第三十一話 名が出た後
連載第七回で、アラム、カヨ、リクの名が公に出た。
アラムは村の謎ではなく、帰る場所のある子だった。
カヨは守ろうとして守れなかった人。
リクは正確な名か分からなくても、呼ぼうとされた母の名。
だが、名は出せば終わりではない。
出た名を、村がどう受け止めるのか。
怜司は、再び村の中を歩き始める。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
アラム、カヨ、リク。
三つの名が記事に出た翌朝、新郷村はいつもより静かに見えた。
雪はほとんど消えていた。
道の端に残った白い塊は小さくなり、黒い土と濡れた落ち葉が顔を出している。空は低く曇っていたが、冬の重さはもうなかった。
三上怜司は、資料館の前に立っていた。
昨日置かれていた白い花は、まだそこにあった。
資料館の職員が小さな瓶に水を入れ、風で倒れないように置き直してくれていた。
誰が置いたのかは分からない。
名が出たことへの祈りか。
慰めか。
好奇心ではない反応であることだけは、なんとなく分かった。
怜司は、その花を写真には撮らなかった。
記事にするには、まだ静かすぎる。
「三上さん」
振り返ると、坂本が歩いてきた。
村役場の地域振興課職員。昨日から問い合わせ対応に追われているはずなのに、今朝もすでに疲れた顔をしている。
「おはようございます」
怜司が頭を下げると、坂本は小さく頷いた。
「おはようございます。昨日の記事、かなり読まれていますね」
「はい」
「役場にも電話が来ています」
「内容は?」
坂本はため息をついた。
「いろいろです。資料を見せてほしい。沢へ行きたい。歌を聞きたい。観光として扱うべきではないか。逆に、記事を止めるべきではないか」
「すみません」
「謝られると困ります」
坂本は苦く笑った。
「記事が出なければ、こちらも考えずに済んだ。でも、考えずに済ませてきたのが問題でもある。そこが厄介です」
怜司は頷いた。
「村の中の反応を取材したいです」
「でしょうね」
坂本は資料館の前の花を見た。
「ただ、慎重にお願いします。今は皆、何を言っていいか分からない状態です」
「分かっています」
「分かっていても、聞かれると答えてしまう人もいます。後で後悔することもある」
その言葉は重かった。
取材は、答えを引き出す行為だ。
だが、答えた人が後で傷つくこともある。
「公開前確認を徹底します」
怜司は言った。
「コメントを使う場合は、必ず本人に確認します」
坂本は少しだけ安心したように頷いた。
「お願いします」
午前中、怜司は保存会の事務所を訪ねた。
キリスト伝承の保存や祭りに関わってきた人たちが集まる場所だ。
応対したのは、保存会の副会長である村井という男性だった。六十代後半。堅い表情で、怜司を迎えた。
「正直、困っています」
村井は最初にそう言った。
「記事のせいで?」
怜司が尋ねると、村井は頷いた。
「そうです。観光客からは“本当は違ったんですか”と聞かれる。若い人からは“隠していたんですか”と言われる。昔からやってきた祭りが、嘘だったみたいに扱われる」
「祭りを否定するつもりはありません」
「でも、そう読まれる」
村井の声は硬かった。
「我々は、村を守るために伝承を守ってきたんです」
その言葉に、怜司は何度も聞いてきた響きを感じた。
守る。
この村では、多くの人がその言葉を使う。
だが、その中身は同じではない。
ある人にとっては、生活を守ること。
ある人にとっては、名を隠すこと。
ある人にとっては、歌を残すこと。
ある人にとっては、燃やすことさえ守ることになる。
怜司は慎重に尋ねた。
「村井さんにとって、伝承を守るとは何ですか」
村井は少し苛立ったように眉を寄せた。
「難しいことを聞きますね」
「すみません。でも、そこが大事だと思います」
村井は腕を組んだ。
「観光だけではありません。伝承は、村の顔です。昔から外に向けて説明してきた。祭りも、案内も、看板も、それを前提にしている。今さら“実は別の話でした”と言われても、困るんです」
「はい」
「でも」
村井は言葉を止めた。
怜司は待った。
「昨日の記事を読んで、アラムという子のことを考えた」
村井は視線を落とした。
「正直に言うと、私は今まで、墓の話を説明していても、その下に子どもがいるとは考えていなかった」
怜司は黙っていた。
「キリストがどうとか、弟がどうとか、伝承として語っていた。でも、母を呼んだ子がいたと言われると、同じ口で同じ説明を続けられるか分からない」
村井の声は、少しだけ弱くなっていた。
「それが怖いんです」
怜司はメモを取った。
同じ説明を続けられるか分からない。
それは、保存会の揺れだった。
「記事にしてもいいですか」
怜司が聞くと、村井はすぐには答えなかった。
「名前は?」
「確認します。匿名でも構いません」
村井はしばらく考え、言った。
「名前を出してください。ただし、保存会全体ではなく、私個人の受け止めとして」
「分かりました」
「それと、伝承を全部嘘だったみたいに書かないでください」
「書きません」
「嘘だったのではなく、足りなかったんだと思いたい」
怜司は、その言葉を強く書き留めた。
嘘ではなく、足りなかった。
それは、次の記事の重要な軸になるかもしれない。
昼過ぎ、怜司は村の小さな食堂に入った。
地元の人が数人、昼食を取っていた。
店のテレビでは、全国ニュースが流れている。そこに連載の話は出ていない。だが、店内の空気はどこか固かった。
怜司が席に着くと、店主の女性が水を置きながら言った。
「新聞の人だよね」
「はい」
「読んだよ」
怜司は少し緊張した。
「ありがとうございます」
店主は厨房の方を見てから、小さな声で言った。
「よく分からなかった」
怜司は、少し意外だった。
「難しかったですか」
「難しいというか、気持ちが追いつかない」
店主は正直に言った。
「アラムとかカヨとかリクとか、急に名前が出てきて。でも、昔から聞いてきた話もあるし。どっちを信じればいいのか分からない」
「無理にすぐ決めなくていいと思います」
怜司は言った。
店主は少し目を丸くした。
「新聞の人がそれを言うの」
「はい」
「真実はこれです、って言うんじゃないの」
「今は、分かってきたことを順番に出しています。でも、受け止める側がすぐに整理できるとは思っていません」
店主は、少しだけ表情を緩めた。
「なら、助かる」
「助かる?」
「すぐに考えを変えなきゃいけないのかと思った」
怜司は、その言葉に胸を突かれた。
記事を書く側は、情報を出す。
だが、読む側には生活がある。
昨日まで信じていた話。
客に説明していたこと。
祭りで歌っていた歌。
祖父母から聞いた話。
それを一夜で変えられるわけがない。
「記事にしてもいいですか」
怜司が聞くと、店主は笑った。
「名前は出さないで」
「分かりました」
「でも、“すぐには変われない”って書いていいよ」
怜司は頷いた。
「ありがとうございます」
食堂を出ると、雨が少し降っていた。
傘を差すほどではない。
春の細い雨。
怜司は資料館へ戻る途中、若い男性に声をかけられた。
二十代くらい。作業着姿で、軽トラックの横に立っていた。
「新聞の三上さんですか」
「はい」
「記事、読んでます」
「ありがとうございます」
男性は少し迷ってから言った。
「俺、正直、今までキリストの墓の話、ちょっと恥ずかしかったんです」
怜司は黙って聞いた。
「外に出ると、青森にキリストって本気?って笑われることもあって。だから、あんまり好きじゃなかった」
「はい」
「でも、今回の記事を読んで、笑われる話じゃなかったのかもしれないと思いました」
男性は足元を見た。
「人がいたんですよね。アラムって子が。カヨって人が。リクって母親が」
「そう伝わる資料や証言が出てきています。ただ、まだ確認中の部分もあります」
「それでも」
男性は顔を上げた。
「笑っていい話じゃなかったんだなって」
怜司は、その言葉を受け止めた。
伝承が真実かどうか。
それだけではない。
笑われてきた話の下に、人がいた。
そのことは、若い世代にとって別の意味を持つのかもしれない。
「お名前を伺っても?」
男性は少し笑った。
「名前はまだ勘弁してください」
「分かりました」
「でも、書いていいです。笑っていい話じゃなかった、って」
怜司は頷いた。
午後、資料館に戻ると、澪が待っていた。
「いろいろ聞けましたか」
「はい」
「村は、どうですか」
怜司は少し考えた。
「割れています。でも、単純な賛否ではないです」
「単純な賛否ではない?」
「困っている人もいる。怖がっている人もいる。少し楽になった人もいる。まだ分からない人もいる。怒っている人の中にも、考え始めている人がいる」
澪は頷いた。
「祖母も、今日は少し静かです」
「疲れていますか」
「はい。でも、昨日とは違います」
澪は窓の外を見た。
「祖母が言っていました。名前は出たけれど、これから何度も間違って呼ばれるだろうって」
怜司は顔を上げた。
「間違って呼ばれる」
「はい。リクが本当の名だったか分からない。カヨも、美談にされるかもしれない。アラムも、また別の伝説にされるかもしれない」
「はい」
「だから、呼び直し続けるしかない、と」
怜司は、その言葉を書き留めた。
呼び直し続ける。
一度記事に出せば終わりではない。
誤解されれば直す。
軽く扱われれば、重さを戻す。
断定されれば、未確定を示す。
美談にされれば、痛みを戻す。
断罪にされれば、人間を戻す。
それが、名を出した後の仕事だ。
夕方、怜司は坂本と役場で再び会った。
坂本は、村として公式なコメントを出す準備をしていた。
「正式に出すなら、どんな内容になりますか」
怜司が尋ねると、坂本は草案を見せた。
そこには、こうあった。
新たに報じられている資料や証言について、村として専門家の協力を得ながら確認を進める。
伝承は地域で長く受け継がれてきたものであり、今後も尊重する。
一方で、実在した可能性のある人物の名や記憶については、故人の尊厳と関係者の意向に配慮しながら慎重に扱う。
現地への無断立ち入りや、関係者への過度な接触は控えてほしい。
怜司は読み終えて、頷いた。
「現実的だと思います」
坂本は苦笑した。
「褒められている気がしませんね」
「褒めています。強い言葉で片づけていない」
「強い言葉を使うと、後で戻れませんから」
「その通りです」
坂本は椅子にもたれた。
「役場としても、伝承を捨てるつもりはありません。でも、今までと同じ説明では足りない。そこをどう変えるかです」
「保存会とも話す必要がありますね」
「はい」
「十和田家とも」
「はい」
「三上家とも」
坂本は、少し気まずそうに怜司を見た。
怜司は小さく笑った。
「僕も関係者ですから」
「そうでしたね」
二人は少しだけ笑った。
笑える場面があることに、怜司は少し救われた。
夜、怜司は第八回の原稿を書き始めた。
仮題。
――名が出た後
冒頭には、資料館前の白い花を書いた。
ただし、誰が置いたかを探るのではなく、名が出た後の静かな反応として。
次に、村の声を並べる。
保存会の村井。
食堂の店主。
若い村民。
役場の坂本。
十和田澪。
澄江の言葉。
それぞれの反応は違う。
困惑。
恐れ。
安堵。
誇りの揺らぎ。
説明の難しさ。
笑われてきた伝承への見直し。
呼び直し続ける必要。
記事の中心は、これだった。
――名が出た後に必要なのは、結論ではなく、受け止める時間である。
怜司はその一文を書いた。
すぐに消さなかった。
これは残せる気がした。
本文の終盤で、怜司はこう書いた。
――伝承は嘘だったのか、と問う声がある。だが、取材を通じて見えてきたのは、単純な真偽ではない。伝承は、足りなかった。語れなかった名を外へ置き、歌に押し込め、時に観光の言葉で覆ってきた。その足りなさを認めることは、伝承を壊すことではなく、そこに埋もれた人を戻すための作業でもある。
村井の言葉を、本人確認の上で使う。
嘘ではなく、足りなかった。
これは大事な表現だった。
深夜、編集デスクに原稿を送った。
返信は翌朝早くに来た。
――いい。
――名が出た後の揺れが書けている。
――村の声が多いので、確認を丁寧に。
――見出しは「名が出た後 揺れる村、変わる伝承」でどうか。
怜司は、関係者確認を進めた。
村井は、少し迷った後で了承した。
「保存会の中で怒られるかもしれませんが、言ったことですから」
食堂の店主は匿名条件で確認。
「すぐには変われない、はそのままでいいよ」
若い男性も匿名で了承。
「笑っていい話じゃなかった、は使ってください」
坂本は公式コメント部分を確認。
澪と澄江の言葉も、丁寧に確認した。
澄江は、澪を通じてこう返してきた。
――呼び直し続ける、と書いていい。
――でも、正しく呼べると思い上がらないで、と付けてほしい。
怜司は、その一文を記事に加えた。
第八回は、翌朝公開された。
――雪の下の名 第八回
――名が出た後 揺れる村、変わる伝承
反応は、これまでよりも穏やかだった。
「村の人の困惑が分かる」
「伝承は嘘ではなく足りなかった、という表現がいい」
「観光で説明してきた人たちも急には変われないよな」
「呼び直し続ける、が重い」
「これはもう事件記事ではなく、地域が変わる過程の記事だ」
怜司は、その最後の反応を見て、少し考えた。
地域が変わる過程。
確かに、連載はそこへ入っている。
第一章では、隠されたものを掘り起こした。
第二章では、証言と記録を集め、記事にした。
そして今、第三章へ向かっている。
真実が出た後、どう生きるか。
それが次の章になる。
昼過ぎ、編集デスクから電話が来た。
「三上、第二章はここで一区切りだな」
怜司は少し驚いた。
「第二章?」
「お前の連載の話だ。記事としても、物語としても、ここで一度区切れる」
怜司は窓の外を見た。
確かに、そうかもしれない。
証言を集め、記録を出し、名を返すところまで来た。
だが、まだ終わってはいない。
「次は何ですか」
怜司が尋ねると、編集デスクは言った。
「第三章だ。村が、この名とどう生きるか」
「記事としては」
「祭り、資料館、保存会、十和田家、役場、若い世代。伝承の説明を変えるのか。かよ節をどう扱うのか。女名控を公開するのか。音源をどう保管するのか」
怜司はメモを取った。
「時間がかかりますね」
「かかる」
編集デスクは言った。
「だから、連載のペースも少し落とす。毎日更新ではなく、調査と確認を挟む」
「分かりました」
「急ぐな。ここからは、記事が現実を動かす」
その言葉に、怜司の背筋が伸びた。
記事が現実を動かす。
もう、事実を追うだけではない。
記事によって、村の会議が開かれる。
保存会が説明を見直す。
十和田家が歌の扱いを考える。
役場が資料を保管する。
読者が訪問を控えるかもしれないし、逆に来るかもしれない。
責任が変わる。
夕方、怜司は資料館前の花をもう一度見た。
少ししおれていた。
職員が、新しい水に替えていた。
名が出た後。
花が置かれ、電話が鳴り、村井が悩み、店主が戸惑い、若者が笑えなくなり、澄江が呼び直せと言う。
それが今の村だった。
夜、怜司はノートに新しい見出しを書いた。
第三章。
――名と生きる村
その下に、小さく書いた。
第一回候補。
――祭りの歌をどうするか
ナニャドヤラ。
かよ節。
澪。
澄江。
保存会。
観光。
歌う人。
次に向き合うのは、歌だった。
名は出た。
では、歌はどうするのか。
人前で歌うのか。
継ぐだけにするのか。
資料として保管するのか。
祭りに入れるのか。
入れないのか。
榊原が言った。
かよ節を、人前で歌うな。
澪は答えた。
それは、私が決めます。
その決断の日が、少しずつ近づいている。
怜司はペンを置いた。
外では、春の夜の風が窓を揺らしていた。
雪の下から出てきた名は、もう隠れてはいない。
だが、出てきた名とどう生きるかは、まだ誰も知らない。
それを、これから書いていく。
お読みいただきありがとうございます。
第31話では、アラム、カヨ、リクの名が出た後の村の反応を描きました。
伝承は嘘だったのではなく、足りなかった。
そして、名は一度出せば終わりではなく、何度も呼び直し続ける必要がある。
ここで第二章は一区切りです。
次回からは第三章へ入り、村が「名とどう生きるか」へ進みます。
まず焦点になるのは、祭りの歌とかよ節の扱いです。




