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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第二十七話 声を記事にする前に

悠一の録音テープには、確かに歌が残っていた。

カヨ。

リク。

アラム。

帰る道。

忘れてはならない声。


だが、声を聞いたことと、それを記事にすることは同じではない。

怜司は、連載第四回を前に、何を書くべきか、何を書かないべきかを問われる。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

翌朝、三上怜司は原稿を書けなかった。


ノートパソコンは開いている。


画面には、第四回の仮題だけが置かれていた。


――戻ってきた声


悪くない。


だが、強すぎる。


音源の存在を知った読者は、必ず中身を知りたがる。


誰が歌ったのか。

何を歌ったのか。

カヨとは誰か。

リクとは誰か。

アラムは何者だったのか。


そして、その好奇心は正当な関心にも見える。


知られなかった声を知りたい。

隠された名を知りたい。

過去に何があったのか知りたい。


それ自体は悪ではない。


だが、知りたいという気持ちは、時々、人を踏む。


怜司は昨日の悠一の声を思い出した。


――でも、忘れたら駄目です。


あの声を見出しにした瞬間、何かが変わる気がした。


悠一が守ろうとしたものが、また別の形で使われてしまう。


「三上さん」


扉の外から声がした。


十和田澪だった。


「どうぞ」


澪が入ってきた。


昨日よりも顔色は落ち着いている。だが、目元にはまだ泣いた跡が残っていた。


「眠れましたか」


怜司が聞くと、澪は少しだけ笑った。


「少しだけ」


「澄江さんは?」


「疲れていました。でも、昨日は久しぶりに、悠一の名前を普通に呼んでいました」


「普通に?」


「はい」


澪は椅子に座った。


「いつもは、悠一の話になると、少し声が変わるんです。痛いところに触るみたいに。でも昨日は、“悠一は歌っていたんだね”と普通に言いました」


怜司は黙って聞いた。


普通に名前を呼ぶ。


それは、小さなことのようで、大きなことだった。


死者の名前は、時に重くなりすぎる。


口にするだけで家の空気が変わる。

会話が止まる。

誰かが泣く。

誰かが席を立つ。


だが、名前は本来、呼ぶためにある。


悠一という名も、ようやく少しだけ家に戻ったのかもしれない。


「第四回、書けそうですか」


澪が尋ねた。


怜司は画面を見た。


「書けません」


「正直ですね」


「かなり」


澪は少し笑った。


怜司も、わずかに笑った。


「音源確認の事実は書く必要があります。でも、歌詞を出すべきではないと思っています」


「私もそう思います」


澪はすぐに言った。


「祖母も、まだ出さないでほしいと言っています」


「はい」


「でも、悠一の声があったことは、出してもいいと言っていました」


怜司は顔を上げた。


「本当ですか」


「はい」


澪は頷いた。


「ただし、悠一が“証拠”として扱われるのは嫌だと」


怜司は手帳を開いた。


「証拠として扱わない」


「祖母は言いました。悠一は、誰かを裁くために歌ったのではない。忘れないために歌ったんだ、と」


怜司は、その言葉をゆっくり書いた。


誰かを裁くためではなく、忘れないため。


第四回の中心は、それかもしれない。


音源が見つかった。

歌が確認された。

だが、それは犯人探しの道具ではなく、忘れられた関係を戻すための声である。


怜司は、仮題を消した。


そして、新しい仮題を書いた。


――忘れないための声


澪が画面を見た。


「その方がいいです」


「まだ仮です」


「でも、近いと思います」


午前十時、編集部とのオンライン会議が始まった。


画面には編集デスク、社会部の上長、デジタル担当、法務担当が映った。


第四回の扱いが議題だった。


編集デスクが最初に言った。


「昨日の報告を受けて、第四回は録音テープの確認を扱う方向でいいな」


怜司は頷いた。


「はい。ただし、歌詞の引用はしません。音声公開もしません」


デジタル担当が、すぐに反応した。


「音声公開なしですか」


「なしです」


「一部だけでも?」


「なしです」


怜司ははっきり答えた。


「理由は?」


「十和田家の意向、資料保全、そして音声の性質です。これはニュース素材である前に、家族と地域の記憶です。公開すれば、切り抜きや無断転載が起こる可能性が高い」


デジタル担当は腕を組んだ。


「でも、音源があると書けば、読者は聞きたがります」


「だから、聞かせない理由を書く必要があります」


編集デスクが頷いた。


「俺もそう思う」


上長が口を開いた。


「歌詞は?」


「出しません」


「固有名は?」


怜司は少し息を吸った。


「カヨ、リクの名はまだ出しません」


デジタル担当が眉を上げた。


「まだ?」


「はい」


怜司は答えた。


「女名控の専門家確認が終わっていません。音源も一次確認段階です。複数資料でつながりは見えていますが、公表するなら、関係者への説明と専門家コメントをそろえてからです」


法務担当が頷いた。


「妥当です。特に個人名の扱いは慎重にしてください。歴史上の人物とはいえ、地域の家系や現存する関係者に影響します」


上長は画面越しに怜司を見た。


「では、第四回では何を書く?」


怜司は用意していたメモを見た。


「古い録音テープに歌唱部分が確認されたこと。音源は専門家のもとでデジタル化され、関係者立ち会いで試聴されたこと。内容の詳細や音声公開は行わないこと。その理由として、音声資料は事実確認の材料であると同時に、家族や地域の記憶であり、消費を避ける必要があることを書きます」


「地味だな」


デジタル担当が言った。


怜司は頷いた。


「地味です。でも、ここで派手にすると、これまでの連載の姿勢が崩れます」


編集デスクが言った。


「見出しは“忘れないための声”でどうだ」


怜司は少し驚いた。


「今、僕もそれを仮題にしていました」


編集デスクは小さく笑った。


「なら、それで出せるように書け」


会議は、思ったより短く終わった。


音源公開なし。

歌詞引用なし。

固有名は保留。

音源確認の事実と、公開しない理由を記事にする。


方針は決まった。


だが、書けるかどうかは別だった。


午後、怜司は相馬准教授に電話した。


第四回で、音声資料の扱いについてコメントを取りたかった。


相馬は快く応じた。


「音源の中身を出さずに、音声資料の扱いを書くのですね」


「はい」


「良い判断だと思います」


相馬の声は落ち着いていた。


「記事で使える範囲で伺います。古い民俗音声資料を扱う際、何が重要ですか」


相馬は少し考えてから答えた。


「まず、音声は文字よりも人を近く感じさせます。声色、息、間、迷い。そうしたものが入るため、聞く人に強く作用します」


怜司はメモを取った。


「だから、公開には慎重であるべき?」


「はい。特に故人の声の場合、本人が公開を想定していたとは限りません。家族や地域の受け止めもあります。資料としての価値と、聞かれることによる影響を分けて考える必要があります」


「音声を公開しないことは、隠すことになりますか」


相馬は少し間を置いた。


「必ずしもそうではありません。公開しない理由を明示し、保全と検証を進めるなら、それは隠蔽ではなく配慮です。ただし、永久に閉じるなら別の問題になります」


その言葉は、そのまま今の怜司たちの状況だった。


公開しない。


だが、閉じない。


相馬は続けた。


「大事なのは、誰が決めるかです。記者だけ、研究者だけ、行政だけが決めるのではなく、関係者を含めて判断すること。特に歌のような資料は、歌う人、継ぐ人、聞く人の関係の中にあります」


怜司は深く頷いた。


「ありがとうございます。記事で使わせていただく場合、確認をお願いします」


「もちろんです」


電話を切ると、怜司は原稿を書き始めた。


冒頭は、昨日の研究室の描写にした。


ただし、歌詞は書かない。


声の内容も具体的には書かない。


書くのは、聞く前の緊張と、聞いた後の沈黙。


――青森市内の大学研究室で、古いカセットテープからデジタル化された音声が再生された。立ち会った関係者は、再生後しばらく言葉を発しなかった。そこにあったのは、新たな“証拠”というより、四十年以上前に失われたはずの声だった。


怜司はそこで手を止めた。


証拠、という言葉を引用符で囲んだ。


少し強いかもしれない。


だが、必要だった。


悠一の声は証拠でもある。


しかし、証拠だけではない。


本文では、これまでの流れを整理する。


父の遺品から見つかったテープ。

専門家による保全。

一次デジタル化。

関係者立ち会いでの試聴。

歌唱部分の確認。

内容の詳細は非公開。


そして、その理由。


――音声には、文字資料とは異なる強さがある。声は、故人を近くへ呼び戻す。その近さは、記録として重要である一方、家族や地域の痛みを直接揺らすものでもある。


怜司は、相馬のコメントを挿入した。


音声資料は、資料であると同時に、関係の中にある。

公開しないことがただちに隠蔽になるわけではない。

ただし、保全と検証を進め、判断の過程を明らかにすることが必要。


記事は、派手ではなかった。


だが、怜司にはこれが第四回だと思えた。


ここで、何を書かないかを書く。


それが連載の信用になる。


夕方、原稿を編集デスクへ送った。


返信は一時間後。


――いい。

――ただ、やや守りに入りすぎ。

――「なぜ声を聞く必要があったのか」をもう少し入れろ。

――読者に、非公開の理由だけでなく、試聴した意味を伝える。

――悠一の名前は出すか?


怜司は画面を見つめた。


悠一の名前。


ここが問題だった。


十和田悠一の録音である可能性が高い。


しかし、断定はできない。


十和田家の同意はある。

澄江も、悠一の声があったことは出していいと言った。


だが、記事で名を出せば、悠一はまた検索対象になる。


怜司は澪に相談した。


資料館の一室で、二人は向かい合った。


「第四回で、悠一さんの名前を出すかどうかです」


澪は、すぐには答えなかった。


「祖母に確認した方がいいです」


「もちろんです。ただ、澪さんの考えも聞きたい」


澪は少し目を伏せた。


「私は、出してもいいと思います」


怜司は意外だった。


「理由は?」


「悠一は、もう事故で死んだ青年だけではないからです」


澪の声は静かだった。


「歌っていた人として戻ってきた。忘れたら駄目だと言っていた人として戻ってきた。その名前を隠し続けるのは、少し違う気がします」


怜司は黙って聞いた。


「でも、歌詞は出したくありません。音声も出したくありません。名前だけ、丁寧に出してほしい」


「分かりました」


「ただし、“十和田悠一さんとみられる声”という形で」


怜司は頷いた。


「断定しません」


その後、澄江にも電話で確認した。


澄江はしばらく黙っていた。


そして言った。


「悠一の名は、出しなさい」


怜司は息を止めた。


「よろしいんですか」


「事故で死んだ者としてではなく、歌を残した者として書くなら」


「はい」


「でも、声は出さないで」


「出しません」


「歌詞も、まだ」


「はい」


澄江は電話の向こうで小さく息を吐いた。


「悠一は、忘れたら駄目だと言ったのだね」


「はい」


「なら、名前まで伏せるのは違う」


その言葉で、決まった。


怜司は原稿に戻り、修正した。


――音声には、十和田悠一さんとみられる若い男性の歌唱が含まれていた。悠一さんは四十年前、沢で久我玲一さんとともに遭難し、後に死亡したとされる。これまで事故の被害者として語られることが多かったが、今回確認された音声は、悠一さんが地域に伝わる古い歌の担い手でもあった可能性を示す。


怜司は、その文を何度も読み返した。


事故の被害者としてではなく、歌の担い手として。


これなら、悠一の名を戻せる。


少なくとも、戻すための入口になる。


夜、第四回の最終稿が整った。


見出しは、こうなった。


――雪の下の名 第四回

――忘れないための声 録音テープに残された歌


怜司は少し迷った。


「録音テープに残された歌」という副題は、強い。


だが、嘘ではない。


本文で、音声や歌詞を公開しない理由を明確に書いている。


編集デスクも、「これ以上弱めると何の記事か分からなくなる」と言った。


怜司は了承した。


公開は翌朝。


その夜、怜司は資料館に残った。


澪は十和田家へ戻り、透は自宅へ戻っている。


一人になると、昨日の悠一の声がまた戻ってきた。


――これ、人前では歌えないです。

――でも、忘れたら駄目です。


人前では歌えない。


でも、忘れたら駄目。


その矛盾を、記事は抱えなければならない。


すべてを出すことではない。

すべてを隠すことでもない。


忘れないために、今は出さない。


それを、読者に理解してもらえるだろうか。


分からない。


だが、伝えるしかない。


スマートフォンが震えた。


透からのメッセージだった。


――明日の記事で、父の名前は出るのか。


怜司は返信した。


――久我玲一さんの名前は、事故当時の関係者として出ます。ただ、音源の詳細とは結びつけすぎない形にします。


少しして、返信が来た。


――分かった。

――父が急いだ理由が、少し分かった。

――でも、急いだことは間違いだった。

――そこは書いてくれ。


怜司は画面を見つめた。


透の言葉は、以前よりずっと複雑になっていた。


父を英雄にするな。

宗一郎を悪人だけにするな。

そして今、急いだ理由は分かったが、急いだことは間違いだったと書いてくれ。


その複雑さこそ、連載が進んできた証拠だった。


怜司は返信した。


――必ず書きます。ただし、今回ではなく、久我玲一さんを扱う回で丁寧に書きます。


透からは短く返った。


――頼む。


怜司はスマートフォンを置いた。


次は、久我玲一の回も必要になる。


そして、宗一郎の回も。


カヨとリクの名を出す前に、周囲の人間たちの失敗をきちんと書かなければならない。


そうしないと、名前だけが浮いてしまう。


朝が来た。


第四回は予定通り公開された。


怜司は資料館で画面を開いた。


――雪の下の名 第四回

――忘れないための声 録音テープに残された歌


本文を確認する。


編集で大きく変わったところはない。


歌詞は出ていない。

音声も出ていない。

悠一の名は、丁寧に出ている。


公開から一時間後、反応が増え始めた。


「音声を出さないのは残念」

「でも理由は分かる」

「故人の声を勝手に公開しない姿勢は大事」

「十和田悠一さん、事故の人じゃなくて歌の人だったんだ」

「こういう書き方なら待てる」


もちろん、不満もあった。


「肝心なところを隠している」

「新聞社が情報を握っているだけでは」

「音声があるなら出すべき」

「検証できない」


怜司は、それらも記録した。


批判には一理ある。


音声を出さないなら、読者は確認できない。


だから、いずれ第三者検証の形を作る必要がある。


相馬准教授。

十和田家。

役場。

新聞社。

必要なら、外部研究者。


公開しないまま、信用だけを求めることはできない。


昼前、編集デスクから電話が来た。


「反応、見てるか」


「はい」


「悪くない。むしろ、思ったより理解されている」


「不満もあります」


「当然だ」


編集デスクは言った。


「でも、今回の読者はちゃんと読んでいる。見出しだけで騒ぐ層より、本文を読んで考える層が増えている」


怜司は少しだけ息を吐いた。


「それは、よかったです」


「で、次だ」


「はい」


「第五回でどう進める」


怜司はすぐには答えなかった。


第四回で音源確認を出した。


次にカヨとリクへ進みたい気持ちはある。


だが、まだ早い。


「第五回は、久我玲一さんを扱いたいです」


怜司は言った。


「なぜ」


「悠一さんの声を聞いて、久我さんがなぜ急いだのかが見えてきました。でも、そこで急いだことの危うさも書く必要があります。カヨとリクの名を出す前に、外から来た研究者が何を見て、どこで間違えたのかを整理したい」


編集デスクは少し黙った。


「いい判断だと思う」


「ありがとうございます」


「透さんには?」


「確認します」


「慎重にやれ」


「はい」


電話を切ると、怜司は窓の外を見た。


空は曇っていたが、雪ではなかった。


地面には、黒い土が見え始めている。


雪の下の名は、少しずつ姿を現している。


だが、名を出す前に、周りの人間を描かなければならない。


久我玲一。


正しかった人。

急ぎすぎた人。

悠一の声を聞いた人。

沢へ向かった人。

戻れなかった人。


怜司はノートを開き、第五回の仮題を書いた。


――急ぎすぎた記録者


少し強い。


だが、逃げてはいない。


その下に、透の言葉を書いた。


――父が急いだ理由は分かった。でも、急いだことは間違いだった。


怜司は、しばらくその一文を見つめた。


これを、次に書く。


誰かを英雄にしないために。

誰かを悪人だけにしないために。

そして、カヨとリクの名を、簡単な形にしないために。


悠一の声は戻った。


だが、その声に急かされるのではなく、その声を守る順番で進む。


怜司はペンを置いた。


外では、雪解けの水が細く流れていた。


それは沢の音ほど遠くなく、録音テープのノイズほど荒くもなかった。


ただ、静かに流れていた。


忘れないために。


急がずに。


けれど、止まらずに。

お読みいただきありがとうございます。

第27話では、悠一の録音テープをどう記事にするかが描かれました。


音声や歌詞は公開せず、十和田悠一の名を「事故の被害者」ではなく「歌を残した人」として戻す。

怜司は、書くことと書かないことの両方で、声を守ろうとします。


次回は、久我玲一を扱う回へ進みます。

悠一の声を聞いた研究者が、なぜ急ぎ、どこで判断を誤ったのかが焦点になります。

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