第二話 父を知る者
墓の雪の上に残された言葉。
「三上の子を帰せ」
父は、この村で何を隠したのか。
怜司は、父を知る老人と出会う。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
「三上の子を帰せ」
雪の上に刻まれたその言葉は、風に削られながらも、まだそこに残っていた。
三上怜司は、しばらく動けなかった。
足元の雪は白い。
だが、その文字だけが妙に黒く見える。
誰かが枝か棒で雪を払い、地面の土を露出させて書いたのだろう。乱れた線だった。急いで書いたようにも、怒りに任せて刻んだようにも見えた。
「私たちは、見なかったことにします」
十和田澪が言った。
怜司は彼女を見た。
「見なかったことに?」
「はい」
「記者に向かって、それを言いますか」
「記者だから言っています」
澪は雪の上の文字を見下ろしたまま、表情を変えなかった。
「この村では、見たものを全部口に出す人は長生きしません」
「脅しですか」
「忠告です」
「それは、あなたの言葉ですか。それとも村の言葉ですか」
澪は答えなかった。
その沈黙は、答えに近かった。
怜司は手の中の木札に目を落とした。
――イスキリは死んでいない。
かすれた墨文字。
赤黒い染みで刻まれた、ヘブライ文字に似た記号。
雪の墓。
父の写真。
謎の木箱。
そして、父の名を知る誰か。
怜司の中で、点だったものが、まだ線にならないまま増えていく。
「あなたは、どこまで知っているんですか」
怜司は澪に尋ねた。
「ほとんど何も」
「嘘ですね」
「嘘ではありません。知っていることと、説明できることは違います」
「便利な言い方です」
「記者の方ほどではありません」
澪の返しは冷たかったが、そこに敵意だけがあるわけではなかった。むしろ、迷っているように見えた。
怜司を突き放すべきか。
巻き込むべきか。
彼女自身も、まだ決めかねている。
「木箱を見たい」
怜司は言った。
「無理です」
「保管している人を教えてください」
「無理です」
「では、あなたが案内してください」
「もっと無理です」
澪はきっぱりと言った。
「あなたは自分が何を追っているのか分かっていません」
「だから調べるんです」
「調べれば分かるものと、調べたせいで壊れるものがあります」
怜司は父の手紙を思い出した。
ヘライの墓を掘るな。
あれは神の墓ではない。罪の墓だ。
父も、同じことを言いたかったのだろうか。
だが、なぜ自分にだけあの手紙を残したのか。
本当に触れてほしくないなら、燃やせばよかった。隠し通せばよかった。
わざわざ名前を書いた封筒に入れて、息子の手に届く場所へ残す必要などない。
「父は、僕に何かを伝えようとしていた」
怜司は言った。
「そうとは限りません」
「では、何のために写真と手紙を残したんです」
「あなたを止めるためかもしれません」
「それなら遅すぎます」
怜司は雪の上の文字を見下ろした。
三上の子を帰せ。
「もう、向こうが僕を見つけている」
澪は何かを言いかけた。
そのとき、背後から低い声がした。
「そこで何をしている」
怜司と澪は同時に振り返った。
雪道の向こうに、男が立っていた。
年は七十を越えているだろう。分厚い防寒着に身を包み、手には古い木の杖を持っている。白い眉の下の目だけが、妙に鋭かった。
その後ろには、軽トラックが一台停まっている。エンジンはかかったままで、白い排気が雪の中に流れていた。
澪が小さく息を呑んだ。
「葛原さん」
老人は澪を一瞥し、それから怜司を見た。
「誰だ」
「三上怜司です」
怜司が名乗ると、老人の目が細くなった。
空気が変わった。
それは、怜司にも分かった。
老人は「三上」という姓に反応したのではない。
「怜司」という名に反応したのでもない。
その二つが組み合わさった瞬間、何かが老人の中で開いたのだ。
「宗一郎の息子か」
老人は言った。
澪が目を伏せた。
怜司は一歩前へ出た。
「父をご存じなんですね」
老人は答えなかった。
代わりに、墓の方へゆっくり歩いてきた。足取りは重いが、不思議と迷いがない。ここにある雪の深さも、道の凹凸も、すべて体で覚えているようだった。
「ここへは来るなと言われなかったか」
「言われました」
「なら、なぜ来た」
「父が死んだからです」
老人の杖が、雪に深く刺さった。
「死んだか」
その声には驚きはなかった。
ただ、長い時間の終わりを確認するような響きがあった。
「いつだ」
「先月です」
「そうか」
老人は墓を見た。
「とうとう、何も言わずに逝ったか」
「父は何を知っていたんですか」
怜司は尋ねた。
老人はすぐには答えなかった。
視線は、二本の十字架の間にあった。雪のせいで見えにくいが、そこには細い石碑が立っている。
「宗一郎は、よくできた男だった」
老人は言った。
「村を出るまではな」
「なぜ村を出たんです」
「出されたんだ」
怜司の喉が詰まった。
「父が、村を追われた?」
「追われたのではない。追い出された。村のために」
「誰に」
老人は怜司を見た。
「わしらに」
雪が降り続けている。
それなのに、怜司の体は冷えを感じなかった。代わりに、胸の奥に熱いものが溜まっていく。
「父は何をしたんです」
「何もしなかった」
「何もしなかった人間を、村は追い出したんですか」
「何もしなかったからだ」
老人の言葉は短く、硬かった。
怜司は拳を握った。
「分かるように説明してください」
「分からんままでいい」
「よくありません」
「なら、宗一郎に聞けばよかった」
老人の声に、初めて棘が混じった。
「生きているうちに」
怜司は言葉を失った。
その通りだった。
父の過去に触れようと思えば、触れる機会は何度もあった。食卓で。病室で。葬儀の前に。父がまだ言葉を発することができたうちに。
けれど怜司は聞かなかった。
父が語らないなら、それでいいと思っていた。
自分も、知りたくないふりをしていた。
その結果が、今だ。
死者は答えない。
答えないからこそ、残された者は雪の中まで来ることになる。
「葛原さん」
澪が割って入った。
「この人に、あの話をするつもりですか」
老人は澪を見た。
「お前が連れてきたのか」
「違います」
「なら、なぜ一緒にいる」
「偶然です」
「この村で、墓の前の偶然ほど信用できんものはない」
澪は黙った。
老人は怜司の手元を見た。
「それをどこで手に入れた」
怜司は一瞬迷ったが、木札を見せた。
「さっき、森の中から投げ込まれました」
老人の顔が変わった。
それは恐怖ではなかった。
怒りでもない。
もっと古い感情だった。
長い間、土の下に埋めていたものが、勝手に掘り返されたときの顔。
「読んだか」
「墨の字だけは。イスキリは死んでいない、と」
老人は低く息を吐いた。
「誰かが遊んでいる」
「遊びにしては、詳しすぎます」
「若い者は、昔話を面白がる。ネットで見たことを真似る。よくあることだ」
「本当にそう思っていますか」
老人は答えなかった。
怜司は木札の下の赤黒い文字を指でなぞった。
「十和田さんは、ヘブライ文字に似ていると言いました」
「似ているだけだ」
「では、これは何です」
「知らん」
「本当に?」
老人は杖を握る手に力を入れた。
「知らんと言ったら知らん」
その否定は強すぎた。
怜司は記者として、何度もそういう否定を見てきた。人は本当に知らないとき、もっと素直に首をかしげる。怒る必要はない。
怒るのは、知っているからだ。
「木箱を見せてください」
怜司は言った。
老人の目が細くなる。
「誰から聞いた」
「そこにいる研究者からです」
澪が怜司を睨んだ。
怜司は視線を逸らさなかった。
ここで黙っていれば、何も進まない。
「墓の裏手で見つかった木箱。布片と木簡。日本語ではない文字。それを村の誰かが保管している。違いますか」
老人は澪を見た。
澪は小さく首を振った。
「私は、場所までは言っていません」
「言ったのと同じだ」
老人の声は冷たかった。
怜司は一歩近づいた。
「父の手紙にも、開けてはならないものを見たとありました。木箱と関係があるんじゃないですか」
老人は怜司をじっと見た。
その目には、さっきまでとは違うものがあった。
値踏みするような視線。
あるいは、迷っている目。
「お前は、宗一郎に似ていない」
老人が言った。
「よく言われました」
「目だけは似ている」
「父は、どんな目をしていたんです」
「見てはいけないものを、見ないふりできない目だ」
怜司は黙った。
老人は墓の前まで歩き、十字架のひとつに積もった雪を手で払った。
「ここは観光地だ」
老人は言った。
「今ではな。看板も立った。資料館もできた。遠くから人が来て、写真を撮って、面白がって帰る。キリストが日本に来たのか、来なかったのか。そんな話をして笑う」
老人の手が止まる。
「だが、昔のこの墓は、笑う場所ではなかった」
怜司は黙って聞いた。
「村の者は、ここをヘライ様と呼んだ。誰が眠っているか、はっきりとは言わなかった。ただ、粗末にしてはいけない場所だった。祭りの前には掃除をし、雪が積もれば払った。子どもは近づけなかった」
「なぜです」
「言葉が残っていたからだ」
「言葉?」
老人は怜司を見た。
「この墓には、昔から決まりがあった」
雪が老人の肩に積もっていく。
「一つ、墓を掘るな。
一つ、歌を途切れさせるな。
一つ、三上の血を戻すな」
怜司の呼吸が止まった。
「三上の血?」
「お前の家だ」
「なぜ、三上家が」
老人は答えなかった。
代わりに、澪が小さく呟いた。
「墓守の家系……」
怜司は振り向いた。
「今、何と言いました」
澪は唇を噛んだ。
老人が低く言った。
「余計なことを言うな」
「でも、この人はもう巻き込まれています」
「巻き込まれたのではない。自分で入ってきた」
「それでも、知らないままでは危険です」
澪の声は震えていた。だが、今度は退かなかった。
「葛原さん。昨日見つかった木箱には、あの印がありました」
老人の顔が固まった。
「あの印?」
怜司が聞く。
澪は怜司を見た。
「三上家に伝わっていた印です」
「そんなもの、聞いたことがありません」
「あなたのお父さんが持ち出したはずでした」
「父が?」
澪は透明な袋の中から、一枚の写真を取り出した。
写っていたのは、泥のついた木箱だった。
その蓋の中央に、小さな焼き印がある。
円の中に、縦線が一本。
その左右に、羽のような短い線が二本。
怜司はそれを見た瞬間、眉をひそめた。
「これ……」
「見覚えがあるんですか」
澪が聞く。
怜司は首を横に振ろうとした。
だが、できなかった。
見覚えはあった。
父の書斎にあった古い文箱。
その底に、同じ印が焼き付けられていた。
幼い頃、何度か見たことがある。父に触るなと強く叱られた記憶もある。
「父の家に、同じ印がありました」
老人が目を閉じた。
「宗一郎め」
その声は怒りではなかった。
失望でもない。
どこか、安堵に似ていた。
「持っていたか」
「何をです」
「鍵だ」
「鍵?」
老人は澪を見た。
「木箱は、まだ開けていないな」
澪は頷いた。
「はい。錆びた金具が固まっていて、無理に開ければ壊れる可能性があります」
「鍵穴は」
「あります」
老人は怜司を見た。
「宗一郎が持っていたはずだ」
怜司は父の遺品を思い出した。
押し入れの箱。古い写真。手紙。黒い文箱。
そして、底に焼き印のある小さな箱。
あの中に、鍵があったかもしれない。
「家に戻れば、確認できます」
「戻れ」
老人は即座に言った。
「そして、もうこの村には来るな」
「鍵を見つけたら?」
「捨てろ」
「それはできません」
「なら燃やせ」
「なおさらできません」
老人の目に怒りが宿った。
「宗一郎は、最後に何も言わなかったのだろう」
「はい」
「それが答えだ」
「違います」
怜司は父の手紙を取り出した。
「何も伝えたくなかった人間は、こんなものを残しません」
老人は手紙を見た。
その目が、わずかに揺れた。
「父は、僕を止めたかったのかもしれない。でも同時に、知ってほしかったんだと思います」
「都合のいい解釈だ」
「ええ。そうかもしれません」
怜司は認めた。
「でも僕は、父の沈黙を都合よく終わらせたくない」
雪の音が消えた。
いつの間にか、歌も止んでいた。
ナニャドヤラの旋律が途切れた村は、さっきよりも静かだった。
静かすぎた。
老人がふと顔を上げる。
澪も同じ方向を見た。
集落の方だった。
「どうしました」
怜司が聞く。
老人は答えない。
その代わり、遠くから犬の吠える声が聞こえた。
一度。
二度。
そして、急に途切れた。
澪の顔色が変わった。
「葛原さん」
「車に戻れ」
老人が言った。
「今すぐだ」
「何が起きたんですか」
怜司が尋ねる。
そのとき、資料館の方から黒い煙が上がるのが見えた。
細く、しかし確かに。
澪が駆け出した。
怜司も続いた。
雪道を戻る。足を取られながら、息を切らせて走る。森を抜け、資料館の屋根が見えた瞬間、怜司は立ち止まりかけた。
資料館の裏手にある小さな倉庫から、煙が上がっていた。
扉は半開きになっている。
雪の上には、複数の足跡。
そして、焦げた紙片が風に舞っていた。
澪が扉に近づこうとする。
老人が追いつき、怒鳴った。
「開けるな!」
だが遅かった。
澪は扉の隙間から中を見て、息を呑んだ。
怜司も横から覗いた。
倉庫の中は、黒く焦げていた。火はすでに消えかけている。だが、棚に置かれていた資料らしきものは焼け落ち、床には灰が散っていた。
その中央に、木箱があった。
いや、木箱だったものがあった。
蓋は割られ、中身は空だった。
怜司は言葉を失った。
「昨日の木箱です」
澪が震える声で言った。
「中の布片と木簡が……ない」
老人は杖を落とした。
その乾いた音が、やけに大きく響いた。
怜司は倉庫の床を見た。
灰の中に、何か白いものが落ちている。
拾い上げると、それは焼け残った紙片だった。
そこには、墨で短い文字が書かれていた。
――歌が途切れた。
裏返す。
そこには、父の筆跡に似た文字で、もう一行だけ残っていた。
――次は、墓守が死ぬ。
怜司の背筋に、冷たいものが走った。
澪が怜司の手元を見て、声を失った。
老人は呟いた。
「始まったか」
「何がです」
怜司が聞く。
老人は焼けた木箱を見つめたまま、答えた。
「三上宗一郎が、四十年前に止めたものだ」
雪は降り続けていた。
だが、さっきまで世界を覆っていた静けさはもうない。
白い村のどこかで、誰かが古い蓋を開けた。
そして怜司は悟った。
父が隠したものは、過去ではない。
今もまだ、この村で息をしている。
お読みいただきありがとうございます。
第2話では、怜司の父・宗一郎が「真相を隠した側」にいたこと、そして三上家が墓守の家系である可能性が出てきました。
次回、焼けた倉庫から消えた木簡と布片を追い、怜司は父の遺品に残された「鍵」を探すことになります。




