第四十三話 名前を学ぶ日
地域学習で、アラムたちの名をどう伝えるか。
大人たちは話し合った。
小学生には、名前を大事にすることから。
中学生には、資料を読むことから。
分からないことは、分からないと言っていい。
そして、希望した中学生たちが資料館を訪れる日が来る。
彼らは、大人たちが避けてきた問いを、まっすぐ口にする。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
資料館の入口に、中学生たちが並んでいた。
十数人。
制服姿の生徒たちは、少し緊張しているようにも、少し興味津々のようにも見えた。
引率の教師が、佐野に挨拶をしている。
三上怜司は、少し離れた場所に立っていた。
今日は取材として同席する。
ただし、事前に決めた条件がある。
生徒の顔は撮らない。
名前は出さない。
発言を記事に使う場合は、本人と保護者、学校の確認を取る。
授業中に取材者として前に出すぎない。
大人の都合で子どもの言葉を利用しない。
怜司は、その条件を何度も確認していた。
中学生たちは、資料館の更新コーナーの前に集まった。
見出し。
――現在確認されていること
――まだ分からないこと
――これから考えること
佐野が説明を始めた。
「今日は、この村に長く伝わってきた伝承と、最近確認されている資料について学びます。ただし、最初に大事なことを言います。今日の授業には、まだ分からないことがたくさんあります」
生徒たちが少し顔を上げた。
「教科書のように、答えが一つに決まっている話ではありません。分からないことを、分からないまま考える時間にしたいと思います」
怜司は、その言葉を聞いて少し安心した。
良い始まりだった。
相馬准教授も同席していた。
彼女は、女名控の画像ではなく、読み取りの整理表を示した。
「この表には、名前が並んでいます。カヨ、リク、サヨ、トメ、ミツ。そして、まだ読めない名もあります」
一人の男子生徒が手を挙げた。
「読めないなら、名前って言えるんですか」
最初の質問から鋭かった。
相馬は微笑んだ。
「とても大事な質問です。文字としては読めていません。でも、そこに誰かの名を書こうとした跡がある。だから、今は“読めない名”として扱っています」
男子生徒は少し考えた。
「読めないけど、いたかもしれない人」
「そうです」
相馬は頷いた。
「読めないから、いなかったことにはしない。今日は、それを大事にしたいと思います」
別の女子生徒が、更新コーナーを見ながら言った。
「リクって、本当の名前じゃないかもしれないんですよね」
佐野が答える。
「はい。アラムが母を呼んだ声を、村の人がそう聞き取った可能性があります」
「じゃあ、違う名前で呼んでいるかもしれないんですか」
部屋が少し静かになった。
その問いは、これまで何度も大人たちが考えてきたことだった。
澪が、少し前に出た。
今日は十和田家の関係者として参加している。
「そうかもしれません」
澪は答えた。
「でも、呼ぼうとした人がいました。正しい名前か分からなくても、消えないように残そうとした人がいました」
女子生徒は頷いた。
「間違っていても、呼ばないよりいいってことですか」
澪は少しだけ目を細めた。
「たぶん、そうです。でも、間違っているかもしれないことを忘れないで呼ぶ、ということだと思います」
怜司は、そのやり取りに胸を打たれた。
中学生の問いは、遠慮がない。
だから、核心に届く。
次に、生徒たちは展示室を見学した。
キリスト伝承の従来展示。
ナニャドヤラの説明。
祭りの写真。
更新コーナー。
教師が、生徒たちにワークシートを配った。
そこには、三つの問いがあった。
今日分かったことは何ですか。
まだ分からないことは何ですか。
大事に扱うためには、何に気をつけるべきだと思いますか。
怜司は、その三つ目の問いが良いと思った。
知識確認ではなく、扱い方を問う。
生徒たちは、展示を見ながら書き込んでいった。
ある男子が、友人に小声で言った。
「これ、ミステリーみたいだけど、ミステリーって言ったら駄目なやつだな」
友人が頷く。
「人の名前だからな」
怜司は、その会話を耳にして、思わず息を止めた。
人の名前だからな。
その一言は、大人たちが何十回も会議してきたことを、簡単に言い当てていた。
もちろん、簡単だから軽いわけではない。
むしろ、まっすぐだった。
次の展示の前で、別の生徒が質問した。
「どうして大人は隠したんですか」
部屋の空気が、また変わった。
佐野が少し困ったように坂本を見る。
坂本もすぐには答えない。
相馬が、静かに言った。
「一つの理由ではありません」
生徒は相馬を見る。
相馬は続けた。
「怖かったから。村を守ろうとしたから。誰かを責めたくなかったから。外から笑われたくなかったから。観光として続けてきたから。いろいろな理由が重なっていたと思います」
生徒は眉をひそめた。
「でも、隠された人は困りますよね」
「そうですね」
相馬は頷いた。
「だから今、どう戻すかを考えています」
生徒は少し黙ってから言った。
「隠した人も、悪い人だけじゃないんですか」
その問いに、怜司は胸が締め付けられた。
宗一郎。
葛原。
村井。
十和田家。
久我。
榊原。
誰かを悪い人だけにすることは簡単だ。
だが、それでは見えなくなるものがある。
澪が答えた。
「悪いことをした人はいます。でも、悪い人だけにすると、また分からなくなります」
「どういうことですか」
「なぜそうしたのか、誰が怖がったのか、誰が止められなかったのか。そこを考えなくなるからです」
男子生徒は少し考えていた。
「じゃあ、悪いことは悪いって言って、でも悪い人だけにしない?」
澪は頷いた。
「私は、そうしたいです」
怜司は、その答えを手帳に書きたくなった。
だが、今日はメモを最小限にすると決めている。
心の中に留めた。
授業の後半、生徒たちは小さな円になって座った。
質問の時間だった。
一人の女子生徒が手を挙げた。
「アラムは、ここに来たかったんですか」
誰もすぐには答えられなかった。
その問いは、鋭すぎた。
アラムは、ここに来たかったのか。
村に来たのか。
連れてこられたのか。
逃げてきたのか。
母を探していたのか。
分からない。
相馬が静かに言った。
「分かりません」
女子生徒は少し驚いた顔をした。
相馬は続けた。
「今の資料では、はっきり分かりません。分かっている可能性があるのは、アラムが母の名を呼んだと伝わっていること。帰る場所があった子として記憶されていることです」
女子生徒は、ゆっくり頷いた。
「来たかったかは、分からない」
「はい」
「でも、帰りたかったかもしれない」
「そう考えられています」
その生徒は、ワークシートに何かを書き込んだ。
後で見せてもらった時、そこにはこう書かれていた。
――来たかったかは分からない。でも帰りたかったかもしれない人を、村のものにしない。
怜司は、その一文を見て、しばらく言葉が出なかった。
村のものにしない。
第七回で怜司が書いた言葉が、子どもの中で別の形になっていた。
もう、記事の言葉ではない。
その子自身の言葉になっていた。
別の男子生徒が言った。
「こういう話って、SNSに書いちゃ駄目ですか」
教師が少し緊張した。
坂本も。
しかし、これは避けて通れない問いだった。
相馬が答えた。
「絶対に駄目、ではありません。でも、書くなら、気をつけることがあります」
「何ですか」
「まだ分からないことを、分かったように書かない。面白い真相みたいに書かない。誰かの家や個人を探さない。歌や音源を求めない。自分が読んだ人の名前の向こうに、誰かの生活があると考える」
男子生徒は、少し真面目な顔で聞いていた。
「難しいですね」
「難しいです」
相馬は微笑んだ。
「だから、すぐ書かなくてもいい。誰かに話す前に、一日置くのも大事です」
澪が付け加えた。
「書かないことも、大事にすることだと思います」
その言葉に、怜司は以前の読者の手紙を思い出した。
行かないことも、大事にすること。
書かないことも、大事にすること。
子どもたちは、その言葉をどう受け取るだろう。
授業の最後に、教師が生徒たちに感想を書かせた。
怜司は、その場では読まなかった。
後で、匿名化された一部を学校から共有してもらった。
――昔の話だと思ったけど、今どう話すかの話だった。
――分からないことを残すのは、少し気持ち悪いけど、大事だと思った。
――アラムは、伝説の人じゃなくて、名前を持っていた人だった。
――カヨをいい人にしたくなったけど、それだけじゃないと言われて考えた。
――読めない名が気になった。読めないままでも、消さないでほしい。
――SNSに書かないことも、覚えていることになると思った。
怜司は、それらを読みながら、静かに息を吐いた。
大人たちが何度も話し合ってきたことが、子どもたちの中に別の言葉で入っている。
もちろん、全員が同じように受け止めたわけではない。
ある生徒は「難しかった」と書いた。
ある生徒は「まだよく分からない」と書いた。
ある生徒は「少し怖かった」と書いた。
それでいい。
分からないまま持ち帰ることも、学びだった。
授業が終わった後、資料館の外で、一人の男子生徒が怜司に声をかけた。
「新聞の人ですよね」
「はい」
「記事、少し読みました」
「ありがとうございます」
男子生徒は少し迷ってから言った。
「三上さんは、書くの怖くないんですか」
怜司は、すぐには答えられなかった。
「怖いです」
正直に言った。
男子生徒は少し驚いたようだった。
「怖くても書くんですか」
「はい」
「なんでですか」
怜司は少し考えた。
「書かないと、また誰かの名前が外に置かれたままになるからです」
男子生徒は黙っていた。
怜司は続けた。
「でも、書けばいいわけでもありません。書き方を間違えると傷つける。だから怖いです」
男子生徒は、しばらく考えてから言った。
「じゃあ、怖いと思っている方がいいんですか」
怜司は、少しだけ笑った。
「たぶん、そうです」
男子生徒は頷いた。
「分かりました」
何が分かったのかは、分からない。
だが、そのままでよかった。
その日の夜、怜司は第十九回の原稿を書いた。
仮題。
――名前を学ぶ日
冒頭は、佐野の「今日の授業には、まだ分からないことがたくさんあります」という言葉から始めた。
本文では、生徒たちの問いを軸にした。
読めないなら名前と言えるのか。
リクは本当の名前ではないかもしれないのか。
なぜ大人は隠したのか。
隠した人も悪い人だけではないのか。
アラムはここに来たかったのか。
SNSに書いていいのか。
書くのは怖くないのか。
大人が整えた言葉は、子どもたちの問いで何度も揺れた。
それが良かった。
記事の中心に、怜司はこう書いた。
――地域学習は、伝承の正解を覚える時間にはならなかった。むしろ、正解にしすぎないための時間になった。生徒たちは、大人が避けてきた問いをまっすぐ口にし、そのたびに大人たちは「分からない」「まだ考えている」と答える必要に迫られた。
終盤には、生徒の感想を匿名で入れた。
来たかったかは分からない。
でも帰りたかったかもしれない人を、村のものにしない。
そして、最後は男子生徒との会話で締めた。
――書くのは怖くないんですか。
――怖いです。
――怖くても書くんですか。
――はい。
怜司は最後にこう書いた。
――怖さは、止まるためだけにあるのではない。傷つけないように進むためにもある。子どもたちに伝える日は、大人たちがその怖さをもう一度学ぶ日でもあった。
翌朝、第十九回が公開された。
――雪の下の名 第十九回
――名前を学ぶ日 中学生たちが問い返したこと
反応は、これまでで最も温かかった。
「子どもの問いが鋭い」
「分からないと答える大人の姿が大事」
「SNSに書かないことも覚えていること、がよかった」
「アラムを村のものにしない、という生徒の言葉が重い」
「怖いと思って書く方がいい、は報道にも教育にも必要」
もちろん、批判もあった。
「中学生には重い」
「学校で扱うべきではない」
「子どもを利用している」
怜司は、その批判を特に慎重に読んだ。
子どもを利用していないか。
これは常に自問すべきことだった。
昼過ぎ、学校から連絡が来た。
「記事を読みました。生徒たちの発言の扱いは丁寧でした」
教師の声は、少し安堵していた。
「ただ、次に続けるかどうかは、学校内でも相談します」
「もちろんです」
「一回で終わらせず、でも急がずに考えたいと思います」
「はい」
電話を切ると、怜司は窓の外を見た。
資料館の前に、中学生たちが帰る時に見ていた白い花がある。
今日も誰かが水を替えていた。
名は、次の世代へ少しだけ渡った。
しかし、それは終わりではない。
子どもたちは、問いを持って帰った。
家庭へ。
学校へ。
友人同士の会話へ。
まだ見えない未来へ。
その問いがどう育つのかは、誰にも分からない。
夕方、澪が資料館へ来た。
「記事、読みました」
「どうでしたか」
「少し怖かったです」
「子どもたちのことですか」
「はい。でも、よかったです」
澪は静かに言った。
「アラムが、ただ過去の子どもではなく、今の子どもたちの問いになった気がしました」
怜司は頷いた。
「はい」
「祖母も読みました」
「何と?」
「“子どもは、大人より先に名前を見ることがある”と言っていました」
怜司は、その言葉を手帳に書いた。
子どもは、大人より先に名前を見ることがある。
大人は、伝承、責任、家、村、観光、記事、制度を見る。
子どもは、名前を見る。
アラム。
カヨ。
リク。
読めない名。
そのまっすぐさが、大人を動かすこともある。
夜、怜司は次のメモを書いた。
学校の試行は終わった。
次に動くのは、音源保存か。
女名控の公開範囲か。
資料館更新コーナーの正式化か。
保存会の次の聞く場か。
その時、メールが届いた。
相馬准教授からだった。
件名。
――悠一音源の保存処理完了について
本文には、こうあった。
――一次保存処理と複製データの作成が完了しました。
――音源の長期保存と限定試聴の運用について、関係者で協議が必要です。
――また、ノイズ除去後の音声で、これまで聞き取れなかった発言が一部確認できました。
怜司は、画面を見つめた。
これまで聞き取れなかった発言。
胸が静かに鳴った。
まだ、声は残っている。
次の問いが、また戻ってきた。
悠一の声を、どこまで聞くのか。
どこまで残すのか。
誰に聞かせるのか。
怜司は手帳を開き、次回の仮題を書いた。
――もう一つの声
夜の資料館は、静かだった。
だが、その静けさの奥で、録音テープのノイズがまた回り始めている気がした。
お読みいただきありがとうございます。
第43話では、中学生たちが資料館で地域学習を行いました。
子どもたちは、大人が整えた言葉をまっすぐ問い返します。
読めない名は名前なのか。
リクは本当の名なのか。
なぜ大人は隠したのか。
アラムは、ここに来たかったのか。
次回は、悠一の録音テープに戻ります。
保存処理後に聞こえてきた「もう一つの声」が焦点になります。




