第四十一話 読む人を増やす
女名控の初期解読により、カヨとリクだけでなく、複数の女性名が残されていたことが分かった。
サヨ。
トメ。
ミツ。
そして、まだ読めない名。
だが、記録は専門家だけが読むものなのか。
役場や新聞だけが扱うものなのか。
読めない名を、誰と読むのか。
村の中で、その問いが生まれ始める。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
資料館の更新コーナーに、新しい紙が貼られた。
見出しは、佐野が決めたものだった。
――読めない名も残す
その下に、女名控の初期解読について短く書かれている。
外控文書に複数の女性名が確認されていること。
カヨ、リクと読める可能性のある名があること。
サヨ、トメ、ミツなど、他の名も確認されていること。
ただし、読解はまだ途中であり、読めない箇所も多いこと。
全文公開は行わず、保全と専門家確認を続けること。
三上怜司は、その掲示の前に立っていた。
来館者が一人、足を止めて読む。
年配の男性だった。
しばらく黙って見つめた後、小さく言った。
「読めない名も、名か」
怜司は、思わずその男性を見た。
男性は怜司に気づき、少し照れたように笑った。
「独り言です」
「大事な独り言だと思います」
怜司が言うと、男性は更新コーナーをもう一度見た。
「昔の文書は、読める人が読めばいいと思っていました。でも、読めない部分にも誰かがいたんですね」
怜司は頷いた。
「はい」
男性は名乗らずに去っていった。
怜司は、その後ろ姿を見送りながら思った。
読むというのは、文字を音にするだけではない。
そこに誰かがいたと受け止めることも、読むことなのかもしれない。
その日の午後、資料館の小さな会議室で打ち合わせが開かれた。
議題は、女名控を村の中でどう読むか。
参加者は、佐野、坂本、相馬、澪、保存会の村井、そして怜司。
佐野が最初に言った。
「問い合わせが増えています。全文公開を求める声もありますが、村の中からは別の声も出ています」
「別の声?」
怜司が尋ねる。
「自分たちも説明を聞きたい、という声です」
坂本が頷いた。
「役場にも来ています。新聞や資料館の掲示で知るだけではなく、村の中で話を聞く場がほしいと」
村井が腕を組んだ。
「保存会の中でも出ています。かよ節の時と同じです。まず、聞く場が必要だと」
相馬は慎重に言った。
「ただし、女名控の現物を回覧するような形は避けるべきです。保存上の問題もありますし、読解が未確定です」
「では、どうするか」
坂本がホワイトボードの前に立った。
「説明会ですか」
佐野が首を傾げる。
「説明会という言葉だと、役場が答えを発表する感じになります」
「確かに」
村井が言う。
「勉強会?」
澪が少し考えた。
「読む会、はどうですか」
全員が彼女を見る。
澪は続けた。
「答えを聞く会ではなく、一緒に読む会。専門家の先生に説明してもらいながら、読めるところ、読めないところ、分からないところを共有する」
相馬が頷いた。
「良いと思います。解読結果を一方的に伝えるのではなく、読みの途中であることを共有する場になります」
坂本がホワイトボードに書いた。
――女名控を読む会
その文字を見た時、怜司は少し緊張した。
読む会。
それは、これまでの流れに合っている。
歌は共有された。
祭りは説明を変えた。
展示は問いを渡す形になった。
墓前案内は真偽を急がないものになった。
訪問者への約束もできた。
次は、記録を読む場。
ただし、公開イベントではない。
村の中の小さな場。
「参加者はどうしますか」
佐野が聞く。
坂本は考えた。
「まずは村内関係者向け。保存会、資料館、役場、十和田家、三上家関係者、久我家、希望する村民。ただし人数は絞る」
村井が言った。
「三上家関係者といっても、今は怜司さんくらいでは?」
怜司は少しだけ苦笑した。
「そうですね」
澪が言った。
「若い人にも来てほしいです」
「なぜですか」
相馬が尋ねると、澪は答えた。
「年配の人だけで読むと、また上の世代の話になってしまう気がします。これから歌や展示を受け継ぐなら、若い人も最初からいた方がいい」
佐野が頷いた。
「資料館の若手スタッフも参加できます」
坂本がメモする。
「高校生や大学生は?」
村井が少し驚いた顔をした。
「そこまで広げますか」
澪は少し迷った。
「最初から一般募集は怖いです。でも、村内の若い世代に数人入ってもらうのはいいと思います」
相馬が補足した。
「参加者には事前説明が必要です。写真撮影やSNS投稿をしないこと。資料を持ち出さないこと。未確定の読みを断定して話さないこと」
坂本が頷いた。
「約束文を作りましょう」
また、約束。
この村は、いくつもの約束を作りながら進んでいる。
怜司は尋ねた。
「新聞は、どう関わればいいですか」
澪が怜司を見る。
佐野も少し考える。
相馬が言った。
「三上さんは、取材者であると同時に関係者でもあります。参加は必要だと思います。ただし、当日の詳細をすぐ記事にしない方がいい」
坂本が頷く。
「まず村の中で受け止める時間が必要ですね」
怜司は答えた。
「分かりました。記事化は後日、参加者確認後にします」
村井が少し笑った。
「最近は、記事にする前提でなくても三上さんがいるのに慣れてきました」
怜司は苦笑した。
「それは良いことなのかどうか」
澪が言った。
「半分くらい良いことです」
「半分」
「全部良いと言うと危ないので」
部屋に少し笑いが起きた。
笑いが生まれる場面が増えた。
それは、小さいが大切な変化だった。
読む会の方針が決まった。
名称。
――女名控を読む会
目的。
女名控の解読状況を共有する。
読める名、読めない名、未確定の読みを確認する。
本帳の外に置かれた記録を、村の中でどう受け止めるか話し合う。
参加者。
村内関係者、保存会、資料館、役場、十和田家、久我家、若い世代の代表数名。
専門家として相馬。
取材者兼関係者として怜司。
約束。
撮影しない。
資料を持ち出さない。
未確定の読みを断定しない。
個人や家の責任追及の場にしない。
読めない部分を無理に物語化しない。
発言を外へ出す時は本人確認を取る。
澪が最後の一文を提案した。
――読めない名を、読めないまま大事にする。
全員が頷いた。
その言葉が、会の中心になった。
数日後、読む会が公民館で開かれた。
かよ節を歌った小部屋より少し大きな部屋だった。
参加者は二十人ほど。
保存会の役員。
資料館職員。
役場職員。
村内の若い人が三人。
久我透。
十和田澪。
佐野。
坂本。
相馬。
怜司。
葛原重蔵は体調不良で来られなかったが、手紙を寄せていた。
相馬が、最初に説明した。
「今日は、答えを発表する会ではありません。読めるところ、読めないところ、まだ決められないところを共有する会です」
参加者たちは、静かに聞いていた。
机の上には、配布資料がある。
ただし、女名控の画像そのものではない。
読解状況をまとめた資料だけだった。
カヨ。
リク。
サヨ。
トメ。
ミツ。
読めない名。
それぞれの横に、確定度が書かれている。
高。
中。
低。
未確定。
若い参加者の一人が、小さく言った。
「学校の資料みたい」
隣の人が少し笑った。
相馬は、その声を拾った。
「そうですね。今日は、少し学校に近いかもしれません。ただし、答えが決まっていない授業です」
その言葉で、部屋の空気が少し柔らかくなった。
相馬は、まず本帳と外控の違いを説明した。
本帳に書かれたこと。
外控に置かれたこと。
寄合座の記録と、家や歌に残った記憶。
女性たちの名が、公式記録の中心から外れていたこと。
次に、カヨの項目。
相馬は慎重に話した。
「カヨは、アラムとみられる異子を匿い、母の名を聞いた人物として読める可能性があります。ただし、主語や時系列はまだ確定できません」
参加者の一人、年配の女性が手を挙げた。
「カヨは、悪い人だったんですか」
部屋が静かになる。
澪の顔が少し硬くなった。
相馬はすぐに答えず、少し考えた。
「悪い人、良い人とすぐには言えません」
怜司は、その答えにほっとした。
相馬は続けた。
「記録から見えるのは、守ろうとした可能性と、その行動が悲劇につながった可能性です。善意が必ず救いになるわけではない。そこを丁寧に見る必要があります」
年配の女性は頷いた。
「そうですか」
別の男性が言った。
「でも、子どもを匿ったなら、勇気があったんでしょう」
澪が静かに口を開いた。
「そう思いたいです。でも、それだけにすると、カヨがまた物語の人になります」
男性は少し驚いた顔をした。
澪は続けた。
「カヨは、守ろうとした。守れなかった。それを両方置いておきたいです」
部屋の空気が少し沈んだ。
しかし、悪い沈黙ではなかった。
次に、リクの項目。
若い参加者の一人が言った。
「リクが本当の名前じゃないかもしれないなら、展示や説明で出していいんですか」
それは、良い問いだった。
相馬は答えた。
「そこが大事です。本当の名と断定してはいけません。でも、誰かがその音を残そうとしたことは書けます」
怜司も付け加えた。
「記事でも、“母の名として伝わる”や“リクと聞き取られた可能性”という書き方にしています」
若い参加者は頷いた。
「つまり、正しい名前としてではなく、呼ぼうとした名前として扱う」
澪が小さく微笑んだ。
「はい」
その言葉は、若い人の口から出た。
怜司は、それだけでこの会を開いた意味があったと思った。
後半では、サヨ、トメ、ミツについて話した。
読める部分は少ない。
意味もはっきりしない。
だが、参加者の反応は意外だった。
「名前だけでも、あると違うね」
「何をした人か分からなくても、いたんだね」
「読めないところが、余計に気になる」
「気になるけど、勝手に作っちゃ駄目なんだよね」
若い参加者の一人が言った。
「分からないまま、覚えておくって難しいですね」
坂本が頷いた。
「行政も苦手です。分かりやすくまとめたくなるので」
少し笑いが起きた。
相馬も笑った。
「研究者も苦手です」
村井が言った。
「保存会もです」
怜司は、心の中で付け加えた。
新聞もです。
会の最後に、葛原の手紙が読まれた。
佐野が代読した。
――女名控を読む皆さまへ。
――わしらは、長く本帳を重く見てきました。
――本帳にあるものを記録とし、外にあるものを脇に置いた。
――それが間違いでした。
――外に置かれた名も、記録です。
――読めない名も、急いで読んだことにせず、そこにある名として扱ってください。
――預かるだけでなく、渡すことを考えてください。
読み終わると、部屋は静かになった。
葛原の声はそこにない。
だが、言葉は届いていた。
読む会が終わる頃、外は夕方になっていた。
参加者たちは、すぐには帰らなかった。
何人かが掲示資料の前に立ち、互いに小さく話している。
若い参加者の一人が、怜司に言った。
「こういうの、学校でもやった方がいいと思います」
「学校で?」
「はい。地元の話なのに、全然知らなかったので」
怜司は、その言葉に次の課題を見た。
学校。
若い世代。
教育。
名を次へ渡すなら、そこへ向かわざるを得ない。
ただし、学校で扱うには、さらに慎重さが必要だ。
夜、怜司は記事を書いた。
仮題。
――読む人を増やす
冒頭は、資料館の更新コーナーで年配の男性がつぶやいた言葉。
読めない名も、名か。
そこから、女名控を読む会へ進む。
記事では、カヨやリクの詳細を繰り返しすぎない。
中心は、読む人が増えたこと。
専門家だけでなく、保存会、役場、十和田家、若い世代が、未確定の資料を未確定のまま共有したこと。
本文の結びに、怜司はこう書いた。
――読む人を増やすことは、資料を安易に公開することではない。誰かが一方的に答えを示すのでもない。読める名、読めない名、まだ分からないことを同じ部屋に置き、その重さを分け合うことだった。
翌朝、第十七回が公開された。
――雪の下の名 第十七回
――読む人を増やす 女名控を村の中で受け止める
反応は、教育関係者や地域史に関わる人たちから多かった。
「未確定の資料を学ぶ場は大事」
「読めない名を読めないまま共有する、という考え方が新鮮」
「学校で扱うには確かに慎重さが必要」
「地元の若い世代が入ったのがよかった」
「公開と共有の違いがまた出てきた」
昼過ぎ、坂本から電話があった。
「学校の話、出ましたね」
「はい」
「実は、教育委員会からも連絡が来ています」
怜司は息を止めた。
「教材化ですか」
「まだ、そこまでは。ただ、地域学習でどう扱えるか相談したいと」
怜司は窓の外を見た。
次の問いが、もう来ていた。
子どもたちに、どう伝えるか。
アラムは子どもだった。
その話を、今の子どもたちにどう渡すのか。
難しい。
とても難しい。
怜司は手帳を開いた。
次回の仮題を書く。
――子どもたちに、どう伝えるか
雪の下の名は、また新しい場所へ向かおうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
第41話では、女名控を専門家だけでなく、村の中で読む場が開かれました。
読む人を増やすことは、安易に公開することではありません。
読める名、読めない名、まだ分からないことを、同じ部屋で共有することでした。
次回は、学校や地域学習でこの出来事をどう伝えるかへ進みます。
子どもたちに、どこまで、どう伝えるのかが焦点になります。




