表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

第二話 父を知る者

墓の雪の上に残された言葉。

「三上の子を帰せ」


父は、この村で何を隠したのか。

怜司は、父を知る老人と出会う。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

「三上の子を帰せ」


雪の上に刻まれたその言葉は、風に削られながらも、まだそこに残っていた。


三上怜司は、しばらく動けなかった。


足元の雪は白い。

だが、その文字だけが妙に黒く見える。


誰かが枝か棒で雪を払い、地面の土を露出させて書いたのだろう。乱れた線だった。急いで書いたようにも、怒りに任せて刻んだようにも見えた。


「私たちは、見なかったことにします」


十和田澪が言った。


怜司は彼女を見た。


「見なかったことに?」


「はい」


「記者に向かって、それを言いますか」


「記者だから言っています」


澪は雪の上の文字を見下ろしたまま、表情を変えなかった。


「この村では、見たものを全部口に出す人は長生きしません」


「脅しですか」


「忠告です」


「それは、あなたの言葉ですか。それとも村の言葉ですか」


澪は答えなかった。


その沈黙は、答えに近かった。


怜司は手の中の木札に目を落とした。


――イスキリは死んでいない。


かすれた墨文字。

赤黒い染みで刻まれた、ヘブライ文字に似た記号。


雪の墓。

父の写真。

謎の木箱。

そして、父の名を知る誰か。


怜司の中で、点だったものが、まだ線にならないまま増えていく。


「あなたは、どこまで知っているんですか」


怜司は澪に尋ねた。


「ほとんど何も」


「嘘ですね」


「嘘ではありません。知っていることと、説明できることは違います」


「便利な言い方です」


「記者の方ほどではありません」


澪の返しは冷たかったが、そこに敵意だけがあるわけではなかった。むしろ、迷っているように見えた。


怜司を突き放すべきか。

巻き込むべきか。


彼女自身も、まだ決めかねている。


「木箱を見たい」


怜司は言った。


「無理です」


「保管している人を教えてください」


「無理です」


「では、あなたが案内してください」


「もっと無理です」


澪はきっぱりと言った。


「あなたは自分が何を追っているのか分かっていません」


「だから調べるんです」


「調べれば分かるものと、調べたせいで壊れるものがあります」


怜司は父の手紙を思い出した。


ヘライの墓を掘るな。

あれは神の墓ではない。罪の墓だ。


父も、同じことを言いたかったのだろうか。


だが、なぜ自分にだけあの手紙を残したのか。

本当に触れてほしくないなら、燃やせばよかった。隠し通せばよかった。


わざわざ名前を書いた封筒に入れて、息子の手に届く場所へ残す必要などない。


「父は、僕に何かを伝えようとしていた」


怜司は言った。


「そうとは限りません」


「では、何のために写真と手紙を残したんです」


「あなたを止めるためかもしれません」


「それなら遅すぎます」


怜司は雪の上の文字を見下ろした。


三上の子を帰せ。


「もう、向こうが僕を見つけている」


澪は何かを言いかけた。


そのとき、背後から低い声がした。


「そこで何をしている」


怜司と澪は同時に振り返った。


雪道の向こうに、男が立っていた。


年は七十を越えているだろう。分厚い防寒着に身を包み、手には古い木の杖を持っている。白い眉の下の目だけが、妙に鋭かった。


その後ろには、軽トラックが一台停まっている。エンジンはかかったままで、白い排気が雪の中に流れていた。


澪が小さく息を呑んだ。


「葛原さん」


老人は澪を一瞥し、それから怜司を見た。


「誰だ」


「三上怜司です」


怜司が名乗ると、老人の目が細くなった。


空気が変わった。


それは、怜司にも分かった。


老人は「三上」という姓に反応したのではない。

「怜司」という名に反応したのでもない。


その二つが組み合わさった瞬間、何かが老人の中で開いたのだ。


「宗一郎の息子か」


老人は言った。


澪が目を伏せた。


怜司は一歩前へ出た。


「父をご存じなんですね」


老人は答えなかった。


代わりに、墓の方へゆっくり歩いてきた。足取りは重いが、不思議と迷いがない。ここにある雪の深さも、道の凹凸も、すべて体で覚えているようだった。


「ここへは来るなと言われなかったか」


「言われました」


「なら、なぜ来た」


「父が死んだからです」


老人の杖が、雪に深く刺さった。


「死んだか」


その声には驚きはなかった。


ただ、長い時間の終わりを確認するような響きがあった。


「いつだ」


「先月です」


「そうか」


老人は墓を見た。


「とうとう、何も言わずに逝ったか」


「父は何を知っていたんですか」


怜司は尋ねた。


老人はすぐには答えなかった。


視線は、二本の十字架の間にあった。雪のせいで見えにくいが、そこには細い石碑が立っている。


「宗一郎は、よくできた男だった」


老人は言った。


「村を出るまではな」


「なぜ村を出たんです」


「出されたんだ」


怜司の喉が詰まった。


「父が、村を追われた?」


「追われたのではない。追い出された。村のために」


「誰に」


老人は怜司を見た。


「わしらに」


雪が降り続けている。


それなのに、怜司の体は冷えを感じなかった。代わりに、胸の奥に熱いものが溜まっていく。


「父は何をしたんです」


「何もしなかった」


「何もしなかった人間を、村は追い出したんですか」


「何もしなかったからだ」


老人の言葉は短く、硬かった。


怜司は拳を握った。


「分かるように説明してください」


「分からんままでいい」


「よくありません」


「なら、宗一郎に聞けばよかった」


老人の声に、初めて棘が混じった。


「生きているうちに」


怜司は言葉を失った。


その通りだった。


父の過去に触れようと思えば、触れる機会は何度もあった。食卓で。病室で。葬儀の前に。父がまだ言葉を発することができたうちに。


けれど怜司は聞かなかった。


父が語らないなら、それでいいと思っていた。

自分も、知りたくないふりをしていた。


その結果が、今だ。


死者は答えない。


答えないからこそ、残された者は雪の中まで来ることになる。


「葛原さん」


澪が割って入った。


「この人に、あの話をするつもりですか」


老人は澪を見た。


「お前が連れてきたのか」


「違います」


「なら、なぜ一緒にいる」


「偶然です」


「この村で、墓の前の偶然ほど信用できんものはない」


澪は黙った。


老人は怜司の手元を見た。


「それをどこで手に入れた」


怜司は一瞬迷ったが、木札を見せた。


「さっき、森の中から投げ込まれました」


老人の顔が変わった。


それは恐怖ではなかった。


怒りでもない。


もっと古い感情だった。


長い間、土の下に埋めていたものが、勝手に掘り返されたときの顔。


「読んだか」


「墨の字だけは。イスキリは死んでいない、と」


老人は低く息を吐いた。


「誰かが遊んでいる」


「遊びにしては、詳しすぎます」


「若い者は、昔話を面白がる。ネットで見たことを真似る。よくあることだ」


「本当にそう思っていますか」


老人は答えなかった。


怜司は木札の下の赤黒い文字を指でなぞった。


「十和田さんは、ヘブライ文字に似ていると言いました」


「似ているだけだ」


「では、これは何です」


「知らん」


「本当に?」


老人は杖を握る手に力を入れた。


「知らんと言ったら知らん」


その否定は強すぎた。


怜司は記者として、何度もそういう否定を見てきた。人は本当に知らないとき、もっと素直に首をかしげる。怒る必要はない。


怒るのは、知っているからだ。


「木箱を見せてください」


怜司は言った。


老人の目が細くなる。


「誰から聞いた」


「そこにいる研究者からです」


澪が怜司を睨んだ。


怜司は視線を逸らさなかった。


ここで黙っていれば、何も進まない。


「墓の裏手で見つかった木箱。布片と木簡。日本語ではない文字。それを村の誰かが保管している。違いますか」


老人は澪を見た。


澪は小さく首を振った。


「私は、場所までは言っていません」


「言ったのと同じだ」


老人の声は冷たかった。


怜司は一歩近づいた。


「父の手紙にも、開けてはならないものを見たとありました。木箱と関係があるんじゃないですか」


老人は怜司をじっと見た。


その目には、さっきまでとは違うものがあった。


値踏みするような視線。

あるいは、迷っている目。


「お前は、宗一郎に似ていない」


老人が言った。


「よく言われました」


「目だけは似ている」


「父は、どんな目をしていたんです」


「見てはいけないものを、見ないふりできない目だ」


怜司は黙った。


老人は墓の前まで歩き、十字架のひとつに積もった雪を手で払った。


「ここは観光地だ」


老人は言った。


「今ではな。看板も立った。資料館もできた。遠くから人が来て、写真を撮って、面白がって帰る。キリストが日本に来たのか、来なかったのか。そんな話をして笑う」


老人の手が止まる。


「だが、昔のこの墓は、笑う場所ではなかった」


怜司は黙って聞いた。


「村の者は、ここをヘライ様と呼んだ。誰が眠っているか、はっきりとは言わなかった。ただ、粗末にしてはいけない場所だった。祭りの前には掃除をし、雪が積もれば払った。子どもは近づけなかった」


「なぜです」


「言葉が残っていたからだ」


「言葉?」


老人は怜司を見た。


「この墓には、昔から決まりがあった」


雪が老人の肩に積もっていく。


「一つ、墓を掘るな。

一つ、歌を途切れさせるな。

一つ、三上の血を戻すな」


怜司の呼吸が止まった。


「三上の血?」


「お前の家だ」


「なぜ、三上家が」


老人は答えなかった。


代わりに、澪が小さく呟いた。


「墓守の家系……」


怜司は振り向いた。


「今、何と言いました」


澪は唇を噛んだ。


老人が低く言った。


「余計なことを言うな」


「でも、この人はもう巻き込まれています」


「巻き込まれたのではない。自分で入ってきた」


「それでも、知らないままでは危険です」


澪の声は震えていた。だが、今度は退かなかった。


「葛原さん。昨日見つかった木箱には、あの印がありました」


老人の顔が固まった。


「あの印?」


怜司が聞く。


澪は怜司を見た。


「三上家に伝わっていた印です」


「そんなもの、聞いたことがありません」


「あなたのお父さんが持ち出したはずでした」


「父が?」


澪は透明な袋の中から、一枚の写真を取り出した。


写っていたのは、泥のついた木箱だった。


その蓋の中央に、小さな焼き印がある。


円の中に、縦線が一本。

その左右に、羽のような短い線が二本。


怜司はそれを見た瞬間、眉をひそめた。


「これ……」


「見覚えがあるんですか」


澪が聞く。


怜司は首を横に振ろうとした。


だが、できなかった。


見覚えはあった。


父の書斎にあった古い文箱。

その底に、同じ印が焼き付けられていた。


幼い頃、何度か見たことがある。父に触るなと強く叱られた記憶もある。


「父の家に、同じ印がありました」


老人が目を閉じた。


「宗一郎め」


その声は怒りではなかった。


失望でもない。


どこか、安堵に似ていた。


「持っていたか」


「何をです」


「鍵だ」


「鍵?」


老人は澪を見た。


「木箱は、まだ開けていないな」


澪は頷いた。


「はい。錆びた金具が固まっていて、無理に開ければ壊れる可能性があります」


「鍵穴は」


「あります」


老人は怜司を見た。


「宗一郎が持っていたはずだ」


怜司は父の遺品を思い出した。


押し入れの箱。古い写真。手紙。黒い文箱。

そして、底に焼き印のある小さな箱。


あの中に、鍵があったかもしれない。


「家に戻れば、確認できます」


「戻れ」


老人は即座に言った。


「そして、もうこの村には来るな」


「鍵を見つけたら?」


「捨てろ」


「それはできません」


「なら燃やせ」


「なおさらできません」


老人の目に怒りが宿った。


「宗一郎は、最後に何も言わなかったのだろう」


「はい」


「それが答えだ」


「違います」


怜司は父の手紙を取り出した。


「何も伝えたくなかった人間は、こんなものを残しません」


老人は手紙を見た。


その目が、わずかに揺れた。


「父は、僕を止めたかったのかもしれない。でも同時に、知ってほしかったんだと思います」


「都合のいい解釈だ」


「ええ。そうかもしれません」


怜司は認めた。


「でも僕は、父の沈黙を都合よく終わらせたくない」


雪の音が消えた。


いつの間にか、歌も止んでいた。


ナニャドヤラの旋律が途切れた村は、さっきよりも静かだった。


静かすぎた。


老人がふと顔を上げる。


澪も同じ方向を見た。


集落の方だった。


「どうしました」


怜司が聞く。


老人は答えない。


その代わり、遠くから犬の吠える声が聞こえた。


一度。

二度。

そして、急に途切れた。


澪の顔色が変わった。


「葛原さん」


「車に戻れ」


老人が言った。


「今すぐだ」


「何が起きたんですか」


怜司が尋ねる。


そのとき、資料館の方から黒い煙が上がるのが見えた。


細く、しかし確かに。


澪が駆け出した。


怜司も続いた。


雪道を戻る。足を取られながら、息を切らせて走る。森を抜け、資料館の屋根が見えた瞬間、怜司は立ち止まりかけた。


資料館の裏手にある小さな倉庫から、煙が上がっていた。


扉は半開きになっている。

雪の上には、複数の足跡。

そして、焦げた紙片が風に舞っていた。


澪が扉に近づこうとする。


老人が追いつき、怒鳴った。


「開けるな!」


だが遅かった。


澪は扉の隙間から中を見て、息を呑んだ。


怜司も横から覗いた。


倉庫の中は、黒く焦げていた。火はすでに消えかけている。だが、棚に置かれていた資料らしきものは焼け落ち、床には灰が散っていた。


その中央に、木箱があった。


いや、木箱だったものがあった。


蓋は割られ、中身は空だった。


怜司は言葉を失った。


「昨日の木箱です」


澪が震える声で言った。


「中の布片と木簡が……ない」


老人は杖を落とした。


その乾いた音が、やけに大きく響いた。


怜司は倉庫の床を見た。


灰の中に、何か白いものが落ちている。


拾い上げると、それは焼け残った紙片だった。


そこには、墨で短い文字が書かれていた。


――歌が途切れた。


裏返す。


そこには、父の筆跡に似た文字で、もう一行だけ残っていた。


――次は、墓守が死ぬ。


怜司の背筋に、冷たいものが走った。


澪が怜司の手元を見て、声を失った。


老人は呟いた。


「始まったか」


「何がです」


怜司が聞く。


老人は焼けた木箱を見つめたまま、答えた。


「三上宗一郎が、四十年前に止めたものだ」


雪は降り続けていた。


だが、さっきまで世界を覆っていた静けさはもうない。


白い村のどこかで、誰かが古い蓋を開けた。


そして怜司は悟った。


父が隠したものは、過去ではない。


今もまだ、この村で息をしている。

お読みいただきありがとうございます。

第2話では、怜司の父・宗一郎が「真相を隠した側」にいたこと、そして三上家が墓守の家系である可能性が出てきました。


次回、焼けた倉庫から消えた木簡と布片を追い、怜司は父の遺品に残された「鍵」を探すことになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ