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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第四十八話 雪の下の名

アラムは墓前の言葉に置かれた。

カヨは歌の手前に。

リクは呼び声の中に。

悠一は歌の中に。

宗一郎は責任の中に。

読めない名は、消さないという約束の中に。


名は、それぞれの場所を得始めた。


だが、すべてが明らかになったわけではない。

読めない文字は残り、未確定の資料も残り、歌の未来もまだ決まっていない。


怜司は、連載の終わりへ向けて、最初に訪れた墓へもう一度向かう。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

朝の空は、淡く白かった。


雪ではない。


春の霞だった。


三上怜司は、資料館の前に立ち、墓へ続く道を見上げた。


初めてこの村へ来た日、道は雪に覆われていた。

タクシーの窓の外は白く、音が遠く、村そのものが息を潜めているようだった。


あの日、怜司は父の遺品から見つかった写真と手紙だけを頼りに、この場所へ来た。


――ヘライの墓を掘るな。

――あれは神の墓ではない。罪の墓だ。


父の言葉は、今でも胸に残っている。


だが、あの時とは違う。


怜司は、もう「罪の墓」という言葉だけでは、この場所を見られなくなっていた。


罪はあった。


それは消えない。


清之進の罪。

修二の罪。

宗一郎の沈黙。

葛原の逃げ。

久我玲一の急ぎ。

榊原の欲と火。


だが、それだけではない。


守ろうとした手もあった。

歌に逃がされた言葉もあった。

母を呼ぶ声もあった。

読めないまま残された名もあった。


罪だけで呼べば、また誰かを置き去りにする。


怜司は一人で坂道を上った。


今日は取材ではない。


録音機も持っていない。

カメラも持っていない。

手帳は鞄にあるが、すぐ取り出すつもりはなかった。


最終回を書く前に、もう一度ここへ来たかった。


墓の前に着くと、風が少し冷たかった。


二つの墓。


長く伝承の中心として語られてきた場所。


今は、案内文が少し変わっている。


伝説の真偽を急がない。

アラムという名を含む、複数の人物の記憶が重なっている。

地域が何を語り、何を語れなかったのかを考える場所。


その言葉が、簡易の掲示として立てられていた。


まだ仮のものだった。


板も新しく、文字も印刷した紙を保護して貼っただけだ。


完成された展示ではない。


だが、今はそれでいいと思った。


仮であること。


変わり続けること。


それこそが、この場所に必要だった。


怜司は、墓の前で立ち止まった。


手を合わせるべきか迷った。


祈りに来たわけではない。


だが、何もしないで立ち去ることも違う気がした。


結局、怜司は軽く頭を下げた。


誰に向けたのかは分からない。


アラムか。

リクか。

カヨか。

伊佐衛門か。

悠一か。

父か。

読めない名たちか。


分からないまま、頭を下げた。


「三上さん」


背後から声がした。


振り返ると、十和田澪が立っていた。


「来ると思っていました」


怜司は少し笑った。


「僕も、澪さんが来る気がしていました」


澪は墓のそばまで歩いてきた。


今日は一人だった。


「おばあちゃんは?」


「家です。今日は、私だけ」


「そうですか」


二人は並んで墓を見た。


しばらく、何も言わなかった。


風が木の枝を揺らす。


遠くで鳥の声がした。


初めて来た時のような雪の静寂ではない。


春の音があった。


「ここ、変わりましたね」


澪が言った。


「はい」


「石は変わっていないのに」


「言葉が変わりました」


「言葉が変わると、場所も変わるんですね」


怜司は頷いた。


「そう思います」


澪は仮の掲示を見た。


「アラムの名前がここにあるの、まだ少し怖いです」


「はい」


「でも、ない方が怖い」


「そう言っていましたね」


「はい」


澪は少しだけ笑った。


「私、同じことばかり言っていますね」


「大事なことは、何度言ってもいいと思います」


澪は墓を見たまま言った。


「三上さん、最終回を書くんですか」


怜司は息を吸った。


「はい」


「どんな終わりにしますか」


「まだ、分かりません」


「分からないまま書くんですか」


「たぶん」


澪は少し笑った。


「この連載らしいですね」


怜司も小さく笑った。


分からないまま書く。


それは、最初の頃なら恐ろしかった。


今も怖い。


だが、分からないことを分からないまま置くことの意味を、怜司は少しだけ学んだ。


「全部は分かっていません」


怜司は言った。


「女名控も、まだ読めないところがあります。リクの名も確定ではありません。かよ節も、これからどう残すか決まっていない。音源公開も未定です。展示も仮です」


澪は頷いた。


「はい」


「でも、終われる気がします」


「なぜですか」


怜司は少し考えた。


「分からないことを抱えたまま続ける仕組みが、少しできたからです」


澪は、ゆっくり頷いた。


「それなら、終わっても続きますね」


「はい」


「なら、いいと思います」


その言葉に、怜司は救われた。


終わっても続く。


連載は終わる。


だが、村は続く。


歌も、展示も、学校も、墓前案内も、読む会も、続く。


続くものができたなら、記事は終われる。


その時、坂道の下から足音がした。


村井だった。


保存会の帽子をかぶり、手には案内用の資料を持っている。


「おや、二人とも」


「おはようございます」


怜司と澪が頭を下げる。


村井は少し照れくさそうに笑った。


「今日は、午前中に一組案内がありまして」


「新しい説明ですか」


怜司が聞くと、村井は頷いた。


「まだ噛みます」


「噛むんですか」


「噛みますよ。前の説明は体に染みついていましたから」


村井は墓を見た。


「でも、噛むくらいでちょうどいいのかもしれません」


「なぜですか」


「すらすら言えると、また軽くなる気がする」


怜司は、その言葉に胸を打たれた。


すらすら言えると、軽くなる。


村井は続けた。


「案内人が少し立ち止まる。聞く人も少し立ち止まる。それでいいと思うようになりました」


澪が頷いた。


「私も、そう思います」


村井は少し離れた場所で案内資料を確認し始めた。


怜司は、その姿を見ながら思った。


保存会も変わった。


完全ではない。


迷いながら。

噛みながら。

それでも、前と同じ説明には戻らない。


それは、小さくて確かな変化だった。


墓を下りると、資料館へ向かった。


更新コーナーには、数人の来館者が立ち止まっていた。


佐野が、少し離れたところから様子を見ている。


一人の来館者が、掲示を指して言った。


「まだ分からないことが多いんですね」


佐野は笑顔で答えた。


「はい。なので、分からないことも一緒に展示しています」


その答えに、来館者は少し驚き、それから頷いた。


「そういう展示もあるんですね」


「はい。今は、そうしています」


資料館も変わった。


完成した答えを並べる場所ではなく、未確定を共有する場所へ。


怜司は、出口近くに置かれた「名前の置き場所」の掲示を見た。


そこには、悠一の言葉が短く紹介されている。


――書くだけでは足りない。

――でも、書かないと消える。


その言葉は、もう怜司だけのものではない。


資料館の言葉になり、来館者の目に触れ、学校資料にも入る予定だ。


便利な言葉にならないよう、文脈を添えて。


佐野が怜司に近づいた。


「最終回、書くんですね」


「みんな知っていますね」


「編集デスクさんが、昨日役場に連絡していました」


「そうですか」


「寂しいです」


佐野は正直に言った。


「でも、正直、少しほっとします」


怜司は笑った。


「分かります」


「連載が動くたび、現場も動きましたから」


「すみません」


「いいんです。でも、少し休ませてください」


「はい」


二人は笑った。


その笑いの中には、疲れもあった。


だが、悪い疲れではなかった。


午後、怜司は十和田家を訪ねた。


澄江に最終回の前に話を聞きたかった。


澄江は縁側に座っていた。


庭には、小さな花が咲き始めている。


「終わるそうだね」


「はい」


「終われるのかい」


怜司は少し困った。


「分かりません」


澄江は笑った。


「正直でよろしい」


怜司は座布団に座った。


「最終回で、何を書くべきか考えています」


「雪の下の名を書くんだろう」


「はい」


「なら、雪が解けたとは書かない方がいい」


怜司は顔を上げた。


澄江は庭を見ていた。


「全部解けたわけではない。まだ土の中に残っているものもある。読めない名もある。語れない声もある。歌えない歌もある」


「はい」


「でも、雪の下にあると知っているのと、知らないのとでは違う」


怜司は、深く頷いた。


澄江は続けた。


「前は、雪そのものを見ていた。きれいだとか、白いとか、静かだとか。今は、その下に名があると知っている」


「はい」


「それで十分ではないけれど、始まりにはなる」


怜司は手帳を開いた。


雪が解けたのではない。

雪の下に名があると知った。


最終回の核に近い言葉だった。


「澄江さん」


「何だい」


「アラムたちは、戻ったと思いますか」


澄江は、長く黙った。


やがて言った。


「少しね」


「少し」


「全部戻るなんてことはない。死んだ人は戻らない。正しい名も分からない。声も全部は聞けない」


「はい」


「でも、呼ばれる場所はできた」


澄江は怜司を見た。


「それを戻ったと言うなら、少し戻った」


怜司は、その言葉を心に刻んだ。


少し戻った。


それでいい。


大きく救わない。


完全に解決しない。


少し戻った。


そのくらいが、この物語に合っている。


澄江は最後に言った。


「怜司さん」


「はい」


「最終回で、宗一郎さんを忘れないで」


怜司の手が止まる。


「父を?」


「そう。あの人は、許されなくていい。でも、ここまで来た始まりには、あの人の箱もあった」


怜司は黙った。


父の箱。


そこから、すべてが始まった。


腹立たしいほど遅く、不完全で、息子に重荷を渡すような箱。


それでも、そこに音源と手紙があった。


父は消さなかった。


渡せなかった。


その両方を、最終回でも忘れてはいけない。


「書きます」


怜司は言った。


澄江は頷いた。


夜、怜司は資料館の一室で原稿に向かった。


最終回ではない。


その一つ前。


最終回を書くための準備として、今日の取材をまとめる回にすることにした。


仮題。


――少し戻った名


本文は、春の墓から始める。


雪の消えた道。

仮の案内板。

アラムの名を噛みながら説明する村井。

資料館で未確定を共有する佐野。

澄江の言葉。


雪が全部解けたわけではない。

でも、雪の下に名があると知った。


記事の中心には、澄江の「少し戻った」を置いた。


アラムは少し戻った。

カヨも少し戻った。

リクも、呼び声として少し戻った。

悠一も、歌の中へ少し戻った。

宗一郎も、責任の中へ戻った。

読めない名も、消さない約束の中へ少し戻った。


完全ではない。


だが、少し戻った。


怜司は、最後にこう書いた。


――この連載は、失われた名を完全に取り戻したわけではない。むしろ、完全には戻らないことを確認してきた。だからこそ、少し戻った名を、どこに置き、誰が次へ渡すのかが問われる。雪の下に名があると知った村は、もう以前と同じ白さだけを見ることはできない。


翌朝、第24回が公開された。


――雪の下の名 第二十四回

――少し戻った名 雪が解けたのではなく、名があると知った


反応は静かだった。


「少し戻った、がいい」

「完全解決じゃないのがこの連載らしい」

「雪が解けたのではなく、名があると知った、が残る」

「最終回前の静けさを感じる」

「宗一郎の箱も始まりだった、という視点が苦い」


昼過ぎ、編集デスクから電話が来た。


「次が最終回だ」


「はい」


「タイトルは?」


怜司は、手帳を見た。


そこには、もう書いてある。


――雪の下の名


「そのままです」


編集デスクは、少しだけ黙った。


「いい。逃げるなよ」


「はい」


「救いすぎるな」


「はい」


「暗く終わりすぎるな」


「難しいですね」


「それを書くのがお前の仕事だ」


電話は切れた。


夕方、怜司はもう一度資料館の外に出た。


白い花が、今日も置かれている。


誰かが水を替えている。


誰なのか、今も分からない。


怜司は、もう探そうとは思わなかった。


分からないまま残るものもある。


花は、花としてそこにある。


それでいい。


明日、最終回を書く。


雪の下の名。


すべての始まりであり、終わりではない題。


怜司は、春の空を見上げた。


白い雪はない。


だが、名はまだ土の下にも、歌の中にも、紙の端にも、人の声にも残っている。


それらを完全に掘り起こすのではなく、これからも呼び直し続ける。


そのための最終回を書く。


怜司は、静かに資料館へ戻った。

お読みいただきありがとうございます。

第48話では、最終回前に、怜司がもう一度墓と資料館、十和田家を訪れました。


雪がすべて解けたわけではない。

それでも、雪の下に名があると知った。

アラムたちは、完全に戻ったのではなく、少し戻った。


次回、最終回です。

連載タイトルでもある「雪の下の名」へ戻り、この物語を締めます。

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