第十話 名を返す記事
アラムの布は守られた。
榊原道隆は確保され、長い夜は終わりに近づいていた。
だが、すでに情報は外へ流れている。
三上怜司は、記者として、そして三上家の子として、真実をどう世に出すのかを選ばなければならない。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
雪は、まだ降っていた。
だが、夜の雪とは違っていた。
闇を隠すための雪ではない。
荒れた地面を、少しだけ休ませるための雪に見えた。
三上怜司は、海見の場の近くに停められた警察車両の中で、膝の上にノートパソコンを置いていた。指先は冷え、画面の白い光が目に刺さる。それでも、書かなければならなかった。
外では警察官たちが現場を封鎖している。
榊原道隆は確保された。
外部業者の男たちも事情聴取を受けている。
葛原修二の死についても、事故ではなく事件として扱われる可能性が高まっていた。
だが、現場の整理よりも早く、情報は外へ出ていた。
ネット上には、地下の木棺の画像が拡散され始めている。
見出しは、どれも似たようなものだった。
青森のキリストの墓に衝撃の新発見。
地下から謎の人骨。
伝承は本当だったのか。
村が隠した聖者の正体。
怜司は画面を見ながら、奥歯を噛みしめた。
違う。
それは違う。
地下に眠っていたのは、聖者ではない。
見世物でもない。
三上伊佐衛門という、一人の人間だった。
海見の場に残されたのは、奇跡の証拠ではない。
アラムという、海へ帰れなかった子どもの記憶だった。
けれど、刺激的な言葉は速い。
丁寧な説明よりも、ずっと速く人の目に届く。
そして一度広がった見出しは、名前を上書きする。
アラムも、伊佐衛門も、また奪われようとしていた。
「書けそうですか」
車の外から声がした。
怜司が顔を上げると、十和田澪が立っていた。肩には雪が積もり、顔色はまだ悪い。それでも、目だけははっきりしていた。
「書けそうではあります」
怜司は答えた。
「ただ、正しく書けるかは分かりません」
澪は助手席側のドアを開け、車内に身を入れた。
「何を書くつもりですか」
怜司は画面を見せた。
そこには、まだ途中の原稿があった。
見出し。
――新郷村伝承地で発見された地下遺構について 未確認情報の拡散に注意
澪は黙って読んだ。
本文には、断定を避けた言葉が並んでいる。
青森県新郷村の伝承地周辺で、地下遺構とみられる空間が確認されたこと。
現場では警察および関係者が確認を進めていること。
人骨や古文書とみられるものが存在する可能性があるが、詳細は未確定であること。
宗教伝承との関係を断定する情報はないこと。
関係者、故人、地域、信仰への配慮が必要であること。
澪はしばらく黙っていた。
「かなり抑えていますね」
「抑えすぎですか」
「いえ」
澪は首を横に振った。
「今は、これが必要だと思います」
怜司は画面を見つめた。
「でも、これだけだとアラムの名も、伊佐衛門の名も出ません」
「今出したら、消費されます」
澪の声は静かだった。
「名前を出すことが、名を返すことになるとは限りません」
怜司は小さく息を吐いた。
まさに、その通りだった。
記事とは、事実を出すものだ。
けれど事実は、裸で投げればいいものではない。
受け取る側がいる。
誤読する者がいる。
利用する者がいる。
そして、傷つく者がいる。
「記者としては、迷います」
怜司は言った。
「何を?」
「今この瞬間、僕はかなり大きな情報を持っています。三上伊佐衛門、アラム、十和田清之進、久我玲一、葛原修二、榊原道隆。全部つながっている。事件としても、伝承史としても、記事価値は大きい」
「はい」
「でも、今それを書くと、死者の名を返す前に、話題として消費される」
怜司は指をキーボードの上で止めた。
「父は、それを恐れていたのかもしれません」
澪は少しだけ目を伏せた。
「宗一郎さんの言葉ですね」
怜司は父の手紙を取り出した。
何度も読み返したせいで、紙の折り目が少し弱くなっている。
――ここまで来たなら、もう止めない。
――ただし、真実を暴くな。
――名を返せ。
――そして、村を裁くな。
「今なら、少しだけ意味が分かります」
怜司は言った。
「でも、全部は分かりません。村を裁くな、という部分は、まだ納得できていない」
澪はうなずいた。
「私もです」
「十和田清之進のことがありますからね」
「はい」
澪は手を握りしめた。
「清之進は私の先祖です。でも、だからといって罪が消えるわけではありません。アラムを殺した。伊佐衛門に罪を着せた。その事実は、ちゃんと記録されるべきです」
「あなたは大丈夫ですか」
怜司が聞くと、澪は少し笑った。
「大丈夫ではありません」
「ですよね」
「でも、知らなかった頃には戻りたくありません」
その言葉に、怜司は黙った。
知らなかった頃には戻れない。
それは、怜司も同じだった。
父を、ただ寡黙で冷たい男だと思っていた頃。
青森のキリストの墓を、ただの奇妙な伝承だと思っていた頃。
記者として、真実は出せばいいと思っていた頃。
もう戻れない。
「澪さん」
怜司は言った。
「後で、十和田家の話を聞かせてください」
澪は怜司を見た。
「記事にするためですか」
「いつか」
怜司は正直に答えた。
「でも、今ではありません。あなたが話していいと思った時に」
澪はしばらく怜司を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
車の外で、透が近づいてきた。
額の傷には白いガーゼが貼られている。警察から事情を聞かれていたはずだが、顔にはまだ怒りが残っていた。
「原稿か」
「はい」
怜司は答えた。
「父のことは書くのか」
「今は書きません」
透の目が鋭くなる。
「隠すのか」
「違います」
怜司は画面を閉じなかった。
「久我玲一さんについては、まずあなたと確認します。手記も、正式な証拠として保全されるべきです。あなたの父親ですから」
透は黙った。
「でも、隠し続けるつもりはありません」
怜司は続けた。
「久我玲一さんは、消された。事故だったとしても、それを隠した人間がいた。そこは記事にするべきです」
「なら、なぜ今書かない」
「今書くと、“キリストの墓で消えた学者”という見出しになるからです」
透は何も言わなかった。
「あなたのお父さんも、物語にされます」
その一言で、透の表情がわずかに変わった。
怒りではない。
痛みに近いものだった。
「父は、物語にされるのを嫌っただろうか」
「分かりません」
怜司は言った。
「でも、少なくとも、利用されるために死んだわけではないと思います」
透は車の外に視線を向けた。
海見の場の方角。
そこに父の最後の足跡がある。
「俺は、父を探していた」
透は低く言った。
「だが、本当は父の死を探していたのかもしれない」
怜司は黙って聞いた。
「死んだ理由があれば、諦められると思っていた。誰が悪いのか分かれば、怒れると思っていた。けれど、見つかったのは理由ではなく、さらに古い罪だった」
「怒れませんか」
「怒っている」
透は即答した。
「葛原にも、修二にも、榊原にも、宗一郎にも、父にも」
怜司は父の名に少しだけ目を伏せた。
透は続けた。
「でも、一番腹が立つのは、俺が今も父を記事や手記の中でしか知らないことだ」
その声は静かだった。
静かだからこそ、深かった。
怜司はノートパソコンに視線を戻した。
「久我玲一さんの名も、必ず人として書きます」
透は怜司を見た。
「約束できるのか」
「できます」
「記者として?」
「人として」
透は少しだけ笑った。
「重い約束だな」
「そうですね」
「なら、覚えておく」
透は車から離れた。
澪がその背を見送る。
「彼も、帰る場所を探しているんですね」
「ええ」
怜司は言った。
「僕たち全員、そうなのかもしれません」
アラムは海へ帰りたかった。
伊佐衛門は人間の名へ帰るべきだった。
久我玲一は家族の記憶へ帰るべきだった。
修二は罪の告白へ帰ろうとしていた。
父は、死後になってようやく息子の前へ帰ってきた。
そして怜司自身も、父をただの沈黙から取り戻そうとしている。
外から警官が声をかけた。
「三上さん、榊原が話したいと言っています」
怜司は眉をひそめた。
「僕に?」
「はい」
澪が不安そうに見た。
「行きますか」
怜司は少し考え、ノートパソコンを閉じた。
「行きます」
榊原道隆は、別の警察車両の後部座席に座っていた。手首には手錠がかけられている。斜面で転んだせいか、頬に擦り傷があり、防寒着は泥で汚れていた。
だが、目だけはまだ死んでいなかった。
「三上宗一郎の息子」
榊原は怜司を見るなり、そう言った。
「怜司です」
「名乗りは大事だな」
「あなたに言われると皮肉ですね」
榊原は笑った。
「口も似ている」
「父と?」
「いや」
榊原は目を細めた。
「伊佐衛門にだ」
怜司は表情を変えなかった。
「会ったことがあるような言い方ですね」
「人は記録の中でなら、いくらでも会える」
「あなたは記録を利用した」
「利用しない記録に何の意味がある」
「意味はあります」
「保存か? 慰霊か? 研究か? どれも綺麗な言葉だ。だが、村を食わせてはくれない」
榊原の声には、疲れた現実が混じっていた。
「この村に何がある。雪、山、老人、消えていく家。若い者は出て行く。店は閉まる。バスは減る。そんな村に、キリストの墓という名は光だった」
怜司は黙って聞いた。
「嘘でも、人が来る。人が来れば金が落ちる。金が落ちれば村は生きる。お前たち記者や学者は、綺麗な顔で真実を語る。だが、真実だけで村は残らない」
それは完全な嘘ではなかった。
地方の現実。
人口減少。
観光資源への依存。
物語を求める外部の目。
榊原の言葉には、確かに現実があった。
だからこそ、危険だった。
現実を理由にすれば、人は死者の名すら売れる。
「村を残すためなら、何をしてもいいんですか」
怜司は尋ねた。
「何をしてもいいとは言わない」
「修二さんを沢へ落とした」
榊原の表情が一瞬硬くなった。
「事故だ」
「少し背中を押した、と言いました」
「言葉のあやだ」
「警察に同じ説明をしてください」
榊原は黙った。
怜司は続けた。
「アラムの墓を掘った。布を持ち出そうとした。榊原さん、あなたは村を守ろうとしたんじゃない」
「何?」
「村を利用しようとしたんです」
榊原の目が鋭くなる。
「この村を商品にしようとした。アラムも、伊佐衛門も、キリストの墓という伝承も、全部」
「それで村が生きるなら、悪か」
「悪です」
怜司ははっきり言った。
「死者の名を奪って生きる村なら、残す意味を失います」
榊原の顔が歪んだ。
「若造が」
「そうです。僕は若造です。村の苦しさも、あなたほど知らない。だから、あなたの全部を裁く資格はない」
怜司は一歩近づいた。
「でも、アラムをもう一度殺すことだけは止めます」
榊原はしばらく怜司を睨んでいた。
やがて、低く笑った。
「止められると思うか」
「止めます」
「人は見たいものを見る。お前がどれだけ丁寧に書いても、世間は“キリストの墓の真実”を読む。アラムなど読まない」
「それでも書きます」
「無駄だ」
「無駄でも書きます」
榊原は黙った。
怜司は車から離れようとした。
その背に、榊原の声が飛んだ。
「宗一郎は、最後に後悔していたぞ」
怜司は立ち止まった。
「何をです」
「久我を止めたことだ」
怜司は振り返った。
榊原は薄く笑っていた。
「四十年前、宗一郎は久我玲一を止めた。結果、久我は死に、修二は罪を背負い、村はまた嘘を重ねた。宗一郎は正しかったのか?」
怜司は答えなかった。
「お前も同じだ。今は慎重に、丁寧に、名を返すなどと言っている。だが、その遅さのせいで、また誰かが真実を奪うかもしれない」
榊原の声は、刃のようだった。
「暴く者と隠す者は、紙一重だ」
怜司は父の手紙を思い出した。
真実を暴くな。
その言葉は、今も胸に残っている。
けれど、榊原の言葉にも一理あった。
慎重さは、時に隠蔽に似る。
配慮は、時に沈黙に変わる。
名を守るつもりで、名を閉じ込めることもある。
だから、怜司は答えを変えた。
「だから、書き続けます」
榊原の笑みが消えた。
「何?」
「一度の記事で終わらせない。速報で消費させない。調査し、確認し、関係者の声を聞き、名前を戻す。時間をかけて書きます」
怜司は榊原を見た。
「暴くのでも、隠すのでもなく、記録します」
榊原は何も言わなかった。
怜司は車を離れた。
戻る途中で、澪が待っていた。
「何を話したんですか」
「嫌なことを言われました」
「そうですか」
「でも、必要なことでもありました」
澪は少しだけ首を傾げた。
怜司はノートパソコンのある車へ戻り、再び原稿画面を開いた。
そして、見出しを少し変えた。
――新郷村伝承地の地下遺構 未確認情報拡散、故人の尊厳と地域への配慮を
本文も整える。
断定は避ける。
刺激的な単語は使わない。
ただし、隠さない。
現場で地下遺構が確認されたこと。
古い墓標や記録が存在する可能性があること。
警察と関係機関による確認が必要であること。
関係者の同意なき画像拡散は、故人の尊厳を損なう恐れがあること。
宗教的・歴史的真偽について、現時点で断定できる材料はないこと。
最後に、一文を加えた。
――伝承に関わる場所であっても、そこに眠るのは「話題」ではなく、一人ひとりの名を持った人間である。
怜司はその一文を見つめた。
少し感情的かもしれない。
新聞記事としては、ぎりぎりだ。
だが、消さなかった。
送信ボタンを押す。
原稿は、編集部へ送られた。
数分後、上司から返信が来た。
――このまま出す。続報はお前が書け。
怜司は目を閉じた。
外では、雪が少しずつ弱まっていた。
海見の場の方から、澪の歌が聞こえる。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
今度は一人の声ではなかった。
十和田の祖母も、葛原老人も、そして村の何人かも、遠巻きに集まり始めている。
誰も大きな声では歌わない。
それでも、歌は確かに続いていた。
隠すためではない。
見世物にするためでもない。
名前を返すために。
怜司は車を降りた。
雪の上に立つと、足元が少し沈んだ。
遠くの山の向こうに、薄い青が見える。
海ではないかもしれない。
ただの空かもしれない。
それでも、怜司はその方角へ頭を下げた。
「アラム」
声に出した。
「三上伊佐衛門」
もう一度、声に出した。
そして、少し迷ってから、三人目の名を呼んだ。
「久我玲一」
透が近くで立ち止まった。
怜司は彼を見た。
「あなたのお父さんのことも、書きます」
透は黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「頼む」
その一言は、とても重かった。
怜司は頷き返した。
その時、スマートフォンが震えた。
編集部からではなかった。
非通知。
怜司は一瞬、迷った。
澪が気づいて近づく。
「出ますか」
怜司は通話を押した。
「三上怜司です」
しばらく、何も聞こえなかった。
風の音だけがあった。
やがて、低い声がした。
前の電話と同じ、加工された声。
「一つ、名を返したな」
怜司は目を細めた。
「あなたは誰ですか」
「まだ早い」
「榊原の仲間ですか」
「違う」
「では、何者です」
声は少しだけ笑った。
「三上宗一郎が、最後まで隠した者だ」
怜司の背筋が凍った。
「どういう意味です」
「アラムの名を返した。伊佐衛門の名も返した。久我玲一の名も、いずれ返すだろう」
声は静かに続けた。
「では、宗一郎自身の罪は、誰が返す?」
怜司は言葉を失った。
父の罪。
「父は何をしたんです」
電話の向こうで、わずかな沈黙があった。
そして、声は言った。
「昭和四十八年一月十七日。久我玲一が落ちた夜、三上宗一郎はもう一人を墓に入れた」
通話は切れた。
怜司はスマートフォンを握ったまま、動けなかった。
もう一人。
父が墓に入れた者。
雪の上で、二本の十字架が静かに立っている。
名を返す物語は、終わっていなかった。
むしろ、ここからが父の沈黙の中心だった。
怜司はゆっくりと顔を上げた。
朝の光が、墓の方から差し込んでいる。
そして、二本の十字架の影が、また別の場所を指していた。
お読みいただきありがとうございます。
第10話では、怜司が記者として第一報を書き、真実を「暴く」のではなく「名を返すために記録する」と決意しました。
しかし最後に、謎の電話が再びかかってきます。
「三上宗一郎はもう一人を墓に入れた」
次回、怜司は父自身の罪と向き合うことになります。




