第二十五話 半分だけ正しい男
本帳の外へ置かれた記録は、役場の保管庫へ移された。
悠一の録音テープには、歌唱らしき音声が残っていることも分かった。
そして、榊原道隆が取材に応じる。
四十年前から真実を商品にしようとした男。
旧集会所を燃やそうとした男。
外控文書を脅した男。
彼は何を知り、何を歪め、何を守ろうとしているのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
八戸支局の会議室は、必要以上に明るかった。
白い壁。
長机。
黒い椅子。
天井の蛍光灯。
机の中央には、録音機が二台置かれている。
一台は新聞社のもの。
もう一台は三上怜司のもの。
窓の外には、雨上がりの道路が見えた。雪はほとんど溶け、路肩に灰色の塊だけが残っている。
怜司は、録音機の電池残量を確認した。
何度目か分からない。
向かいの席には、編集デスクが座っている。腕を組み、いつもより表情が硬い。
十和田澪は、怜司の左側にいた。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねている。顔色は少し悪いが、目は落ち着いていた。
久我透は、少し離れた椅子に座っていた。
同席するかどうか、最後まで迷っていた。
結局、来た。
ただし、事前に決めた条件がある。
榊原が故人を侮辱した場合。
澪や透を直接挑発した場合。
公開できない個人情報を出した場合。
取材目的から逸脱した場合。
怜司または編集デスクの判断で中断する。
透は、それに同意した。
不満そうではあったが、同意した。
「三上」
編集デスクが低い声で言った。
「確認するぞ。今日は追及ではなく、事実確認だ」
「はい」
「相手が挑発しても乗るな」
「分かっています」
「分かっていても乗るのが人間だ」
怜司は苦く笑った。
「止めてください」
「そのためにいる」
澪が小さく息を吐いた。
怜司は彼女を見る。
「無理なら、途中で出てください」
「はい」
「発言しなくても大丈夫です」
「それは、たぶん無理です」
澪は静かに言った。
怜司は何も言わなかった。
その時、会議室の扉が開いた。
榊原道隆が入ってきた。
思っていたより小柄だった。
年齢は七十を超えているはずだが、背筋はまだ伸びている。髪は白く、頬はこけていた。目だけが妙に生々しい。
老人というより、長い時間燃え残った炭のようだった。
榊原は部屋の中を見回し、薄く笑った。
「ずいぶん大人数だな」
編集デスクが答えた。
「条件は事前にお伝えした通りです。録音します。記事化の際には確認を取ります」
榊原は椅子に座った。
「確認など、どうせ形だけだろう」
怜司は録音機を見た。
「録音を始めます」
赤いランプが点いた。
会議室の空気が、一段重くなる。
怜司は最初に確認した。
「榊原道隆さん。本日は、連載『雪の下の名』に関する取材としてお話を伺います。録音に同意しますか」
「同意する」
「記事化する場合、発言内容の確認を行います」
「好きにしろ」
「好きにはしません」
榊原の目が、少しだけ動いた。
「宗一郎の息子だな」
「今日は父の話も伺います」
怜司は質問票を開いた。
「まず、四十年前のことです。久我玲一さんと接触していましたね」
榊原は椅子にもたれた。
「していた」
「どのような目的で?」
「面白い話を持っている男だと思った」
透の手が動いた。
怜司は視線だけでそれを確認し、続けた。
「面白い、とは」
「キリストの墓など、古い看板だ。だが、その下に本物の死者がいるとなれば話は変わる。人は、嘘よりも暴かれた嘘に金を払う」
澪の表情が硬くなった。
編集デスクが、机の下でペンを動かした。
怜司は声を抑えた。
「それを観光資源にしようとした?」
「そうだ」
榊原はあっさり答えた。
「悪いか」
「悪いと思います」
怜司は即答した。
榊原は笑った。
「正直だな」
「故人の尊厳や関係者の生活を考えず、真実を商品にしようとしたなら、悪いです」
「では、新聞は何だ」
榊原の目が細くなる。
「お前たちは真実を紙面にして売る。私が土産物にしようとしたのと、何が違う」
部屋が静かになった。
怜司は、その問いを予想していた。
それでも、刺さった。
「違いは、目的と手順です」
怜司は答えた。
「私たちも、完全に無関係ではいられません。記事は読まれ、新聞社の利益にもつながる。でも、少なくとも確認、反論機会、公開範囲、影響への配慮を行います」
榊原は鼻で笑った。
「手順があれば、死者を売ってもよいのか」
「よくありません」
怜司は言った。
「だから、常に危ういです。その危うさを自覚しないなら、記事も商品と同じになります」
榊原の笑みが少し消えた。
「宗一郎より、よく喋る」
怜司は質問を戻した。
「三上宗一郎とは、どのような関係でしたか」
「邪魔な男だった」
「なぜ」
「真実を出す度胸もないくせに、利用されるのは嫌がった」
榊原は淡々と言った。
「久我の方がまだましだった。あの男は急いだが、少なくとも燃えていた」
透が顔を上げた。
「父を語るな」
低い声だった。
会議室の空気が張り詰める。
榊原は透を見た。
「久我玲一の息子か」
編集デスクがすぐに口を挟んだ。
「個人への挑発はやめてください」
榊原は少し肩をすくめた。
「失礼」
謝罪の形だけだった。
透は唇を噛み、黙った。
怜司は、質問を続けた。
「久我玲一さんは、何を掴んでいたんですか」
「名だ」
榊原は即答した。
「アラム。カヨ。リク。清之進。伊佐衛門。墓の下に神ではなく人間の名があった」
「あなたは、女名控を知っていた?」
榊原の口元が動いた。
「ようやくその名を口にしたな」
怜司は黙って見返した。
榊原は続けた。
「知っていた。正確には、存在だけだ。中身を全部見たわけではない」
「誰から聞いたんですか」
「十和田修二」
澪の肩が揺れた。
透も反応する。
怜司はペンを握った。
「修二さんが?」
「そうだ。あの男は、怖がっていた。久我が沢へ行けば、女名控の話まで掘られる。カヨの名が出る。リクの名も出る。そうなれば、十和田家も、三上家も、村も、清之進一人に罪を押しつけられなくなる」
「清之進一人に罪を押しつけられなくなる、とはどういう意味ですか」
榊原は怜司をじっと見た。
「お前の父親の手紙にも似たことがあっただろう」
怜司の指が止まった。
「なぜ、それを」
「宗一郎は、私にも言った」
榊原は言った。
「清之進を怪物にすれば楽だ、と。だが、カヨを出せば、話は変わる。村の中にアラムを助けようとした者がいたことになる。同時に、その助けを村が利用し、隠し、最後にはなかったことにしたことになる」
怜司は黙った。
榊原は続けた。
「悪人一人の話にしておけば、村は祈れる。だが、助けようとした女の名まで隠したとなれば、村は祈れない。問われる」
澪が静かに言った。
「だから、燃やそうとしたんですか」
榊原は彼女を見た。
「どれのことだ」
「旧集会所です。座帳を燃やそうとした」
榊原はしばらく澪を見ていた。
「十和田の娘か」
「十和田澪です」
「歌うのか」
「歌います」
澪の声は震えていなかった。
榊原は笑わなかった。
「なら、分かるだろう。歌は燃やせない。だから紙を燃やす」
怜司は身を乗り出した。
「答えになっていません」
「答えている」
榊原の声が低くなる。
「紙が残ると、人は紙を信じる。歌を聞かなくなる。女たちの声は、また文字の下に潰される」
澪の目が揺れた。
怜司も、一瞬言葉を失った。
半分だけ正しい。
そう思った。
紙が残ることで、歌が軽んじられることはある。
記録が強すぎると、声が消えることもある。
だが、だから燃やしていいわけがない。
「それは、燃やす理由にはなりません」
怜司は言った。
「歌を守るために紙を燃やす。それは、声を守るために名を消すことです」
榊原は怜司を見た。
「宗一郎も、最後はそう言った」
「父が?」
「ああ。昔は違った。あいつは紙を怖がった。久我のように外へ出されることを恐れた。私のように売られることを恐れた。だから黙った」
榊原は指先で机を叩いた。
「だが、晩年の宗一郎は変わった。燃やすな、と言った。声も紙も、両方残せ、と」
怜司の胸が痛んだ。
父は、そこまで来ていた。
だが、怜司には渡さなかった。
「それなのに、あなたは燃やそうとした」
「遅すぎた」
榊原の声には、初めて苛立ちが滲んだ。
「宗一郎も、葛原も、十和田も、久我の息子も、お前も。みんな遅い」
澪が静かに言った。
「遅くても、燃やすよりいいです」
榊原の目が彼女に向く。
澪は怯まなかった。
「歌は燃やせないと言いましたね。確かにそうです。でも、歌う人は傷つきます。紙を燃やされても傷つきます。あなたは、歌を守るふりをして、歌う人のことを見ていない」
会議室が静まり返った。
榊原の顔から、笑みが完全に消えた。
怜司は、澪の横顔を見た。
彼女は震えていた。
だが、引いていなかった。
榊原は低く言った。
「歌う人を見ていない、か」
「はい」
「十和田澄江にも、同じことを言われた」
澪の目がわずかに開く。
「祖母に?」
「四十年前だ」
榊原は、視線を少し落とした。
「私は、かよ節を祭りに入れようとした。古い歌として売れると思った。澄江は言った。歌は人前に出すためにあるのではない。帰れ、と」
澪の手が膝の上で強く握られた。
怜司は質問を挟んだ。
「かよ節を知っていたんですね」
「知っていた。断片だけだがな」
「誰から?」
「修二だ」
また、十和田修二。
彼は、どれだけの鍵を握っていたのか。
「修二さんは、なぜあなたに話したんですか」
榊原は少し笑った。
「金になると思ったからだ」
澪の顔が青くなる。
「修二さんが?」
「勘違いするな。最初はそうだった、というだけだ。修二は、歌も伝承も金になるなら使えばいいと思っていた。私と同じだ」
榊原は自分でそう言った。
「だが、久我が来て、話が変わった」
「何が変わったんですか」
「久我は、歌を商品ではなく記録として見た。修二は、それが怖くなった」
「なぜ」
「商品なら笑って済む。観光なら、村の外へ向けた作り話で済む。だが記録にされれば、内側の罪になる」
怜司はペンを走らせた。
商品なら笑って済む。
記録にされれば罪になる。
その言葉は、醜いが核心に近かった。
「修二さんは、久我玲一さんを突き落としたんですか」
会議室の空気が変わった。
透の体が固まる。
榊原は、しばらく黙っていた。
やがて言った。
「私は見ていない」
透が立ち上がりかけた。
編集デスクが低く言う。
「久我さん」
透は座り直した。
榊原は続けた。
「見ていない。だが、聞いた」
「誰から」
「修二本人だ」
怜司は息を止めた。
「何と?」
「押すつもりはなかった、と」
透の拳が震える。
榊原は、透を見ずに続けた。
「久我が板を持ち出そうとした。修二は止めた。掴み合いになった。足場が崩れた。修二はそう言った」
「信じますか」
怜司が聞くと、榊原は即答した。
「半分は」
「半分?」
「押すつもりがなかったのは嘘かもしれない。だが、殺すつもりではなかったのは本当かもしれない」
透が低く言った。
「結果は同じだ」
「そうだ」
榊原は初めて、透に向かって頷いた。
「結果は同じだ。久我玲一は落ちた。十和田悠一は叫んだ。宗一郎は降りなかった」
怜司は胸の奥を押さえたくなった。
父の罪が、また会議室に置かれる。
「あなたは、その場にいたんですか」
「いない」
榊原は言った。
「私は沢には行かなかった。臆病だったからな」
その言葉は、意外だった。
榊原は自分を臆病だと言った。
「では、なぜそこまで知っているんですか」
「修二から聞いた。宗一郎からも聞いた。葛原からも少し。みんな、自分の都合のよい形で話した」
榊原の目が怜司に向く。
「私は、それをつなげた」
「そして売ろうとした」
「そうだ」
「なぜ、今になって燃やそうとしたんですか」
榊原は黙った。
長い沈黙だった。
編集デスクも口を挟まない。
怜司は待った。
やがて、榊原は低い声で言った。
「もう誰も、歌を聞かないと思った」
「どういう意味ですか」
「ネットで見た。地下だ、骨だ、キリストだ、真相だ。紙が出れば、もっと騒ぐ。名前が出れば、検索される。かよ節も、母の名も、切り抜かれる」
榊原は、机の上の録音機を見た。
「私がやろうとしたことを、今度は大勢がやる。私より軽く、私より速く、私より無責任に」
怜司は黙った。
これは言い訳だ。
だが、半分だけ正しい。
軽い消費は、もう始まっている。
現地へ来た若者たち。
ネットの推測。
強い見出しを求める声。
榊原は、自分がかつてやろうとしたことが、今は無数に増殖しているのを見たのかもしれない。
だから燃やそうとした。
それは、身勝手な贖罪だった。
「あなたが燃やそうとしたのは、守るためですか」
怜司が聞くと、榊原は笑った。
疲れた笑いだった。
「守るためだと言えば、少しはましに聞こえるか」
「聞こえません」
「だろうな」
榊原は窓の外を見た。
「私は、守りたかったのではない。見たくなかった」
怜司はペンを止めた。
「何を?」
「自分が始めたことが、もっと醜い形で広がるのを」
会議室が静かになった。
榊原は続けた。
「私は昔、真実を売ろうとした。宗一郎はそれを恐れて黙った。久我は急いだ。修二は押した。悠一は死んだ。誰も救われなかった」
その声には、初めて後悔のようなものが混じっていた。
「だから、燃やす?」
怜司は静かに言った。
「燃やせば、あなたが見なくて済むだけです」
榊原は怜司を見た。
怜司は続けた。
「記録が燃えれば、カヨもリクもアラムも、また外へ置かれます。歌う人が、また一人で背負うことになります」
澪が小さく頷いた。
榊原は、しばらく何も言わなかった。
怜司は最後の質問に入った。
「あなたは、カヨがアラム以外に何を守ったと思っていますか」
榊原の目が変わった。
「そこへ来るか」
「あなたがメッセージで言いました。カヨを美談にするな。あの女が守ったのは、アラムだけではない、と」
榊原は椅子に深く座り直した。
「カヨは、リクの名を守った」
澪が息を呑む。
「リクは、アラムの母の名ですか」
「そう伝わっている」
「本当の名ですか」
榊原は首を横に振った。
「分からん。だが、カヨはそう聞いた。アラムが母を呼ぶ声を、リクと聞いた」
怜司はメモを取る。
「カヨは、その名を誰から守ったんですか」
「村からだ」
榊原は言った。
「村は、アラムを異国の子として処理した。母の名まで残れば、あの子が“どこかへ帰る途中の子”になってしまう」
「それがなぜ困るんですか」
「墓にできないからだ」
榊原の声が低くなる。
「帰る場所のある子を、村の伝承の中に閉じ込めることはできない。神にすることも、祟りにすることも、村のものにすることもできない」
怜司は、胸が震えるのを感じた。
帰る場所のある子。
アラムは、村の謎ではなかった。
誰かの子だった。
リクと呼ばれた母の子だった。
「だから、母の名を外した」
榊原は言った。
「カヨは、それに抗った。リクの名を歌に入れた。女名控にも残した。だが、本帳には入らなかった」
澪の目に涙が滲んでいた。
「カヨは、アラムだけじゃなく、アラムが帰りたかった場所を守ったんですね」
榊原は澪を見た。
今度は笑わなかった。
「そうだ」
会議室に、沈黙が落ちた。
怜司は、その沈黙を破るのに時間がかかった。
「その話を、なぜ今まで出さなかったんですか」
榊原は、少しだけ顔を歪めた。
「出せば、売れると思ったからだ」
答えになっていないようで、答えだった。
「売れると思ったから、出さなかった?」
「そうだ」
榊原は言った。
「私は、自分がそれを売る人間だと知っていた。だから、持っているのが怖くなった」
怜司は、初めて榊原の弱さを見た気がした。
それでも、許せるものではない。
怖くなったから燃やす。
売りそうだから隠す。
自分を信用できないから、他人の記録を奪う。
それは父にも似ていた。
宗一郎も、自分が燃やすかもしれないから役場へ預けた。
違いは、その先だった。
父は不完全ながら残した。
榊原は燃やそうとした。
「最後に確認します」
怜司は言った。
「旧集会所に火をつけようとしたことを認めますか」
編集デスクが少し身を乗り出す。
榊原は、長く沈黙した。
そして、言った。
「火を持ち込んだ」
「燃やすつもりでしたか」
「燃やすつもりだった」
透が息を荒くした。
澪は目を閉じた。
怜司は続けた。
「理由は?」
「見たくなかった」
榊原は言った。
「私が売ろうとしたものを、今の世の中がもっと安く売るのを」
「そのために、記録を燃やそうとした」
「そうだ」
怜司は録音機の赤いランプを見た。
この発言は重い。
記事化の前に、警察とも確認が必要だ。
「分かりました」
怜司は言った。
「今日の取材は、ここで一度終わります」
榊原は少し驚いたようだった。
「まだ聞きたいことがあるだろう」
「あります」
怜司は答えた。
「でも、これ以上は今日は危険です」
「誰にとって」
「全員にとってです」
編集デスクが頷いた。
「録音を停止します」
赤いランプが消えた。
その瞬間、会議室の空気が少し緩んだ。
だが、誰もすぐには動かなかった。
榊原は立ち上がる前に、澪を見た。
「十和田澪」
澪は顔を上げた。
編集デスクが警戒するように視線を向ける。
榊原は言った。
「かよ節を、人前で歌うな」
澪の表情が硬くなる。
怜司が口を開こうとした時、澪が先に答えた。
「それは、私が決めます」
榊原の目が細くなった。
澪は続けた。
「歌わないことも、歌うことも、あなたには決めさせません。祖母と、十和田家と、私で決めます」
榊原は、しばらく澪を見ていた。
やがて、小さく笑った。
今度の笑いは、嘲笑ではなかった。
「そうか」
それだけ言って、榊原は会議室を出ていった。
扉が閉まる。
透が、椅子に深く座り込んだ。
「くそ」
一言だけだった。
怜司は何も言わなかった。
澪は両手で顔を覆った。
泣いてはいなかった。
ただ、息を整えているようだった。
編集デスクが低く言った。
「三上、すぐに録音を複製する。発言要旨を作れ。警察にも共有だ」
「はい」
仕事に戻る。
それが、今できることだった。
怜司はノートを開いた。
榊原道隆。
半分だけ正しい男。
彼は真実を売ろうとした。
そして、自分が売ろうとしたものが他人に売られるのを恐れて燃やそうとした。
歌を守ると言いながら、歌う人を見ていなかった。
カヨがリクの名を守ったことを知っていた。
アラムに帰る場所があったことを知っていた。
許せない。
だが、聞く必要はあった。
怜司は手帳に、一文を書いた。
――帰る場所のある子は、村のものにはできない。
その一文が、今日の核心だった。
アラムは、村の伝承ではない。
誰かの子だった。
リクと呼ばれた母の子だった。
カヨは、その帰り道を守ろうとした。
そして村は、その道を雪の下に埋めた。
夕方、怜司たちは支局を出た。
空は暗く、雨は止んでいた。
路面に残った水たまりが、街灯を映している。
澪が言った。
「三上さん」
「はい」
「私、いつかかよ節を歌うと思います」
怜司は彼女を見た。
澪は前を見ていた。
「今ではないです。祖母とも話します。でも、あの人に歌うなと言われたからではなく、自分で決めて歌う日が来ると思います」
怜司は頷いた。
「その時は、聞かせてください」
澪は少しだけ笑った。
「記事にする前に」
「もちろんです」
透が後ろから言った。
「俺も聞く」
澪は振り返った。
透は視線を逸らしながら続けた。
「父が聞いた歌なら、俺も聞く」
澪は静かに頷いた。
「はい」
その時、怜司のスマートフォンが震えた。
相馬准教授からのメールだった。
件名。
――デジタル化完了予定について
本文は短かった。
――悠一氏の録音テープについて、一次デジタル化が完了しました。
――音声は不鮮明ですが、歌唱部分を確認できます。
――明日午後、関係者立ち会いのもとで試聴可能です。
怜司は画面を見つめた。
明日。
悠一の声を聞く。
榊原の言葉で揺れた直後に。
これは偶然ではなく、順番なのだと思った。
半分だけ正しい男の言葉を聞いた。
次は、実際の声を聞く。
歌が何を残していたのか。
カヨが守ったリクの名が、そこにあるのか。
怜司はスマートフォンを閉じた。
夜の空気が冷たかった。
だが、雪ではなかった。
雨の後の匂いがした。
隠していたものが溶け、地面が現れる匂い。
明日、声が戻る。
燃やされなかった記録の次に、壊されなかった声が。
怜司は、静かに息を吐いた。
「明日、悠一さんの声を聞きます」
澪と透が、同時にこちらを見た。
誰も、すぐには何も言わなかった。
やがて澪が、小さく頷いた。
「はい」
透も、低く言った。
「聞く」
その声に、怒りはまだあった。
だが、それだけではなかった。
四十年前に止まった声を、今度は壊さずに聞く。
そのために、ここまで来た。
怜司は夜の道を歩きながら、父の言葉を思い出した。
声は聞こえていた。
父は聞いていた。
だが、受け止められなかった。
明日、自分たちは聞く。
受け止める準備をした上で。
そして、聞いた後に何を書くのか。
それはまだ分からない。
分からないまま、怜司は歩いた。
簡単な形にしないために。
半分だけ正しい言葉ではなく、声そのものに近づくために。
お読みいただきありがとうございます。
第25話では、榊原道隆との対面取材が行われました。
榊原は、真実を商品にしようとした過去を認めつつ、現在はその真実がさらに軽く消費されることを恐れて燃やそうとしたと語ります。
彼の言葉は歪んでいますが、半分だけ正しい部分もありました。
そして、カヨが守ろうとしたのはアラムだけではなく、アラムが母を呼ぶ名、リクの名だったことが明らかになります。
次回は、ついに悠一の録音テープを試聴します。
そこに残された歌が、カヨ、リク、アラムをどう繋ぐのかが焦点です。




