第十一話 父が埋めた者
「三上宗一郎はもう一人を墓に入れた」
謎の電話が告げた言葉。
アラム、伊佐衛門、久我玲一。
名を返すはずの物語は、ついに三上怜司の父自身へ向かう。
父は何を隠したのか。
そして、誰を墓に入れたのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
三上宗一郎は、もう一人を墓に入れた。
その言葉は、雪よりも冷たく怜司の中に積もった。
電話は切れている。
だが、声だけが耳に残っていた。
加工された低い声。
榊原道隆でもない。
葛原重蔵でもない。
久我透でもない。
けれど、その人物は知っている。
昭和四十八年一月十七日の夜に何が起きたのかを。
久我玲一が海見の場で消えたことを。
そして、父・宗一郎が「もう一人」を墓に入れたことを。
怜司は、スマートフォンを握りしめたまま、二本の十字架を見つめていた。
朝の光が差し始め、十字架の影は雪の上を細く伸びている。
左の十字架。
右の十字架。
その影の先。
第八話で、影は杉の根元の石を示した。
そこには伊佐衛門の誓いが刻まれていた。
今、影はまた別の場所を指しているように見えた。
偶然かもしれない。
だが、この村では、偶然という言葉ほど信用できないものはなかった。
「三上さん」
澪が声をかけた。
怜司はゆっくり振り返った。
「今の電話、何を言われたんですか」
彼女の声には、心配と恐れが混ざっていた。
怜司は答えようとして、言葉に詰まった。
父が、もう一人を墓に入れた。
そのまま言えばいい。
だが、それを口にした瞬間、父が何か取り返しのつかないものに変わってしまう気がした。
これまで父は、隠した人間だった。
守った人間だった。
逃げた人間だった。
けれど、もし誰かを墓に入れたのなら。
それは、何を意味するのか。
殺したのか。
隠したのか。
弔ったのか。
まだ分からない。
分からないのに、言葉だけが先に父を裁こうとしている。
怜司は、ようやく口を開いた。
「父が、昭和四十八年の夜に、もう一人を墓に入れたそうです」
澪の表情が凍った。
「もう一人……」
久我透が近づいてきた。
「誰からだ」
「非通知です。前と同じ加工された声でした」
「内容はそれだけか」
「はい」
透は黙り込み、墓の方を見た。
その目には、怒りと警戒があった。
「宗一郎が、もう一人を墓に入れた」
透は繰り返した。
「久我玲一ではなく?」
「分かりません」
「父の遺体は見つかっていない。もし宗一郎が墓に入れたのが父なら、葛原の話と矛盾する」
葛原重蔵は少し離れた場所で、警官に付き添われていた。修二の死、伊佐衛門への謝罪、榊原の逮捕。それらが重なり、老人はほとんど立っているのも辛そうだった。
怜司は葛原の方へ歩いた。
澪と透も続く。
葛原は怜司の顔を見るなり、何かを察したように目を伏せた。
「また何かあったのか」
「聞きたいことがあります」
怜司の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「昭和四十八年一月十七日の夜、父は誰かを墓に入れましたか」
葛原の顔から血の気が引いた。
その反応だけで、十分だった。
「知っているんですね」
怜司は言った。
葛原は唇を震わせた。
「誰に聞いた」
「電話です」
「誰から」
「分かりません」
葛原は目を閉じた。
深い皺の刻まれた顔が、さらに老けて見えた。
「まだ、残っていたか」
「何がですか」
「見ていた者だ」
怜司は一歩近づいた。
「父は誰を墓に入れたんです」
葛原は答えなかった。
怜司は、怒鳴りたい衝動を必死に抑えた。
また沈黙。
また隠す。
だが今度は、父のことだ。
「葛原さん」
澪が静かに言った。
「話してください」
「お前たちは、もう十分知った」
葛原はかすれた声で言った。
「十分ではありません」
怜司は即座に返した。
「アラムの名を返した。伊佐衛門の名も返した。久我玲一さんのことも調べる。でも、父のことだけ隠されるなら、僕は何も終われません」
葛原は怜司を見た。
その目には、憐れみがあった。
それが、怜司には腹立たしかった。
「父を守るためですか」
「違う」
「では何のためです」
「お前を守るためだ」
怜司は思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「またそれですか」
葛原は何も言わない。
「父もそうでした。何も言わない。村もそうです。歌にして隠す。墓にして隠す。守るためと言いながら、結局、次の世代に爆弾を渡しているだけじゃないですか」
葛原の肩が震えた。
「その通りだ」
老人は呟いた。
「その通りだ、怜司」
初めて、名前で呼ばれた。
怜司は口を閉ざした。
葛原は杖を握りしめ、震える息を吐いた。
「宗一郎は、もう一人を墓に入れた」
その場にいた全員が息を詰めた。
「誰ですか」
怜司が問う。
葛原は、二本の十字架ではなく、その奥の森を見た。
「十和田悠一」
澪が反応した。
「悠一……?」
十和田の祖母が、遠くで目を閉じた。
澪は祖母を見た。
「誰?」
老婆は、ゆっくりと近づいてきた。
その足取りは重かった。
「私の弟だ」
澪の顔が強張った。
「叔父さん……?」
「お前には、病で死んだと伝えた」
老婆は静かに言った。
「本当は違う」
澪は声を失った。
十和田悠一。
第六話で語られた、四十年前に墓の前で歌い、死んだとされる男。
だが、それはまだ表面だった。
「悠一さんは、墓の前で死んだんじゃないんですか」
怜司が尋ねた。
老婆は首を横に振った。
「死んだ場所は、海見の場へ続く道だ」
透が険しい顔になる。
「久我玲一が消えた夜か」
葛原が頷いた。
「あの夜、海見の場には四人いた。久我玲一、三上宗一郎、葛原修二、そして十和田悠一」
「父の手記には、十和田悠一の名はなかった」
透が言った。
葛原は苦しげに答えた。
「久我は、悠一の名を書かなかった。いや、書けなかったのかもしれん。悠一は、歌い手として道を開いた。だが、その後に起きたことを知る前に……」
「死んだ」
怜司が言った。
葛原は頷いた。
「久我と宗一郎は海見の場で口論になった。修二が久我を止めようとして、久我は崖から落ちた。そこまでは話した通りだ」
「では、悠一さんは?」
老婆が答えた。
「悠一は、それを見ていた」
風が吹いた。
雪が十字架の根元で舞った。
「悠一は、久我玲一が落ちた瞬間を見た。修二が手を伸ばしたことも、宗一郎が止めようとしたことも、葛原が隠すよう指示したことも」
葛原が顔を歪めた。
「わしは……その場にはいなかった」
「でも、後で隠した」
老婆が冷たく言った。
葛原は否定しなかった。
怜司は続きを促した。
「悠一さんは、それを公表しようとしたんですか」
「そうだ」
葛原は答えた。
「悠一は、もう隠すのは終わりだと言った。アラムも、伊佐衛門も、清之進も、久我も、全部名を返すべきだと」
澪の目が揺れた。
「叔父さんは……そう言ったの?」
老婆は頷いた。
「悠一は優しい子だった。だが、優しすぎた。死者を隠して生きることに耐えられなかった」
「それで、誰が殺したんですか」
怜司の声は低かった。
葛原は答えなかった。
だが、怜司はもう一度問うた。
「父ですか」
澪が息を呑む。
透も黙った。
葛原は、長い沈黙のあと、首を横に振った。
「宗一郎は殺していない」
怜司の胸に、わずかな安堵が落ちた。
だが次の言葉が、それをすぐに凍らせた。
「だが、宗一郎は悠一を助けなかった」
怜司は息を止めた。
「どういう意味です」
葛原は雪の上へ視線を落とした。
「悠一は、久我が落ちたあと、村へ戻ろうとした。警察に話すと。宗一郎は止めた。今話せば、アラムも伊佐衛門も見世物にされる。久我の死も、修二の罪も、十和田家の罪も、全部一緒に暴かれる、と」
「それは父らしいですね」
怜司の声には、皮肉が滲んだ。
老婆が静かに続けた。
「悠一は聞かなかった。なら自分一人でも行くと言った」
「その後は?」
「雪が崩れた」
葛原が言った。
「海見の場から戻る途中の斜面だ。悠一は足を滑らせ、沢へ落ちた。宗一郎は手を伸ばした。届かなかった」
「事故ですか」
怜司が聞く。
誰も答えなかった。
その沈黙が、事故という言葉を拒んでいた。
「違うんですね」
怜司は言った。
葛原は苦しげに頷いた。
「宗一郎は、もう一度手を伸ばせた」
怜司の体が固まった。
「何ですか、それ」
「悠一はまだ生きていた。沢の下で、助けを呼んでいた。宗一郎は降りようとした。だが、修二が止めた。今助ければ、悠一は全部話す。久我のことも、修二のことも、村のことも」
「父は、それを聞いて降りなかった?」
葛原は答えない。
「答えてください」
怜司の声が震えた。
葛原は目を閉じた。
「宗一郎は、降りなかった」
雪の音が消えた。
怜司の中で、父の顔が崩れていく。
冷たい父。
寡黙な父。
何も語らなかった父。
その奥にいたのは、ただ守るために黙った男ではなかった。
助けを求める人間を前にして、降りなかった男。
「悠一さんは、そのまま死んだんですか」
怜司が聞いた。
老婆が答えた。
「いいえ」
怜司は顔を上げた。
「え?」
「悠一は死ななかった」
澪が声を失った。
葛原も苦しげに続けた。
「夜になって、宗一郎は戻った。戻って、悠一を見つけた」
「生きていた?」
「かろうじて」
「なら、病院へ運べば」
葛原は首を横に振った。
「その頃には、もう助からない状態だった」
「でも、生きていたんですよね」
怜司は詰め寄った。
「父は何をしたんですか」
葛原の顔が歪んだ。
「悠一は宗一郎に頼んだ」
「何を」
老婆が静かに言った。
「墓へ入れてくれ、と」
怜司は理解できなかった。
「なぜです」
「悠一は、自分が生きて戻れば、また村は隠すと言った。だが自分が死ねば、十和田家は歌を失い、いつか誰かが道を辿る。だから、自分を墓に入れろと」
「意味が分かりません」
怜司の声は掠れた。
「死ぬなら、なぜ墓に?」
老婆は目を伏せた。
「悠一は、自分の死を目印にした」
澪が震える声で言った。
「目印……」
「そうだ」
老婆は頷いた。
「アラムと伊佐衛門の名に辿り着くための、四十年後の目印に」
怜司は父の手紙を思い出した。
開けてはならないものを見た。
父は、何を見たのか。
それは、墓の中の真実だけではない。
死にかけた十和田悠一が、自分を未来の手がかりにする瞬間だったのか。
「父は、悠一さんをどこへ入れたんですか」
葛原は、左の十字架を見た。
「名の墓の下だ」
「伊佐衛門の墓では?」
「地下の木棺には伊佐衛門がいた。だが、地上の名の墓には、悠一の遺品が入っている」
「遺体は?」
「沢の近くに隠し葬った」
老婆が言った。
「けれど、悠一の声を入れた」
「声?」
澪が呟く。
老婆は頷いた。
「悠一が最後に歌った歌を書き残した紙だ」
怜司は父の写真を握りしめた。
「父が墓に入れたもう一人とは、悠一さんの遺体ではなく、歌?」
葛原が答えた。
「そうだ。だが、宗一郎にとっては同じだった。悠一という人間の最後の声を、墓へ入れた」
怜司は混乱していた。
父は悠一を助けなかった。
だが、その最後の願いを聞いた。
墓へ歌を入れた。
未来の誰かが辿り着けるように。
それは罪なのか。
弔いなのか。
隠蔽なのか。
告発なのか。
一つの言葉では、どうしても収まらない。
「なぜ父は、それを僕に言わなかったんですか」
怜司は呟いた。
老婆が答えた。
「宗一郎自身が、自分を許せなかったからだ」
怜司は黙った。
葛原も言った。
「あいつは、四十年間、悠一の声を背負っていた」
「背負っていたなら、話せばよかった」
怜司の声は震えていた。
「母にでも、僕にでも、警察にでも。なぜ何も言わなかったんですか」
葛原は答えられなかった。
澪が静かに言った。
「言えば、自分が裁かれるからではなく、悠一さんの最後の仕掛けが壊れると思ったのかもしれません」
怜司は澪を見た。
「父を庇うんですか」
「庇ってはいません」
澪の目には涙があった。
「私の叔父は、あなたのお父さんに助けられなかった。でも同時に、あなたのお父さんに最後の声を託した。私は、その両方を見ないといけないと思います」
その言葉は、怜司の怒りを逃がさなかった。
ただ、形を変えた。
父は加害者なのか。
証人なのか。
墓守なのか。
罪人なのか。
おそらく、その全部だった。
「墓を確認しましょう」
怜司は言った。
警官が即座に反応した。
「正式な手続きなしに掘ることはできません」
「掘りません」
怜司は左の十字架を見た。
「影の先に、何かあるはずです。父はそういう形で残している」
澪が写真をもう一度確認した。
「第八話で見た写真では、右の十字架の影が清之進の石を示していました。左の十字架の影も、別の場所を示している可能性があります」
「今の影は?」
朝日はさらに高くなり、左の十字架の影は先ほどより短くなっていた。
だが、その先はまだ雪の上に伸びている。
影の先は、左の墓の後方、小さな岩の前で止まっていた。
警官の許可を得て、表面の雪だけを慎重に払う。
岩が現れた。
苔に覆われている。
だが、中央に細い切れ込みがあった。
まるで、何かを差し込むための溝のようだった。
怜司は文箱を開けた。
錆びた鍵は、前に祠の仕掛けで落ちた。
だが、文箱の底にはもう一つ、小さな木片が残っていた。
今まで、ただの箱の欠けた部分だと思っていた。
だが、よく見ると形が合う。
細長く、薄い。
怜司はそれを取り出し、岩の溝へ差し込んだ。
ぴたりとはまった。
その瞬間、岩の表面がわずかに開いた。
中には、小さな油紙の包みがあった。
警官が写真を撮り、手袋をした上で慎重に取り出す。
「開けますか」
警官が確認する。
怜司は、澪と老婆を見た。
老婆は頷いた。
「悠一の声だ」
油紙を開く。
中には、古い和紙が入っていた。
文字は震えている。
血のような染みもあった。
澪が口元を押さえた。
「叔父さんの字……?」
老婆が頷く。
「そうだ」
和紙には、歌詞が書かれていた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
その下に、これまで聞いたことのない節が続いている。
ミツノナヲヨベ。
ウミノコ、ツミノヒト、コエノモリ。
ミツガソロエバ、ユキハトケル。
澪が読み上げた。
「三つの名を呼べ。海の子、罪の人、声の守り。三つが揃えば、雪は解ける」
「海の子はアラム」
怜司が言った。
「罪の人は、清之進ですか」
澪が首を横に振った。
「たぶん、伊佐衛門です。罪を着せられた人。罪を負わされた人」
「声の守りは、悠一さん」
透が言った。
三つの名。
アラム。
三上伊佐衛門。
十和田悠一。
それらが揃えば、雪は解ける。
比喩なのか。
仕掛けなのか。
それとも、村が隠してきた最後の扉を開く言葉なのか。
和紙の最後に、短い文章があった。
怜司は息を呑んだ。
そこには、震える字でこう書かれていた。
――宗一郎を責めるな。
――あいつは弱かった。
――けれど、最後まで見ていた。
――見ていた者は、いつか語らねばならない。
怜司の胸が締め付けられた。
父は弱かった。
悠一はそう書いている。
許しているのではない。
庇っているのでもない。
ただ、人間として見ている。
弱かった。
それでも見ていた。
見ていた者は、いつか語らねばならない。
父は語らなかった。
だから、怜司がここにいる。
「父は……語れなかったんですね」
怜司は呟いた。
澪が静かに言った。
「でも、あなたに残しました」
「それは語ったことになりますか」
「分かりません」
澪は正直に答えた。
「でも、黙り続けたまま終わらせるつもりではなかったのだと思います」
怜司は和紙を見つめた。
怒りは消えない。
父が悠一を助けなかったこと。
それを隠したこと。
自分に説明しなかったこと。
どれも許せない。
だが、父がただの冷たい男だったという見方も、もうできなかった。
父は弱かった。
その言葉が、一番近いのかもしれない。
人を救えなかった弱さ。
真実を出せなかった弱さ。
それでも、完全に捨てることもできなかった弱さ。
怜司は、父の弱さを初めて見た気がした。
その時、澪が和紙の裏に気づいた。
「裏にも何かあります」
警官が慎重に裏返す。
そこには、小さな地図が描かれていた。
二本の十字架。
地下の祠。
海見の場。
そして、もう一つ。
村の古い集会所の印。
「これは?」
怜司が聞く。
老婆が顔を強張らせた。
「寄合座の跡だ」
「座にあり」
澪が呟いた。
石に刻まれていた言葉。
罪は血にあらず、座にあり。
罪は個人の血筋ではなく、村の意思決定の場にある。
「そこに、何があるんですか」
怜司が尋ねる。
老婆は答えなかった。
葛原が代わりに言った。
「座帳だ」
「座帳?」
「寄合座が何を決めたかを記した帳面だ。清之進の罪をどう扱うか。伊佐衛門に何を背負わせるか。アラムの墓をどう隠すか。すべて書かれているはずだ」
怜司の心臓が大きく鳴った。
それがあれば、伝承ではなく記録になる。
アラムの死。
伊佐衛門の冤罪。
清之進の罪。
村の隠蔽。
すべてが、口伝ではなく文字として残っている。
「今もあるんですか」
葛原は頷いた。
「あるなら、そこだ」
「なぜ今まで出さなかったんです」
「開けられなかった」
「誰が持っているんですか」
葛原は苦い顔をした。
「榊原だ」
怜司は息を呑んだ。
榊原道隆。
確保されたはずの男。
だが、彼が座帳を持っているなら、まだ終わっていない。
その時、警官の無線が鳴った。
「こちら本部。榊原道隆を搬送中、容体急変。救急対応のため一時停止。所持品確認中に古い帳面らしきものを発見――」
警官が応答しようとした瞬間、無線の向こうで怒号が響いた。
雑音。
誰かが叫んだ。
「榊原が逃げた!」
全員が凍りついた。
無線は混乱していた。
「帳面を持って逃走! 村旧集会所方面へ向かった模様!」
怜司は和紙の地図を見た。
寄合座の跡。
榊原は、そこへ向かっている。
「座帳を燃やす気です」
怜司は言った。
透が即座に動いた。
「行くぞ」
警官が止める。
「待ってください、応援を――」
「間に合いません」
澪が言った。
「旧集会所は木造です。火をつけられたら終わりです」
葛原が震える声で言った。
「座帳が燃えれば、また口伝だけになる。そうなれば、榊原のような者がいくらでも話を変えられる」
怜司は父の手紙と悠一の和紙を文箱に収めた。
そして、二本の十字架を見た。
アラム。
伊佐衛門。
悠一。
三つの名を呼べ。
三つが揃えば、雪は解ける。
「行きましょう」
怜司は言った。
澪が頷く。
透も頷いた。
老婆は小さく歌い始めた。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
それは道を開く歌ではなかった。
急げ、と背中を押す歌だった。
怜司たちは旧集会所へ向かって走り出した。
雪はまだ深い。
足は重い。
けれど、今度は迷わなかった。
父が埋めた者は、十和田悠一の声だった。
その声は、四十年後の今、怜司たちを最後の記録へ導いている。
旧集会所の屋根が、森の向こうに見えた。
その上に、黒い煙が細く立ち上っていた。
「榊原!」
透が叫んだ。
怜司は歯を食いしばり、さらに走った。
もう燃やさせない。
もう隠させない。
もう、名を奪わせない。
雪の中で、旧集会所の扉が赤く揺れていた。
火の光だった。
お読みいただきありがとうございます。
第11話では、三上宗一郎が「墓に入れたもう一人」が、十和田悠一の最後の声だったことが明かされました。
悠一は宗一郎を完全には許していません。
ただ、「弱かった」と記し、それでも見ていた者は語るべきだと残しました。
次回、榊原が燃やそうとする「座帳」を巡り、怜司たちは旧集会所へ向かいます。




