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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第三話 黒い文箱

焼けた倉庫から消えた木簡と布片。

残された言葉は、「次は、墓守が死ぬ」。


怜司は父の遺品の中にあるはずの鍵を探すため、青森市内の自宅へ戻る。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

倉庫の煙は、雪に溶けるように消えていった。


だが、焼け焦げた匂いだけはいつまでも残った。


木材が燃えた匂い。古い紙が焦げた匂い。湿った土と灰が混ざった匂い。三上怜司はそれを吸い込みながら、倉庫の前に立っていた。


雪は降り続けている。


白いものが次々に落ちてくるのに、目の前にある現実だけが黒かった。


資料館裏の小さな倉庫は、半分ほど焼けていた。火はすでに消し止められている。火事というほど大きくはない。だが、焼かれるべきものだけが、正確に焼かれていた。


棚に積まれていた古い資料。

村の伝承に関する記録。

そして、昨日見つかったという木箱。


その木箱は、中央に置かれていた。


蓋は割られ、中身は消えていた。


「布片と木簡だけがない」


十和田澪は、焦げた床を見つめながら言った。


声は落ち着いていたが、指先は震えていた。


「他には?」


怜司が尋ねる。


「一緒に入っていた土片や木くずは残っています。持ち去られたのは、意味があるものだけです」


「犯人は中身を知っていた」


「そういうことになります」


澪は振り返り、資料館の方を見た。


「ここに木箱を置いたことを知っていた人間は限られています」


「村の人間ですか」


「外部の人間が簡単に入り込める場所ではありません」


怜司は倉庫の前の雪を見た。


複数の足跡があった。


ただし、降り続く雪のせいで輪郭は崩れている。新しいものと古いものの区別も難しい。警察が来れば、少しは調べるだろう。だが、どこまで真剣に扱うかは分からない。


小さな村の、古い倉庫の小火。

保管されていたものは、公式な文化財でもない。


事件として扱われるかどうかも怪しかった。


「警察には?」


怜司が聞く。


「葛原さんが連絡しています」


澪はそう言ったが、その顔は期待しているようには見えなかった。


少し離れた場所で、葛原老人が携帯電話を耳に当てていた。杖を雪に突き刺し、背を丸めている。その姿は、先ほどよりも小さく見えた。


怜司は手の中の紙片を見下ろした。


焼け残った紙片。


そこに残された言葉。


――歌が途切れた。

――次は、墓守が死ぬ。


墨の線は焦げて滲み、一部は読みにくくなっている。だが、その筆跡には見覚えがあった。


父の字に似ている。


似ている、というだけなら偶然かもしれない。

だが、怜司は父の字を何度も見ている。年賀状、古いメモ、仕事用の手帳、病院の同意書。父の字は細く、右上がりで、最後の払いだけが不自然に強かった。


紙片の字も同じだった。


「それ、本当にお父さんの字ですか」


澪が聞いた。


「分かりません」


怜司は正直に答えた。


「似ているだけかもしれない」


「でも、そう思ったんですね」


「はい」


澪は黙った。


その沈黙には、驚きだけではないものがあった。


まるで、そうであってもおかしくないと思っているようだった。


「父は四十年前に何をしたんですか」


怜司は低く尋ねた。


澪は答えない。


「葛原さんは、父が止めたものだと言いました。あなたも何か知っているはずです」


「私は全部を知っているわけではありません」


「なら、知っている部分だけでいい」


「話せば、あなたはもっと深く入ります」


「もう入っています」


「まだ戻れます」


「戻るつもりはありません」


澪は怜司を見た。


雪明かりの中で、その顔はひどく白かった。


「三上さん。これは伝承の謎解きではありません」


「分かっています」


「分かっていません」


彼女の声が初めて強くなった。


「伝承は、人を守るために形を変えることがあります。事実をそのまま残せば誰かが傷つく。だから、歌にする。墓にする。神様の話にする。そうやって本当の名前を隠すんです」


「この村は、何を隠したんですか」


澪は唇を結んだ。


そのとき、葛原老人が戻ってきた。


「警察は来る。だが、時間がかかる」


老人は焦げた倉庫を一瞥した。


「吹雪で道が悪いそうだ」


「その間に、犯人は逃げますね」


怜司が言うと、葛原は険しい目を向けた。


「犯人などいない」


「倉庫は勝手に燃えません」


「火の不始末だ」


「木箱の中身も、勝手に消えません」


「知らん」


「知らないと言えば済むと思っていますか」


葛原は答えなかった。


怜司は紙片を見せた。


「これはどう説明しますか」


葛原は紙片を見た瞬間、顔を強張らせた。


「どこにあった」


「倉庫の床です」


「捨てろ」


「できません」


「なら、わしに渡せ」


「渡せません」


二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。


先に口を開いたのは葛原だった。


「お前は宗一郎より頑固だな」


「父をよく知っていたんですね」


「ああ」


「なら、教えてください。父は何者だったんですか」


葛原は、しばらく怜司を見ていた。


その目の奥に、迷いが見えた。


「宗一郎は三上家の最後の墓守だった」


老人は言った。


怜司は息を止めた。


「墓守?」


「この墓を守る家は、昔から決まっていた。表向きには村の共同管理だが、本当は違う。三上家が墓を見張り、葛原家が記録を預かり、十和田家が歌を伝える」


澪が目を伏せた。


怜司は彼女を見た。


「十和田家が歌を?」


「私の祖母が、ナニャドヤラの古い節を知っています」


澪は静かに言った。


「でも、それが何を意味するのかは、ほとんど残っていません」


「三上、葛原、十和田」


怜司は口の中で繰り返した。


「三つの家が、この墓を守っていた」


「守っていたのではない」


葛原は言った。


「封じていた」


その言葉に、雪の重さが増した気がした。


「何を封じていたんです」


怜司が聞く。


葛原は答えなかった。


代わりに、墓の方を見た。


「鍵を探せ」


「鍵?」


「木箱を開ける鍵だ。宗一郎が持っていたはずだ」


「その箱はもう開けられています」


「外側の箱はな」


「どういう意味ですか」


葛原は声を低くした。


「昨日見つかった木箱は、入れ物にすぎん。中にもう一つ、小さな筒があったはずだ」


「筒?」


澪が驚いたように顔を上げた。


「そんなもの、私は見ていません」


「見せる前に、誰かが抜いたのだろう」


「中身は?」


「知らん」


「またですか」


怜司の声に苛立ちが滲む。


葛原は怜司を睨んだ。


「本当に知らん。わしが預かった記録にも、その筒の中身までは書かれていない。ただ、こうだけある」


老人は一歩近づいた。


「筒を開ける鍵は、墓守の血が持つ」


怜司は眉をひそめた。


「血?」


「三上家だ」


「父が持っていた鍵が必要なんですね」


「そうだ」


「なぜ、それを僕に探せと言うんですか。捨てろと言ったり、探せと言ったり、矛盾しています」


葛原は苦い顔をした。


「本当は、燃やして終わりにすべきだった」


「でも、そうできない理由がある」


「紙片を見ただろう」


――次は、墓守が死ぬ。


怜司は無意識に紙片を握りしめた。


「墓守とは、父のことですか」


「宗一郎はもう死んだ」


「では誰です」


葛原はゆっくりと怜司を見た。


答えは、それだけで十分だった。


怜司は笑いそうになった。


だが、喉から出たのは乾いた息だけだった。


「僕ですか」


「三上の血を引く者は、お前しか残っていない」


「僕は墓守なんて知りません」


「知っているかどうかは関係ない。向こうがそう見る」


「向こう?」


葛原は口を閉じた。


澪が代わりに言った。


「木札を投げた人間。木簡と布片を持ち去った人間。倉庫に火をつけた人間」


「そいつが、僕を墓守だと思っている」


「可能性は高いです」


「馬鹿げている」


怜司はそう言ったが、自分でもその声に力がないことが分かった。


馬鹿げている。


そう言い切れたら、どれほど楽だっただろう。


だが、雪の上の文字は現実だった。

木札も、焼けた倉庫も、消えた木箱の中身も現実だった。


「青森市内の家に戻ります」


怜司は言った。


「父の遺品を調べます。鍵があるかもしれない」


「一人で行くな」


澪が即座に言った。


「なぜです」


「あなたはもう狙われています」


「そんな大げさな」


「三上の子を帰せ、と書かれたんです」


澪の声は冷たかった。


「帰らなければ、次は帰すための手段を取ります」


怜司は言い返せなかった。


葛原が軽トラックの方へ歩き出した。


「わしの車で行く」


「あなたも来るんですか」


「鍵が本当にあるなら、確認する必要がある」


「警察は?」


「ここにいても、わしにできることはない」


葛原は立ち止まり、焦げた倉庫を見た。


「ここに残っていたものは、もう盗られた」


その声には、深い疲労があった。


澪も頷いた。


「私も行きます」


「お前は残れ」


葛原が言った。


「嫌です」


「十和田家の者が動けば、余計に目立つ」


「もう目立っています。倉庫に火がついた時点で」


澪は老人をまっすぐ見た。


「それに、三上さんは木箱のことも、歌のことも知らない。葛原さんは肝心なところを話さない。なら、私が行くしかありません」


葛原は苦々しげに顔を歪めた。


「お前の祖母が許さん」


「祖母なら、こう言います」


澪は雪を払うように肩をすくめた。


「歌は、途切れた時が一番危ない」


葛原は何も言わなかった。


それが同意だった。


三人は車へ向かった。


怜司は一度だけ振り返った。


資料館の裏の倉庫から、まだ細い煙が上がっている。白い雪と黒い煙。その奥に、二本の十字架がかすかに見えた。


青森の山間にある、異国の聖者の墓と呼ばれる場所。


しかし今の怜司には、その十字架が聖なるものには見えなかった。


もっと別のもの。


誰かを閉じ込めるための杭。


あるいは、罪が地上へ出てこないように打ち込まれた釘。


軽トラックの中は、古い灯油と煙草の匂いがした。


葛原が運転席に座り、澪が助手席に乗る。怜司は後部座席に押し込まれるように座った。


車が動き出すと、タイヤが雪を踏み潰す音が響いた。


「青森市内の家はどこだ」


葛原が聞いた。


怜司は住所を告げた。


父が晩年を過ごした古い一軒家。

怜司が葬儀のあと、遺品整理のために何度も通った家。


そこに、鍵があるかもしれない。


父が持ち出したもの。

村が封じたもの。

そして、誰かが今になって取り戻そうとしているもの。


「葛原さん」


怜司は後部座席から尋ねた。


「四十年前にも、同じようなことがあったんですか」


老人は前を見たまま答えない。


「父が止めたものとは何です」


ワイパーが雪を払う。


一度。

二度。

三度。


ようやく葛原が口を開いた。


「昭和四十八年の冬だ」


怜司の指が動いた。


父の写真の裏に書かれていた日付。


昭和四十八年、一月十七日。

開けてはならないものを見た。


「その年、村で一人死んだ」


葛原は言った。


「事故ですか」


「そう処理された」


「本当は?」


老人は沈黙した。


澪が横から言った。


「行方不明になった人もいます」


葛原が鋭く言った。


「澪」


「隠しても意味がありません」


澪は前を向いたまま続けた。


「葛原家の記録では、昭和四十八年の一月、墓の近くで村の青年が一人亡くなっています。そして、同じ夜に外部から来ていた研究者が一人、行方不明になった」


「研究者?」


怜司は身を乗り出した。


「何を調べていたんです」


澪は少し迷ったあと、答えた。


「キリスト渡来伝承です」


車内の空気が重くなった。


「その研究者の名前は?」


澪は葛原を見た。


老人は何も言わない。


澪は静かに言った。


「久我玲一。東都大学の民俗学研究室にいた人物です」


「その人が消えた」


「はい」


「父と関係が?」


葛原の手がハンドルを強く握った。


「宗一郎が最後に会った」


怜司は息を呑んだ。


「父が?」


「久我は、墓の下に何かがあると言っていた。村の記録ではなく、もっと古いものを見つけたと言っていた」


「古いもの?」


「異国の文字が書かれた布だ」


怜司は紙片を思い出した。


布片。木簡。ヘブライ文字に似た記号。


四十年前と同じものが、今また出てきた。


「久我はそれを持って逃げようとした」


葛原が言った。


「逃げる?」


「村の外へ出して、公表すると言った」


「それが事実なら、研究者としては自然です」


「自然?」


葛原の声に怒りが混じった。


「その布が何か分かっていても、同じことを言えるか」


「何だったんです」


老人は答えない。


怜司は前の座席を掴んだ。


「教えてください」


「着いたら話す」


「今話してください」


「ここでは話せん」


「なぜ」


そのとき、澪がサイドミラーを見た。


「葛原さん」


声が変わった。


怜司も振り返った。


後方に、黒い車が見えた。


雪道で車間距離を取っているようにも見える。だが、葛原の軽トラックが右に曲がると、その車も同じように曲がった。


偶然か。


葛原は無言で速度を少し上げた。


黒い車も、距離を保ったままついてくる。


「村の人ですか」


怜司が聞く。


葛原は答えなかった。


代わりに、澪がスマートフォンを取り出してカメラを起動した。


「ナンバーを撮ります」


彼女が窓越しにスマートフォンを向けた瞬間、黒い車は急に減速した。


雪煙の中で車体がかすむ。


次の分岐で、黒い車は脇道へ消えた。


「逃げた」


澪が呟く。


葛原は何も言わず、前だけを見ていた。


怜司は背中に汗を感じた。


狙われている。


それを初めて、はっきりと実感した。


青森市内に入ったのは、夕方近くだった。


雪は少し弱まっていたが、空は鉛色のままだ。住宅街の道は除雪されているものの、両脇には雪の壁ができている。


父の家は、古い平屋だった。


母が亡くなったあと、父は一人でここに住んでいた。庭には手入れされなくなった梅の木が一本あり、今は雪を被って沈黙している。


玄関の鍵を開けた瞬間、冷え切った家の匂いが怜司を迎えた。


畳。古い木材。閉め切った部屋の埃。

そして、父の気配。


怜司は靴を脱ぎ、廊下を進んだ。


「書斎は奥です」


誰に言うともなく呟く。


葛原と澪は黙ってついてきた。


書斎は六畳ほどの部屋だった。壁際に本棚があり、机の上には父が使っていた万年筆と、読みかけの郷土史の本が置かれている。


怜司は押し入れの前に膝をついた。


襖を開ける。


中には段ボールがいくつか積まれていた。葬儀後に整理したものだ。衣類、書類、古い写真、アルバム。


そして、奥に黒い文箱があった。


漆が剥げ、角が擦り切れた小さな箱。


怜司はそれを取り出した。


箱の底には、あの焼き印がある。


円の中に縦線。

左右に羽のような短い線。


澪が息を呑んだ。


「同じ印です」


葛原は黙っていた。


怜司は箱を開けた。


中には、父の古い手帳、数枚の写真、錆びた小さな鍵、そして布に包まれた細い筒が入っていた。


三人の動きが止まった。


「筒……」


澪が呟いた。


木箱から盗まれたはずのもの。


いや、同じものなのか、それとも別のものなのか。


怜司は布をほどいた。


中から現れたのは、黒ずんだ金属の筒だった。長さは十五センチほど。表面には細かな傷があり、中央に小さな鍵穴がある。


葛原の顔色が変わった。


「宗一郎……」


その声は、震えていた。


「なぜこれが父の家に」


怜司が聞く。


葛原は答えなかった。


怜司は錆びた鍵を手に取った。


小さな鍵だった。装飾はない。ただ、持ち手の部分に同じ印が刻まれている。


この鍵で、筒が開く。


そう直感した。


「開けます」


怜司が言うと、葛原が鋭く叫んだ。


「やめろ!」


だが、その声よりも早く、家の中で音がした。


ぎしり。


廊下の床板が鳴った。


三人は同時に振り返った。


玄関は閉めたはずだった。


誰も入ってくる音はしなかった。


それなのに、廊下の奥に人影が立っていた。


黒い防寒着。

深く被った帽子。

顔は見えない。


墓の森にいた影と同じだった。


怜司は鍵と筒を握りしめた。


影は低い声で言った。


「それは、墓へ返せ」


澪が一歩後ずさる。


葛原が杖を構えた。


怜司は影を睨んだ。


「あなたは誰ですか」


影は答えなかった。


代わりに、ゆっくりと右手を上げた。


その手には、焼けた木簡が握られていた。


いや、木簡ではない。


木簡に見えたものは、焦げた板だった。


そこには、古い文字が刻まれている。


影はそれを怜司に向けて掲げた。


「歌はもう途切れた」


そして、こう続けた。


「次に開くのは、墓ではない。口だ」


その瞬間、家の外でガラスが割れる音がした。


台所の窓だった。


冷たい風が一気に家の中へ流れ込む。


怜司は振り返った。


その一瞬の隙に、廊下の影が動いた。


葛原が叫ぶ。


「筒を守れ!」


怜司は反射的に文箱を抱え込んだ。


影は廊下を蹴って飛び込んでくる。


澪が机の上の本を投げつけた。

本は影の肩に当たり、床に落ちる。


葛原が杖で影の足元を払った。


影がよろめく。


怜司は文箱を抱えたまま、書斎の窓へ向かった。


だが、窓の外にも誰かがいた。


雪の庭に、もう一つの黒い影。


怜司の背筋が凍った。


一人ではない。


影は複数いる。


廊下の男が低く笑った。


「三上の血は、戻ってはならない」


怜司は、父の手紙を思い出した。


ヘライの墓を掘るな。

あれは神の墓ではない。罪の墓だ。


そして今、ようやく分かった。


父は墓を守っていたのではない。


墓の中の何かが、外に出る日を恐れていたのだ。


そのとき、澪が叫んだ。


「怜司さん、筒を開けて!」


葛原が振り向いた。


「馬鹿を言うな!」


「開けなければ奪われます!」


怜司は鍵を筒の鍵穴に差し込んだ。


錆びた金属が抵抗する。


影が迫る。


葛原が杖でそれを押し返す。


澪が怜司の前に立つ。


鍵が回った。


小さな音がした。


かちり。


筒の蓋が、わずかに浮いた。


その瞬間、家の中の空気が変わった。


冷たい風ではない。


もっと古いもの。


長い間、密閉されていた場所の空気が、初めて外に触れたような匂い。


怜司は蓋を外した。


中には、細く巻かれた布が入っていた。


茶色く変色した布。


その端に、文字があった。


日本語ではない。


だが、その中に一つだけ、漢字で書かれた小さな添え書きが挟まれていた。


怜司はそれを読み上げた。


「イスキリの墓を開くな。真に眠る者は、もう一つの墓にいる」


廊下の影が、初めて動きを止めた。


葛原の顔から血の気が引く。


澪が震える声で言った。


「もう一つの墓……」


怜司は、青森の雪の中に立っていた二本の十字架を思い出した。


片方は、墓ではない。


第一話の最後で浮かんだその言葉が、今、形を持った。


二本の十字架。


二つの墓。


だが、真に眠る者は、どちらにいるのか。


いや。


本当に眠っているのか。


影は、低く呟いた。


「開けてしまったな」


そして、ゆっくりと帽子を上げた。


現れた顔を見た瞬間、澪が小さく叫んだ。


「そんな……」


怜司はその男を知らなかった。


だが、葛原は知っていた。


老人は杖を握りしめ、掠れた声で言った。


「久我……玲一」


怜司の呼吸が止まった。


久我玲一。


四十年前、墓の調査中に行方不明になったはずの民俗学者。


その男が、老いもせず、父の家の廊下に立っていた。


雪の夜が、窓の外からこちらを覗いていた。


そして怜司は悟った。


この謎は、歴史の話ではない。


まだ終わっていない事件なのだ。

お読みいただきありがとうございます。

第3話では、父・宗一郎の遺品から「鍵」と「筒」が見つかり、四十年前に消えたはずの民俗学者・久我玲一が姿を現しました。


次回、久我玲一の正体と、二本の十字架に隠された「もう一つの墓」の謎へ進みます。

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