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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第二十九話 渡されなかった手紙

久我玲一は、急ぎすぎた記録者だった。

その正しさと誤りを、怜司は記事にした。


次に向き合うのは、父・三上宗一郎。


怜司宛てに書かれながら、渡されなかった手紙。

それを読んでいた葛原重蔵。

なぜ父は、最後まで息子に渡せなかったのか。


沈黙は、もう父一人のものではなかった。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

葛原重蔵の家は、村の古い道沿いにあった。


低い屋根。

黒ずんだ板壁。

庭の端には、まだ雪の名残が少しだけ残っている。


三上怜司は玄関の前で、一度足を止めた。


鞄の中には、父・宗一郎の手紙のコピーが入っている。


――怜司へ。


その文字を見るたび、胸の奥が痛む。


父は書いた。

だが、渡さなかった。


そして、その手紙を葛原が読んでいた。


父は、最後の判断さえ、他人に預けた。


怒りがあった。


失望もあった。


それでも、今日は聞かなければならない。


怜司が呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開いた。


葛原は、以前よりさらに小さく見えた。肩は落ち、顔色も悪い。だが、目だけは逃げていなかった。


「来たか」


「はい」


「上がれ」


居間には、古い石油ストーブの匂いが残っていた。


机の上には、茶封筒が一つ置かれている。


怜司は座る前に、それを見た。


「それは?」


「宗一郎から預かったものだ」


葛原は言った。


怜司の胸が強く鳴った。


「まだ、あったんですか」


「ある」


葛原は封筒に手を置いた。


「渡せなかったものは、一つではない」


怜司は黙って座った。


録音機を出す。


「録音してもいいですか」


葛原は頷いた。


「構わん。今日は、残すために話す」


録音が始まった。


怜司は、最初の質問をした。


「父の手紙を読んだのは、いつですか」


葛原は目を伏せた。


「宗一郎が亡くなる一年前だ」


「父が、自分で渡したんですか」


「そうだ。夜に来た。手紙を持っていた。ひどい顔をしていた」


「何と言っていましたか」


葛原は、しばらく黙った。


「これを怜司に渡すべきか、読んで決めてくれ、と」


怜司は拳を握った。


分かっていた言葉だった。


だが、実際に聞くと、やはり痛かった。


「なぜ、自分で決めなかったんですか」


声が少し硬くなった。


葛原は逃げなかった。


「怖かったのだ」


「何が」


「お前に憎まれることが」


怜司は何も言えなかった。


葛原は続けた。


「宗一郎は、自分が許されないことを分かっていた。だが、許されないことと、息子に憎まれることは別だった」


「それは、父の都合です」


「そうだ」


葛原はすぐに認めた。


「宗一郎の都合だ。わしの都合でもあった」


「葛原さんの?」


「ああ」


葛原は封筒を見つめた。


「わしは、その手紙を読んだ。そこには、悠一の声を聞いていたこと、助けに行かなかったこと、カヨの名を隠したこと、女名控を役場へ移したことが書かれていた」


「はい」


「そして最後に、怜司に書いてほしいとあった」


怜司は、父の手紙の最後を思い出した。


誰も、簡単な形にするな。


「それを読んで、葛原さんはどう思いましたか」


葛原は小さく笑った。


笑いではなく、息が漏れただけだった。


「卑怯だと思った」


怜司は顔を上げた。


「父を?」


「ああ」


葛原は言った。


「書けなかった者が、息子に書けと言う。渡せなかった者が、死後に読ませようとする。自分の罪を、自分の言葉で終わらせず、次の世代に渡そうとする。卑怯だと思った」


怜司の胸が、少しだけ楽になった。


誰かが、それを言ってくれた。


父をただ憐れむのではなく、卑怯だと言ってくれた。


葛原は続けた。


「だが、同時に、わしは恐れた」


「何をですか」


「お前が、それを読んで潰れることを」


怜司は黙った。


「当時のお前は、父を拒んでいた。宗一郎の死にも、まだ触れられずにいた。そこへ、あの手紙を渡せばどうなるか。わしは考えた」


「それで渡さなかった」


「そうだ」


「でも、それも葛原さんの判断です」


「そうだ」


「僕に選ばせなかった」


葛原の顔が歪んだ。


「そうだ」


短い肯定だった。


だが、その一言には逃げがなかった。


「わしは、また同じことをした」


葛原は言った。


「昔、座帳に全部を書かなかった。昭和四十八年にも、人間の声を書かなかった。そして宗一郎の手紙も、怜司に渡さなかった」


「守るために?」


怜司が尋ねると、葛原は首を横に振った。


「守るという言葉を使えば、聞こえはいい」


葛原は低く言った。


「だが、本当は怖かった。渡した後に何が起きるか、自分が引き受けられなかった」


怜司は、父と葛原が似ていると思った。


二人とも、残した。


しかし、渡せなかった。


記録を残すことと、記録を渡すことは違う。


父も葛原も、その間で止まった。


「葛原さん」


「何だ」


「父は、僕に何を期待していたんでしょうか」


葛原は目を閉じた。


「許しではない」


「はい」


「救いでもない」


「はい」


「たぶん、終わらせてほしかったのだ」


「何を」


「沈黙を」


その言葉は、静かに部屋へ落ちた。


沈黙を終わらせる。


父は、自分ではできなかった。


だから息子に託した。


それは願いでもあり、重荷でもあり、逃げでもあった。


「それは、あまりに勝手です」


怜司は言った。


葛原は頷いた。


「勝手だ」


「でも、僕は今、それを書こうとしている」


「そうだ」


「それが悔しいです」


怜司の声は震えていた。


「父の勝手な願いに、結局僕が応えているみたいで」


葛原は、ゆっくり怜司を見た。


「違う」


「何が違うんですか」


「お前は、宗一郎の願いを叶えているのではない」


葛原は言った。


「お前自身が、聞いた声に応えている」


怜司は息を止めた。


葛原は続けた。


「悠一の声を聞いただろう。澪さんの歌を聞いただろう。澄江さんの言葉を聞いただろう。久我透の怒りを聞いただろう。田崎の証言を聞いただろう」


「はい」


「なら、もう宗一郎だけの話ではない」


葛原の声は弱いが、まっすぐだった。


「お前は、父に命じられて書くのではない。お前が聞いた人たちに応えるために書くのだ」


怜司は、しばらく何も言えなかった。


胸の奥にあった重さが、少し形を変えた。


父の手紙は、始まりの一つだった。


だが、今の怜司を動かしているのは、父だけではない。


悠一の声。

澪の歌。

澄江の許さない言葉。

透の複雑な怒り。

葛原の告白。

カヨの名。

リクの名。

アラムの帰る場所。


それらが、怜司に書けと言っている。


「封筒の中身を見せてください」


怜司が言うと、葛原は静かに頷いた。


封筒を開く。


中には、古い便箋が数枚と、小さなメモが入っていた。


便箋は、父の字だった。


怜司が実家で見つけた手紙と、ほぼ同じ内容。


だが、少し違う。


「これは下書きですか」


「おそらくな」


怜司は読み進めた。


途中に、実家の手紙にはなかった一文があった。


――怜司がこれを読んだ時、私を父と呼ばなくなっても仕方がない。


怜司の手が止まった。


父は、それを恐れていた。


父と呼ばれなくなること。


だから渡せなかった。


次の行。


――だが、父と呼ばれたいがために沈黙するなら、私は最後まで父ではなかったことになる。


怜司の目が滲んだ。


父は分かっていた。


分かっていて、できなかった。


理解はできる。


でも、許せない。


その両方が、同時に胸の中にあった。


メモには、短く書かれていた。


――葛原へ。

――渡すかどうか、決めてくれ。

――私は、怜司の前では臆病になる。


怜司は目を閉じた。


父さん。


あなたは、最後まで臆病だった。


でも、その臆病さも書かなければならない。


悪人としてではなく。

悲劇の父としてでもなく。

臆病だった人間として。


「記事にしてもいいですか」


怜司は尋ねた。


葛原は頷いた。


「書け」


「父の弱さも、葛原さんが渡さなかったことも書きます」


「書け」


「葛原さん自身が、また同じことをしたと」


「書け」


葛原の声が震えた。


「わしは、記録を預かる家の者だった。だが、預かることと渡すことを混同した。預かっていれば、責任を果たした気になっていた」


怜司は、その言葉を書き留めた。


預かることと、渡すことは違う。


今回の連載全体にも当てはまる言葉だった。


役場に移された女名控。

父の箱に残された録音テープ。

久我透が守っていた手記。

十和田家が継いできた歌。


どれも、預かられていた。


だが、渡されてはいなかった。


今、ようやく少しずつ渡され始めている。


取材を終える頃、葛原はひどく疲れていた。


怜司は録音を止め、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


葛原は首を横に振った。


「礼を言われることではない」


「それでも、ありがとうございました」


葛原は窓の外を見た。


「宗一郎の記事を書くなら、一つだけ頼みがある」


「何ですか」


「宗一郎を、黙った男としてだけ書くな」


怜司は静かに聞いた。


「黙ったのは事実だ。だが、あいつは最後まで、何を黙ったのかを分かっていた。分かっていながら黙った。それが罪だ」


怜司は頷いた。


「はい」


「分からずに黙ったのではない。分かっていたから、苦しんだ。だが、苦しんだから許されるわけではない」


葛原は、怜司を見た。


「そこを間違えるな」


怜司は、父の手紙を鞄にしまった。


「間違えません」


資料館へ戻る道で、雨が降り始めた。


細い雨だった。


雪を溶かす雨ではなく、土に染みる雨だった。


怜司は車を止め、しばらくハンドルに手を置いたまま動けなかった。


父を書く。


今度こそ、本当に。


資料館に戻ると、澪がいた。


「大丈夫ですか」


怜司は少し笑った。


「大丈夫ではないです」


「そう言うと思いました」


澪は温かいお茶を差し出した。


怜司は受け取り、一口飲んだ。


「葛原さんは、父の手紙を読んでいました」


「はい」


「渡さなかった理由も聞きました」


「はい」


「父は、僕に憎まれるのが怖かったそうです」


澪は黙っていた。


怜司は続けた。


「それを聞いて、情けないと思いました」


「はい」


「でも、分かるとも思いました」


「はい」


「その両方を書くのが、難しいです」


澪は静かに言った。


「三上さんは、もう両方を見ていると思います」


怜司は彼女を見た。


「見ているなら、書けますかね」


「簡単には書けないと思います」


澪は少しだけ笑った。


「でも、簡単に書けないものを、三上さんはここまで書いてきました」


その言葉に、怜司は少しだけ息を吐いた。


夜、怜司は第六回の原稿を書き始めた。


見出し案。


――渡されなかった手紙


冒頭は、父の手紙ではなく、葛原の言葉にした。


――預かることと、渡すことは違う。


そこから書き始めた。


父が手紙を書いたこと。

葛原に読ませたこと。

渡すかどうかの判断を委ねたこと。

葛原が渡さなかったこと。

その判断が、また沈黙を延ばしたこと。


父は悠一の声を聞いていた。

助けに行かなかった。

カヨとリクの名を知っていた。

女名控を役場に移した。

録音テープを残した。

手紙を書いた。


しかし、渡さなかった。


怜司は、その一文を打った。


――宗一郎は、記録を消さなかった。だが、記録を渡すこともできなかった。


打ち終えた時、胸が痛んだ。


それが父だった。


消すほど冷酷ではなく、渡すほど強くもなかった。


その弱さが、多くの沈黙を延ばした。


そして、その弱さが、怜司に手紙を残した。


記事の後半に、怜司は自分の立場を書いた。


通常の記事なら、記者自身の感情は抑えるべきだ。


だが、この連載では、怜司が宗一郎の息子であることを隠せない。


むしろ、隠せば不誠実になる。


――筆者は宗一郎の息子である。父の手紙を読むことは、取材であると同時に、家族の沈黙に触れることでもあった。父を許すために書くのではない。父を断罪して終わるためでもない。父が何を残し、何を渡せなかったのかを、資料と証言の中で確認するために書く。


何度も読み返した。


甘すぎないか。

冷たすぎないか。

自分を出しすぎていないか。

隠しすぎていないか。


正解は分からなかった。


だが、逃げてはいないと思った。


深夜、編集デスクに送った。


返信は、いつもより遅かった。


午前一時近く。


――読んだ。

――これは記事であり、告白でもある。

――危ういが、必要だ。

――法務確認と上長確認に回す。

――お前自身の立場を隠さない形でいく。

――ただし、感情に寄りすぎている段落を少し削る。


怜司は返信した。


――承知しました。


その後、椅子にもたれた。


疲れきっていた。


けれど、不思議と、父に少し近づいた気がした。


許したわけではない。


許せるとも思わない。


だが、父をただ遠くの沈黙として憎むことは、もうできなかった。


宗一郎は、黙った男だった。


同時に、黙ったことを知っていた男だった。


記録を消さなかった男だった。


渡せなかった男だった。


臆病だった父だった。


翌朝、第六回が公開された。


――雪の下の名 第六回

――渡されなかった手紙 宗一郎が残し、渡せなかったもの


怜司は画面を開く前に、少しだけ目を閉じた。


父さん。


出ます。


そう心の中で言った。


記事が公開される。


もう、父の手紙は箱の中だけにはない。


反応は、静かだった。


派手な拡散ではなかった。


だが、長いコメントが多かった。


「記録を残すことと渡すことは違う、という言葉が重い」

「宗一郎を許す記事ではなく、逃げを書いた記事だった」

「家族の話として読むと苦しい」

「父を断罪しすぎず、救いすぎないのがよかった」

「こういう沈黙は、どの家にもある気がする」


そして、澄江から伝言が届いた。


澪からのメッセージだった。


――祖母が読みました。

――「宗一郎さんは、やっと逃げ場をなくしたね」と言っていました。

――それから、「怜司さんも、よく書いた」と。


怜司は、画面を見つめたまま動けなかった。


よく書いた。


その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


その日の夕方、葛原からも電話が来た。


「読んだ」


「はい」


「わしのことも書いたな」


「はい」


「よかった」


怜司は驚いた。


「よかった、ですか」


「書かれなければ、また預かったままになる」


葛原の声は弱かった。


「これで、少し渡せた」


怜司は、窓の外を見た。


雨は止んでいた。


雲の切れ間から、薄い光が差している。


「葛原さん」


「何だ」


「次は、カヨとリクへ進みます」


電話の向こうで、葛原が息を呑む気配がした。


「そうか」


「はい」


「ようやくか」


その言葉は、澄江の言葉と似ていた。


ようやく。


入口の前から、いよいよ中へ入る。


カヨ。

リク。

アラム。


本帳の外に置かれた名。


歌の中で呼ばれ続けた名。


宗一郎の手紙を書いた今、怜司はようやくそこへ進める気がした。


電話を切った後、怜司はノートを開いた。


第七回の仮題を書く。


――帰る場所のある子


アラムのことを書く回。


そして、カヨとリクの名を出す回。


怜司はペンを置いた。


長く息を吐く。


ここからが、本当に難しい。


だが、ここまで来た。


急がずに。


止まらずに。


誰も、簡単な形にしないために。


窓の外で、春の風が少しだけ吹いた。


雪の下の名は、もうすぐ声として、紙として、そして記事として、表へ出る。

お読みいただきありがとうございます。

第29話では、宗一郎が怜司宛てに書いた手紙を、葛原に読ませていたことが明かされました。


宗一郎は記録を消さなかった。

しかし、渡すこともできなかった。

その臆病さが、沈黙をさらに延ばしていました。


次回はいよいよ、カヨ、リク、アラムへ進みます。

アラムを「村の謎」ではなく、「帰る場所のある子」として書く回になります。

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