第四十九話 雪の下の名
雪は、すべてを隠す。
罪も、声も、名も、守ろうとした手も、逃げた背中も。
けれど、雪の下に何かがあると知った時、もう同じ白さには戻れない。
アラム。
カヨ。
リク。
悠一。
宗一郎。
久我玲一。
葛原重蔵。
榊原道隆。
そして、まだ読めない名。
完全には戻らない。
すべては分からない。
それでも、呼び直し続けることはできる。
これは、雪の下にあった名をめぐる物語の、ひとまずの終わりです。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
最終回の朝、三上怜司は父の黒い文箱を開いた。
古い木の匂いが、かすかに残っている。
初めて開けた時、この箱は重かった。
物理的な重さではない。
開けてはいけないものを開けてしまったような、触れた瞬間に過去から手を掴まれるような重さだった。
中には、写真があった。
手紙があった。
鍵があった。
録音テープがあった。
そして、父・三上宗一郎の沈黙があった。
その沈黙を、怜司は長く憎んだ。
今でも、許したわけではない。
父は、聞いていた。
悠一の声を聞いていた。
沢で何かが起きていることを知っていた。
それでも、助けに行かなかった。
その事実は消えない。
どれほど父が苦しんだとしても、どれほど村を恐れたとしても、どれほど三上家の名に縛られていたとしても。
助けに行かなかったという事実は、消えない。
けれど、今の怜司は、その事実だけで父を閉じることもできなくなっていた。
父は消さなかった。
渡せなかった。
隠した。
逃げた。
しかし、燃やさなかった。
不完全で、遅く、卑怯で、苦しい形ではあったが、箱は残った。
そして、その箱から、声は戻った。
悠一の歌が戻った。
カヨの名が戻った。
リクの呼び声が戻った。
女名控が見つかり、読めない名も消さないことになった。
父を許すためではない。
父の沈黙を美化するためでもない。
ただ、始まりの一つに、この箱があったことは書かなければならなかった。
怜司は、箱の底に残っていた父の手紙を取り出した。
――誰も、簡単な形にするな。
その一文は、最初から最後まで、この連載を縛っていた。
簡単な形。
神秘の村。
伝説の真相。
隠された聖者。
悲劇の母。
勇敢なカヨ。
悪い清之進。
急いだ久我。
黙った宗一郎。
燃やそうとした榊原。
どれも、そう言えなくはない。
だが、そうだけではない。
簡単な形にした瞬間、誰かがまた消える。
怜司は、文箱を閉じた。
そして、机に向かった。
最終回の原稿ファイルを開く。
タイトルは、もう決めていた。
――雪の下の名
本文の最初に、怜司はこう書いた。
――この連載は、青森の小さな村に伝わる一つの伝承を追うところから始まった。だが、取材を進めるうちに見えてきたのは、伝承の真偽だけではなかった。長く語られてきた物語の下に、語られなかった名があるという事実だった。
手が止まる。
事実。
その言葉は強い。
どこまでが事実か。
アラムの名。
カヨの記述。
リクの音。
悠一の録音。
女名控。
久我の手記。
宗一郎の手紙。
榊原の証言。
確認できたもの。
確認中のもの。
推定に留まるもの。
口承として残るもの。
一つにしてはいけない。
怜司は書き直した。
――見えてきたのは、長く語られてきた物語の下に、語られなかった名がある可能性であり、その名をどう扱うかという現在の問いだった。
これでいい。
最終回でも、断定を急がない。
怜司は続けた。
アラムについて。
彼は、村の謎ではない。
観光の素材ではない。
聖者でも、伝承を証明するための鍵でもない。
母を呼んだかもしれない子。
帰る場所があったかもしれない子。
ここに来たかったかどうかは分からない。
けれど、帰りたかったかもしれない。
中学生の言葉を思い出す。
――来たかったかは分からない。でも帰りたかったかもしれない人を、村のものにしない。
怜司は、その一文を最終回にも入れた。
もちろん、匿名で、学校と本人確認を取った上で。
それは、大人がどれほど議論しても出せなかった、まっすぐな言葉だった。
次に、カヨ。
カヨは、守ろうとした人として見えてきた。
だが、守れなかった人でもある。
勇敢な女性としてだけ語れば美談になる。
失敗した人としてだけ語れば、また責めるための名になる。
カヨは歌の手前にいる。
まだ舞台には上がっていない。
拍手を受ける場所には出ていない。
十和田家の記憶と、女名控の初期読解と、資料館の説明の間にいる。
怜司は書いた。
――カヨの名は、今、歌の手前に置かれている。歌われる前に、人として受け止める時間が必要だからだ。
次に、リク。
リクは、最も不確かな名だった。
本当の名かもしれない。
そうではないかもしれない。
アラムが母を呼んだ声を、村人がそう聞いたのかもしれない。
怜司は、澄江の言葉を思い出した。
――正しい名かどうかより、呼ぼうとした声として置きなさい。
書いた。
――リクは、確定した名としてではなく、呼び声として残っている。間違っているかもしれないことを忘れずに、それでも消さない名として。
次に、悠一。
十和田悠一は、長く事故と一緒に語られてきた。
久我玲一の死。
沢の出来事。
四十年前の村の沈黙。
しかし、録音の中で、彼は自分の声を持っていた。
歌を残した。
忘れたら駄目だと言った。
名前は呼ぶと戻るが、置く場所がなければまた迷う、と語った。
怜司は書いた。
――悠一は、被害者という言葉だけでは足りない。彼は歌を残した人であり、名の置き場所を考えていた人だった。
次に、久我玲一。
急ぎすぎた記録者。
彼は、村の沈黙を破ろうとした。
だが、人を見落とした。
手続きを飛ばした。
悠一を巻き込んだ。
伝承の下に人間を見ながら、その人間を守る手順を急ぎすぎた。
透の言葉。
――父は、ちゃんと失敗した人として置かれた。
怜司は、その言葉を入れた。
失敗をなかったことにしない。
だが、失敗だけにしない。
次に、宗一郎。
ここで、手が止まった。
父のことを書く時、怜司はいつも記者ではなく息子に戻ってしまう。
だが、最終回では逃げられない。
怜司は深く息を吸い、書いた。
――三上宗一郎は、声を聞いていた。助けに行かなかった。その責任は消えない。一方で、彼は記録を燃やさず、箱に残した。渡せなかったことと、消さなかったこと。その両方を、同時に置かなければならない。
書きながら、胸が痛んだ。
だが、これ以上でも以下でもないと思った。
父は許されていない。
しかし、父の箱は始まりだった。
次に、葛原重蔵。
預かったまま老いた人。
最後に少しだけ渡した人。
葛原の言葉も入れた。
――読めない名も、そこにある名だ。急いで読んだことにするな。
次に、榊原道隆。
燃やそうとした男。
名を自分のものにしようとした人。
彼の責任は消えない。
だが、彼の言葉もまた、警告として残る。
――名を一人で持つな。
怜司は、ここでも念を押した。
――これは免罪の言葉ではない。自分のものにしようとした者が、遅れて口にした警告である。
最後に、読めない名。
サヨ。
トメ。
ミツ。
そして、まだ読めない名。
怜司は、最終回の中で、この名たちを小さくしないよう気をつけた。
アラム、カヨ、リク、悠一。
強い名ばかりが残りやすい。
だが、女名控には、それ以外の名もあった。
読めない名もあった。
そこを忘れれば、また本帳の外へ置くことになる。
怜司は書いた。
――読めない名を、読めないまま残すこと。それは、分かったふりをしないという約束である。物語にならない名を、物語にならないまま置いておくことでもある。
原稿は、思ったより長くなった。
しかし、削れなかった。
最終回だからではない。
短くすると、簡単な形になってしまうからだ。
怜司は、結びの段落に向かった。
雪。
この物語は、雪から始まった。
雪の中の墓。
雪に書かれた文字。
雪の下に隠された罪。
雪の下にあった名。
だが、今は春だった。
雪は消えた。
それでも、すべてが解けたわけではない。
澄江の言葉。
――雪が解けたとは書かない方がいい。
――雪の下に名があると知った。
怜司は、最後の文章を書いた。
――雪は、すべてを隠す。だが、雪の下に名があると知った時、人はもう同じ白さだけを見ることはできない。アラムの名も、カヨの名も、リクと聞き取られた呼び声も、悠一の歌も、読めない名も、完全には戻らない。それでも、呼び直す場所は少しずつできた。墓前の言葉、資料館の掲示、学校の問い、歌の手前、責任の中、警告の中、そして誰かの記憶の中に。
そこで一度、手を止めた。
まだ、終われない。
最後の一文。
何度も書いては消した。
「真実は終わらない」では大きすぎる。
「村は変わった」では強すぎる。
「名は戻った」では救いすぎる。
「雪は解けた」では嘘になる。
怜司は、窓の外を見た。
資料館の前の白い花が見える。
誰が替えているのか分からない花。
分からないまま続いている小さな行為。
それが、この物語の終わりに一番近い気がした。
怜司は最後に、こう書いた。
――だからこの村は、これからも雪の下の名を、少しずつ呼び直していく。
原稿を送信したのは、深夜だった。
編集デスクからの返信は、いつもより遅かった。
一時間後。
――これでいこう。
――長いが、削らない。
――最終回として出す。
――お疲れ。
最後の一行を見て、怜司はしばらく動けなかった。
お疲れ。
それだけの言葉なのに、体の力が抜けた。
翌朝、最終回が公開された。
――雪の下の名 最終回
――雪の下の名 呼び直し続けるために
怜司は、資料館の端末でその見出しを見た。
公開された瞬間、何かが終わった感覚はなかった。
むしろ、静かに手を離したような感覚だった。
自分が握っていたものを、少し離す。
記事はもう、読者のものになる。
村のものになる。
反応は、ゆっくり届いた。
「完全に解決しない終わり方でよかった」
「雪が解けたのではなく、雪の下に名があると知った、が残る」
「宗一郎を許さず、でも消さない書き方がよかった」
「カヨを美談にしないのがよかった」
「読めない名を最後まで置いたことに意味がある」
「名を一人で持たない、というテーマが最後まで通っていた」
「これで終わりではなく、村が続く感じがした」
批判もあった。
「結局、真相は分からないまま」
「非公開が多すぎる」
「もっとはっきり書くべきだった」
「曖昧に終わった」
怜司は、その批判も読んだ。
曖昧に終わった。
その通りかもしれない。
だが、曖昧にしか終われないものを、はっきりしたふりで終わらせたくなかった。
昼頃、資料館に澪が来た。
手には、小さな紙袋を持っている。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
紙袋の中には、津軽塗の小さなしおりが入っていた。
「祖母からです」
「澄江さんから?」
「はい。“書く人は、紙から離れる日も必要だ”と」
怜司は、しおりを手に取った。
深い赤と黒の模様。
雪とは違う色。
土と血と漆のような色だった。
「大切にします」
澪は更新コーナーを見た。
最終回の記事のコピーが、すでに掲示されていた。
佐野が貼ったのだろう。
「終わりましたね」
澪が言った。
「はい」
「でも、終わっていませんね」
「はい」
二人は、同じ掲示を見た。
アラム。
カヨ。
リク。
悠一。
読めない名。
そこに並ぶ名は、もう怜司だけが追っているものではない。
村の中で、少しずつ置かれている。
「三上さん」
「はい」
「いつか、かよ節を録音する日が来るかもしれません」
怜司は澪を見た。
「はい」
「その時は、記事にする前に、また一緒に考えてください」
「もちろんです」
澪は少し笑った。
「まだ終わらせませんね」
「終わらせない方がいいものもあります」
「そうですね」
夕方、怜司は一人で墓へ向かった。
最終回が出た後に、もう一度だけ行きたかった。
墓の前には、誰もいなかった。
風が静かに吹いている。
仮の案内板が、夕方の光を受けている。
怜司は、墓の前で立ち止まった。
今度は、迷わず頭を下げた。
祈りではないかもしれない。
謝罪でもないかもしれない。
報告に近かった。
書き終えました。
そう心の中で言った。
もちろん、誰かが答えるわけではない。
水の音もしない。
歌も聞こえない。
ただ、風があった。
しばらくして、怜司は顔を上げた。
その時、ふと、墓の脇に小さな白い花が置かれていることに気づいた。
資料館の前のものと同じ花だった。
誰が置いたのかは分からない。
怜司は、もう探さなかった。
分からないまま、そこにある。
それでいい。
彼は花の前にしゃがみ、土に触れた。
冷たかった。
だが、雪の冷たさではない。
春の土の冷たさだった。
その下に、何があるのか。
すべては分からない。
けれど、名があると知っている。
怜司は立ち上がり、ゆっくり坂を下りた。
村には灯りがつき始めていた。
資料館にも。
役場にも。
十和田家にも。
誰かの家にも。
それぞれの場所に、名が少しずつ置かれている。
書く人がいる。
歌う人がいる。
覚える人がいる。
読む人がいる。
案内する人がいる。
学ぶ人がいる。
書くだけでは足りない。
でも、書かないと消える。
その言葉を胸に、怜司は歩いた。
雪はもうない。
だが、雪の下の名は、これからも呼び直されていく。
少しずつ。
間違えたら直しながら。
急ぎすぎたら止まりながら。
止まりすぎたら、誰かが声をかけながら。
この村で。
この村の外で。
行かないまま大事に思う人の中で。
訪れて静かに頭を下げる人の中で。
書かないことを選ぶ人の中で。
問いを持ち帰る子どもたちの中で。
雪の下にあった名は、完全には戻らない。
それでも、もう無名ではない。
怜司は、春の夕暮れの中を歩き続けた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
『雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―』の一つの区切りとして、今回で本編は完結です。
この物語は、真実をすべて暴く話ではありませんでした。
むしろ、真実を急いで決めつけず、名を一人で持たず、読めないものを読めないまま残す物語でした。
アラム、カヨ、リク、悠一、宗一郎、久我、葛原、榊原、そして読めない名たち。
彼らは完全に救われたわけではありません。
それでも、少しずつ呼び直される場所を得ました。
物語はここで終わります。
けれど、村の中で名を呼び直す営みは、これからも続いていきます。




