第二十八話 急ぎすぎた記録者
録音テープに残された悠一の声。
その歌は、カヨとリク、そしてアラムの帰る場所を示していた。
だが、その声を聞いた者は、四十年前にもいた。
久我玲一。
外から来た研究者。
彼は何を見て、なぜ急いだのか。
そして、その急ぎは何を失わせたのか。
怜司は、久我透と向き合いながら、第五回の準備を進める。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
久我透は、父の手記を持って資料館に来た。
革表紙の古い手帳。
何度も開かれ、何度も閉じられてきたものだ。角は擦り切れ、表面には薄い傷が走っている。
透はそれを、三上怜司の前に置いた。
「使え」
短い言葉だった。
怜司はすぐには手帳に触れなかった。
「第五回で久我玲一さんを扱います」
「分かってる」
透は椅子に座った。
「そのために持ってきた」
資料館の一室には、怜司と透の二人だけだった。
十和田澪は、祖母のところへ行っている。悠一の録音について、まだ少しずつ話しているらしい。
机の上には、第五回の構成メモが置かれている。
仮題。
――急ぎすぎた記録者
怜司は、その紙を透の前に出した。
「この仮題です」
透は目を細めた。
「きついな」
「はい」
「でも、間違ってはいない」
怜司は頷いた。
「透さんが以前言っていました。お父さんを英雄にするな、と」
「ああ」
「今回、それを守るなら、久我さんの正しさだけではなく、危うさも書く必要があります」
透は手帳を見た。
「分かってる」
声は低かった。
だが、以前のような怒り一色ではなかった。
「昨日、音声を聞いて思った」
透は続けた。
「父は、あれを聞いたら行くだろうな、と」
怜司は黙って聞いた。
「悠一さんの声は、あれだけで十分だった。母の名。帰る道。水と石。忘れたら駄目だ。あれを聞いて、父が止まれなくなったのは分かる」
透は唇を噛んだ。
「分かるんだよ。嫌になるくらい」
「はい」
「でも、分かったからといって、正しいわけじゃない」
怜司は、透の言葉を手帳に書いた。
分かったからといって、正しいわけじゃない。
それは今回の核心になる。
「その言葉、記事で使ってもいいですか」
怜司が尋ねると、透は少し考えた。
「名前付きで?」
「確認した上で。嫌なら匿名でも」
透は首を横に振った。
「名前でいい」
怜司は顔を上げた。
透は手帳から目を離さずに言った。
「父を英雄にしないなら、俺も逃げない」
その言葉に、怜司は少し胸を突かれた。
逃げない。
それは、この連載に関わる人たちが少しずつ選んできたことだった。
澄江も。
澪も。
葛原も。
坂本も。
透も。
それぞれの形で、逃げないことを選んでいる。
怜司は久我玲一の手記を開いた。
すでに何度も読んだページ。
昭和四十八年二月二十日。
――座帳を見た。
――清之進。伊佐衛門。アラム。
――これは宗教伝承の問題ではない。村の共同体が犯した隠蔽の記録である。
――急がなければならない。
――三上氏は待てと言う。葛原氏も待てと言う。
――だが、待てば榊原氏に奪われる。
――ならば、その前に私が書く。
怜司はそこを透に示した。
「ここを使いたいです」
透はじっと見た。
「父らしい」
「そうですか」
「正しさで自分を追い込むところが」
透は乾いた笑いを漏らした。
「子どもの頃、父のことはほとんど知らない。死んだからな。でも、残された手記を読んで思った。父は、止まることが下手な人だったんだろう」
怜司は頷いた。
「止まることが下手」
「見つけたら、進む。違うと思ったら、正す。そういう人間だったんだと思う」
「研究者としては、強さでもあります」
「ああ」
透は言った。
「でも、現場では危うい」
怜司は、その言葉もメモした。
研究者としての強さが、現場では危うさになる。
久我玲一は、村を面白がった人間ではなかった。
彼は笑わなかった。
伝承の下に人間を見た。
その点で、他の外部者とは違った。
だが、だからこそ急いだ。
真実を商品にされる前に。
アラムの名が奪われる前に。
カヨの歌が見世物になる前に。
自分が記録しなければならないと考えた。
その焦りは理解できる。
しかし、理解できることと、正しいことは違う。
昼過ぎ、怜司は相馬准教授にオンラインで話を聞いた。
久我玲一のような外部研究者が地域伝承に触れる際の危うさについて、専門的なコメントが必要だった。
相馬は画面越しに言った。
「外部者だから見えるものがあります」
「はい」
「地域の中で当たり前になっている沈黙や矛盾を、外から来た人が気づくことは多い。久我氏も、おそらくそうだったのでしょう」
「一方で、外部者だから見えないものもある」
「その通りです」
相馬は頷いた。
「調査が終われば、外部者は去ることができます。しかし、地域の人はそこに残る。これは、地域研究や民俗調査で非常に重要な問題です」
怜司はメモを取る。
外部者は去ることができる。
地域の人は残る。
父が久我に言った言葉と重なる。
「久我さんは、榊原に利用されることを恐れて急いだようです」
「それ自体は理解できます」
相馬は言った。
「調査対象が商業的に消費される危険を感じた時、研究者が“自分が正しい形で記録しなければ”と思うことはあります。ただ、その思いが強すぎると、当事者の合意形成を飛ばしてしまう」
「合意形成」
「はい。誰に確認するのか。誰が傷つくのか。公開の順番はどうするのか。地域の人がどう受け止めるのか。そこを省くと、正しい記録が暴力的に働くことがあります」
怜司は静かに頷いた。
正しい記録が暴力的に働く。
それは、久我だけではない。
新聞記事も同じだ。
「記事にする場合、久我さんをどう書くべきだと思いますか」
怜司が尋ねると、相馬は少し考えた。
「英雄にも、加害者にも、被害者だけにもせず、調査者としての功績と限界を分けて書くべきだと思います」
「功績と限界」
「はい。彼が見抜いたものは重要です。しかし、彼が急いだことによって生じた影響も書く必要があります。研究者の正しさは、手続きと切り離せません」
怜司は、その言葉を強くメモした。
正しさは、手続きと切り離せない。
電話を切った後、第五回の骨格が少し見えた。
久我玲一は何を見抜いたか。
伝承の下に、人間がいること。
神にされた名の下に、消された名があること。
アラムが村の謎ではなく、帰る場所を持つ子どもだったこと。
歌が、公式記録の外で名を守っていたこと。
久我玲一はどこで誤ったか。
榊原に奪われる前に自分が書くと考えたこと。
宗一郎や葛原の「待て」の意味を十分に聞かなかったこと。
十和田悠一を巻き込んだこと。
地域に残る人々の手順を作らなかったこと。
そして、それをどう書くか。
夕方、怜司は透に草稿の一部を読んでもらった。
記事の中心部分だった。
――久我玲一氏は、伝承を笑わなかった。村の語りを奇異なものとして消費するのではなく、その下に実在した人物の名と痛みを見ようとした。その視点は、現在進む検証においても重要な意味を持つ。
――一方で、手記には「急がなければならない」という言葉が繰り返される。榊原道隆氏による商業的利用を恐れた焦りは理解できるが、その焦りは、地域の関係者と合意を作る時間を奪った。正しさは、手続きを伴わなければ、別の傷を生む。
透は黙って読んだ。
何度も読み返した。
やがて、紙を置いた。
「きつい」
怜司は頷いた。
「はい」
「でも、これでいい」
透は言った。
「父が見たものを消していない。間違ったことも消していない」
「ありがとうございます」
「ただ、一つ足してほしい」
「何ですか」
透は少し目を伏せた。
「父は、悠一さんを利用しようとしたんじゃないと思う」
怜司は静かに頷いた。
「僕もそう思います」
「でも、結果として巻き込んだ」
「はい」
「その違いを書いてほしい」
怜司は手帳に書いた。
利用しようとしたのではない。
結果として巻き込んだ。
透は続けた。
「父を悪く書かれるのはいい。いや、よくはないけど、必要ならいい。でも、悠一さんを道具にしたみたいに書かれるのは違う気がする」
「分かりました」
「父は急いだ。急いで、人を見落とした。でも、最初から人を道具にしたわけじゃない」
怜司は、その言葉を深く受け止めた。
人を見落とした。
それは、久我玲一の失敗を表すのに近い言葉だった。
利用した、では強すぎる。
無関係、では弱すぎる。
見落とした。
正しいものを見ようとして、近くにいる人を見落とした。
怜司は草稿を修正した。
――久我氏が悠一さんを意図的に利用したとみるべき資料は、現時点では確認されていない。むしろ手記からは、歌と記憶を担う人物として悠一さんの言葉を重く受け止めていたことがうかがえる。だが、その重さを理解していたからこそ、久我氏は悠一さんを危険な場所へ近づける前に、立ち止まる必要があった。人を道具にしたのではなく、人を見落とした。その違いは小さくないが、結果の重さを消すものでもない。
透はその修正文を読み、ゆっくり頷いた。
「これならいい」
その言葉で、怜司は少し息ができた。
夜、編集デスクに第五回の原稿を送った。
しばらくして電話が来た。
「読んだ」
「どうでしたか」
「重い」
いつもの短い感想だった。
「でも、必要だ。久我玲一の扱いはこれでいける」
「ありがとうございます」
「ただ、見出しは少し調整する」
「仮題は“急ぎすぎた記録者”です」
「強いな」
「強いです」
「本文は丁寧だから、見出しもそれでいけるかもしれん。ただ、副題で補う」
翌朝公開の見出し案が送られてきた。
――雪の下の名 第五回
――急ぎすぎた記録者 久我玲一が見たもの、見落としたもの
怜司は画面を見た。
見たもの、見落としたもの。
これならいい。
透にも確認を送った。
返信は短かった。
――これで出してください。
翌朝、第五回が公開された。
反応は、これまでと少し違った。
「久我さんを英雄にしないのがいい」
「外部研究者の危うさが分かる」
「でも、久我さんがいなければここまで分からなかったのも事実」
「正しさは手続きと切り離せない、が刺さった」
「研究や報道にも同じことが言える」
そして、透からメッセージが来た。
――母に読ませました。
――泣いていました。
――でも、父が初めてちゃんと記事になったと言っていました。
怜司は、その文章を長く見つめた。
久我玲一が、ちゃんと記事になった。
それは、称賛だけの記事ではない。
失敗も書いた。
急ぎも書いた。
見落としも書いた。
それでも、ちゃんと記事になったと言ってもらえた。
怜司は、少しだけ机に額を近づけた。
疲れが出た。
だが、止まるわけにはいかない。
午後、葛原重蔵から連絡があった。
珍しいことだった。
「三上さん」
電話の向こうの声は、以前より少し弱かった。
「記事を読んだ」
「ありがとうございます」
「久我のことを書いたな」
「はい」
「次は、宗一郎か」
怜司は息を止めた。
まだ、そこまで決めていなかった。
いや、本当は分かっていた。
久我を書いたなら、次は宗一郎だ。
父を書く番だ。
「そのつもりです」
怜司は言った。
葛原は、長く黙った。
やがて言った。
「わしも話す」
「何をですか」
「宗一郎が、なぜ最後までお前に渡せなかったのか」
怜司の手が止まった。
「父の手紙のことを知っているんですか」
「知っている」
葛原の声は重かった。
「わしは、あの手紙を読んだ」
怜司は言葉を失った。
父の未送付の手紙。
怜司宛ての手紙。
それを、葛原が読んでいた。
「なぜ」
怜司の声は、自分でも驚くほど低かった。
葛原は逃げなかった。
「宗一郎に頼まれた。これを怜司に渡すべきか、読んで判断してくれ、と」
怜司は目を閉じた。
父は、自分で決められなかった。
手紙を書き、葛原に読ませ、渡すかどうか判断を委ねた。
また、誰かに背負わせた。
「葛原さんは、渡さなかった」
怜司は言った。
「そうだ」
葛原は答えた。
「わしも、逃げた」
電話の向こうで、老人の息が震えた。
「次は、わしの番だ。宗一郎の話をするなら、わしが何をしたかも書け」
怜司は、しばらく何も言えなかった。
久我玲一を書いた。
次は宗一郎。
だが、父を書くということは、父だけを書くことではない。
葛原の逃げも書く。
手紙が渡されなかった理由も書く。
怜司自身が、それを受け取れなかった時間も書く。
「明日、伺います」
怜司は言った。
「お願いします」
葛原は短く答えた。
電話が切れる。
怜司は、窓の外を見た。
曇り空だった。
雪はない。
しかし、胸の中に重い冷たさが広がっていた。
父を書く。
ずっと避けていたことだった。
記者としても、息子としても。
久我玲一の記事を書いたことで、道はそこへ続いてしまった。
いや、最初からそこへ向かっていたのだ。
父の沈黙。
父の手紙。
父が聞いていた声。
父が渡せなかったもの。
怜司はノートを開き、第六回の仮題を書いた。
――渡されなかった手紙
その文字を見た瞬間、胸が痛んだ。
だが、もう逃げられない。
澄江が言った。
逃げるのは許さない。
父の話を書くなら、父を悪人だけにして楽になることも、苦しんだ人として救うこともできない。
父が何をしなかったのか。
何を残したのか。
何を他人に渡したのか。
何を息子に渡せなかったのか。
その全部に向き合う。
怜司は、父の手紙のコピーを机に置いた。
誰も、簡単な形にするな。
その言葉が、今日は父自身へ向いていた。
父さん。
怜司は心の中で呼んだ。
次は、あなたです。
外では、雪解け水ではなく、春の雨が降り始めていた。
静かに。
逃げ場をなくすように。
お読みいただきありがとうございます。
第28話では、久我玲一を「急ぎすぎた記録者」として扱いました。
久我は伝承の下に人間を見た重要な人物でした。
しかし、正しさに急ぎ、手続きを飛ばし、人を見落とした。
透もまた、父を英雄にも被害者だけにもせず受け止め始めます。
次回は、宗一郎の番です。
怜司宛ての未送付の手紙を、なぜ葛原が読み、なぜ渡されなかったのか。
父の沈黙の核心へ進みます。




