第四十七話 それぞれの置き場所
残す仕組みが作られ始めた。
女名控。
悠一の音源。
かよ節。
展示。
学校資料。
名を一人で持たないために、村は地味な取り決めを積み重ねている。
では、戻ってきた名は、今どこに置かれているのか。
アラム。
カヨ。
リク。
悠一。
宗一郎。
久我玲一。
葛原。
榊原。
怜司は、連載の終わりへ向けて、それぞれの現在地を見つめる。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
資料館の更新コーナーには、新しい見出しが貼られていた。
――名前の置き場所
佐野が、少し照れたように言った。
「記事の言葉を使わせてもらいました」
「僕の言葉というより、悠一さんの言葉です」
怜司が言うと、佐野は頷いた。
「そうでした」
掲示には、いくつかの名前が並んでいた。
アラム。
カヨ。
リク。
十和田悠一。
久我玲一。
三上宗一郎。
そして、読めない名。
それぞれの下には、短い説明がある。
断定しすぎないように。
美談にしすぎないように。
罪を薄めすぎないように。
まだ確認中のものは、確認中と書く。
怜司は、その掲示を見ながら、自分がこれから書くべき記事の形を考えていた。
連載は終盤へ向かっている。
だが、終わる前に、名の現在地を確認する必要がある。
名前は出た。
声も戻った。
仕組みも作り始めた。
では、それぞれの名は今、どこに置かれているのか。
最初に、アラム。
怜司は、墓へ向かった。
墓前案内は、すでに新しい言葉で行われている。
村井が案内人として立ち、観光客の小さな一団に向けて話していた。
「こちらは、長くキリストの墓として伝えられてきた場所です。近年、古い記録や歌、証言の確認が進み、この伝承の背景には、アラムという名を含む複数の人物の記憶が重なっている可能性が見えてきました」
観光客たちは、以前より静かに聞いているように見えた。
もちろん、全員が深く理解しているわけではないだろう。
それでも、笑い声はなかった。
説明が終わった後、一人の女性が墓に向かって軽く頭を下げた。
村井は、その姿を見て、少しだけ表情を緩めた。
案内後、怜司は村井に聞いた。
「アラムの名を出すことには慣れましたか」
村井は苦笑した。
「慣れません」
「そうですか」
「慣れない方がいい気もしています」
村井は墓を見た。
「前は、ここを“伝説の場所”として案内していました。今は、アラムという名を口にするたびに、少し背筋が伸びる」
「それが、アラムの置き場所ですか」
怜司が尋ねると、村井は少し考えた。
「墓そのものではなく、墓の前の言葉の中に置かれている気がします」
怜司は、手帳に書いた。
アラム。
墓の前の言葉。
次に、カヨ。
カヨの名は、資料館の更新コーナーと女名控の読解資料に置かれている。
だが、それだけではない。
怜司は十和田家を訪ねた。
澪は、縁側で歌詞控えを整理していた。
「カヨの置き場所ですか」
澪は、少し考えてから言った。
「今は、歌の手前にいる気がします」
「歌の手前?」
「はい。かよ節そのものは、まだ全部外に出していない。でも、カヨの名は出た。だから、歌われる前の場所にいる感じです」
怜司は頷いた。
「カヨを歌として出すかどうかは、まだ決まっていない」
「はい」
澪は歌詞控えを見た。
「でも、カヨはもう家の中だけにはいません。資料館にも、記事にも、読む会にもいます。ただ、祭りの舞台にはまだいない」
「そこが大事ですか」
「はい」
澪は顔を上げた。
「舞台に上げる前に、カヨをちゃんと人として置く時間が必要だと思います」
カヨ。
歌の手前。
舞台の前ではなく、人として置く時間。
怜司は、その言葉を丁寧に書き留めた。
次に、リク。
リクの名は、最も不安定だった。
本当の名か分からない。
母を呼ぶ声を、村人がそう聞き取ったのかもしれない。
文書でも読みは未確定。
怜司は澄江に尋ねた。
「リクの名は、今どこにあると思いますか」
澄江は窓の外を見ていた。
しばらくして、静かに言った。
「呼び声の中だね」
「呼び声」
「そう。名前として石に刻むには、まだ怖い。展示に大きく書くにも、まだ早い。でも、アラムが母を呼んだかもしれない声としては、もう消せない」
澄江は怜司を見た。
「リクは、正しい名かどうかより、呼ぼうとした声として置きなさい」
怜司は頷いた。
リク。
呼び声の中。
その曖昧さを、曖昧なまま守る。
次に、十和田悠一。
悠一の名は、録音の中にあり、記事の中にあり、澪や澄江の記憶の中にある。
だが、怜司は久我透にも聞きたいと思った。
透は、資料館の外で待っていた。
手には、久我玲一の手記が入った鞄。
「悠一さんの置き場所?」
透は少し考えた。
「俺が答えることじゃない気もする」
「それでも、聞きたいです」
透は資料館の入口を見た。
「悠一さんは、歌の中に戻ったんだと思う」
「歌の中」
「ああ。前は、父の死と一緒にいた。事故の被害者として、父の手記の中にいた。でも今は違う。悠一さん自身の歌がある。忘れたら駄目だと言った声がある」
透は少し目を伏せた。
「父の物語から、少し離れたんだと思う」
怜司は、その言葉に深く頷いた。
悠一。
久我玲一の物語から少し離れ、歌の中へ戻った。
次に、久我玲一。
透は続けた。
「父は、どこに置かれたんだろうな」
怜司は黙っていた。
透は自分で答えを探すように言った。
「父は、急ぎすぎた記録者として記事に置かれた。正しかったところも、間違ったところも。俺は、それでよかったと思っている」
「今も?」
「ああ」
透は頷いた。
「父を英雄にしないでくれと言った。でも、悪く書かれるのも怖かった。記事を読んで、やっと分かった。父は、ちゃんと失敗した人として置かれたんだと思う」
ちゃんと失敗した人。
その言葉は重かった。
失敗を隠さず、しかし失敗だけにしない。
久我玲一。
急ぎすぎた記録者。
ちゃんと失敗した人。
次に、宗一郎。
これは、怜司自身の問いだった。
父は、どこに置かれたのか。
怜司は、資料館の一室で父の手紙のコピーを開いた。
――誰も、簡単な形にするな。
その文字は、何度見ても胸に刺さる。
宗一郎は、父として怜司の中にいる。
同時に、記事の中にもいる。
見殺しにした人。
聞こえていた声を聞こえないふりにした人。
女名控を役場に移した人。
手紙を書き、渡せなかった人。
記録を消さず、渡せなかった人。
怜司は、しばらく考えた。
父の置き場所。
それは、手紙の中だけではない。
責任の中だ。
宗一郎は、許された人ではない。
救われた人でもない。
ただ、責任から逃げたまま消えた人ではなくなった。
彼の責任は、記事と証言の中に置かれた。
怜司は手帳に書いた。
宗一郎。
責任の中。
息子の中だけに置かない。
その言葉を書いた時、少しだけ呼吸が楽になった。
父を自分だけで持たない。
それも、名を一人で持たないということだった。
次に、葛原。
葛原重蔵は、体調が悪く、電話で話した。
「わしの置き場所など、あるのか」
開口一番、そう言った。
怜司は静かに答えた。
「あります」
葛原は少し笑った。
「どこだ」
「預かった人として。そして、渡せなかった人として」
電話の向こうが静かになった。
怜司は続けた。
「でも、最後に渡そうとした人としても」
葛原は、長く黙っていた。
やがて言った。
「それは、少し良すぎるな」
「そうでしょうか」
「わしは、渡せなかった時間の方が長い」
「はい」
「なら、こう書け。預かったまま老いた人間だ、と」
怜司は胸が少し痛んだ。
「それでいいんですか」
「いい」
葛原は言った。
「ただ、最後に少しだけ渡した。それで十分だ」
葛原。
預かったまま老いた人。
最後に少しだけ渡した人。
次に、榊原道隆。
怜司は、直接会いには行かなかった。
前回の取材で十分だった。
ただ、彼の言葉は残っている。
名を自分のものにしようとした。
名を一人で持つな。
榊原の置き場所は、警告の中だ。
許しではない。
理解だけでもない。
彼がしたことの責任と、その失敗から出た警告。
怜司は書いた。
榊原。
警告の中。
責任を消さない。
そして、読めない名。
資料館の更新コーナーに戻る。
サヨ。
トメ。
ミツ。
まだ読めない名。
それらの置き場所は、まだ決まっていない。
だが、今は「読めない名」として資料館にある。
読む会にある。
澄江の「消さないで」という言葉の中にある。
読めない名。
未確定の欄。
消さないという約束の中。
怜司は、最後に自分自身のことを考えた。
三上怜司。
自分はどこに置かれているのか。
記者。
息子。
関係者。
書く人。
自分を記事の中心にするつもりはない。
だが、自分が完全な外部者ではないことも、もう隠せない。
怜司は手帳に書いた。
怜司。
書く人の一人。
中心ではなく、置き場所の一つを作る人。
夜、怜司は第23回の原稿を書いた。
仮題。
――それぞれの置き場所
冒頭は、資料館の更新コーナー。
名前の置き場所という見出し。
そこから、一人ずつ書いていく。
アラムは、墓の前の言葉に。
カヨは、歌の手前に。
リクは、呼び声の中に。
悠一は、歌の中へ戻り。
久我玲一は、急ぎすぎた記録者として。
宗一郎は、責任の中に。
葛原は、預かったまま老い、最後に少し渡した人として。
榊原は、警告の中に。
読めない名は、消さないという約束の中に。
それぞれ、短く。
重くしすぎず、軽くしすぎず。
記事の終盤で、怜司は書いた。
――置き場所は、墓や展示ケースだけではない。言葉の中、歌の手前、責任の中、呼び声の中、警告の中にもある。名を戻すとは、石に刻むことだけではない。その名を一人の所有物にせず、複数の場所に置き直すことでもある。
最後に、自分について少しだけ書いた。
――筆者自身も、宗一郎の息子として、そして記者として、この名を一人で持たない方法を探してきた。記事は置き場所の一つでしかない。だからこそ、この記事の外にある歌、展示、案内、学校、読む会が必要だった。
翌朝、第23回が公開された。
――雪の下の名 第二十三回
――それぞれの置き場所 戻った名は今どこにあるのか
反応は静かだった。
しかし、深かった。
「アラムは墓ではなく墓前の言葉にある、がよかった」
「カヨを歌の手前に置く、という表現が残る」
「宗一郎を責任の中に置く、が重い」
「榊原を警告の中に置くのは納得」
「記事は置き場所の一つでしかない、という自覚がいい」
「読めない名を消さない約束の中に置く、が大事」
昼過ぎ、澪から連絡が来た。
「祖母が読みました」
「何と?」
「“みんな、少しずつ座れたね”と言っていました」
怜司は、思わず目を閉じた。
みんな、少しずつ座れた。
置き場所。
それは、座る場所でもあるのかもしれない。
ずっと立たされていた名。
外に置かれていた名。
誰かの手の中で震えていた名。
その名が、少しずつ座れる場所を見つけた。
「澪さんは?」
怜司が聞くと、澪は少し黙った。
「私は、まだ歌の手前にいます」
「はい」
「でも、それでいいと思えました」
「はい」
「いつか歌う場所が変わるかもしれない。でも、今はここでいい」
怜司は静かに頷いた。
その言葉は、終わりに向けて大切だった。
夕方、編集デスクから電話が来た。
「いい回だった」
「ありがとうございます」
「そろそろ最終回の準備をしろ」
怜司の手が止まった。
「最終回」
「ああ。あと数回で締める」
「何を書きますか」
「それをお前が考えろ」
編集デスクは、いつものように少し乱暴だった。
しかし、続けて言った。
「ただ、全部分かったという終わりにするな。続いていく終わりにしろ」
「はい」
電話を切った後、怜司は資料館の外に出た。
夕方の空は、薄い茜色だった。
雪の季節はもう遠い。
それでも、沢の水音はまだ耳の奥に残っている。
名は、それぞれの場所に置かれ始めた。
では、最後に何を書くべきか。
怜司は、しばらく空を見ていた。
浮かんだ仮題は、一つだった。
――雪の下の名
連載のタイトルそのもの。
最終回では、そこへ戻る。
雪の下にあった名は、今も完全に解けたわけではない。
読めない名もある。
未確定の資料もある。
これからの歌もある。
変わり続ける展示もある。
それでも、もうすべてが雪の下ではない。
怜司は手帳を開き、静かに書いた。
最終章。
――雪の下の名
お読みいただきありがとうございます。
第47話では、戻ってきた名が今どこに置かれているのかを確認しました。
アラムは墓前の言葉に。
カヨは歌の手前に。
リクは呼び声の中に。
悠一は歌の中に。
宗一郎は責任の中に。
読めない名は、消さないという約束の中に。
次回から最終盤へ入ります。
連載タイトルでもある「雪の下の名」へ戻り、物語を締める準備を始めます。




