第四十四話 もう一つの声
中学生たちは、資料館で名前を学んだ。
大人たちが避けてきた問いを、まっすぐ口にした。
その夜、相馬准教授から連絡が入る。
悠一の録音テープ。
保存処理とノイズ除去の過程で、これまで聞き取れなかった発言が一部確認されたという。
そこには、歌の後に交わされた、もう一つの声が残っていた。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
相馬由紀の研究室は、前に訪れた時より静かに感じた。
机の上には、ノートパソコン。
小型スピーカー。
音声波形が表示された画面。
そして、保護ケースに入ったカセットテープの原本。
三上怜司は、椅子に座る前に、そのテープを見た。
悠一の歌。
父・宗一郎が残し、長い間箱の中にしまわれていた声。
一次試聴の時、そこにはかよ節が残っていた。
カヨ。
リク。
アラム。
帰る道。
忘れたら駄目だという言葉。
それだけでも十分すぎるほど重かった。
だが、保存処理後のノイズ除去で、これまで聞き取れなかった発言が一部確認された。
相馬は、静かに言った。
「今日聞いていただく部分は、まだ完全ではありません。音声は不鮮明ですし、話者の特定も慎重に行う必要があります」
同席者は、怜司のほか、十和田澪、久我透、坂本、佐野。
十和田澄江は来ていない。
澪が先に聞き、必要なら伝える。
それは、以前と同じ約束だった。
透は、今日は座っていた。
前回のように壁際に立ってはいない。
ただ、両手は強く組まれている。
「話者は誰ですか」
怜司が尋ねると、相馬は首を横に振った。
「断定はできません。ただ、少なくとも二人の男性の声があります。一人は十和田悠一さんとみられる声。もう一人は、聞き手です」
「久我玲一さんの可能性は?」
透が尋ねた。
相馬は慎重に答えた。
「可能性はあります。ただ、比較できる久我氏の確実な音声がないため、断定できません」
透は頷いた。
「分かりました」
相馬は、再生箇所を示した。
「歌の後、これまではノイズでほとんど聞こえなかった部分です。音量を上げていますが、聞き取りづらいです」
部屋が静かになった。
再生。
最初は、ざらついたノイズだった。
古いテープ特有の、擦れるような音。
その奥に、息が聞こえる。
椅子を動かす音か。
紙を触る音か。
遠くで水が流れるような音もある。
そして、若い男の声。
――これ、人前では歌えないです。
前にも聞いた言葉だった。
次に、聞き手の声。
以前は聞こえなかった部分が、少しだけ浮かび上がる。
――なぜ、そう思いますか。
若い声が、少し間を置いて答える。
――歌うと、戻ってくるから。
澪が息を呑んだ。
相馬は、再生を止めなかった。
聞き手の声。
――何が戻ってくるのですか。
ノイズ。
そして、悠一と思われる声。
――名前です。
――人の名前は、呼ぶと戻るんです。
――でも、戻ってきた名前を置く場所がないと、また迷う。
怜司は、ペンを握る手に力が入るのを感じた。
戻ってきた名前を置く場所。
まるで、今の村のことを言っているようだった。
いや、悠一は四十年前にもう分かっていたのだ。
名前は、戻せば終わりではない。
置く場所が必要だ。
再生は続く。
聞き手の声。
――置く場所とは、墓ですか。
若い声。
――墓だけじゃないです。
――歌う人とか、覚えている人とか、ちゃんと聞く人とか。
――そういうところです。
澪の目から涙が落ちた。
透は、微動だにしない。
聞き手は、少し早口になった。
――それを、書くことはできますか。
若い声は、少し笑ったようだった。
――書くだけだと、たぶん足りないです。
その瞬間、怜司は胸を突かれた。
書くだけだと、足りない。
記者である自分に向けられた言葉のようだった。
録音の中の悠一は続けた。
――でも、書かないと消える。
――だから、書く人と、歌う人と、覚える人が、別々にいないと駄目なんだと思います。
相馬が、そこで一度停止した。
部屋には、深い沈黙が落ちた。
誰もすぐには話さなかった。
怜司は、自分の手帳を見た。
書く人。
歌う人。
覚える人。
それは、今の村の構造そのものだった。
怜司は書く人。
澪は歌う人。
澄江は覚えてきた人。
佐野は展示する人。
坂本は守る仕組みを作る人。
村井は祭りを変える人。
相馬は読む人を増やす人。
透は父の急ぎを見つめる人。
一人では足りない。
最初から、そうだった。
宗一郎が一人で抱えたから潰れた。
久我玲一が一人で書こうとして急いだ。
葛原が預かったまま渡せなかった。
悠一は、四十年前に言っていた。
別々にいないと駄目だ。
澪が震える声で言った。
「悠一は、本当に……分かっていたんですね」
相馬は静かに頷いた。
「非常に重要な発言です」
透が低く言った。
「父は、これを聞いたんだな」
誰も答えなかった。
だが、そう考えるのが自然だった。
久我玲一がこれを聞いたなら、なぜ急いだのか、さらに分かる。
書かなければ消える。
その言葉に、彼は強く反応したはずだ。
しかし、悠一は同時に言っていた。
書くだけだと足りない。
久我は、そこを聞き落としたのかもしれない。
あるいは、聞いていながら急いだ。
怜司は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
自分も、聞き落としていないか。
書くだけだと足りない。
この連載も、そうだ。
記事だけでは足りない。
祭り、資料館、墓、学校、案内文、読む会。
それらがあって初めて、名前の置き場所ができていく。
「続きがあります」
相馬が言った。
全員が、少し身構えた。
再生。
ノイズ。
聞き手の声。
――三上さんは、この話を知っていますか。
怜司の体が固まった。
三上さん。
宗一郎。
若い声が答える。
――知っています。
――でも、言わないと思います。
聞き手。
――なぜ。
悠一と思われる声。
――怖いから。
――村が壊れるのも怖いし、自分の家の名前が出るのも怖いし。
――でも、一番怖いのは、言った後に誰も受け取らないことだと思います。
怜司は息が止まりそうになった。
父が怖かったもの。
村が壊れること。
三上家の名が出ること。
そして、言った後に誰も受け取らないこと。
それは、父自身の言葉ではない。
悠一の見立てだ。
だが、あまりにも深く当たっていた。
透が、怜司を見た。
何か言おうとして、やめた。
澪も、怜司を見ていた。
怜司は、ただ録音を聞いていた。
若い声は続ける。
――受け取る人がいない言葉は、また隠れるんです。
ノイズ。
聞き手の声は、ほとんど聞き取れない。
若い声。
――だから、今じゃないのかもしれない。
――でも、いつか誰かが聞くなら、残しておいた方がいい。
そこで、音声は大きく乱れた。
ざあ、と白い音が広がる。
相馬は停止した。
「ここまでです」
部屋には、長い沈黙が残った。
怜司は、目を閉じた。
受け取る人がいない言葉は、また隠れる。
悠一は、四十年前にそう言っていた。
なら、今やっていることは、受け取る人を増やす作業なのだ。
歌う人。
書く人。
覚える人。
読む人。
案内する人。
教える人。
訪れる人。
名前を置く場所は、一つではない。
その場所を増やすことが、村が変わり始めた本当の意味なのかもしれない。
澪が、静かに言った。
「祖母に、これは伝えます」
「全部ですか」
怜司が尋ねると、澪は少し考えた。
「全部ではありません。まず、“名前は呼ぶと戻る。でも置く場所がないとまた迷う”と伝えます」
相馬が頷いた。
「それがよいと思います」
透が低く言った。
「俺は、父の手記を読み直す」
怜司は彼を見る。
透は続けた。
「父は、書くだけでは足りないと聞いていたのかもしれない。それでも書こうとした。そこを考えたい」
「はい」
「父を責める材料が増えたのか、父を理解する材料が増えたのか、分からない」
怜司は静かに言った。
「両方かもしれません」
透は少しだけ笑った。
「最近、そればかりだな」
「はい」
「両方だ」
透は窓の外を見た。
「でも、両方持つしかないんだろうな」
音源の扱いについて、再び協議が必要になった。
この発言は重要すぎる。
しかし、音声公開はしない方針のまま。
記事にする場合も、発言の一部を要約するか、短く引用するか、関係者確認が必要だった。
相馬は言った。
「今日の部分は、音声資料として非常に価値があります。ただし、言葉だけが独り歩きする危険も大きい」
坂本が頷いた。
「“名前は呼ぶと戻る”だけが切り取られる可能性がありますね」
佐野も言った。
「展示に入れるにも、まだ早いです」
澪が言った。
「でも、これは隠したくありません」
怜司は彼女を見た。
澪は続けた。
「悠一が、ただ歌っただけではなく、どう残すかまで考えていたことは、伝えたいです」
「はい」
怜司は頷いた。
「記事にするなら、歌詞ではなく、悠一さんの考えとして書くべきだと思います」
相馬も同意した。
「発言の全文ではなく、要点を整理し、必要最小限の引用にするのがよいでしょう」
坂本が言った。
「村側でも確認します。教育委員会にも関わる内容です。名前を置く場所、という考えは、地域学習にもつながります」
その日の会議は、結論を出さずに終わった。
いつものことだった。
すぐ決めない。
それが、この村の新しい進み方になりつつある。
資料館へ戻る車の中、怜司はあまり話さなかった。
澪も黙っていた。
ただ、時々、窓の外を見る横顔が少し変わっていた。
悲しみだけではない。
何かを受け取った顔だった。
夕方、澪は十和田家へ戻り、澄江に伝えた。
怜司は同行しなかった。
その夜、澪から電話が来た。
声は静かだった。
「祖母に伝えました」
「はい」
「名前は呼ぶと戻る。でも置く場所がないとまた迷う、と」
「澄江さんは何と?」
澪は少し黙った。
「“悠一は、置き場所を探していたんだね”と言いました」
怜司は目を閉じた。
「はい」
「それから、“今は少し増えたね”と」
名前の置き場所。
今は、少し増えた。
歌。
記事。
資料館。
墓前案内。
学校。
読む会。
訪れる人への約束。
人の記憶。
完全ではない。
だが、四十年前よりは増えた。
「記事にしていいですか」
怜司が聞くと、澪は言った。
「祖母は、書きなさいと言っています。ただし、悠一の声を便利な言葉にしないで、と」
「分かりました」
「私も同じです」
「はい」
電話を切った後、怜司はしばらく机に向かって座っていた。
便利な言葉にしない。
名前は呼ぶと戻る。
置く場所がないとまた迷う。
書く人と、歌う人と、覚える人が別々に必要。
どれも強い言葉だ。
強い言葉は、便利にされやすい。
記事の見出しにした瞬間、少し危うくなる。
それでも、書かなければ消える。
また、悠一の言葉に戻る。
書くだけだと足りない。
でも、書かないと消える。
怜司は、何度もその二つを見比べた。
原稿の仮題は、こうした。
――名前の置き場所
本文は、研究室の音声波形から始める。
ただし、音源の詳細な時間や加工方法は必要最小限。
中心は、悠一の発言だった。
要約として書く。
――保存処理後の音源から、十和田悠一さんとみられる声が、名前は呼ぶことで戻るが、置く場所がなければまた迷う、と語る部分が確認された。
その後に、短く引用する。
――「書くだけだと、たぶん足りない。でも、書かないと消える」
この一文だけは、必要だと思った。
記事の中で、怜司は書いた。
――この言葉は、連載そのものにも向けられている。記事を書くことは、名を戻す一つの手段でしかない。歌う人、覚える人、読む人、案内する人、展示する人、学ぶ人がいなければ、戻った名はまた迷う。
書きながら、怜司は少し怖かった。
自分の連載を記事の中で位置づけるのは、危うい。
だが、逃げずに書く必要があった。
自分の記事は中心ではない。
置き場所の一つ。
そのくらいに留めなければならない。
終盤には、澄江の言葉を入れた。
――悠一は、置き場所を探していたんだね。今は少し増えたね。
結びは、こうした。
――名前を呼ぶことは始まりでしかない。その名をどこに置き、誰が聞き、誰が次へ渡すのか。四十年前に録音された若い声は、今の村に、その問いを返している。
翌朝、第十九回の続きとしてではなく、第20回として公開された。
――雪の下の名 第二十回
――名前の置き場所 悠一の録音に残っていたもう一つの問い
反応は深かった。
「書くだけでは足りない。でも書かないと消える、が重い」
「この連載自体を相対化しているのがいい」
「名前の置き場所という考え方は、地域全体に必要」
「記事も歌も展示も学校も、全部置き場所なんだな」
「音源を公開しないまま、言葉だけ伝える判断は難しいけど納得した」
もちろん、切り取りも出た。
「名前は呼ぶと戻る」という言葉だけが、短い投稿になって広がった。
怜司は、それを見て胸が少し冷えた。
やはり、強い言葉は便利にされる。
だが、その投稿の下に、別の読者が書いていた。
「でも、記事には“置く場所がないとまた迷う”まで書いてある。そこまで読んだ方がいい」
怜司は、その返信を見て、少しだけ救われた。
読者もまた、読み方を守ってくれている。
昼過ぎ、相馬から連絡が来た。
「記事、確認しました。引用は最小限で、文脈も保たれていると思います」
「ありがとうございます」
「ただ、今後この言葉は広がるでしょう」
「はい」
「広がった時にどう補うかが大事です」
「補う」
「はい。便利な言葉になった時、元の文脈へ戻す仕組みが必要です。資料館の更新コーナーや学校資料にも、いずれ丁寧に反映した方がいい」
怜司はメモした。
強い言葉を元の文脈へ戻す仕組み。
それは、次の課題だった。
夕方、佐野が資料館の更新コーナーに小さな紙を追加した。
見出しはこうだった。
――名前の置き場所
本文は短い。
――悠一さんとみられる録音には、「書くだけでは足りない。でも、書かないと消える」という趣旨の発言が残されていました。
――戻った名をどう受け止め、誰が次へ渡すのか。資料館、祭り、学校、墓前案内、記事、歌。それぞれが、名前の置き場所を探しています。
怜司はその掲示を見て、少し頷いた。
記事の言葉が、資料館へ戻った。
そして、資料館の言葉として、また別の人に渡る。
夜、澪が資料館へ来た。
更新コーナーを見て、しばらく黙っていた。
「ここにも置かれましたね」
「はい」
「悠一の言葉」
「はい」
澪は少しだけ笑った。
「祖母に見せます」
「お願いします」
澪は、掲示を見つめながら言った。
「次は、どこに置くんでしょうね」
怜司は答えられなかった。
墓。
学校。
祭り。
記事。
歌。
資料。
置き場所は増えた。
だが、まだ足りないのかもしれない。
その夜、怜司は次のメモを書いた。
強い言葉が広がる。
元の文脈へ戻す。
資料館更新。
学校資料。
保存会説明。
訪問者案内。
そして、もう一つの課題。
榊原道隆。
彼はこの言葉をどう受け取るのか。
名前の置き場所を探していた悠一。
その声を、榊原は商品にしようとし、後には燃やそうとした。
そろそろ、榊原の扱いに戻る必要がある。
怜司は仮題を書いた。
――燃やそうとした男のその後
まだ、書けるかは分からない。
だが、避けては通れない。
榊原の物語も、簡単な形にしてはいけない。
許すためではない。
責任を曖昧にしないために。
お読みいただきありがとうございます。
第44話では、保存処理後の悠一の録音から、これまで聞こえなかった発言が確認されました。
「書くだけでは足りない。でも、書かないと消える」
「名前は呼ぶと戻る。でも置く場所がないとまた迷う」
悠一は、四十年前にすでに、名を戻すだけでは足りないことを見ていました。
次回は、榊原道隆へ戻ります。
真実を売ろうとし、後には燃やそうとした男が、村の変化をどう見ているのかへ進みます。




