第三十三話 小さな部屋の歌
かよ節をどう扱うのか。
祭りに入れるのか。
資料として残すのか。
家の中に閉じるのか。
答えを急がないために、十和田澪はまず、小さな場で歌うことを決めた。
公民館の一室。
録音なし。
公開なし。
ただ、聞くための時間。
声は、どこに置かれるのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
公民館の小部屋は、本当に小さかった。
白い壁。
長机が二つ。
折り畳み椅子が十脚。
窓の外には、夕方の薄い光が残っている。
特別な場所ではなかった。
舞台もない。
音響設備もない。
祭りの飾りもない。
取材用のカメラもない。
三上怜司は、その普通さに少し救われた。
ここなら、歌が飾られすぎない。
十和田澄江が言った通りだった。
立派な場所ではない方がいい。
怜司は鞄から手帳を出そうとして、やめた。
今日は、まず聞く人としている。
澪との約束だった。
書くのは後でいい。
部屋には、すでに数人が集まっていた。
十和田澄江。
十和田澪。
久我透。
葛原重蔵。
村役場の坂本。
保存会の村井。
相馬由紀准教授。
資料館職員の佐野。
そして、怜司。
全員で九人。
それだけだった。
澪は部屋の隅で、静かに立っていた。
普段よりも顔色が白い。
それでも、逃げようとはしていない。
澄江は椅子に座り、膝に手を置いていた。目は澪に向けられている。
透は壁際に立っていた。椅子はあるのに座らない。手を組み、視線を床に落としている。
葛原は、杖をそばに置いて椅子に腰掛けていた。呼吸が少し浅い。
坂本は、役場の人間としてというより、一人の村民としてそこにいるように見えた。
村井は落ち着かない様子で、何度も膝の上の手を組み替えていた。
相馬は、ノートも録音機も出していない。ただ静かに座っている。
資料館の佐野も、何も持っていなかった。
誰も、記録する姿勢を取っていない。
それが、この場の約束だった。
澪が、ゆっくり前に出た。
前といっても、舞台があるわけではない。
長机の横に立っただけだ。
「今日は、来てくださってありがとうございます」
声は少し震えていた。
「これは、発表ではありません。披露でもありません。まだ、どう扱うか決まっていない歌です」
誰も口を挟まなかった。
澪は続けた。
「だから、録音はしません。歌詞も配りません。今日ここで聞いたことを、外で軽く話さないでください」
村井が小さく頷いた。
坂本も。
透は目を閉じた。
「でも、閉じ込めるために歌うのでもありません」
澪は、そこではっきり顔を上げた。
「悠一は、忘れたら駄目だと言っていました。祖母は、呼び直し続けると言いました。だから私は、まずここで歌います」
澄江の手が、わずかに震えた。
澪は祖母を見た。
「おばあちゃん」
「うん」
澄江は短く答えた。
「歌いなさい」
その声で、部屋の空気が変わった。
澪は深く息を吸った。
怜司は、無意識に背筋を伸ばしていた。
何度か聞いたナニャドヤラとは違う。
これは、記事の中の歌ではない。
録音テープの中の悠一の声でもない。
今、この部屋で、澪が自分の体を通して出す声だった。
澪は目を閉じた。
そして、歌った。
かよは手を引く。
雪は道を消す。
子は泣かず。
母が泣く。
声は大きくなかった。
だが、小部屋の壁に静かに触れ、戻ってきた。
飾り気のない声だった。
祭りの明るさも、舞台の響きもない。
ただ、歌詞の一つ一つを、澪が確かめながら置いていく。
りくの名呼べど。
沢は返さず。
水は覚えて。
石は黙る。
透が顔を上げた。
葛原の目が閉じられる。
村井は、口元を押さえた。
坂本は動かなかった。
相馬は、静かに聞いていた。
怜司は、手帳を持っていない自分の両手を見た。
何も書いていない。
だが、言葉は消えていなかった。
むしろ、書かないことで、体の中に残っていく気がした。
澪の声は、次の節へ移った。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ。
聞き慣れたはずの響きが、違って聞こえた。
その下に、かよ節がある。
アラムの名。
リクの名。
カヨの手。
帰れなかった道。
それを知った後では、ナニャドヤラはもう、ただの不思議な歌ではなかった。
かよの手は冷たく。
りくの名は遠く。
帰る道なく。
雪は降る。
澄江が、声を殺して泣いていた。
澪は、目を開けなかった。
泣いている祖母を見れば、歌えなくなると思ったのかもしれない。
それでも、歌は止まらなかった。
水は覚えて。
石は黙る。
人は忘れて。
歌が呼ぶ。
最後の一節が終わると、部屋には沈黙が落ちた。
拍手は起きなかった。
誰も、拍手しようとしなかった。
それが正しいように思えた。
ここは、披露の場ではない。
誰かの歌を評価する場所でもない。
しばらくして、澪が目を開けた。
頬に涙が伝っていた。
「以上です」
それだけ言って、彼女は少し頭を下げた。
澄江が立ち上がろうとして、少しよろけた。
澪が駆け寄る。
「おばあちゃん」
澄江は澪の手を握った。
「歌えたね」
「うん」
「悠一にも、聞こえたよ」
澪は声を出さずに泣いた。
怜司は、その姿を見ながら、記事にできないものがあると思った。
いや、記事にはできる。
だが、そのまま全部を持っていくことはできない。
ここに置いていくべき涙がある。
やがて、村井がゆっくり口を開いた。
「私は」
声が掠れていた。
「私は、今まで歌を守っているつもりでした」
誰も遮らなかった。
村井は続けた。
「でも、今日聞いて、守っていたのは歌の形だけだったのかもしれないと思いました」
坂本が村井を見る。
村井は両手を膝の上で握った。
「祭りで歌うナニャドヤラを、大事にしてきたつもりです。それは今も変わりません。でも、その奥にあるものを知らないまま、明るく説明していた。観光客に、面白いでしょうと笑っていた」
村井の声が震えた。
「それが、恥ずかしくなった」
澪は黙って聞いていた。
澄江も何も言わない。
村井は顔を上げた。
「かよ節を祭りに入れるのは、まだ早いと思います」
怜司は、心の中で頷いた。
村井は続けた。
「でも、保存会はこれを聞くべきです。全員ではなくても、まず役員が聞くべきです。祭りをどう説明するか、その前に」
坂本が静かに言った。
「役場も、その場を支えます」
村井は頷いた。
「お願いします」
葛原が、小さく咳をした。
全員の視線が向く。
「わしは、長く記録を預かっていた」
葛原の声は弱かった。
「だが、歌は預かれなかった。今日、分かった。歌は、預かるものではない。人が人に渡すものだ」
澪が涙を拭いた。
葛原は澪を見た。
「澪さん。あなたは、渡した」
「私は、まだ……」
「渡した」
葛原は、はっきり言った。
「全部ではない。だが、今日ここにいる者には渡した」
澪は言葉を失った。
透が、壁際から口を開いた。
「俺は、父が聞いたものを、少し分かった気がする」
声は低かった。
「分かったからといって、父が正しかったとは思わない。でも、なぜ止まれなかったのかは、前より分かる」
透は澪を見た。
「悠一さんも、これを一人で持っていたのか」
澪は首を横に振った。
「一人ではなかったと思います。祖母も、十和田家も、歌として持っていたから」
「でも、言葉にはできなかった」
「はい」
透は息を吐いた。
「重いな」
その一言に、誰も否定しなかった。
相馬が静かに言った。
「今日の場は、非常に重要です」
全員が彼女を見る。
「ただし、重要だからといって、急いで次の形にする必要はありません。祭りに入れるか、資料館で扱うか、録音するか。その判断は、今日の感情が落ち着いてからでよいと思います」
坂本が頷いた。
「そうですね」
相馬は続けた。
「今日確認できたのは、かよ節が人前に置かれても、すぐに壊れるものではなかったということです。ただし、置き方を間違えれば壊れる。それも同時に分かったはずです」
怜司は、その言葉を胸に留めた。
手帳は開かない。
でも、忘れない。
場が終わる頃、外は暗くなっていた。
公民館の窓に、室内の明かりが映っている。
小部屋から出る前、澪が怜司に言った。
「三上さん」
「はい」
「今日は、書かないでください」
怜司は頷いた。
「分かりました」
「記事にしないという意味ではありません。今日すぐには、という意味です」
「はい」
「少し寝かせたいです」
「そうしましょう」
澪は少しだけ笑った。
「歌みたいですね」
「そうですね」
声も、記事も、すぐ外へ出せばいいわけではない。
少し置く。
体から離れすぎないように。
でも、閉じ込めないように。
その夜、怜司は資料館に戻っても原稿を書かなかった。
パソコンも開かなかった。
ただ、手帳を開き、一行だけ書いた。
――拍手のない歌だった。
それだけで閉じた。
翌日、怜司は参加者に一人ずつ連絡した。
記事化する前に、それぞれの受け止めを聞くためだった。
村井は言った。
「保存会で、聞く場を作りたい。ただし、急がない」
坂本は言った。
「公民館の小部屋でよかった。役場の会議室では、たぶん硬すぎました」
相馬は言った。
「録音しなかったことも、今回は意味がありました」
葛原は言った。
「澪さんは、歌を渡した。わしらは、受け取った責任を考えなければならない」
透は、少し黙ってから言った。
「父の手記を、もう一度読み直す。昨日の歌を聞いた後で」
澄江は、澪を通じて伝えてきた。
――まだ祭りではない。
――でも、もう家の中だけでもない。
――それでいい。
怜司は、それらの言葉を並べた。
ようやく、記事の形が見えてきた。
第十回。
仮題。
――拍手のない歌
本文は、公民館の小部屋から始める。
ただし、歌詞は書かない。
どんな歌だったかより、どんな場だったかを書く。
録音しなかったこと。
拍手が起きなかったこと。
参加者が急いで結論を出さなかったこと。
歌が、家の中から少しだけ外へ出たが、まだ祭りには入らなかったこと。
記事の中心は、これだった。
――かよ節は、公開されたのではない。共有された。
怜司は、その一文を打った。
公開と共有は違う。
公開は、不特定多数に開くこと。
共有は、受け取る責任を持つ人たちの間に置くこと。
この歌に、今必要だったのは共有だった。
夕方、怜司は原稿を澪に送った。
澪は、時間をかけて読んだ。
返信は短かった。
――これなら大丈夫です。
――拍手がなかったことを書いてくれて、ありがとうございます。
澄江からも、澪を通じて返事が来た。
――歌を飾らなかった。
――それが書けているならいい。
村井、坂本、相馬、葛原、透にも確認を取った。
全員が、細かな修正を入れながら了承した。
翌朝、第十回が公開された。
――雪の下の名 第十回
――拍手のない歌 かよ節が初めて共有された日
反応は静かだった。
だが、これまでで最も長く読まれた記事になったと、編集デスクが教えてくれた。
「派手な事実はないのにな」
電話の向こうで、編集デスクが言った。
「でも、読まれている。読者も、ここまで来たんだろう」
怜司は画面を見た。
コメントには、こんな言葉が並んでいた。
「公開ではなく共有、という違いが大事だと思った」
「拍手しない場があることに救われた」
「祭りに入れる前に、聞く場を作るのは必要」
「歌を歌う人の負担を考えたことがなかった」
「ここまで読んで、伝承を見る目が変わった」
もちろん、批判もあった。
「結局、内容は隠したまま」
「共有と言いながら一部の人だけで独占している」
「歌詞を出さないなら検証できない」
怜司は、その批判も記録した。
完全には解決しない。
公開しなければ、独占と言われる。
公開すれば、消費される。
その間で、少しずつ進むしかない。
昼過ぎ、保存会の村井から連絡が来た。
「保存会役員で、かよ節を聞く場を作ることになりました」
怜司は少し驚いた。
「決まったんですか」
「はい。ただし、非公開です。録音もしません」
「澪さんは?」
「本人と十和田家の同意が前提です。無理にはお願いしません」
「祭りへの導入は?」
「まだ議題にしません」
村井は、はっきり言った。
「まず、聞く。聞いた人間が、祭りの説明をどう変えるか考える。それが先です」
怜司は頷いた。
「記事にしても?」
「今回はまだ控えてください」
怜司は少し意外だった。
村井は続けた。
「記事で急がせたくない。保存会の中でも、時間が必要です」
「分かりました」
電話を切った後、怜司は少し笑った。
記事にしないことを、相手から求められた。
以前なら、もどかしく感じたかもしれない。
今は、必要な沈黙だと思えた。
ただし、閉じるための沈黙ではない。
考えるための沈黙。
その違いを、怜司は少しずつ分かり始めていた。
夕方、澪が資料館へ来た。
「保存会のこと、聞きました」
「はい」
「歌うかどうか、少し考えます」
「無理しないでください」
「はい。でも、たぶん歌うと思います」
怜司は彼女を見た。
澪は、少し疲れていた。
それでも、その目には静かな強さがあった。
「なぜですか」
怜司が尋ねると、澪は言った。
「一度歌ったら、分かったんです」
「何が?」
「歌は、出して減るものではないって」
怜司は黙った。
澪は続けた。
「でも、雑に出すと傷つく。だから、ちゃんと受け取る人がいる場所なら、歌える気がします」
それは、第三章の答えの一部だった。
歌は、出して減るものではない。
けれど、置き方を間違えると傷つく。
怜司は、その言葉を手帳に書いた。
「記事にしても?」
澪は少し笑った。
「後で」
「分かりました」
夜、怜司は次のメモを書いた。
保存会の場。
祭りの説明の見直し。
資料館展示の可能性。
音源の保管。
歌詞公開の是非。
澪の負担。
澄江の年齢。
若い世代への継承。
歌の問題は、終わらない。
むしろ、ここから始まる。
名を出すことよりも難しい。
なぜなら、歌は生きているからだ。
誰かの声を通る。
誰かの体に残る。
誰かの涙を呼ぶ。
誰かの責任を増やす。
怜司は手帳を閉じた。
窓の外では、春の夜が静かに広がっていた。
公民館の小部屋で歌われたかよ節は、もうそこにはない。
けれど、聞いた人たちの中に残っている。
拍手はなかった。
録音もなかった。
それでも、歌は渡った。
そして、渡ったものは、次にどう扱うかを必ず問い返してくる。
お読みいただきありがとうございます。
第33話では、公民館の小部屋で、関係者だけがかよ節を聞く場が開かれました。
かよ節は「公開」されたのではなく、「共有」されました。
拍手も録音もない場で、歌は家の中から少しだけ外へ出ます。
次回は、保存会の中でかよ節を聞く動きと、祭りの説明をどう変えるかへ進みます。




