到着。状況を――」


警官が応答する。


その声を聞きながら、怜司は石碑を見つめた。


伊佐衛門は、アラムを殺していない。


その言葉は、誰に向けて刻まれたのだろう。


後世の三上たちか。

久我玲一か。

父か。

それとも、今ここにいる自分か。


「三上さん」


澪が静かに言った。


「どうしますか」


怜司は答えられなかった。


記者としてなら、記事にするべきだ。

事件としてなら、警察にすべて渡すべきだ。

三上家の子としてなら、アラムと伊佐衛門の名を守るべきだ。


どれも正しい。


だから苦しい。


「まず、記録します」


怜司は言った。


「ただし、見出しにしない。煽らない。キリストの墓の真実、なんて書き方はしない」


澪は頷いた。


「名を返すための記録ですね」


「はい」


怜司は石碑の前に膝をついた。


「アラム」


その名を口にした。


雪の夜に、小さな名前が戻った。


続いて、もう一度。


「三上伊佐衛門」


二つの名が、海見の場に響いた。


すると、老婆が静かに歌い始めた。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


それは、警告でも呪いでもなかった。


今度は、送り歌だった。


海へ帰れなかった子へ。

罪を着せられた男へ。

名を奪われた者たちへ。


澪も、震える声で重ねた。


二つの十和田の声が、雪の夜に溶けていく。


その時、東の空がわずかに白み始めた。


夜明けだった。


山の稜線の向こうに、薄い光が差す。


そして一瞬だけ、雲が切れた。


遠い遠い山の隙間に、青黒い水平線のようなものが見えた。


海だったのかもしれない。


ただの雲の影だったのかもしれない。


怜司には分からなかった。


だが、老婆は深く頭を下げた。


「見えたか、アラム」


その言葉に、怜司の胸が締め付けられた。


墓の下にあった海。


それは水路でも、抜け道でも、遠くの水平線でもなかった。


帰りたかった場所を忘れないために残された、村の痛みそのものだった。


その時、透が小さく呟いた。


「父は、ここで消えたんだ」


怜司は彼を見た。


「久我玲一が?」


透は海見の場の崖下を見た。


「手記は、ここで終わっている」


「まさか、ここから落ちた?」


「分からない」


透の声は、初めて揺れていた。


「だが、父は最後にこう書いていた」


「何と?」


透は怜司を見た。


「宗一郎は嘘をついていない。だが、すべてを話してもいない」


怜司は黙った。


透は続けた。


「そして最後に、こうある」


朝の光が、雪を青白く照らした。


「アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる」


怜司の呼吸が止まった。


終わっていない。


伊佐衛門は犯人ではない。

村が罪を背負った。

だが、本当にアラムを殺した者は、まだ別にいる。


墓の中に。


それは比喩か。


それとも、二本の十字架のどちらかに、本当の犯人が眠っているという意味か。


遠くで、警察車両のサイレンが聞こえた。


夜明けの雪の中で、怜司は悟った。


名を返しただけでは、まだ足りない。


次に返すべきは、罪の所在だった。

お読みいただきありがとうございます。

第7話では、「墓の下の海」が地下水路と海見の場を指していたこと、そしてアラムという海から来た子どもの存在が明かされました。


伊佐衛門はアラムを殺していない。

しかし、久我玲一の手記には「アラムを殺した者は、まだ墓の中にいる」と残されていました。


次回、怜司たちは二本の十字架に戻り、本当の犯人が眠る墓を調べることになります。

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