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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第五話 ナニャドヤラの道

「ナニャドヤラは道である」


父の遺した布に記されていた言葉。

怜司、澪、久我透は、雪の夜を越えて再び新郷村へ向かう。


歌は祈りなのか。

それとも、墓へ至るための地図なのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

車の窓に、雪が叩きつけられていた。


夜の国道は、白と黒だけでできている。


街灯の下だけ雪が光り、そこを過ぎるとすぐに闇が戻る。ヘッドライトの先には、除雪された道が細く伸びていた。だが、その左右は雪の壁に塞がれ、逃げ場のない溝の中を走っているようだった。


三上怜司は後部座席で、父の文箱を抱えていた。


黒い文箱。

錆びた鍵。

金属の筒。

茶色く変色した布。


それらは、父・宗一郎が死ぬまで隠していたものだった。


なぜ、父はこれを持っていたのか。

なぜ、死後になって怜司の手に渡るように残したのか。


考えれば考えるほど、父という人間が分からなくなる。


怜司が知っている父は、寡黙で、感情を表に出さず、過去を語らない男だった。夕食の席でも必要なことしか話さず、怜司が進路の相談をしても「自分で決めろ」とだけ言った。


冷たい人だと思っていた。


だが今になってみれば、あれは冷たさではなかったのかもしれない。


言えば何かが壊れる。

語れば誰かが巻き込まれる。

だから沈黙を選んだ。


そう考えれば少しは理解できる。


けれど、許せるかどうかは別だった。


「三上さん」


助手席の澪が振り返った。


「布をもう一度見せてもらえますか」


怜司は文箱を開け、筒を取り出した。


運転している久我透は、前を向いたまま言った。


「揺れる。破るなよ」


「分かっています」


怜司は慎重に蓋を開けた。


密閉されていた布は、外気に触れるたびに壊れていくように見えた。澪は薄い手袋をはめ、スマートフォンのライトを弱めて布の裏側を照らした。


そこには、あの文字がある。


――歌を逆に辿れ。

――ナニャドヤラは道である。

――十和田の声が、二つ目の墓を開く。


澪はその三行を、何度も目で追っていた。


「歌を逆に辿る……」


彼女は呟いた。


「どういう意味ですか」


怜司が聞く。


「ナニャドヤラは、盆踊りの歌として伝わっています。地方によって節も少し違いますし、歌詞の聞き取りも一定していません」


「意味は分からないんですよね」


「一般的には、そう言われています」


澪は目を伏せた。


「でも、祖母は違う言い方をしていました」


「何と?」


「意味が分からないのではなく、意味を忘れたことにした、と」


車内に沈黙が落ちた。


ワイパーが雪を払う音だけが続いている。


怜司は、墓の前で聞こえた歌を思い出した。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


あのときは、不気味な旋律にしか聞こえなかった。だが、もしそれが道を示す歌だとしたら。


歌詞の一つ一つが、方角か。

順路か。

あるいは、墓を開くための手順か。


「十和田家は歌を守る家だった」


怜司は言った。


「あなたのお祖母さんは、何か知っているのでは?」


澪は返事をしなかった。


それが答えだった。


「会いに行くべきです」


「分かっています」


「村に戻ったら、まずお祖母さんのところへ」


「駄目です」


「なぜですか」


澪は顔を上げた。


「祖母は、歌を人前で歌わなくなりました」


「いつから?」


「十年前です。私が大学で民俗学を学びたいと言った日から」


怜司は黙った。


澪は窓の外に視線を戻した。


「祖母は言いました。知ろうとする子に、歌を渡してはいけない、と」


「それは、あなたを守るためでは?」


「ええ。きっとそうです」


澪の声は静かだった。


「でも、私はその優しさが嫌いでした」


怜司は言葉を探したが、うまく出てこなかった。


自分と似ていると思った。


父の沈黙に守られていたかもしれない。

だが、その沈黙のせいで、何も知らないまま大人になった。


守られることと、奪われることは、時に同じ形をしている。


「十和田の声が必要なら、祖母でなくてもいいのか」


運転席の透が言った。


澪が彼を見た。


「私で足りると?」


「布には、十和田の声とある。十和田の老婆とは書かれていない」


「でも、私は正式に歌を継いでいません」


「継いでいないと思っているだけだ」


「どういう意味ですか」


透はハンドルを握ったまま、淡々と言った。


「歌は、教わるものとは限らない。聞かされ続けたものは、体に残る」


澪の表情が揺れた。


「あなたは何を知っているんです」


「父の手記にあった」


「久我玲一の?」


透は頷いた。


「父は、ナニャドヤラを暗号として見ていた。だが、単純な言語置換ではない。文字ではなく、場所と所作を示す歌だと考えていた」


「所作?」


怜司が聞き返す。


「踊りだ」


透は言った。


「歌だけでは道にならない。踊りの足運び、手の向き、輪の回転。その組み合わせが、墓の周辺で進むべき順路を示している」


澪が息を呑んだ。


「盆踊りそのものが地図……」


「父はそう考えた」


「だから四十年前、十和田家の人間に歌わせた」


透の横顔は、ヘッドライトの反射で白く照らされていた。


「そして死なせた」


その言葉に、澪は目を伏せた。


彼女の叔父。

四十年前に、病死と聞かされていた男。

だが本当は、墓の前で歌い、その後に死んだ。


「あなたは、父親を恨んでいるんですか」


怜司は透に尋ねた。


「恨むほど知らない」


「幼い頃に消えた?」


「ああ」


透は短く答えた。


「俺が三歳の時だ」


「それで、ずっと探していた」


「母が死ぬ前に、父の手記を渡した。そこにこの村の名があった」


「新郷村」


「キリストの墓。ナニャドヤラ。イスキリ。三上宗一郎」


怜司の名ではなく、父の名。


透は続けた。


「父は手記に書いていた。三上宗一郎は、村で唯一、自分の話を最後まで聞いた男だと」


怜司は胸の奥が締め付けられるのを感じた。


父は、久我玲一を拒絶しただけではなかったのか。

止めようとしながらも、聞いたのか。


あるいは、聞いてしまったから、止める側に回ったのか。


「あなたは父に会ったんですか」


怜司が聞く。


「三年前にな」


「三年前?」


怜司は思わず身を乗り出した。


父は三年前、まだ生きていた。

病気の兆候はあったが、会話もできた。


「どこで」


「この家だ」


「父の家に来たんですか」


「ああ」


「父は何と言いました」


透は少しだけ黙った。


車がカーブを曲がり、タイヤが雪を噛んだ。


「帰れ、と」


怜司は苦く笑った。


「父らしい」


「そして、こうも言った」


透は前を見たまま続けた。


「自分が死んだら、息子が来る。その時まで待て、と」


怜司の呼吸が止まった。


父は、分かっていた。


自分が死ねば、怜司が遺品を調べ、手紙を見つけ、村へ向かうことを。


すべて読んでいた。


「なぜ、僕なんです」


怜司は呟いた。


「父は僕に何をさせたいんです」


「選ばせたいんだろう」


透が言った。


「何を」


「墓を閉じるか、開くか」


「父は閉じた側だったんでしょう」


「四十年前はな」


「では、今は?」


透は答えなかった。


代わりに、澪が布の文字を見つめたまま言った。


「宗一郎さんは、開けるつもりだったのかもしれません」


怜司は澪を見た。


「なぜそう思うんです」


「本当に閉じたいなら、鍵も筒も処分すればよかった。でも残した。しかも、あなたに見つかるように」


「僕を危険に晒してまで?」


「はい」


澪は迷いなく答えた。


「それだけの理由があった」


その言葉は、怜司にとって救いではなかった。


むしろ、父への怒りを強くした。


理由があれば、何をしてもいいのか。

息子を巻き込んでもいいのか。


けれど同時に、知りたいと思った。


父がそこまでして自分に託した理由を。


「歌を逆に辿る」


怜司は布の文字へ目を落とした。


「具体的には、どうすればいいんです」


澪はバッグからノートを取り出した。


そこには、ナニャドヤラの歌詞と、踊りの動作を書き留めたメモがびっしりと並んでいた。


「一般的な踊りでは、輪になって時計回りに進みます。足を出し、手を返し、体をひねる。その繰り返しです」


「逆に辿るなら、反時計回り?」


「単純にはそうですが、それだけではないと思います」


澪はページをめくった。


「祖母の歌には、他の地域のものにない節があります」


「どんな?」


澪は少し躊躇した。


それから、小さく歌った。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


続いて、怜司が初めて聞く節が入った。


ヘライノモリサ。

イサギリワタレ。

ナナツメノユキ。

ミギニカエスナ。


車内の空気が変わった。


透がハンドルを握る手に力を入れた。


「それだ」


「知っているんですか」


澪が驚く。


「父の手記にあった」


「今の節が?」


「完全ではないが、似た音が記録されていた。ヘライ、イサギリ、ナナツメ、ミギ。父は地名か方角だと考えていた」


怜司は繰り返した。


「ヘライの森。イサギリ渡れ。七つ目の雪。右に返すな」


「意味としては、そう聞こえます」


澪が言った。


「でも、歌詞は本来の意味が崩れている可能性があります。音が先に残り、後から日本語っぽく当てられたのかもしれません」


「それでも、道を示している可能性はある」


「はい」


怜司は窓の外を見た。


雪が激しくなっている。


七つ目の雪。


それは何を指すのか。

七つ目の積雪地点か。七本目の杉か。七番目の石か。あるいは、雪の日にだけ現れる何かか。


「三上さん」


澪が布の端を指さした。


「ここ、見てください」


怜司は身を乗り出した。


布の端に、ほとんど消えかけた線があった。文字ではない。図形だ。円と十字、そして曲線が組み合わさっている。


「地図ですか」


「そう見えます」


澪はノートに素早く写し始めた。


「二本の十字架を中心にした配置だとすると、この曲線は墓の裏の沢かもしれません」


「葛原修二さんが見つかった場所」


怜司が言うと、澪の手が止まった。


「はい」


車内に重い沈黙が落ちる。


死者が出ている。


もうこれは伝承調査ではない。事件だ。


だが、その事件は現代の動機だけで説明できない。四十年前の事件とつながり、さらに古い伝承に根を張っている。


「村に着いたら、まず十和田さんのお祖母さんに会う」


怜司は言った。


「そのあと、墓へ行く」


「祖母が話すとは限りません」


澪が言う。


「話さなくても、歌ってもらう必要がある」


「歌わないと思います」


「では、あなたが歌う」


澪は黙った。


それは、叔父が死んだ道を自分も辿るということだった。


怜司は言ってから、自分の言葉の残酷さに気づいた。


「すみません」


「いいえ」


澪は首を振った。


「その通りです。私がやるしかありません」


「無理はしないでください」


「無理をしないと、ここまで来た意味がありません」


その言葉は強かった。


怜司は、澪という女性を少し誤解していたかもしれないと思った。


彼女は冷静で慎重な研究者に見えた。だが、その内側には、祖母の沈黙に対する怒りと、家に隠された死を知りたいという執念がある。


自分と同じだ。


守られていた子どもが、守った大人たちの嘘を剥がそうとしている。


「後ろを見ろ」


透が言った。


怜司は振り返った。


後方に、ヘッドライトが見えた。


一台。


距離はある。だが、さっきから同じ距離を保っている。


「また黒い車ですか」


澪がサイドミラーを見る。


「分からない」


透は速度を落とした。


後ろの車も落とす。


透は次の脇道に入った。


後ろの車も、ゆっくりと曲がってきた。


「つけられていますね」


怜司は文箱を抱え直した。


「村の人間ですか」


「村の人間なら、もっと下手に隠す」


透は言った。


「これは外の人間だ」


「伝承を金に変える者」


怜司が呟く。


透は答えなかった。


車は雪の積もった細い道へ入った。街灯はない。ヘッドライトだけが頼りだった。両脇の木々が迫り、枝に積もった雪が時折落ちてくる。


「この道は?」


澪が聞く。


「遠回りだが、村の裏へ出る」


透は迷いなくハンドルを切った。


「よく知っていますね」


「三年前から調べている」


「新郷村を?」


「墓の周辺を」


怜司は透の横顔を見た。


この男は、ただ父を探していただけではない。三年間、村と墓を調べ、三上宗一郎と接触し、木箱が出てくるのを待っていた。


味方なのか。

利用者なのか。


まだ分からない。


後ろの車との距離が詰まった。


透が舌打ちする。


「飛ばすぞ」


「この雪道で?」


澪が言う。


「追いつかれるよりましだ」


車が加速した。


タイヤが雪を弾く。車体が左右に揺れ、怜司は文箱を抱えて座席に体を押しつけた。


後ろのライトも近づく。


一瞬、木々の切れ間で後続車の姿が見えた。


黒いワゴン車。


フロントガラスの奥に、人影が二つ。


その助手席の人物が、スマートフォンのようなものをこちらへ向けていた。


「撮られている」


怜司が言った。


「筒を伏せて」


澪が叫ぶ。


怜司は文箱をコートで覆った。


次の瞬間、後ろの車のヘッドライトが一瞬だけ強く光った。


パッシング。


一回。

二回。

三回。


透の表情が変わった。


「まずい」


「何が?」


怜司が聞いた直後、前方に赤い光が見えた。


道路の真ん中に、発煙筒が置かれている。


その先に、倒木。


雪の重みで倒れたように見える。だが、切断面が新しい。


道が塞がれていた。


透は急ブレーキを踏んだ。


車体が滑る。


澪が悲鳴を上げる。


怜司は文箱を抱きしめた。


軽い衝撃とともに、車は雪の壁に突っ込んで止まった。


エンジン音だけが荒く響く。


後ろのワゴン車も停まった。


ドアが開く音。


足音。


複数。


「出るな」


透が低く言った。


「鍵を持って走れ」


「どこへ」


怜司が聞く。


透は前方の倒木の向こうを指さした。


「この先に古い山道がある。そこを抜ければ、十和田の家に出る」


澪が驚いた。


「祖母の家に?」


「そうだ」


「あなた、そこまで調べて……」


「話は後だ」


透は運転席の下から、古い懐中電灯を取り出した。


「俺が時間を稼ぐ」


「一人で?」


「奴らの目的は筒だ。お前たちが持っている」


「あなたは何をするんです」


「父の真似をする」


その言葉の意味を聞く前に、透はドアを開けて外へ出た。


冷たい風が車内へ流れ込む。


「行きましょう!」


澪が後部ドアを開けた。


怜司は文箱を抱え、雪の中へ飛び出した。


足が沈む。


膝近くまで雪に埋まる。


背後から男たちの声がした。


「筒を渡せ!」


「追え!」


透が何かを叫び、雪の上で揉み合う音が聞こえた。


怜司は振り返ろうとしたが、澪に腕を引かれた。


「見ないで!」


「でも」


「今は走って!」


二人は倒木を越え、山道へ入った。


山道というより、木々の間にわずかに残った獣道だった。雪は深く、進むたびに体力を奪われる。澪は慣れているのか、枝を避けながら先へ進んだ。


「この道、知っているんですか」


怜司は息を切らせながら聞いた。


「子どもの頃、祖母に連れられて通りました」


「何のために」


「歌の練習です」


「こんな山の中で?」


「祖母は言いました。歌は家の中で覚えるものではない。道で覚えるものだと」


怜司は足を止めかけた。


歌は道である。


父の布にあった言葉と、澪の祖母の言葉が重なる。


「この道が、ナニャドヤラの道?」


「分かりません。でも、そうかもしれません」


後方で叫び声が聞こえた。


追ってきている。


怜司は文箱を抱え直し、さらに進んだ。


雪が顔に当たる。息が白く流れる。足の感覚が薄れていく。


どれだけ進んだのか分からなくなった頃、澪が突然立ち止まった。


「どうしました」


「ここです」


彼女は前方を指さした。


雪の中に、古い石が並んでいた。


一つ。二つ。三つ。


七つ。


七つの石が、半円を描くように置かれている。


澪が震える声で言った。


「七つ目の雪……」


怜司は歌詞を思い出した。


ヘライノモリサ。

イサギリワタレ。

ナナツメノユキ。

ミギニカエスナ。


七つ目の雪。

右に返すな。


「七つ目の石で、右に曲がるなという意味か」


澪は周囲を見た。


「普通に道を進むなら、右です。祖母の家へ行く道も右」


「では逆に辿るなら?」


「左です」


左側には、道など見えなかった。


ただ、雪を被った杉の斜面が続いているだけだ。


だが、澪は迷わなかった。


「行きます」


「本当に?」


「歌は、右に返すなと言っています」


二人は左の斜面へ踏み込んだ。


そこから先は、さらに厳しかった。


木の根に足を取られ、枝が顔を打つ。雪の下に隠れた石で転びそうになる。文箱を守るために片手が塞がっている怜司は、何度も体勢を崩した。


それでも進む。


背後の声は、少しずつ遠くなっていた。


やがて、木々の間に小さな灯りが見えた。


家だ。


雪に埋もれるように建つ、古い民家。

屋根は低く、窓には暖色の灯りがともっている。


澪が息を呑んだ。


「祖母の家です」


二人は雪をかき分けて玄関へ向かった。


澪が戸を叩く。


「おばあちゃん!」


返事はない。


もう一度叩く。


「おばあちゃん、私です! 澪です!」


中で、ゆっくりと足音がした。


引き戸が開く。


そこに立っていたのは、小柄な老婆だった。


白髪を後ろで結び、紺色の半纏を羽織っている。背は曲がっているが、目だけは驚くほど鋭かった。


「澪」


老婆は静かに言った。


「とうとう来たか」


澪の顔が歪んだ。


「おばあちゃん、知っていたの?」


老婆は怜司を見た。


そして、彼が抱える黒い文箱に目を落とした。


「三上の子だね」


怜司は頷いた。


「三上怜司です」


老婆は長い間、怜司を見つめていた。


その目には、恐れも怒りもなかった。


ただ、長い年月を待ち続けた者の疲れがあった。


「宗一郎は死んだか」


「はい」


「そうか」


老婆は小さく息を吐いた。


「なら、約束の夜だ」


澪が一歩前へ出た。


「約束?」


老婆は戸を大きく開けた。


「入りなさい。追われているんだろう」


怜司は驚いた。


「分かるんですか」


老婆は、雪の向こうを見た。


「足音が乱れている。二人分じゃない」


背後の森で、枝が折れる音がした。


追手が近づいている。


老婆は澪に言った。


「奥の戸を開けなさい」


「奥の戸?」


「お前には教えなかった」


澪が唇を噛む。


「また隠していたのね」


「隠していたとも」


老婆は迷いなく答えた。


「守るために」


澪が何か言い返そうとしたが、老婆はそれを遮った。


「文句は生き延びてから言いなさい」


怜司はその言葉に、少しだけ笑いそうになった。


この老婆は、澪の祖母だ。


強い。

そして、おそらく誰よりも多くを知っている。


二人は家に入った。


中は古い木の匂いと、味噌汁のような温かい匂いがした。だが安心する余裕はない。老婆は廊下の奥へ進み、仏間の前で立ち止まった。


仏壇の横に、古い箪笥がある。


老婆はその下段を開け、中に手を入れた。


かちり、と小さな音がした。


畳の一部が、わずかに浮いた。


澪が目を見開いた。


「地下?」


「十和田家は歌を守る家だ」


老婆は言った。


「歌は、逃げ道も守る」


怜司と澪は畳を持ち上げた。


そこには、狭い階段があった。


地下へ続いている。


外で、誰かが玄関を叩いた。


乱暴な音。


「開けろ!」


男の声だった。


老婆は振り返らない。


「下りなさい」


「おばあちゃんは?」


澪が叫ぶ。


「私は歌う」


「駄目!」


「澪」


老婆の声が鋭くなった。


「十和田の声は、逃げるためにも使う。よく聞いて覚えなさい」


老婆は玄関の方へ歩いていった。


背中は小さい。


けれど、その声が響いた瞬間、家の空気が変わった。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


老婆の歌は、墓で聞いたものとは違っていた。


低く、深く、床下から響くような声。


澪の目から涙が落ちた。


「おばあちゃん……」


怜司は彼女の腕を掴んだ。


「行きましょう」


「でも」


「今は生き延びる」


澪は唇を噛み、頷いた。


二人は地下の階段を下りた。


狭く、暗い。


怜司がスマートフォンのライトをつけると、土壁の通路が現れた。


ただの地下室ではない。


通路だ。


かなり古い。壁には木の支えがあり、ところどころに布の切れ端が結ばれている。


澪が呟いた。


「こんなものが、家の下に……」


背後で、玄関が破られる音がした。


男たちの怒鳴り声。

老婆の歌声。

床を踏み鳴らす音。


それらが、地下通路に反響して遠ざかっていく。


怜司は前へ進んだ。


通路は緩やかに下っている。


どこへ続いているのか。


答えは、すぐに分かった。


壁に、あの印が刻まれていた。


円の中に縦線。

左右に羽のような短い線。


三上家の印。


その下に、古い文字が彫られている。


澪がライトを向けた。


文字はかすれていたが、読めた。


――歌を失えば、墓は口を開く。

――名を失えば、人は神になる。

――神にされた者を、人へ返せ。


怜司はその言葉を見つめた。


キリストはいなかった。

だが、キリストにされた男はいた。


久我透の言葉がよみがえる。


この村が隠していたのは、信仰の真偽ではない。


誰かを神にしてしまった罪だ。


通路の奥から、冷たい風が流れてきた。


外へ通じている。


いや、ただの外ではない。


怜司は直感した。


この地下道の先に、墓がある。


そして、二つ目の墓を開くための本当の入口がある。


澪が小さく歌い始めた。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

ナニャドヤラ。


祖母の声を追うように。


震えながらも、確かに。


すると、通路の奥で何かが鳴った。


石が動くような、重い音。


怜司はライトを向けた。


前方の壁に、細い隙間が生まれていた。


澪の声が、二つ目の墓を開く。


布に書かれていた言葉は、比喩ではなかった。


「開いた……」


澪が呟く。


怜司は文箱を抱え直した。


背後から、追手の足音が地下へ下りてくる。


前方では、石の扉が少しずつ開いている。


戻る道はない。


進むしかない。


怜司は父の鍵を握りしめた。


「行きましょう」


澪は頷いた。


二人は、石の隙間の向こうへ足を踏み入れた。


そこに広がっていたのは、自然の洞窟ではなかった。


人の手で造られた、古い地下の祠。


中央には、小さな石棺があった。


そして石棺の上には、十字架ではなく、古びた木の札が置かれていた。


怜司はライトを向けた。


木札には、父の筆跡でこう書かれていた。


――ここに眠る者を、キリストと呼ぶな。


澪の歌が止まった。


地下の闇が、一気に濃くなった。


その瞬間、背後で男の声が響いた。


「見つけたぞ」


怜司は振り返った。


追手のライトが、通路の奥で揺れている。


そして石棺の前で、何かが小さく軋んだ。


まるで、長い眠りから覚めるように。

お読みいただきありがとうございます。

第5話では、ナニャドヤラの歌が「道」であり、十和田家の家の地下から墓へ続く通路が現れました。


次回、地下の祠で「キリストと呼ぶな」と記された石棺の正体に迫ります。

そして、追手たちが何を狙っているのかも明らかになっていきます。

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