第一話 雪の下の墓
青森の山間に、「キリストの墓」と呼ばれる場所がある。
もちろん、それは一つの伝承に過ぎない。
そう思っていた。
父の遺品から、あの写真が見つかるまでは。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
青森の雪は、音を奪う。
三上怜司は、二十年ぶりにそのことを思い出していた。
東京で見る雪は、どこか騒がしい。駅のアナウンス。遅延を知らせる電光掲示板。傘を叩く湿った粒。車道で泥に変わる白。
だが、青森の山間に降る雪は違う。
音を立てない。
ただ世界の上に、白い布を一枚ずつ重ねていく。
タクシーの窓の外では、杉林が黒い壁のように続いていた。昼過ぎのはずなのに、空は低く、重く、灰色だった。雪は斜めに流れ、道路の端と山の境目を曖昧にしている。
「本当に行くんですか」
運転席の老人が言った。
名は佐々木という。八戸駅前で拾ったタクシーの運転手だった。新郷村まで行きたいと告げたとき、彼は一度だけ怜司を見て、それから何も言わずに車を出した。
だが、村に近づくにつれ、口数が増えていた。
「この時期は、何も見えませんよ。雪ばっかりで」
「構いません」
怜司は膝の上に置いた茶封筒を見下ろした。
古びた封筒だった。角は潰れ、表面は湿気を吸ったように波打っている。父の遺品を整理していたとき、実家の押し入れの奥から見つかったものだ。
封筒には、震えたような筆跡でこう書かれていた。
三上怜司へ。
差出人の名はない。
中に入っていたのは、写真が一枚。
そして、手紙が一枚。
写真には、雪の中に立つ二本の十字架が写っていた。
手紙には、たった一文だけが残されていた。
――ヘライの墓を掘るな。あれは神の墓ではない。罪の墓だ。
父、三上宗一郎は新郷村の出身だった。
けれど怜司は、父の口から故郷の話をほとんど聞いたことがない。なぜ村を出たのか。なぜ親族と縁を切ったのか。なぜ母にも、息子にも、自分の過去を語らなかったのか。
父は最後まで答えないまま死んだ。
葬儀は静かだった。参列者は少なく、親族らしい者は誰も来なかった。父の人生には、ぽっかりと切り取られたような空白があった。
その空白の奥に、この封筒が眠っていた。
怜司は地方紙の記者だ。
かつては東京の新聞社にいた。社会部で事件を追い、政治家の会見に通い、企業不祥事を調べた。けれどある記事をめぐって上層部と衝突し、最後は自分から辞表を出した。
いまは青森の地方紙で、小さな事件や町の話題を拾っている。
そんな自分が、父の過去を追うためにここへ来ている。
皮肉なものだと思った。
他人の秘密を暴くことには慣れていた。
だが、身内の秘密となると、指先が少し冷える。
「お客さん」
佐々木がバックミラー越しに言った。
「キリストの墓を見に来たんですか」
怜司は顔を上げた。
「やっぱり、有名なんですね」
「この辺の人間なら知ってますよ。信じてるかどうかは別として」
「佐々木さんは信じていますか」
運転手はすぐには答えなかった。
ワイパーが雪を払う音だけが、車内に残った。
「信じるとか信じないとか、そういう話じゃないんです」
「どういう意味ですか」
「墓はある。伝承もある。歌もある。昔から守ってきた家もある。そこまでは事実です」
佐々木はそこで言葉を切った。
「でも、そこから先は、触らないほうがいい」
怜司は封筒の口を指でなぞった。
「触ると、何が起きるんです」
「起きるんじゃない」
佐々木の声が少し低くなった。
「思い出すんです」
「誰が?」
「村が」
怜司はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったのではない。
聞けなかった。
その言葉には、妙な重さがあった。
やがて、道沿いに小さな看板が見えた。
――キリストの里。
雪に半分埋もれたその看板は、冗談のようにも見えた。
だが、笑えなかった。
車は坂道を上り、やがて小さな資料館の前で止まった。冬季休館中なのか、駐車場に車はない。建物の屋根には分厚い雪が積もり、入口の前も白く閉ざされていた。
「ここから先は歩きです」
佐々木が言った。
「待っていてもらえますか」
「長居はしないほうがいいですよ」
「雪のせいですか」
「雪のせいにしておいたほうが、楽です」
怜司は料金を払い、車を降りた。
冷気が頬を刺した。
息を吸うと、肺の奥まで凍るようだった。
資料館の横を抜けると、雪に覆われた細い道が森の方へ続いていた。人が歩いた跡はかろうじて残っている。怜司は靴を雪に沈めながら、ゆっくりと進んだ。
足元で、雪がぎゅっ、ぎゅっと鳴る。
その音だけが、自分がまだ現実の中にいる証拠のようだった。
木々の間に、それはあった。
二つの盛り土。
二本の十字架。
怜司は立ち止まった。
写真と同じだった。
いや、正確には少し違う。
写真に写っていた十字架はもっと古く、曲がり、雪の重みに耐えているように見えた。今、目の前にあるものは整備され、観光地としての形を持っている。
それでも、そこに漂う空気だけは変わらなかった。
ここには、何かが埋まっている。
それが誰であるかは、別として。
怜司は封筒から写真を取り出した。白黒に近い古い写真。裏面には、鉛筆で小さく文字が書かれていた。
昭和四十八年 一月十七日。
開けてはならないものを見た。
怜司は息を止めた。
開けてはならないもの。
父はここで何を見たのか。
「そこに近づかないほうがいいですよ」
背後から声がした。
怜司は振り返った。
黒いコートを着た若い女性が立っていた。肩までの髪に雪が積もっている。手には古いノートと、透明な袋に入った資料らしきものを抱えていた。
年は二十代後半ほど。
目元は冷静だが、こちらを見る視線には明らかな警戒があった。
「観光客ですか」
女が尋ねた。
「いいえ」
怜司は写真を封筒に戻した。
「三上怜司です。青森日日新聞の記者です」
「新聞記者」
女の眉がわずかに動いた。
「あなたは?」
「十和田澪。大学院で民俗学を研究しています」
「研究者が、なぜ近づくなと?」
澪は墓の方へ視線を移した。
「昨日、裏手で小さな地滑りがありました」
「地滑り?」
「雪に隠れていますが、土が崩れています。危険です」
「それだけですか」
澪は怜司を見た。
「記者の人は、すぐにそういう聞き方をしますね」
「癖です」
「悪い癖です」
そう言いながらも、澪は完全には立ち去ろうとしなかった。
怜司は彼女の手元を見た。透明な袋の中には、泥の付いた木片の写真が入っているようだった。
「何か見つかったんですか」
澪の表情が硬くなった。
「なぜそう思うんです」
「墓の裏で地滑りがあった。民俗学の研究者が冬の村に来ている。手には現場写真らしいもの。何もないと言う方が不自然です」
澪は小さく息を吐いた。
「木箱です」
「木箱?」
「崩れた土の中から、古い木箱が見つかりました。中には布片と、木簡のようなものが入っていました」
怜司の胸が鳴った。
「文字は?」
「刻まれていました」
「日本語ですか」
澪は答えるまでに、一拍置いた。
「少なくとも、私には日本語には見えませんでした」
風が吹いた。
杉の枝から雪が落ち、二人の間に白い煙のように舞った。
怜司は墓を見た。
二本の十字架。
父の写真。
手紙。
開けてはならないもの。
そして、日本語ではない文字。
偶然だと言うには、少しだけ出来すぎている。
「その木箱は今どこに?」
「村の人が保管しています」
「誰が?」
「答えられません」
「なぜ」
「答えたら、あなたはそこへ行くでしょう」
「もちろん行きます」
「だから答えません」
澪の声は静かだった。
だが、拒絶の意思ははっきりしていた。
怜司は封筒を握りしめた。
「父がここで何かを見たんです」
澪の目が少し動いた。
「お父さん?」
「三上宗一郎。新郷村の出身です」
その名を出した瞬間、澪の顔から血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。
だが怜司は見逃さなかった。
「知っているんですね」
澪は答えなかった。
「父は村のことを何も話しませんでした。親族とも縁を切っていた。死んだあと、遺品からこの写真と手紙が出てきたんです」
怜司は封筒から手紙を取り出し、澪に見せた。
澪は文字を読んだ瞬間、息を呑んだ。
――ヘライの墓を掘るな。あれは神の墓ではない。罪の墓だ。
「これを、どこで」
「父の遺品です」
「あなたは、これを誰かに見せましたか」
「まだ誰にも」
「なら、見せないでください」
澪は即座に言った。
「なぜです」
「これを見れば、あなたが三上宗一郎の息子だと分かる人がいます」
「それが何か問題ですか」
「問題しかありません」
怜司は澪を見つめた。
彼女は怯えていた。
墓にではない。
父の名に。
「父は、何をしたんですか」
澪は口を開きかけたが、すぐに閉じた。
そのときだった。
遠くから、かすかな歌が聞こえた。
風に千切れながら、雪の中を漂ってくる。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
ナニャドヤラ。
意味の分からない言葉。
古い祭りの歌だと聞いたことはある。だが、実際に耳にすると、それは踊りの歌というより、何かを封じるための呪文のように響いた。
澪が低く言った。
「この村では、昔からあの歌を歌います」
「ナニャドヤラ」
「意味は分からないとされています。でも、分からないまま歌われてきた言葉ほど、怖いものはありません」
「なぜです」
「意味が失われても、役割だけが残るからです」
その言葉の直後、森の奥で雪が鳴った。
ぎゅっ。
二人は同時に振り向いた。
杉の影の向こうに、誰かがいた。
黒い防寒着。深く被った帽子。顔は見えない。
「誰ですか」
怜司が声をかけた。
影は答えなかった。
次の瞬間、何かが雪の上へ投げ込まれた。
軽い音を立てて、怜司の足元に落ちる。
古びた木札だった。
怜司は拾い上げた。
表面には、かすれた墨で文字が書かれていた。
――イスキリは死んでいない。
怜司はその意味が分からなかった。
だが、澪には分かったらしい。
彼女の唇が震えた。
「そんなはずない」
「イスキリって、伝承に出てくる……」
「キリストの身代わりになったとされる人物です」
澪は木札の下部を指さした。
そこには、墨とは違う赤黒い染みで、別の文字が刻まれていた。直線と曲線が混ざった、見慣れない記号。
「これ、読めるんですか」
怜司が聞くと、澪は小さく首を横に振った。
「正確には読めません。でも、形は知っています」
「何の文字です」
澪は墓の十字架を見た。
雪の中に立つ二本の十字架は、何も語らない。
「ヘブライ文字に似ています」
その瞬間、森の奥の影が動いた。
怜司は追おうとした。
だが、一歩踏み出したところで、澪に腕を掴まれた。
「行かないでください」
「今なら追えます」
「追ったら戻れません」
「どういう意味です」
澪は答えなかった。
その代わり、墓の方を見つめた。
怜司も視線を向けた。
雪の積もった盛り土のそばに、何かが見えた。
白い雪の上に、黒い線が浮かび上がっている。
近づくと、それは土ではなかった。
文字だった。
誰かが雪を払い、地面に細い枝か何かで書いたのだ。
――三上の子を帰せ。
怜司は喉の奥が乾くのを感じた。
父の過去を調べに来ただけだった。
一枚の写真と、一通の手紙。
それだけを手がかりに、失われた家族の空白を埋めるつもりだった。
だが今、目の前にあるのは家族の問題ではない。
村が隠してきた何か。
墓に眠る誰か。
意味を失った歌。
そして、父の名前を知る者たち。
澪が静かに言った。
「三上さん。あなたのお父さんは、真相に近づいた人ではありません」
怜司は彼女を見た。
「では、何なんです」
澪の声は、雪よりも冷たかった。
「真相を隠した側の人間です」
風が強く吹いた。
雪が舞い上がり、二本の十字架が一瞬だけ見えなくなった。
その白い闇の中で、怜司は父の声を思い出そうとした。
だが、出てきたのは別の記憶だった。
幼い頃、父が一度だけ、寝言のように呟いた言葉。
――墓は人を隠すためだけにあるんじゃない。
あのときの自分は、意味など分からなかった。
今なら分かる気がした。
墓は、死者を隠す。
同時に、生きている者の罪も隠す。
怜司は木札を握りしめた。
雪はまた、音を奪い始めていた。
青森の山間にある小さな村。
そこに眠るのは、異国の聖者なのか。
それとも、誰かが歴史の名を借りて封じた罪なのか。
怜司はまだ知らなかった。
この日、雪の下で目を覚ましたものが、父の過去だけではないことを。
そして、二本の十字架の片方が、本当は墓ではないこ
お読みいただきありがとうございます。
青森に残る伝承を題材にした、民俗ミステリーとして進めていきます。
次回、三上怜司は父の名を知る村人と接触します。
墓の裏手で見つかった木箱、そして「イスキリは死んでいない」という木札の意味が、少しずつ動き始めます。




