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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第四十五話 燃やそうとした男のその後

悠一の録音には、もう一つの問いが残っていた。


書くだけでは足りない。

でも、書かないと消える。

名前は呼ぶと戻る。

だが、置く場所がなければまた迷う。


その言葉は、村のあちこちに置かれ始めた。


資料館。

学校。

祭り。

墓前案内。

記事。


だが、忘れてはならない人間がいる。


榊原道隆。

真実を売ろうとし、後には燃やそうとした男。


彼は今、村の変化をどう見ているのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

榊原道隆との再取材は、警察署近くの面談室で行われた。


以前のように新聞社の会議室ではない。


旧集会所への放火未遂に関する捜査は続いており、榊原の行動には制限がかかっていた。正式な処分はまだ出ていない。だが、火を持ち込んだこと、燃やす意図があったことは、本人の発言として記録されている。


三上怜司は、編集デスクとともに面談室へ入った。


今日は、十和田澪も久我透もいない。


怜司は迷ったが、今回は連れてこなかった。


榊原の言葉は、人を傷つける。


必要な確認は、まず怜司が受ける。


それが今回の判断だった。


榊原は、以前より老けて見えた。


椅子に座り、手を膝の上に置いている。白い髪は乱れておらず、服装も整っていたが、目の奥の火は少し弱くなっていた。


それでも、消えてはいない。


「また来たか」


榊原は言った。


怜司は録音機を置いた。


「取材です。録音します」


「好きにしろ」


「好きにはしません」


榊原の口元が、少しだけ動いた。


以前と同じやり取り。


だが、部屋の空気は違った。


録音が始まった。


怜司は最初に確認した。


「旧集会所へ火を持ち込んだこと、燃やす意図があったことについて、改めて確認します」


榊原は怜司を見た。


「認める」


「理由は、以前と同じですか」


「私が売ろうとしたものを、今の世の中がもっと安く売るのを見たくなかった」


榊原は、淡々と答えた。


「それは、記録を燃やしてよい理由にはなりません」


「分かっている」


その答えは意外だった。


怜司は少し間を置いた。


「分かっている?」


「ああ」


榊原は壁を見た。


「前は、分かっていなかった。いや、分かっていたが、言葉にできなかった。燃やせば終わると思った。燃やせば、見なくて済むと思った」


「今は?」


「終わらないことを見せられた」


榊原は、怜司を見た。


「お前たちの記事でな」


編集デスクが少し動いた。


怜司は黙って待った。


榊原は続けた。


「座帳を守った。女名控を隠しきらず、出しきらずに扱った。歌を祭りに入れず、しかし閉じ込めもしなかった。墓の案内を変えた。学校で子どもにまで話した」


「読んでいたんですか」


「読むしかないだろう」


榊原の声には、苛立ちと疲れが混じっていた。


「私が燃やそうとしたものが、燃えずに何になるのかを見ていた」


怜司はペンを握った。


「どう見えましたか」


榊原はすぐには答えなかった。


やがて言った。


「遅い」


その一言は、以前にも聞いた。


だが、今日は少し響きが違った。


「遅いが、燃やすよりはましだ」


怜司は、その言葉を手帳に書いた。


遅いが、燃やすよりはまし。


榊原は苦い顔をした。


「書くな」


「重要な言葉です」


「勝手にしろ」


「確認は取ります」


榊原は、鼻で笑った。


怜司は質問を変えた。


「悠一さんの録音から、保存処理後に新しい発言が確認されました」


榊原の目が動いた。


「知っている」


「記事を読んだんですね」


「ああ」


「“書くだけでは足りない。でも、書かないと消える”という言葉について、どう受け止めましたか」


榊原は、しばらく黙っていた。


その沈黙は長かった。


やがて、低い声で言った。


「久我は、前半だけ聞いた」


「前半?」


「書かないと消える」


榊原は言った。


「久我はそれを聞いた。だから急いだ。私も昔は、それを利用しようとした。書けば売れる。出せば人が来る。燃える真実ほど客は集まる」


怜司は黙っていた。


榊原は続けた。


「だが、悠一はその前に言っていた。書くだけでは足りない、と」


「はい」


「そこを、誰も聞かなかった」


榊原の顔が歪んだ。


「宗一郎も、久我も、修二も、私も。聞いたのに、聞かなかった」


怜司は、その言葉に胸を突かれた。


聞いたのに、聞かなかった。


父にも当てはまる。

久我にも。

榊原にも。


そして、怜司自身にも、いつか当てはまるかもしれない。


「榊原さん」


「何だ」


「あなたは、今なら何をすべきだったと思いますか」


榊原は笑った。


乾いた笑いだった。


「ずいぶん優しい質問だな」


「優しさではありません。確認です」


「確認か」


榊原は机の上に視線を落とした。


「売るべきではなかった」


「はい」


「燃やすべきでもなかった」


「はい」


「では、何をすべきだったか」


榊原は、自分に問い返すように言った。


「渡すべきだったのだろうな」


怜司は、ペンを止めた。


「誰に」


「歌う人に。書く人に。読む人に。保存する人に。少なくとも、一人で持つべきではなかった」


榊原は、静かに続けた。


「私は、真実を商品として持った。宗一郎は罪として持った。久我は使命として持った。葛原は記録として持った。修二は秘密として持った。みんな、一人で持ち方を決めた」


怜司は、その言葉を書き留めた。


みんな、一人で持ち方を決めた。


榊原は続けた。


「だから壊れた」


部屋は静かだった。


編集デスクも黙っている。


怜司は、慎重に尋ねた。


「あなた自身の責任を、どう考えていますか」


榊原の目が細くなる。


「責任」


「はい。記事では、あなたの発言を扱います。ただ、後悔や理解だけを書くわけにはいきません。あなたは、真実を商品にしようとし、後に記録を燃やそうとした」


「その通りだ」


「その責任を、どう言葉にしますか」


榊原は、少し苛立ったように息を吐いた。


「謝ればいいのか」


「謝罪の言葉が欲しいわけではありません」


「では何だ」


「あなたが何をしたのかを、あなた自身がどう理解しているかです」


榊原は黙った。


長い沈黙。


怜司は待った。


やがて、榊原は言った。


「私は、名を自分のものにしようとした」


その声は低かった。


「アラムも、カヨも、リクも、悠一の歌も、村の沈黙も。全部、私が語れば価値になると思った。私が見せれば、人が来ると思った」


「はい」


「そして、他人にそれをされるのが嫌で、燃やそうとした」


「はい」


「つまり、最後まで自分のものだと思っていたのだ」


怜司は、ペンを握る手に力を込めた。


これは重要な言葉だった。


名を自分のものにしようとした。


それが榊原の罪の中心だった。


「記事にしてもいいですか」


榊原は、少しだけ笑った。


「しなければ、またお前が隠すことになる」


「確認は取ります」


「好きにしろ」


「好きにはしません」


榊原は、今度は少しだけ本当に笑ったように見えた。


怜司は続けた。


「澪さんは、あなたに言いました。歌うかどうかは自分で決める、と」


「覚えている」


「今も、そう思いますか。かよ節を人前で歌うな、と」


榊原は窓の外を見た。


「私が決めることではない」


「はい」


「ただ、怖いとは思っている」


「何が」


「歌が拍手されることだ」


榊原は言った。


「歌がうまいとか、感動したとか、泣けるとか。そういう言葉にされることだ」


怜司は黙った。


それは、澪たちも恐れていたことだった。


「その恐れは、分かります」


怜司は言った。


「でも、それを理由に歌う人から決定権を奪ってはいけない」


榊原は頷いた。


「今なら、それは分かる」


「今なら」


「ああ」


榊原は自嘲するように笑った。


「遅いがな」


怜司は、次の質問に移った。


「もし、今の村の動きを一つだけ評価するとしたら、何ですか」


榊原は眉をひそめた。


「評価?」


「はい」


「私に評価されたいのか」


「違います。あなたが何を見ているかを知りたいだけです」


榊原はしばらく考えた。


「子どもたちに話したことだ」


怜司は少し驚いた。


「学校ですか」


「ああ」


「なぜ」


「子どもは、まだ商品にする目を持っていない」


榊原は言った。


「少なくとも、大人ほどは」


怜司は黙った。


「私は、若い頃から物事を売れるか売れないかで見ていた。大人は、そういう目を持ちやすい。観光、研究、記事、展示、祭り。何にでも価値をつける」


「はい」


「子どもは、名前を見る。お前の記事にもあっただろう」


怜司は、澄江の言葉を思い出した。


子どもは、大人より先に名前を見ることがある。


榊原も、そこを読んでいた。


「だから、学校で扱うことに賛成ですか」


「賛成などという立場ではない」


榊原は少し苛立ったように言った。


「ただ、村が未来へ渡そうとしているなら、燃やすよりはましだ」


また、その言葉。


燃やすよりはまし。


榊原の中では、それが最大限の認め方なのかもしれない。


取材は一時間ほどで終わった。


最後に、怜司は確認した。


「あなたは、村の関係者や読者に伝えたいことがありますか」


榊原は、すぐには答えなかった。


「謝罪文のようなことは言わん」


「分かっています」


「私のように持つな」


榊原は言った。


「何をですか」


「名を」


怜司は、ゆっくりペンを置いた。


榊原は続けた。


「売るためにも、守るふりをして燃やすためにも、自分の罪にするためにも、自分の正しさにするためにも、名を一人で持つな」


それが、榊原の最後の言葉だった。


録音を止める。


赤いランプが消えた。


面談室を出ると、編集デスクが低く言った。


「使い方が難しいな」


「はい」


「榊原を救う記事にはするな」


「しません」


「だが、悪役で終わらせる記事にもするな」


「はい」


「責任を中心に置け」


怜司は頷いた。


責任。


後悔ではなく、責任。


理解ではなく、責任。


榊原が何を見たかではなく、何をしたか。


そして、それをどう言葉にしたか。


資料館へ戻ると、澪が待っていた。


「会ったんですね」


「はい」


「どうでしたか」


怜司は少し考えた。


「責任を、少しだけ自分の言葉にしました」


澪は黙っていた。


「許す話ではありません」


「はい」


「でも、単純な悪役にする話でもありません」


澪は静かに頷いた。


「記事にするんですか」


「します」


「読ませてください」


「もちろんです」


その夜、怜司は原稿を書いた。


仮題。


――名を一人で持つな


冒頭は、面談室の白い壁から始めた。


榊原が火を持ち込んだことを認めている事実。

燃やす意図があったこと。

旧集会所と座帳が守られたこと。

その責任を曖昧にしないこと。


本文の前半では、榊原の罪を書く。


真実を商品にしようとしたこと。

かよ節を祭りに利用しようとしたこと。

久我玲一の調査を利用しようとしたこと。

後に、記録を燃やそうとしたこと。


中盤で、榊原の言葉を使う。


――私は、名を自分のものにしようとした。


その上で、怜司は書いた。


――この言葉は、榊原氏の責任を軽くするものではない。むしろ、何が問題だったのかを明確にする。名は、売るための素材ではなく、燃やして消せる所有物でもない。


後半では、悠一の録音との関係を書く。


書くだけでは足りない。

でも、書かないと消える。

榊原は、売ることと燃やすことの間を行き来した。

そのどちらも、名を一人で持つ行為だった。


最後に、榊原の言葉を置く。


――名を一人で持つな。


ただし、それを美しい教訓にしない。


怜司は続けて書いた。


――その言葉を、榊原氏自身が最初から実行していたわけではない。むしろ、実行できなかったからこそ、記録は危険にさらされた。だから、この言葉は免罪ではなく、遅れて出てきた責任の一部として扱う必要がある。


書き終えるまでに、何度も手が止まった。


榊原を少しでも救いすぎていないか。

逆に、悪人として都合よく使っていないか。

責任の中心がずれていないか。


翌日、関係者確認を行った。


澪は、時間をかけて読んだ。


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


澪は言った。


「榊原さんの言葉を、きれいにしすぎていないと思います」


「ありがとうございます」


「でも、“名を一人で持つな”は、強いですね」


「はい」


「これも、便利な言葉になりそうです」


「そう思います」


「なら、記事の中でちゃんと重くしておいてください」


「しました」


澪は頷いた。


透にも確認した。


彼は少し時間を置いて返してきた。


――父を利用しようとした男を許す気はない。

――でも、この記事なら読める。

――「責任を軽くしない」と書いてあるならいい。


葛原からも短い返事があった。


――榊原もまた、一人で持った者だ。

――だが、燃やそうとしたことは消えん。

――そのまま書け。


相馬は、記事の構造を確認した上で言った。


「責任と理解が分けられています。これならよいと思います」


翌朝、第21回が公開された。


――雪の下の名 第二十一回

――名を一人で持つな 燃やそうとした男が語った責任


反応は割れた。


当然だった。


「榊原を美化するな」

「責任を曖昧にしていないので読めた」

「悪役で終わらせないのは大事だが難しい」

「名を一人で持つな、はこの連載全体の言葉だ」

「燃やそうとした事実は絶対に消してはいけない」

「後悔しても遅い」


怜司は、すべて読んだ。


後悔しても遅い。


その通りだ。


遅い。


だが、遅い言葉でも、残す必要がある。


昼過ぎ、編集デスクから電話が来た。


「難しい記事だったが、出してよかった」


「はい」


「榊原については、これで一度区切れる」


「そうですね」


「残る大きな課題は、長期保存だ」


怜司は頷いた。


「女名控、音源、かよ節、展示、学校資料」


「そうだ」


編集デスクは言った。


「この連載も、そろそろ終盤を見据えろ」


終盤。


その言葉に、怜司は少し黙った。


長く続いてきた。


雪の中で始まり、春まで来た。


名は戻り、声は置き場所を探し、村は変わり始めた。


だが、終わりとは何だろう。


真実が全部分かった時ではない。


そんな日は来ないかもしれない。


では、どこで終わるのか。


電話を切った後、怜司は資料館の更新コーナーの前に立った。


現在確認されていること。

まだ分からないこと。

これから考えること。


その三つの欄を見て、ふと思った。


終わりは、全部分かった時ではない。


分からないことを抱えたまま、続ける仕組みができた時かもしれない。


怜司は手帳を開いた。


次の仮題を書く。


――残す仕組み


女名控。

悠一音源。

かよ節。

学校資料。

展示更新。

保存会。

役場。

資料館。

十和田家。

新聞社。


名を一人で持たないために。


今度は、仕組みを作る。


それが、終盤への道だった。

お読みいただきありがとうございます。

第45話では、榊原道隆のその後を描きました。


榊原は、名を自分のものにしようとした。

売るために。

そして、他人に売られるのを見るくらいなら燃やそうとした。


彼の責任は消えません。

それでも、「名を一人で持つな」という言葉は、村が次へ進むための重い警告になります。


次回は、長期保存の仕組みへ進みます。

女名控、悠一の音源、かよ節、学校資料を、誰がどう残していくのかが焦点になります。

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