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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第三十話 帰る場所のある子

宗一郎の手紙は、ようやく記事として外へ出た。

父は記録を消さなかった。

だが、渡すこともできなかった。


次に怜司が向き合うのは、アラム。


キリスト伝承の謎ではない。

村の罪の象徴でもない。

かわいそうな子どもだけでもない。


母の名を呼び、帰る場所へ向かおうとした一人の子。


その名のそばには、カヨとリクがいた。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

第七回の原稿を書く前に、三上怜司は十和田家を訪ねた。


カヨとリクの名を記事に出す。


その判断は、怜司一人ではできなかった。


十和田澄江は、居間で待っていた。

膝には毛布。

傍らには澪。

机の上には、大学資料の写しと、女名控の表紙写真の控えが置かれている。


澄江は怜司を見ると、静かに言った。


「出すのだね」


「はい」


怜司は頭を下げた。


「ただし、歌詞の全文や音声は出しません。カヨとリクの名、そしてアラムが帰る場所を持つ子だった可能性について書きます」


「可能性」


澄江はその言葉を繰り返した。


「はい。断定はしません。女名控、かよ節、悠一さんの録音、宗一郎の手紙、榊原の証言。それらが同じ方向を示している。ただ、完全な証明ではない。その形で書きます」


澄江はしばらく黙っていた。


やがて、ゆっくり頷いた。


「それでいい」


澪が祖母の手に触れた。


澄江は続けた。


「名を出す時は、気をつけなさい。名は、見つけた者のものではない」


怜司は手帳を開いた。


「はい」


「アラムは村のものではない。新聞のものでもない。十和田のものでも、三上のものでもない」


「はい」


「リクもそうだ。私たちは、その名を正しく呼べているかも分からない」


怜司は頷いた。


「記事にも書きます。リクという名は、アラムが母を呼んだ音を村の人がそう聞き取った可能性がある、と」


澄江は目を伏せた。


「それでも、呼ばなければ消えてしまう」


澪が小さく言った。


「おばあちゃんが言っていた言葉だね」


澄江は頷いた。


「正しい名でなかったとしても、呼ぼうとした人がいた。そのことは残していい」


怜司は、その言葉を丁寧に書き留めた。


正しい名かどうかではなく、呼ぼうとした人がいた。


それが、今回の核になる気がした。


「カヨについては、どう書くの」


澪が尋ねた。


怜司は資料を見た。


「アラムを匿い、母のいる方へ逃がそうとした女性として。ただし、カヨを美談にはしません」


澄江の目が怜司を見る。


怜司は続けた。


「カヨは守ろうとした。でも、守れなかった。その行動がアラムを沢へ向かわせた可能性もある。善意が悲劇に関わることも書きます」


澄江は静かに息を吐いた。


「それがいい」


「つらい書き方になります」


「つらくなければ嘘になる」


その言葉に、怜司は黙って頷いた。


カヨをきれいに書くのは簡単だ。


アラムを救おうとした優しい女性。

消された女の名。

歌に残った祈り。


だが、それだけでは違う。


カヨは救おうとした。

しかし、救えなかった。

その結果、アラムは帰る道を失った。

リクの名は歌の中に残り、本帳の外に置かれた。


人は、善意でも間違える。


その事実を書かなければ、また誰かを簡単な形にしてしまう。


取材の終わりに、澄江は言った。


「怜司さん」


「はい」


「アラムを、かわいそうな子で終わらせないで」


「はい」


「でも、強い子にもしないで」


怜司は少し息を止めた。


澄江は続けた。


「子どもは、子どもだ。泣かなかったと歌にあっても、本当に泣かなかったかは分からない。怖かっただろう。寒かっただろう。母を呼びたかっただろう」


澪が目を伏せた。


「だから、強い子にもしないで。ただ、帰りたかった子として書いて」


怜司は、深く頭を下げた。


「そう書きます」


資料館へ戻る途中、怜司は車を少し停めた。


沢へ続く山が、遠くに見えた。


雪はかなり溶けている。


木々の間には、まだ白い筋が残っていたが、空気はもう冬ではなかった。


帰る場所のある子。


その言葉が、怜司の中で何度も響いた。


アラムは、村に来た謎ではない。


村を訪れた聖者でもない。

伝承の核でもない。

観光の看板でもない。

誰かの罪を背負わせるための存在でもない。


母を呼び、帰ろうとした子どもだった。


だが、その母の名さえ、正確には残っていない。


リク。


それは、名かもしれない。

聞き間違いかもしれない。

呼び声の欠片かもしれない。


それでも、人は呼んだ。


カヨが呼んだ。

十和田家が歌った。

悠一が録音に残した。

澄江が覚えていた。

澪が継ごうとしている。


名は、完全ではない。


だが、完全でないからといって、消していいわけではない。


資料館に戻ると、怜司は女名控の専門家確認メモを読み返した。


相馬准教授と県の文化財担当による初期確認。


文書は寄合座関連の外控とみられる。

成立年代は本帳より後世の写しの可能性あり。

複数の女性名と短い言伝が記載。

「カヨ」と読める名あり。

隣接箇所に「リク」または類似音を示す表記の可能性。

ただし読みは未確定。

詳細解読には継続調査が必要。


未確定。


その言葉を、記事の中で逃げずに使う必要がある。


確定していないものを、確定した物語にしない。


怜司はノートパソコンを開いた。


第七回。


仮題。


――帰る場所のある子


本文を書き始める。


――伝承の中で、名前はしばしば役割に変わる。神、墓守、異国の子、罪人、語り部。だが、役割の前に、その人には誰かに呼ばれる名があり、帰りたい場所があった。


怜司は手を止めた。


少し抽象的だ。


だが、入口としては悪くない。


次に、事実を書く。


役場に保管された外控文書。

大学資料のかよ節。

悠一の録音。

宗一郎の手紙。

榊原の証言。

それらに、カヨとリクという名が現れること。


ただし、断定は避ける。


――複数の資料と証言は、アラムという子どもの周囲に、カヨという女性と、リクと聞き取られた母の名があった可能性を示している。


可能性。


弱い言葉ではない。


正確な言葉だ。


記事の中盤で、怜司はカヨを書く。


――カヨは、アラムを匿い、母のいる方へ逃がそうとした人物として伝えられている。だが、その行動はアラムを救う結果にはならなかった。善意は、必ずしも人を救うとは限らない。守ろうとする手が、結果として危険な道へ導いてしまうこともある。


書きながら、怜司の胸が痛んだ。


この一文は、カヨだけではない。


久我玲一にも。

宗一郎にも。

葛原にも。

怜司自身にも向いている。


守ろうとして、間違える。


人間は、そういうものだ。


だから、記録が必要なのかもしれない。


美談にしないために。

断罪だけにしないために。


記事の後半で、リクに触れる。


――リクという名は、アラムの母の名として伝わる。ただし、それが実際の名であったか、アラムが母を呼んだ声を村人が聞き取った音であったかは分からない。正確ではないかもしれない名を、残す意味はあるのか。十和田澄江さんは「それでも、呼ばなければ消えてしまう」と話す。


ここで、澄江の言葉を入れる。


それは強かった。


記事の最後に、怜司はアラムについて書いた。


――アラムは、村の謎ではなかった。帰る場所のある子だった。だが、その帰る道は雪に消え、母の名は正確な形では残らず、やがて伝承の中で別の意味を背負わされた。名を返すとは、過去を美しい物語に整えることではない。帰れなかった子どもを、村のものにしないことから始まる。


怜司は、そこまで書いて手を止めた。


強い。


強すぎるかもしれない。


だが、これは必要だと思った。


帰れなかった子どもを、村のものにしない。


新聞のものにも、読者のものにも、しない。


その緊張を持ったまま書く。


夕方、原稿を編集デスクへ送った。


返信は、いつもより早かった。


――読んだ。

――これは重要回。

――ただし、固有名を初出しするので、法務・上長・役場・関係者確認を必須にする。

――「村のものにしない」は強いが残したい。

――タイトルはそのままいける。


その後、確認が続いた。


役場の坂本は、慎重だった。


「カヨとリクを出すんですね」


「はい」


「村の反応は大きいと思います」


「分かっています」


「それでも出す理由は?」


怜司は答えた。


「本帳の外に置かれた名を、外に置いたままにしないためです。ただし、見世物にしない形で出します」


坂本はしばらく黙った。


「分かりました。役場としては、専門家確認中であることを明記するなら、コメントできます」


相馬准教授は、記事の事実関係を確認した上で言った。


「未確定の部分がきちんと未確定として書かれています。歌詞を出さない判断も適切です」


澄江は、澪を通じて伝えてきた。


――出しなさい。

――でも、リクの名を正しい名だと決めつけないで。

――呼ぼうとした名として書きなさい。


透からは短い返事が来た。


――父が見ようとしたものが、ようやく見えてきた気がする。


葛原からは、電話があった。


「カヨを出すのか」


「はい」


「宗一郎が最後まで出せなかった名だ」


「はい」


「なら、宗一郎のためではなく、カヨのために出せ」


「そのつもりです」


「ならいい」


翌朝、第七回が公開された。


――雪の下の名 第七回

――帰る場所のある子 アラム、カヨ、リクの名をめぐって


怜司は、公開画面を開く前に、深く息を吐いた。


ついに出た。


アラム。

カヨ。

リク。


三つの名が、記事の見出しに並んだ。


恐怖があった。


これで消費されるかもしれない。

切り抜かれるかもしれない。

誤解されるかもしれない。


だが、もう本帳の外だけには置かない。


反応は、すぐに広がった。


「リクは母の名だったのか」

「アラムが村の謎ではなく帰る場所のある子、という書き方が重い」

「カヨを美談にしないのがよかった」

「未確定と書いているのに、断定して騒ぐ人が出そう」

「これは観光で扱う話ではない」


予想通り、軽い反応もあった。


「映画化できそう」

「聖母リク伝説?」

「カヨってヒロインじゃん」


怜司は、それを見て胸が冷えた。


やはり、出る。


どれだけ慎重に書いても、軽く受け取る人はいる。


だが、その横に、別の反応もあった。


「こういう名前を軽く扱わないようにしたい」

「読む側も試されている」

「音源を出さない理由が今回でさらに分かった」

「この連載は、知る速度を落とすための記事だと思う」


怜司は、その一文で手を止めた。


知る速度を落とすための記事。


そうかもしれない。


情報は速い。


推測はもっと速い。


消費はさらに速い。


その速度を落とすために、怜司は書いているのかもしれない。


昼過ぎ、澪から連絡が来た。


「祖母が読みました」


「どうでしたか」


「泣きませんでした」


「そうですか」


「ただ、“ようやく、あの子が村から少し出られたね”と言っていました」


怜司は目を閉じた。


あの子が村から少し出られた。


それは、記事がアラムを外へ晒したという意味ではない。


村の伝承に閉じ込められていたアラムが、母を呼ぶ子として少し戻ったということだ。


「澪さんは?」


怜司が尋ねると、電話の向こうで少し沈黙があった。


「私は、怖いです」


「はい」


「名前が出たから。もう戻せないから」


「はい」


「でも、隠している時より、呼吸はしやすいです」


怜司は静かに頷いた。


「僕もです」


その日の夕方、資料館の前に、花が置かれていた。


誰が置いたのかは分からない。


小さな白い花。


旧集会所でも、墓でも、沢でもない。


資料館の前。


記事を読んだ誰かが置いたのかもしれない。


怜司は、それを見て少し迷った。


記事にするべきではない。


今は、誰かの静かな反応として、そのまま置いておくべきだ。


坂本に連絡し、資料館側で丁寧に管理してもらうことになった。


夜、怜司は次のメモを書いた。


第八回。


何を書くべきか。


アラム、カヨ、リクの名は出た。


次は、村がどう受け止めるか。

それとも、榊原の証言を整理するか。

清之進と伊佐衛門へ戻るか。

ナニャドヤラとかよ節の今後へ進むか。


悩んでいると、編集デスクから電話が来た。


「第七回、読まれてる」


「はい」


「反応も大きい」


「軽い反応もあります」


「あるな」


編集デスクは言った。


「だが、記事が止めているものもある。見出しだけが独り歩きしないよう、本文のトーンが効いている」


「次はどうしましょう」


「村の受け止めだ」


編集デスクは即答した。


「名前を出した以上、次は反応を書く必要がある。読者の反応ではなく、村の中の反応だ。坂本、澄江、澪、透、葛原。できれば保存会や若い村民も」


怜司は頷いた。


「分かりました」


「真実が出たら終わり、ではない。出た後に何が起きるかを書け」


電話を切った後、怜司はメモに書いた。


――名が出た後


それが次回のテーマになる。


名前は、出せば終わりではない。


出た後、人がどう受け止めるか。

村がどう変わるか。

何が壊れ、何が少し楽になるか。

何がまた隠れようとするか。


そこまで書かなければ、名を返したことにはならない。


怜司は窓の外を見た。


夜の村は静かだった。


だが、もう以前と同じ静けさではない。


アラム。

カヨ。

リク。


三つの名が、静かに外へ出た。


その名を、どう迎えるのか。


村も、怜司も、読者も、これから問われる。

お読みいただきありがとうございます。

第30話では、ついにアラム、カヨ、リクの名が記事に出ました。


アラムは「村の謎」ではなく、母の名を呼び、帰る場所を持つ子だった。

カヨは守ろうとして守れなかった人。

リクは正確な名か分からなくても、呼ぼうとされた母の名。


次回は、名が出た後の村の反応へ進みます。

真実は、出せば終わりではありません。

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