第三十二話 歌うか、残すか
アラム、カヨ、リクの名は公に出た。
村は揺れながらも、その名を受け止め始めている。
だが、次の問いはさらに難しい。
かよ節をどうするのか。
人前で歌うのか。
家の中に残すのか。
資料として保管するのか。
祭りに加えるのか。
第三章「名と生きる村」が始まる。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
第三章の最初の取材先は、十和田家だった。
三上怜司が訪ねると、十和田澄江は縁側の近くに座っていた。
窓の外には、雪の消えた庭が見える。土はまだ湿っており、枯れ草の間から小さな緑がのぞいていた。
春が来ている。
しかし、家の中の空気はまだ冬の名残を含んでいた。
机の上には、古い歌詞控えと、大学資料の写し、そして悠一の録音に関する確認書が置かれている。
十和田澪は、祖母の隣に座っていた。
「今日は、歌の話ですね」
澪が言った。
怜司は頷いた。
「はい。かよ節を今後どう扱うか。その話を伺いたいです」
澄江は窓の外を見ていた。
「難しいね」
「はい」
「名を出すより、難しい」
怜司は少し意外だった。
「名よりも?」
澄江は頷いた。
「名は、文字にできる。書けば、そこに置ける。でも歌は、歌う人の体を通る」
澪の指が、膝の上で少し動いた。
澄江は続けた。
「かよ節を出すということは、誰かが歌うということだ。紙に載せるだけではない。声にする。息にする。人前に置く」
怜司は手帳を開いた。
歌は、歌う人の体を通る。
それは、音声資料を扱う時に相馬准教授が言ったこととも重なる。
声は、人を近くへ呼び戻す。
そして、その声を出す人自身も傷つく。
「澪さんは、どう考えていますか」
怜司が尋ねると、澪は少し黙った。
「私は、いつか歌うと思います」
以前も聞いた言葉だった。
だが、今日はその先を聞かなければならない。
「どこで?」
澪はすぐには答えなかった。
「まだ、分かりません」
「祭りで、という選択肢はありますか」
澄江の顔が少しこわばった。
澪はそれを見てから、ゆっくり答えた。
「今は、ありません」
「なぜですか」
「祭りに入れると、かよ節が“演目”になります」
澪の声は静かだった。
「歌う側も、聞く側も、拍手するかもしれない。動画を撮る人もいると思います。説明文がついて、パンフレットに載って、いつか観光の一部になるかもしれない」
怜司は頷いた。
「それを避けたい」
「はい。でも、ずっと家の中に閉じるのも違う気がします」
澪は歌詞控えを見た。
「悠一は、忘れたら駄目だと言いました。祖母も、呼び直し続けると言いました。なら、誰にも聞かせないままでは、また閉じてしまう」
「つまり、人前で歌わないが、誰にも聞かせないわけでもない」
「はい」
澪は少しだけ息を吸った。
「まずは、関係者だけの場で歌うのがいいと思っています」
「関係者」
「十和田家、三上さん、久我透さん、葛原さん、坂本さん、保存会の人、相馬先生。あと、村の中で本当に聞く覚悟のある人」
澄江が澪を見た。
「あなた、本気で言っているの」
澪は頷いた。
「うん」
「怖くないの」
「怖い」
澪はすぐに答えた。
「でも、祭りに入れるかどうかを話す前に、一度ちゃんと聞く場が必要だと思う」
澄江は黙った。
その沈黙は、反対ではなく、深く考えている沈黙だった。
「歌う場所は?」
怜司が尋ねる。
澪は少し迷った。
「資料館ではなく、沢でもなく、墓でもなく」
「なぜ」
「どこも意味が強すぎます」
その答えに、怜司は納得した。
資料館なら、展示になる。
沢なら、儀式になりすぎる。
墓なら、伝承へ戻される。
祭りの場なら、演目になる。
「では、どこがいいですか」
澪は祖母を見た。
澄江が小さく言った。
「旧集会所はもう使えない」
「はい」
「なら、公民館の小部屋だね」
澪は少し驚いたように祖母を見た。
「おばあちゃん」
「立派な場所ではない方がいい」
澄江は言った。
「歌を飾らないためには、普通の場所がいい」
怜司は、その言葉を書き留めた。
普通の場所。
それは、かよ節を特別な見世物にしないために必要なことかもしれない。
「記事にしてもいいですか」
怜司が尋ねると、澪は少し考えた。
「準備していることは書いてもいいです。でも、日時や場所は出さないでください」
「もちろんです」
「歌詞も、まだ」
「出しません」
澄江が怜司を見た。
「これは、記事のために歌うのではないよ」
「分かっています」
「本当に?」
怜司は、しっかり頷いた。
「はい。もし歌う場が開かれるなら、それは取材対象である前に、村の中の場です。僕は記録しますが、場を壊さないことを優先します」
澄江はしばらく怜司を見ていた。
やがて、頷いた。
「なら、来なさい」
十和田家を出た後、怜司は保存会の村井に会った。
祭りの歌に関わる以上、保存会を避けることはできない。
村井は前回よりも少し疲れていた。
「かよ節の件ですか」
「はい」
怜司は、十和田家の方針を説明した。
祭りには入れない。
まず関係者だけの小さな場で聞く。
場所や日時は非公開。
歌詞や音声も公開しない。
今後の扱いを話し合うための場にする。
村井は腕を組んで聞いていた。
「保存会からも出ろ、ということですね」
「はい。ただし、強制ではありません」
村井は少し苦い顔をした。
「正直、怖いです」
「何がですか」
「聞いたら、今まで歌ってきたナニャドヤラの意味が変わるかもしれない」
怜司は黙っていた。
村井は続けた。
「私は、祭りを守ってきたつもりでした。でも、歌の奥に別の歌があると知った。かよ節を聞けば、今までの祭りが足りなかったことを、もっとはっきり感じるかもしれない」
「それでも、聞きますか」
村井は深く息を吐いた。
「聞かないわけにはいかないでしょう」
その声には、諦めと覚悟が混じっていた。
「保存会として、祭りに入れるかどうかの議論は?」
「まだ早い」
村井は即答した。
「まず聞く。聞いてから考える。祭りに入れるかどうかは、その後です」
怜司は頷いた。
「記事にしても?」
「名前付きで構いません」
村井は言った。
「ただし、保存会の総意ではなく、私個人の考えとして」
「分かりました」
次に、怜司は役場の坂本を訪ねた。
坂本は、かよ節を聞く場について、すでに澪から連絡を受けていた。
「公民館の小部屋を使いたい、という話ですね」
「はい」
「役場としては、貸し出し自体は可能です。ただし、外部に漏れないようにする必要があります」
「参加者も絞るそうです」
「記録はどうしますか」
怜司は答えた。
「新聞記事としては、場の概要は後日書く可能性があります。ただ、歌詞や音声、詳細な発言は参加者確認後です」
坂本は頷いた。
「役場側でも議事メモは残します。ただ、公開文書扱いにするかは慎重に考えます」
「それがいいと思います」
坂本は少し笑った。
「最近、慎重という言葉ばかり使っています」
「僕もです」
「でも、慎重さだけだと進まない」
「はい」
坂本は窓の外を見た。
「だから、今回は進める慎重さにしたいですね」
怜司は、その表現に少し笑った。
「いい言葉ですね」
「記事に使いますか」
「使っていいですか」
坂本は苦笑した。
「どうぞ」
進める慎重さ。
この第三章に必要な言葉だった。
夕方、怜司は資料館で相馬准教授とオンラインで話した。
かよ節を聞く小さな場に、専門家として参加できるかの確認だった。
相馬は静かに頷いた。
「参加します。ただし、私は解説者として前に出るのではなく、資料の扱いについて助言する立場がいいと思います」
「分かりました」
「歌う場を研究発表のようにしないことが重要です」
「はい」
「録音はどうしますか」
怜司は、その質問を予想していた。
「十和田家は、今回の場での録音は避けたいようです」
相馬は頷いた。
「それでよいと思います。すでに悠一さんの録音があります。澪さんの歌は、まずその場にいる人の記憶として受け止める方がよいかもしれません」
「記録しないことも、守ることになる」
「場合によります」
相馬は慎重に言った。
「記録しないことで消えるものもあります。ですが、すべてを録ることが正しいわけでもない。今回は、場を作ることが目的であって、資料を増やすことが目的ではないのでしょう」
「はい」
「なら、録音しない判断はありえます。ただし、後日、澪さん本人が残したいと思った時に、改めて録音すればいい」
怜司は頷いた。
「ありがとうございます」
夜、怜司は第三章第一回の記事を書き始めた。
連載全体では第九回。
仮題。
――歌うか、残すか
冒頭は、十和田家の縁側にした。
雪の消えた庭。
机の上の歌詞控え。
澄江の「歌は、歌う人の体を通る」という言葉。
そこから、かよ節の扱いをめぐる問いへ入る。
歌を祭りに入れるのか。
家の中に残すのか。
資料として保管するのか。
関係者だけの場で聞くのか。
本文の中心には、三つの言葉を置いた。
澄江の「普通の場所がいい」。
澪の「誰にも聞かせないままでは、また閉じてしまう」。
坂本の「進める慎重さ」。
怜司は書きながら、何度も立ち止まった。
この記事は、これまで以上に現実へ影響する。
「関係者だけの場で歌う」と書けば、外から参加したい人が出るかもしれない。
「祭りにはまだ入れない」と書けば、保存会内で議論が起こる。
「録音しない」と書けば、批判する人もいるだろう。
だが、何も書かなければ、村の中の変化は見えない。
書く。
ただし、場を守るように。
本文の最後に、怜司はこう書いた。
――かよ節をどう扱うかは、歌を公開するか隠すかという二択ではない。人前に置く前に、誰が聞き、誰が歌い、誰が傷つき、誰が継ぐのかを考える時間が必要だ。名が戻った後、村は今、声の置き場所を探している。
書き終えて、怜司は少し息を吐いた。
声の置き場所。
今回の結びは、それでいい気がした。
翌朝、第九回が公開された。
――雪の下の名 第九回
――歌うか、残すか かよ節をめぐる村の選択
反応は、これまでよりも静かだったが、深かった。
「歌う人の体を通る、という言葉が重い」
「祭りにすぐ入れない判断は正しいと思う」
「録音しない場があってもいい」
「でも記録しないと消えるのでは」
「進める慎重さ、いい言葉」
「声の置き場所を探す、という表現が残った」
一方で、問い合わせも増えた。
かよ節を聞く会に参加できるのか。
いつ行われるのか。
資料館で展示する予定はあるのか。
音源公開はいつか。
怜司は、それらを坂本と共有した。
坂本は短く返信した。
――予想通りです。
――でも、問い合わせの質は以前より落ち着いています。
――記事で非公開の理由が説明されているからだと思います。
少しだけ、記事が働いている。
そう思えた。
夕方、澪から連絡が来た。
「歌う場の日程が決まりました」
怜司は静かに聞いた。
「いつですか」
「三日後の夕方です。公民館の小部屋」
「参加者は?」
「祖母、私、三上さん、透さん、葛原さん、坂本さん、村井さん、相馬先生。あと、資料館の職員さんが一人」
「分かりました」
電話の向こうで、澪は少し黙った。
「怖いです」
「はい」
「でも、決めました」
「はい」
「録音はしません」
「分かりました」
「記事には、後で書いてください。でも、その場では記者じゃなくて、聞く人としていてほしいです」
怜司は、胸の奥が少し熱くなった。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
怜司は言った。
「その場では、まず聞きます。書くのは、その後です」
電話を切った後、怜司は手帳を閉じた。
三日後。
かよ節が、初めて小さな場で歌われる。
祭りでもなく、記事でもなく、録音でもなく。
人から人へ。
声として。
怜司は窓の外を見た。
夕暮れの村は、薄い金色に染まっていた。
雪の季節が終わり、春の風が入ってくる。
名は戻った。
次は、声が置き場所を探す。
その場に立ち会うことの重さを、怜司は静かに受け止めた。
お読みいただきありがとうございます。
第32話から第三章「名と生きる村」が始まりました。
かよ節を祭りに入れるのか、家の中に残すのか、資料として扱うのか。
村は、公開か隠蔽かの二択ではなく、「声の置き場所」を探し始めます。
次回は、公民館の小部屋で、関係者だけが集まり、澪がかよ節を歌う場へ進みます。




