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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第四十話 読めない名を読む

総括記事によって、連載は一度立ち止まった。

村は、止まりながら進むことを選んだ。


そして数週間後。

役場に保管された外控文書「女名控」の初期解読が進み始める。


そこに書かれていたのは、カヨとリクだけではなかった。

本帳の外に置かれた名は、まだ残っていた。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

春の雨が、役場の窓を細く叩いていた。


三上怜司は、会議室の長机の前に座っていた。


机の上には、資料のコピーが並んでいる。


ただし、原本ではない。


原本は保管庫に置かれ、専門家立ち会いのもとで撮影された高精細画像だけが、今日の検討に使われていた。


女名控。


正式には、表紙にこうある。


――寄合座外控

――女名并言伝


本帳の外に置かれた、女たちの名と言い伝え。


その解読作業が、ようやく最初の報告段階に入った。


会議室には、役場の坂本、資料館の佐野、相馬由紀准教授、県の文化財担当、十和田澪、そして怜司がいた。


十和田澄江は体調面から欠席したが、澪を通じて確認を受けることになっている。


葛原重蔵も欠席だった。


ただ、前日に怜司へ電話をかけてきて、こう言った。


「読めない名も、そこにある名だ。急いで読んだことにするな」


その言葉が、怜司の中に残っていた。


読めない名も、そこにある名。


相馬が、資料を一枚ずつ配った。


「まず、今日お話しするのは確定解読ではありません。初期読解です」


最初に釘を刺すような口調だった。


「崩し字、写しの状態、紙の損傷、後世の加筆の可能性があります。読みは今後変わることがあります」


坂本が頷いた。


「記事にする場合も、その前提ですね」


怜司は答えた。


「はい。確定していないものは、確定として書きません」


相馬は怜司を見て、少しだけ頷いた。


「では、始めます」


スクリーンに、女名控の一部が映された。


薄い和紙。


黒ずんだ筆文字。


ところどころ虫食いがあり、文字が欠けている。


その中に、縦に名が並んでいた。


カヨ。

リク。

サヨ。

トメ。

ミツ。


相馬はレーザーポインターで示した。


「このあたりは、比較的読みやすい部分です。ただし、リクについては、リクと読むか、リコ、あるいは別音の当て字か、まだ確定できません」


澪が静かに言った。


「祖母は、リクと聞いています」


「はい。その口承は非常に重要です」


相馬は頷いた。


「ただ、文書としての読みと、口承として残った音を、いったん分けて扱う必要があります」


怜司はメモを取った。


文書の読み。

口承の音。

分けて扱う。


相馬は続けた。


「カヨの項目には、短い言伝があります」


会議室の空気が変わる。


スクリーンには、カヨの名の横に書かれた数行が拡大された。


相馬は慎重に読んだ。


「まだ仮読みですが、こう読める可能性があります」


資料に、現代語訳の試案があった。


――カヨ

――異子を蔵に匿う

――母名を聞き、沢越えを願う

――雪に道失う

――後、歌に残す


澪の手が、膝の上で強く握られた。


怜司は、その短い文を見つめた。


異子。


アラムとは書かれていない。


だが、文脈上、アラムを指す可能性が高い。


蔵に匿う。


母名を聞き。


沢越えを願う。


雪に道を失う。


後、歌に残す。


これまで歌や証言で聞いてきたことが、文書の形でも現れていた。


ただし、断定ではない。


初期読解。


それを忘れてはいけない。


佐野が小さく言った。


「カヨが歌に残した、と読めるんですか」


相馬は慎重に首を傾げた。


「“後、歌に残す”の主語がカヨ本人か、後の十和田家かは分かりません。文法的に曖昧です」


澪が顔を上げた。


「カヨ本人が歌ったとは限らない」


「はい。カヨの出来事が後に歌として残された、という意味かもしれません」


怜司はメモした。


主語を決めつけない。


次に、リクの項目が映された。


文字はさらに欠けていた。


相馬は言った。


「リク、またはそれに近い名の項目は、かなり損傷しています。読める部分は少ない」


現代語訳の試案。


――リク

――母名と伝う

――異子、夜にこれを呼ぶ

――音、里言葉にて定まらず

――名のみ残す


会議室は静まり返った。


音、里言葉にて定まらず。


名のみ残す。


怜司の胸が震えた。


リクは、本当の名か分からない。


それは、澄江の記憶や、悠一の録音と一致する。


村の人々は、アラムが母を呼ぶ声を正確には聞き取れなかった。


それでも、名だけ残した。


完全ではない名。


しかし、消さなかった名。


澪の目に涙が浮かんでいた。


「祖母に、見せたいです」


「もちろんです」


坂本が言った。


「ただし、持ち出しはできません。写しを確認用に用意します」


澪は頷いた。


「はい」


怜司は、ここで初めて、自分の中に湧く強い感情を抑えた。


書きたい。


すぐに記事にしたい。


カヨの項目。

リクの項目。

歌と文書の一致。

母の名が定まらず、名のみ残されたこと。


これは重要だ。


しかし、ここで急げば、また同じことになる。


相馬が、その気持ちを見抜いたように言った。


「三上さん」


「はい」


「記事にするなら、少なくとも数日は置いてください」


怜司は顔を上げた。


相馬は続けた。


「これは、非常に強い内容です。出せば、カヨとリクの物語が一気に固定されます。初期読解の段階で、その危険があります」


怜司は頷いた。


「分かっています」


「分かっている時ほど、気をつけてください」


その言葉は厳しかった。


だが、ありがたかった。


坂本も言った。


「役場としても、すぐに公表は避けたいです。まず関係者確認と、追加の専門家確認を取ります」


佐野が続ける。


「資料館展示にも、まだ反映しません。更新コーナーには“解読作業中”までにします」


澪は、涙を拭いながら言った。


「祖母に確認してからにしてください」


「もちろんです」


怜司は言った。


「記事にする前に、必ず」


会議の後半では、他の名についても説明があった。


サヨ。

トメ。

ミツ。


それぞれの名には、短い言伝がついていた。


産屋で歌を継いだ女。

清之進の後悔を聞いた女。

伊佐衛門の沈黙を見た女。


詳しい内容はまだ読めない。


だが、明らかなことが一つあった。


女名控は、カヨ一人のための記録ではなかった。


本帳から外されたのは、一人ではない。


村の歴史の裏側で、見ていた者、聞いていた者、歌っていた者、黙っていた者がいた。


相馬は最後に言った。


「この文書は、事件の補足資料ではありません」


怜司はペンを止めた。


相馬は続けた。


「本帳に書かれた出来事を、女性たちの側から補う資料です。主ではなく補助、という扱いにすると、また同じことが起きます」


会議室が静かになった。


佐野が小さく頷いた。


「展示でも気をつけます」


坂本も言った。


「役場の資料説明でも、関連資料という言い方だけでは足りないかもしれません」


怜司は、手帳に大きく書いた。


補足ではない。

別の側から見た記録。


それが、女名控の位置づけだった。


会議が終わった後、澪はしばらく席を立てなかった。


怜司も、声をかけずに待った。


やがて澪が言った。


「カヨだけじゃなかったんですね」


「はい」


「リクだけでも、アラムだけでもなくて」


「はい」


「女の人たちが、見ていたんですね」


怜司は頷いた。


「見ていたし、聞いていたし、残そうとしていた」


澪は、静かに泣いた。


「祖母が言っていたんです。歌は、女たちの逃げ道でもあったって」


「逃げ道」


「言えないことを、歌に逃がしたんだと思うって」


怜司は、その言葉を胸に留めた。


言えないことを、歌に逃がす。


美しい表現ではない。


苦しい表現だった。


だが、正確だった。


夜、怜司は原稿を書かなかった。


代わりに、メモだけを作った。


女名控初期読解。

カヨ項目。

リク項目。

読めない名。

主語未確定。

文書と口承の違い。

補足ではない。

女性たちの側から見た記録。

歌は逃げ道。


その下に、太く書いた。


――まだ記事にしない。


それは自分への命令だった。


翌日、澪は澄江に写しを見せた。


怜司は同行しなかった。


十和田家の中で受け止める時間が必要だと思ったからだ。


夕方、澪から電話が来た。


声は少し掠れていた。


「祖母に見せました」


「はい」


「しばらく、何も言いませんでした」


「はい」


「それから、“読めないところも、消さないで”と言いました」


怜司は目を閉じた。


「読めないところも」


「はい。読めないから省くのではなく、読めないまま残してほしいと」


怜司は手帳に書いた。


読めないところも、消さない。


澪は続けた。


「祖母は、サヨやトメやミツの名を見て、泣きました」


「知っていた名前ですか」


「全部は知らないそうです。でも、聞いたことのある音があると」


「そうですか」


「三上さん」


「はい」


「記事にする時、カヨとリクだけにしないでください」


怜司は息を止めた。


澪の声は静かだったが、強かった。


「カヨとリクだけを出すと、また目立つ名前だけが残ります。読めない名や、まだ意味が分からない名も、そこにあったことを書いてください」


怜司は頷いた。


「必ず書きます」


電話を切った後、怜司はしばらく動けなかった。


カヨとリクは強い。


記事としても、読者の関心としても。


だが、女名控はその二人だけではない。


目立つ名だけを出せば、また他の名を外へ置くことになる。


それは、同じ失敗だ。


数日後、追加の専門家確認が取れた。


読みはまだ暫定。


ただし、カヨとリクに関する項目の存在、複数の女性名、歌や言伝に関する記述があることは、記事で触れられる範囲になった。


役場、十和田家、相馬、佐野の確認も得た。


ようやく、怜司は原稿を書き始めた。


仮題。


――読めない名を読む


冒頭は、スクリーンに映された虫食いの和紙。


文字が欠け、読めない部分があること。


それでも、そこに名があること。


本文では、カヨとリクの初期読解に触れる。


ただし、歌詞や全文は出さない。


カヨについては、アラムを匿い、母名を聞き、沢越えを願ったと読める可能性。


リクについては、アラムが母を呼んだ音が、里の言葉では定まらなかった可能性。


そして、最も重要なこととして、他の名を書く。


サヨ。

トメ。

ミツ。

まだ読めない名。


――女名控は、カヨとリクだけの記録ではない。本帳の外へ置かれていたのは、目立つ一つの名ではなく、複数の声だった。読めない名を読めないまま示すことも、消さないための作業である。


相馬のコメントを入れる。


――この文書は本帳の補足ではなく、別の側から見た記録として扱う必要がある。


澄江の言葉も入れる。


――読めないところも、消さないで。


澪の言葉も入れる。


――カヨとリクだけにしないでください。


記事の最後に、怜司はこう書いた。


――読める名だけを拾えば、また別の名を置き去りにする。女名控の解読は、文字を読む作業であると同時に、読めないものを読めないまま残す作業でもある。雪の下にあった名は、一つではなかった。


翌朝、第十六回が公開された。


――雪の下の名 第十六回

――読めない名を読む 女名控に残された複数の声


反応は、予想より大きかった。


「カヨとリクだけじゃなかったのか」

「読めないところも消さない、がすごい」

「歴史は読める資料だけでできているわけじゃないんだな」

「本帳の補足ではなく別の側から見た記録、という視点が大事」

「女性たちの名前が本帳の外に置かれていた重さ」


一方で、やはり単純化する反応もあった。


「消された女たちの真相」

「女名控の全文公開を」

「なぜ隠すのか」


怜司は、それらも記録した。


全文公開の要求は、今後さらに強まるだろう。


その時にどうするか。


次の課題が見えていた。


昼過ぎ、佐野から連絡が来た。


「資料館の更新コーナーに、女名控の初期解読について追加します」


「どこまで?」


「カヨ、リク、その他の女性名が確認されていること。解読中であること。全文公開は未定であること。読めない部分も含めて保全すること」


「いいと思います」


「見出しは、“読めない名も残す”にします」


怜司は少し笑った。


「強いですね」


「澄江さんの言葉ですから」


夕方、澪が資料館に来た。


「記事、祖母が読みました」


「どうでしたか」


「“やっと、他の人たちも息をしたね”と言っていました」


怜司は、言葉を失った。


他の人たちも息をした。


カヨとリクの影に隠れそうだった名たち。


サヨ。

トメ。

ミツ。

読めない名。


その名たちが、少しだけ息をした。


「よかったです」


怜司は、ようやく言った。


澪は頷いた。


「でも、祖母が言っていました」


「何と?」


「これで終わりではない。読めない名を読むなら、読めないままの苦しさも背負いなさい、と」


怜司は静かに頷いた。


「はい」


読めないものを残す。


それは、気持ちのいい作業ではない。


答えが出ない。

物語にならない。

読者も納得しづらい。


それでも、読めないから消すよりはいい。


夜、怜司は次のメモを書いた。


女名控の初期解読が出た。

次は、全文公開を求める声が強まる。

資料館更新コーナー。

専門家確認。

関係者の同意。

保存と公開の境界。


そして、もう一つ。


読めない名を読むことは、誰が読むのかという問題でもある。


これまで読んできたのは、専門家と役場と新聞だった。


だが、十和田家の女性たち、村の若い世代、保存会の人々はどう読むのか。


女名控を村の中で読む場が必要になるかもしれない。


怜司は仮題を書いた。


――読む人を増やす


それが次の問いだった。

お読みいただきありがとうございます。

第40話では、女名控の初期解読が進み、カヨとリクだけでなく、複数の女性名が残されていたことが分かりました。


読める名だけを拾えば、また別の名を置き去りにする。

読めないところも、消さない。


次回は、女名控を誰が読むのか。

専門家だけでなく、村の中でどう読み、どう受け止めるのかへ進みます。

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