表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第四話 消えた男の顔

四十年前に行方不明になったはずの民俗学者・久我玲一。

その名を、葛原は確かに口にした。


だが、目の前の男は老いていない。

それは本当に久我本人なのか。

それとも、誰かが久我の名を利用しているのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

「久我……玲一」


葛原の声は、雪に濡れた紙のように掠れていた。


その名が発された瞬間、三上怜司の中で時間がずれた。


四十年前に消えた民俗学者。

父・宗一郎が最後に会ったという男。

墓の調査中に行方不明となり、事故とも逃亡とも噂された人物。


その男が、いま父の家の廊下に立っている。


だが、あり得なかった。


目の前の男は、どう見ても四十年前から来た老人ではない。年齢は四十代半ばほど。頬は痩せ、目の下には深い影があるが、葛原と同世代には見えなかった。


老い方が違う。

時間の積もり方が違う。


「久我玲一?」


怜司は筒を握りしめたまま、男を見た。


「あなたが?」


男は答えなかった。


深く被っていた帽子を外すと、短く整えられた黒髪が現れた。肌は青白い。唇には血の気がなく、雪の外気に晒されていたせいか、頬の端が少し赤く荒れていた。


その顔には、見覚えがない。


少なくとも怜司の記憶には存在しない顔だった。


だが、葛原は違った。


老人は杖を構えたまま、男から目を離さない。


「お前は死んだはずだ」


葛原が言った。


男はようやく口を開いた。


「死んだことにされた」


その声は低かった。


不思議な声だった。若いとも老いているとも言い切れない。響きの底に、長く閉ざされた部屋の空気のようなものがある。


「久我玲一は四十年前に消えた」


怜司は言った。


「あなたは四十代に見える。本人であるはずがない」


男は怜司を見た。


「記者らしい考え方だ」


「記者でなくてもそう考えます」


「なら、考え続けろ。答えに辿り着く前に、誰かが死ぬ」


澪が息を呑んだ。


「あなたが倉庫に火をつけたんですか」


男は澪に視線を移した。


「十和田の娘か」


「私を知っているんですか」


「十和田の血は、声で分かる」


「答えてください。倉庫を焼いたのはあなたですか」


男はわずかに笑った。


「火をつけたのは俺ではない」


「では、誰が」


「火は、歌が途切れた時に上がる」


「ふざけないでください」


澪の声が震えた。


怒りだった。


「布片と木簡はどこですか」


「奪われた」


「あなたが持っているそれは何ですか」


澪は男の手の中の焦げた板を指さした。


男はそれを見下ろした。


「これは偽物だ」


「偽物?」


「木簡に見せかけた餌だ。本物を持ち去った者は、最初から保管場所を知っていた」


怜司は眉をひそめた。


「つまり、あなたは犯人ではないと言いたいんですか」


「信じる必要はない」


「なら、なぜここへ来た」


男は怜司の手元を見た。


黒ずんだ金属の筒。

父の文箱に隠されていたもの。


「それを開けさせるためだ」


葛原が低く唸った。


「お前が仕組んだのか」


「お前たちが四十年、何も選ばなかったからだ」


「久我」


「その名で呼ぶな」


男の声が初めて鋭くなった。


廊下の空気が張り詰める。


割れた台所の窓から、冷たい風が家の奥まで流れ込んでいた。障子が震え、古い柱が軋む。父の家は、今にも雪の中へ沈みそうだった。


怜司は筒から取り出した布を見た。


茶色く変色した細い布。

端には、見慣れない文字が記されている。


その横に挟まれていた小さな和紙。


――イスキリの墓を開くな。真に眠る者は、もう一つの墓にいる。


「この布は何です」


怜司は尋ねた。


男は答えない。


「父はなぜ、これを持っていたんですか」


沈黙。


「四十年前、父は何を隠したんです」


沈黙。


怜司の中で苛立ちが膨らんだ。


この村の人間は、誰もはっきり答えない。澪も、葛原も、この男も。誰もが謎めいた言葉だけを置いていく。


けれど、命を狙われているのはこちらだ。


父の過去に巻き込まれ、墓守だと言われ、家にまで侵入された。


それでも黙っているつもりなら、こちらにもやり方がある。


怜司はスマートフォンを取り出した。


「警察を呼びます」


葛原が顔を上げる。


澪も止めようとした。


だが、怜司は番号を押した。


その瞬間、男が言った。


「呼べば、葛原が捕まる」


怜司の指が止まった。


「何?」


男は葛原を見た。


「四十年前、久我玲一を最後に見たのは三上宗一郎だ。だが、死んだ青年を最初に見つけたのは葛原重蔵。消えた研究資料を燃やしたのも葛原家の人間。違うか」


葛原の顔が土気色になった。


「黙れ」


「警察が本気で掘れば、墓ではなく葛原の過去が出る」


「黙れと言っている!」


葛原が杖を振り上げた。


男は避けなかった。


澪が葛原の腕を掴む。


「葛原さん!」


杖は男の肩の手前で止まった。


葛原の呼吸が荒い。


怜司はその様子を見て、確信した。


この男は、真実をすべて知っているわけではない。

だが、葛原の弱点を知っている。


そして葛原は、それを否定できない。


「四十年前に死んだ青年とは誰ですか」


怜司は葛原に尋ねた。


「答えてください」


老人は顔を背けた。


代わりに男が言った。


「十和田澪の叔父だ」


澪の動きが止まった。


「……え?」


男は彼女を見た。


「聞かされていないのか」


「叔父は、病気で亡くなったと」


「十和田家は歌を守る家だ。歌が途切れた夜、歌い手が死んだ」


澪は小さく首を振った。


「そんな話、聞いていません」


「伝える者がいなければ、伝承は消える」


男の目が、わずかに細くなる。


「都合の悪い伝承から順に」


澪は葛原を見た。


「本当ですか」


葛原は何も言わなかった。


その沈黙だけで、澪の表情が崩れた。


「祖母は……知っているんですか」


「知っている」


葛原はようやく答えた。


「知っていて、黙っていた」


「なぜ」


「お前を巻き込まないためだ」


「もう巻き込まれています」


「だから言わなかったんだ!」


葛原の声が部屋に響いた。


すぐに、老人は自分の声に驚いたように口を閉じた。


沈黙が落ちる。


雪の夜の中で、古い家がぎしりと鳴った。


怜司は男から視線を外さなかった。


「あなたは本当に久我玲一なのか」


男は答えない。


「答えられないなら、別の可能性を考えます。あなたは久我玲一の息子、あるいは関係者。四十年前の事件を調べ、久我の名を利用している」


男の表情は動かなかった。


「年齢的には、その方が自然です」


「自然な答えほど、真実から遠いこともある」


「超常現象を信じろと?」


「信じなくていい。信じる者から死んでいく」


男は一歩、室内へ入った。


葛原が再び身構える。


怜司は文箱を抱え直した。


「それを墓へ戻せ」


男が言った。


「戻せば終わるんですか」


「終わらない」


「なら戻す意味がない」


「少なくとも、今夜死ぬ人間は減る」


「脅しですか」


「忠告だ」


その言い方が、澪に似ていた。


この村の人間は、みな同じ言葉を使う。


触るな。

見るな。

戻れ。

掘るな。

話すな。


誰もが守ろうとしている。


だが、何を守っているのかは言わない。


怜司は布を広げた。


澪が小さく声を上げる。


「三上さん、乱暴に扱わないで」


「読めますか」


「今ここでは無理です」


「ヘブライ文字に似ていると言いましたね」


「似ています。でも、完全に一致しているかは分かりません。古い字体かもしれないし、誰かが似せて書いたものかもしれません」


「なら、これは証拠にならない」


「今の時点では」


「でも、これだけは日本語です」


怜司は和紙の文字を見せた。


――イスキリの墓を開くな。真に眠る者は、もう一つの墓にいる。


「この字は父のものです」


今度ははっきりと言った。


誰も否定しなかった。


怜司は続けた。


「父は、筒の中身を知っていた。少なくとも、これを書いた時点で二つの墓の意味を知っていた」


葛原は苦しそうに目を閉じた。


「宗一郎は、開けたのか」


「四十年前に?」


葛原は頷いた。


「墓を?」


「違う」


葛原の声は低かった。


「二本の十字架のうち、片方は墓ではない。だが、もう片方も、お前たちが思っている墓ではない」


「どういう意味です」


「一つは遺骸を納めた墓。もう一つは、名を納めた墓だ」


怜司は眉をひそめた。


「名を納めた墓?」


「人は死ぬと、体が残る。だが、時に名の方が危険になる」


男が静かに言った。


「だから名を埋める」


葛原が男を睨む。


「久我、お前は黙っていろ」


「まだ、その名で呼ぶのか」


男は笑った。


その笑みは、初めて人間らしく見えた。

疲れきった、皮肉な笑みだった。


「俺は久我玲一ではない」


澪が顔を上げた。


怜司は静かに息を吐いた。


やはり。


「では、誰です」


男は少しだけ顔を伏せた。


「久我玲一の息子だ」


澪の唇が震えた。


葛原は目を閉じた。


「名前は」


怜司が聞く。


男は答えた。


「久我透」


久我透。


その名は、これまでのどこにも出てこなかった。


「父の行方を探して、この村に来たのか」


怜司が尋ねる。


透は怜司を見た。


「最初はな」


「今は?」


「父はもう死んでいる」


「遺体が見つかったんですか」


「見つかっていない」


「なら、なぜ死んでいると」


「死んでいなければならないからだ」


それは奇妙な答えだった。


だが、その声には確信があった。


久我透は、父の死を証明できない。

それでも死んだと信じている。


いや、信じなければならない理由がある。


「あなたは木簡と布片を盗んでいない」


怜司は確認するように言った。


「盗んでいない」


「では、誰が盗んだ」


透は割れた窓の方を見た。


「村の外から来た者だ」


「外部の研究者ですか」


「研究者ならまだいい」


「どういう意味です」


「伝承を信じる者は危険だ。だが、伝承を金に変える者はもっと危険だ」


怜司はその言葉を覚えた。


伝承を金に変える者。


観光か。宗教団体か。古物商か。あるいは、もっと別の組織か。


「昨日の木箱は、本物を誘い出すために表へ出された」


透は言った。


「誰が出したんです」


「お前の父親だ」


怜司の体が固まった。


「父は死んでいます」


「死ぬ前に仕掛けた」


「何を」


「四十年前の残り火が、まだ誰の中にあるのか。それを確かめるために」


怜司は文箱を見た。


父の遺品。

父の手紙。

父の写真。

父が残した鍵と筒。


すべてが偶然ではないとしたら。


父は死後、怜司を村へ向かわせた。


止めるためではなく、動かすために。


「父は、僕を利用したんですか」


その問いは、自分で思った以上に冷たく響いた。


葛原が顔を上げた。


「宗一郎は、お前を守ろうとした」


「なら、なぜこんなものを残した」


「守ることと、隠すことは違う」


怜司は笑った。


「便利な言葉ですね」


澪が静かに言った。


「三上さん」


「父は何も話さなかった。母にも、僕にも、故郷のことを隠した。死んだあとになって手紙と写真を残して、村へ行けと言わんばかりの仕掛けを作った。これのどこが守ることなんですか」


誰も答えなかった。


答えられないのだ。


怜司は布を筒へ戻そうとした。


そのとき、布の内側に薄い線が見えた。


「待ってください」


澪が近づいた。


「内側にも文字があります」


怜司は慎重に布を広げた。


変色した布の裏に、肉眼では見逃しそうなほど薄い文字があった。墨ではない。血でもない。染料か、あるいは時間によって浮き上がった何か。


澪がスマートフォンのライトを当てる。


葛原が息を詰める。


透も一歩近づいた。


布の裏には、縦に短い日本語が書かれていた。


――歌を逆に辿れ。

――ナニャドヤラは道である。

――十和田の声が、二つ目の墓を開く。


澪の顔から血の気が引いた。


「私……?」


怜司は澪を見た。


十和田家は歌を伝える家。

ナニャドヤラ。

意味の分からない古い歌。

歌が途切れた時が一番危ない。


「二つ目の墓を開く」


怜司は呟いた。


葛原が首を横に振った。


「駄目だ」


「葛原さん」


「絶対に駄目だ。宗一郎は何を考えていた。よりによって、十和田の声を使うなど」


透が静かに言った。


「だから俺が来た」


「お前は何を知っている」


葛原が睨む。


透は澪を見た。


「四十年前、君の叔父は歌った」


澪の瞳が揺れる。


「どこで」


「墓の前で」


「なぜ」


「久我玲一が、二つ目の墓を開けるために頼んだ」


「その結果、叔父は死んだんですか」


透は答えなかった。


それが答えだった。


澪はふらつき、机に手をついた。


怜司は彼女を支えようとしたが、澪は小さく首を振った。


「大丈夫です」


声は大丈夫ではなかった。


「大丈夫ではないでしょう」


「いいえ」


澪は唇を噛み、布の文字を見つめた。


「私は、知らなければいけません」


その言葉は、怜司自身にも突き刺さった。


知らなければいけない。


知らなければ、父の沈黙も、村の恐怖も、四十年前に死んだ青年も、消えた研究者も、すべてが雪の下に戻ってしまう。


そしてまた、誰かが死ぬ。


「墓へ戻ります」


澪が言った。


葛原が即座に否定した。


「駄目だ」


「私は歌えます」


「だから駄目だと言っている」


「叔父が死んだ理由を知りたいんです」


「知れば、お前も死ぬ」


「知らなければ、誰かがまた死にます」


澪の声は震えていた。


だが、目は逸らさなかった。


怜司は透を見た。


「あなたの目的は何です」


「父の終わりを見つけること」


「復讐ではなく?」


透は少しだけ笑った。


「復讐できる相手が残っているなら、そうしたかもしれない」


「残っていない?」


「四十年前の罪を犯した人間は、もう半分以上死んでいる。残った者は老い、忘れたふりをしている。殺しても意味がない」


「では、何をするつもりです」


「墓を開ける」


葛原が怒鳴った。


「久我!」


透は葛原を見た。


「俺は久我玲一ではない」


「同じだ!」


老人の叫びは、悲鳴に近かった。


「お前も、お前の父親と同じことをする気だ! 知りたい、確かめたい、世に出したい。そうやって、また死人を出す!」


透は静かに言った。


「死人はもう出ている」


「何?」


「今日の倉庫番だ」


澪が顔を上げた。


「倉庫番?」


「木箱を見張っていた村の男がいたはずだ」


葛原の顔が凍りついた。


「誰ですか」


怜司が聞く。


葛原は答えない。


透が代わりに言った。


「葛原の甥。葛原修二」


「まさか」


葛原はふらついた。


「修二は、昼には資料館にいた。警察に連絡を……」


そのとき、怜司のスマートフォンが震えた。


画面には、知らない番号が表示されていた。


怜司は躊躇した。


だが、出た。


「三上さんですか」


若い男性の声だった。

焦っている。息が荒い。


「はい」


「青森日日新聞の三上さんですよね。こちら、新郷駐在所の――」


そこで、声が一瞬途切れた。


雑音。

風の音。

遠くで誰かが叫ぶ声。


「どうしました」


怜司が聞く。


電話の向こうの声が震えた。


「資料館裏の沢で、男性が見つかりました」


部屋の全員が怜司を見た。


「男性?」


「身元はまだ確認中ですが、葛原修二さんと思われます」


葛原の膝が崩れた。


澪が駆け寄る。


「葛原さん!」


怜司はスマートフォンを握りしめた。


「容体は?」


電話の向こうで、短い沈黙があった。


「すでに亡くなっています」


雪の音が、遠くなった。


倉庫番。

木箱。

歌が途切れた。

次は、墓守が死ぬ。


紙片の言葉は、予告だった。


すでに一人、死んでいた。


怜司はゆっくりと透を見た。


「あなたは知っていたんですか」


透は目を伏せた。


「間に合わなかった」


「何に」


「歌が途切れた後、最初に死ぬのは、記録を守る家の者だ」


葛原家。


記録を預かる家。


葛原修二は、その家の者だった。


では次は。


怜司は紙片の文字を思い出した。


――次は、墓守が死ぬ。


三上家。


残っているのは、自分だけ。


澪が震える声で言った。


「墓へ行きましょう」


葛原は床に座り込んだまま、首を横に振った。


「駄目だ……もう駄目だ……」


透は怜司を見た。


「選べ」


「何を」


「逃げるか、開けるか」


「逃げれば?」


「お前は死ぬ。たぶん今夜ではない。だが、必ず追いつかれる」


「開ければ?」


透は窓の外の雪を見た。


「誰が嘘をついていたのか分かる」


怜司は筒を握った。


父が残したもの。

村が恐れたもの。

誰かが奪おうとしているもの。


本当は、帰りたかった。


東京でも、青森市内でもいい。どこか安全な場所へ行き、警察に任せ、新聞社にも連絡し、普通の事件として処理してしまいたかった。


だが、それでは終わらない。


父がなぜ村を出たのか。

なぜ自分を守るふりをして、この謎の中心へ導いたのか。

なぜ墓守の血が、今も狙われるのか。


それを知らない限り、怜司は父の死から自由になれない。


「行きます」


怜司は言った。


澪が頷いた。


透は帽子を被り直した。


葛原は床に座り込んだまま、顔を上げた。


「行くな」


「葛原さんはここにいてください」


怜司は言った。


「甥御さんのこともあります。警察が来たら説明を」


「説明などできるものか」


老人は震える声で言った。


「わしはまた、同じことを繰り返すのか」


怜司は返事をしなかった。


返事の代わりに、父の文箱から鍵と筒を取り出し、コートの内側へ入れた。


澪は布を慎重に包み直した。


透は廊下へ向かう。


その背中に、怜司は声をかけた。


「久我透さん」


透が振り返る。


「さっき、二つ目の墓を開けると言いましたね」


「ああ」


「そこに何があると思っていますか」


透は少しだけ沈黙した。


そして言った。


「父が消える前に、最後に残した言葉がある」


「何ですか」


透の声は低かった。


「キリストはいなかった。だが、キリストにされた男はいた」


怜司は言葉を失った。


信仰の真偽ではない。

伝承の真実でもない。


この村が隠していたのは、もっと人間臭い何かだ。


誰かを「聖者」にし、誰かを「身代わり」にし、誰かの死を墓と歌で包んだ。


雪は、なおも降り続けていた。


三人が玄関を出ると、夜の空気が肌を刺した。


父の家の前には、タイヤの跡が残っていた。


黒い車のものかもしれない。


澪がスマートフォンを見る。


「新郷村まで戻るには、かなり時間がかかります」


「それでも行く」


怜司は答えた。


透は雪道の向こうを見た。


「急いだ方がいい」


「なぜです」


「二つ目の墓は、夜明け前にしか開かない」


澪が眉をひそめる。


「そんな伝承は聞いたことがありません」


「伝承ではない」


透は静かに言った。


「仕掛けだ」


その言葉に、怜司は父の顔を思い出した。


寡黙で、不器用で、何も語らなかった父。


その父が四十年前、墓に仕掛けを残したのだとしたら。


そして今、その仕掛けが動き出しているのだとしたら。


雪の夜の向こうで、青森の山が黒く沈んでいる。


そこに二本の十字架が立っている。


一つは、遺骸を納めた墓。

一つは、名を納めた墓。


怜司は知らなかった。


そのどちらでもない場所に、本当の入り口があることを。


そして、ナニャドヤラの歌が、祈りではなく、地図だったことを。

お読みいただきありがとうございます。

第4話では、現れた男が久我玲一本人ではなく、その息子・久我透であることが明かされました。さらに、倉庫番の葛原修二が死亡し、「次は墓守が死ぬ」という予告が現実に近づきます。


次回、怜司たちは再び新郷村へ戻り、ナニャドヤラの歌に隠された「道」を辿ることになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ