第二十二話 悠一の声
女名控に残されたカヨの名。
十和田澄江が思い出した、カヨの歌。
そして、アラムの母とされるリク。
文字、歌、記憶が少しずつ繋がり始める中、怜司たちは青森市の大学へ向かう。
目的は、宗一郎が残した古いカセットテープ。
ラベルには、ただ一言。
悠一の歌。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
青森市へ向かう車の中で、十和田澪はほとんど話さなかった。
助手席に座り、膝の上で両手を重ねている。指先は固く結ばれ、時折、親指だけが小さく動いた。
三上怜司は、無理に話しかけなかった。
ラジオもつけていない。
車内には、タイヤが濡れた路面を走る音だけが続いていた。
後部座席には、久我透が座っている。
彼も黙っていた。
鞄の中には、父・三上宗一郎が残したカセットテープが入っている。
――悠一の歌。
その四文字が、三人の沈黙を作っていた。
「三上さん」
しばらくして、澪が口を開いた。
「はい」
「もし、何も入っていなかったら、どうしますか」
怜司は少し考えた。
「それも記録します」
「空だった、ということを?」
「はい」
怜司は前を見たまま答えた。
「空だったなら、なぜ父が“悠一の歌”と書いて残したのかを考える必要があります。消えていたのか。消したのか。録れなかったのか。別の意味があるのか」
澪は小さく頷いた。
「何かが入っていたら?」
「それも、すぐには記事にしません」
後部座席の透が、少し身じろぎした。
怜司は続けた。
「まず、誰の声か確認します。いつ録られたものか。歌の内容は何か。公開していいものか。十和田家の意向も確認します」
「祖母は、全部を聞かなくていいと言いました」
澪の声は低かった。
「今の自分が聞ける形で教えて、と」
「はい」
「でも、私にそれができるか分かりません」
怜司は、少しだけ速度を落とした。
「できなければ、僕も一緒に考えます」
澪は窓の外を見た。
「ありがとうございます」
その言葉は、聞こえるか聞こえないかくらい小さかった。
青森市内の大学に着いたのは、午後一時前だった。
相馬由紀准教授の研究室は、文学部棟の三階にあった。
廊下には古い掲示板があり、民俗学関係の講演ポスターや、地域資料保存の案内が貼られている。建物の中は暖かかったが、窓の外にはまだ雪が残っていた。
研究室の扉を叩くと、落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
中に入ると、本棚が壁一面を埋めていた。
民俗学、地域史、音声資料、祭礼、口承文芸。机の上には、ノートパソコンと小型の録音機材が並んでいる。
相馬由紀は、四十代半ばほどの女性だった。髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥の目は鋭いが、話し方は柔らかい。
「三上さんですね」
「はい。青森日日新聞の三上です」
怜司は名刺を出した。
「こちらが十和田澪さん、久我透さんです」
相馬は二人にも丁寧に頭を下げた。
「今日は、音源を確認するだけにします。無理に再生はしません」
その最初の一言で、澪の肩が少し下がった。
怜司は鞄からカセットテープを取り出した。
ケースごと、机の上に置く。
相馬は手袋をはめ、ケースを外側から確認した。
「ラベルは後から貼られたものですね。字は、三上宗一郎さんのものですか」
「はい」
「テープ自体は、昭和五十年前後のものに見えます。保管状態は悪くありません。ただ、ケースだけでは判断できません」
相馬は慎重にケースを開けた。
カセット本体を取り出し、光に当てる。
「カビは目立ちません。テープのたるみも大きくはない。ただ、巻きが少し硬いかもしれません」
透が言った。
「再生できますか」
相馬は、すぐには答えなかった。
「できる可能性はあります。ただ、ここで普通の再生機にかけるのは避けたいです」
「なぜですか」
「古いテープは、見た目が良くても磁性体が弱っていることがあります。再生中に剥離したり、切れたりすることもある。まずは専用の機材で低負荷で巻き直し、状態を見てからデジタル化するのが安全です」
怜司は頷いた。
「お願いします」
透は唇を噛んだ。
「今日、聞けないんですか」
相馬は透を見た。
「聞けるかもしれません。でも、聞くために壊す危険があります」
透は黙った。
相馬は続けた。
「音声資料は、再生した瞬間に失われることもあります。だから、最初の再生が一番大事です。聞きたい気持ちは分かります。でも、ここは待った方がいい」
怜司は、透の手が膝の上で握られるのを見た。
透はしばらくして、低く言った。
「分かりました」
それは、諦めではなかった。
怒りを飲み込んだ声だった。
相馬はカセットを専用の保護ケースに入れ、一時預かりの書類を出した。
所有者。
持ち込み者。
立会人。
目的。
作業範囲。
原本の扱い。
複製データの管理。
公開可否。
怜司は一項目ずつ確認した。
「所有者は、現時点では三上さんでよろしいですか」
相馬が尋ねる。
怜司は少し迷った。
このテープは父の遺品だ。
だが、中身は悠一の声かもしれない。
なら、完全に三上家のものと言えるのか。
「原本は父の遺品として僕が保管しています。ただし、内容が十和田悠一さんの歌である場合、公開や利用については十和田家の同意を必要とする扱いにしてください」
相馬は頷いた。
「そのように書きましょう」
澪が怜司を見た。
その目に、わずかな安堵があった。
手続きが終わると、相馬は別の封筒を取り出した。
「実は、こちらでも少し調べておきました」
怜司の背筋が伸びた。
「大学の資料ですか」
「はい。昔の民俗学研究室に残っていた未整理メモです。十和田悠一さんの名前がありました」
相馬はコピーを机に置いた。
そこには、手書きの調査メモが印刷されていた。
――昭和四十七年八月
――新郷村 歌唱聞き取り
――十和田悠一 男 十九歳
――ナニャドヤラ古節について
――本人、「祖母より聞く」と説明
――通常節とは別に「かよ節」ありと言う
澪が息を呑んだ。
「かよ節……」
相馬は続けた。
「メモは断片的です。録音番号も書かれていますが、対応するテープがまだ見つかっていません」
怜司はコピーを見つめた。
昭和四十七年。
事故の前年。
悠一はすでに、カヨの節を知っていた。
久我玲一が来る前から。
「内容は書かれていますか」
「一部だけです」
相馬は次のページを出した。
そこには、短い歌詞の断片があった。
――かよは手を引く
――雪は道を消す
――子は泣かず
――母が泣く
――りくの名呼べど
――沢は返さず
澪の目から涙がこぼれた。
「祖母が思い出した続き……」
怜司も、言葉を失っていた。
リクの名呼べど。
沢は返さず。
アラムは母の名を呼んだのか。
それとも、カヨがリクの名を呼んだのか。
沢は返さなかった。
声は、水音と雪に消えた。
「このメモを書いた人は誰ですか」
怜司が尋ねると、相馬は資料の端を指した。
「当時の研究助手、野宮という人物です。今は亡くなっています。ただ、指導教員だった教授の資料がまだ残っています」
「そこに録音がある可能性は?」
「あります。ただ、整理には時間がかかります」
怜司は頷いた。
「急ぎません。必要なら正式に取材申請します」
相馬は少し驚いたように笑った。
「新聞記者の方から“急ぎません”と言われるのは珍しいですね」
怜司は苦く笑った。
「急いで失ったものが多いので」
相馬は、それ以上は聞かなかった。
代わりに、資料を指で軽く押さえた。
「この歌は、かなり重要です。ナニャドヤラの派生というより、家内伝承に近い。公の場で歌われるものではなく、家の中で伝えられた節でしょう」
「記事にする場合、注意点はありますか」
「歌詞を丸ごと出すのは避けた方がいいです」
相馬ははっきり言った。
「理由は二つあります。一つは、まだ資料確認が不十分だから。もう一つは、歌が見世物になるからです」
怜司は深く頷いた。
「分かります」
「短い断片でも、見出しにされれば消費されます。特に“母”“沢”“返さず”のような言葉は強い。扱いを間違えると、歌そのものが刺激的な証拠として独り歩きします」
澪が小さく言った。
「歌は、証拠じゃないんです」
相馬は澪を見た。
「そうですね。歌は、証拠である前に、受け継がれた痛みです」
その言葉に、澪は静かに頷いた。
透はコピーを見つめたまま、低く言った。
「父は、この歌を聞いたんだろうか」
怜司は答えられなかった。
だが、久我玲一の手記には、悠一と会う予定があった。
悠一は、かよ節を知っていた。
ならば、久我が聞いた可能性は高い。
そして宗一郎も、何らかの形で知っていた。
だからテープを残した。
「相馬先生」
怜司は言った。
「このメモの存在を、現段階で記事にすることは可能ですか」
相馬は少し考えた。
「“大学資料に関連する聞き取りメモが残る可能性がある”程度なら。ただし、歌詞や固有名は、確認が終わるまで控えるべきです」
「分かりました」
「それと、十和田家の同意が必要です」
「はい」
澪は静かに言った。
「祖母に確認します。私だけでは決められません」
相馬は頷いた。
「それがいいと思います」
テープは、相馬の研究室で一時保管されることになった。
デジタル化の作業には、早くても数日かかる。
怜司たちは書類の控えを受け取り、研究室を出た。
廊下に出ると、澪は壁に手をついた。
「大丈夫ですか」
怜司が声をかけると、澪は頷いた。
「大丈夫です。でも……」
「でも?」
「悠一の声を聞く前に、もう悠一が近くなった気がします」
怜司は何も言わなかった。
歌詞の断片だけで、十分だった。
悠一は、ただ事故で死んだ青年ではなかった。
歌の古い節を知り、カヨとリクの名を抱えていた。
そして、その意味を久我玲一に伝えようとしていた。
透が静かに言った。
「父も、これを見たら止まれなかっただろうな」
怜司は透を見た。
透の顔には、怒りだけではないものがあった。
理解したくないのに、理解してしまう苦しさ。
「はい」
怜司は答えた。
「でも、止まる場面もあったはずです」
透は頷いた。
「そうだな」
その声は、前より少しだけ柔らかかった。
帰りの車では、三人とも疲れていた。
それでも、行きの沈黙とは違っていた。
何かを聞いたわけではない。
だが、声の手前まで来た。
その感覚があった。
資料館へ戻ると、第二回の記事が公開されていた。
――雪の下の名 第二回
――記録に残る名、残らない名 伝承を読むために
反応は第一回ほど派手ではなかった。
だが、コメントの質は少し変わっていた。
「こういう検証なら読める」
「伝承を壊すというより、扱い方を考える記事」
「名前を出す前にここを説明するのは大事」
「でも早く核心が知りたい」
最後の反応もある。
当然だ。
怜司は、それも記録した。
夕方、澪は十和田家へ行った。
大学資料のコピーを持って、澄江に見せるためだった。
怜司は資料館に残り、編集デスクへ報告した。
相馬准教授によるテープ外観確認。
デジタル化前提で一時保管。
大学未整理資料に十和田悠一の聞き取りメモあり。
かよ節の記載。
リクの名を含む断片。
記事化は専門家・関係者確認後。
編集デスクから電話が来た。
「面白いな」
最初の一言がそれだった。
怜司は少し警戒した。
「面白い、という言葉は少し危ういです」
「分かってる。記事として重要という意味だ」
編集デスクはすぐに言い直した。
「第三回は女名控へ入る予定だったな」
「はい。ただし、内容の詳細はまだ出せません」
「なら、第三回は“本帳の外”というテーマでいけ。女名控の存在確認までは出すか?」
怜司は少し考えた。
「役場の許可と専門家確認が必要です」
「表紙だけでも?」
「表紙だけなら、役場判断次第です。ただ、出せば一気に注目されます」
「だろうな」
編集デスクは少し黙った。
「三上、お前は出したいか」
怜司は、正直に答えた。
「出したいです」
「なぜ」
「本帳の外に置かれた名があったことは、この連載の重要な軸です。そこを避けると、記録の不完全さを抽象論で終わらせることになります」
「出したくない理由は?」
「カヨやリクの名が消費される可能性があります。女名控という言葉自体が強い。切り取られやすい」
「なら、条件を作れ」
編集デスクは言った。
「役場の許可。専門家の初期確認。関係者への事前説明。見出しに女名控を大きく使わない。写真も出さないか、出すなら表紙の一部だけ。本文では発見ではなく、記録の構造として扱う」
怜司はメモを取った。
「それで進めます」
「あと、榊原だ」
怜司の体が少し硬くなる。
「はい」
「あいつからまた何か来たか」
「今日はありません」
「警察には共有済みだな」
「はい」
「会うなら、第三回の後か?」
「そのつもりです。女名控と録音の確認が進んだ段階で、本人にぶつける必要があります」
「単独禁止」
「分かっています」
電話を切ると、怜司は深く息を吐いた。
榊原。
いつか会わなければならない。
だが、今はまだ早い。
彼は、半分だけ正しい言葉でこちらを揺さぶる。
準備なしに会えば、こちらの感情を利用される。
夜になって、澪が戻ってきた。
顔は疲れていたが、不思議と落ち着いていた。
「祖母に見せました」
「どうでしたか」
「泣きませんでした」
澪は椅子に座った。
「ただ、“やっぱりあったか”と言いました」
「やっぱり」
「はい。曾祖母が歌っていた節と、大学のメモがほとんど同じだったそうです」
怜司は頷いた。
「十和田家として、記事にすることは?」
「祖母は、まだ歌詞は出さないでほしいと言っています」
「もちろんです」
「でも、かよ節というものがあったこと、悠一がそれを知っていたことは、いずれ書いていいと」
怜司は手帳に書いた。
「ありがとうございます」
澪は少し黙った後、言った。
「祖母が、リクのことを思い出しました」
怜司は顔を上げた。
「何をですか」
「リクは、アラムの母の名。そう伝わっている。でも、もしかすると本当の名ではないかもしれないと」
「本当の名ではない?」
「はい。アラムが母を呼んだ音を、村の人がそう聞き取ったのかもしれない、と」
怜司は息を呑んだ。
リク。
それは名前かもしれない。
だが、異国の子が母を呼ぶ声を、村人が自分たちの音に置き換えたものかもしれない。
名を残すことさえ、完全ではない。
聞いた者の耳で変わる。
言葉が違えば、母の名すら正確には残せない。
「それでも」
澪は言った。
「祖母は、リクと呼ぶしかなかったのだろう、と言っていました」
怜司は静かに頷いた。
「呼ばなければ、完全に消えてしまうから」
「はい」
名は、正確でなければ意味がないのか。
それとも、不完全でも呼び続けることに意味があるのか。
怜司には、すぐに答えが出なかった。
だが、記事にはその迷いも必要だと思った。
夜、怜司は第三回の構成を書き始めた。
仮題。
――本帳の外へ置かれた名
扱う内容。
第二回の続きとして、記録の不完全性。
共同体の公式記録に残る名と、残らない名。
役場で確認された関連文書の存在。
女名控という表題は、許可が出れば慎重に触れる。
詳細な人名はまだ出さない。
大学資料に残る歌の聞き取りメモは、今後の検証対象として扱う。
歌詞は出さない。
そして最後に、こう書いた。
――名を返すとは、見つけた名を大きく叫ぶことではない。その名が、なぜ小さく残されるしかなかったのかを考えることから始まる。
怜司はその一文を見つめた。
それは、カヨのためでもある。
リクのためでもある。
アラムのためでもある。
悠一の声のためでもある。
そして、父のためでもあるのかもしれない。
許すためではない。
父ができなかったことを、父の代わりにではなく、自分の責任としてやるために。
深夜、相馬からメールが届いた。
件名は、「カセットテープ外観確認結果」。
本文には、簡潔に書かれていた。
――テープ状態は慎重な処理を前提にデジタル化可能と判断。
――専門業者への移送前に、研究室内で低負荷巻き直しを行う。
――作業予定は明後日午前。
――立会希望の場合は連絡ください。
怜司はすぐに返信した。
――立ち会います。十和田澪さん、久我透さんにも確認します。
送信後、怜司は椅子にもたれた。
声を聞く日は、近づいている。
まだ怖い。
だが、今度は焦りではなかった。
準備を重ねた先にある怖さだった。
窓の外では、雪解け水が屋根から落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
その音は、沢の音にも、録音テープの回る音にも似ていた。
悠一の声は、まだ聞こえない。
だが、その声を壊さずに迎える道は、少しずつ整っている。
怜司は、机の上に置いたメモを見た。
カヨ。
リク。
悠一。
本帳の外。
かよ節。
声を壊さない。
そして、最後にこう書き足した。
――聞こえなかったのではない。聞く準備がなかったのだ。
父は、悠一の声を聞いていた。
だが、受け止める準備がなかった。
自分は、同じことを繰り返さない。
怜司はペンを置いた。
夜は静かだった。
その静けさの奥で、まだ再生されていない声が、確かに待っていた。
お読みいただきありがとうございます。
第22話では、悠一の録音テープが大学で確認され、無理に再生せず、デジタル化へ進める判断がされました。
また、大学の未整理資料から「かよ節」の聞き取りメモが見つかり、カヨとリク、そしてアラムの母を呼ぶ声が少しずつ繋がってきます。
次回は、連載第三回「本帳の外へ置かれた名」と、女名控の公表可否をめぐる役場・社内・関係者の調整へ進みます。




