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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第二十一話 声を壊さないために

役場の文書箱から見つかった「女名控」。

そこには、カヨの名が残されていた。


だが榊原は告げる。

カヨを美談にするな。

宗一郎が隠した録音を聞け、と。


文字として残された名。

歌として残された記憶。

そして、まだ再生されていない悠一の声。


怜司は、声を聞く前に、声を壊さないための選択を迫られる。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

翌朝、三上怜司は父の録音テープを前にしていた。


資料館の一室。


机の上には、古いカセットテープが置かれている。


透明なケースは黄ばみ、角に細かな傷があった。中のラベルには、父・宗一郎の字で短く書かれている。


――悠一の歌


それだけだった。


録音日もない。

場所もない。

説明もない。


ただ、悠一の歌。


その四文字が、怜司には重すぎた。


「再生しないんですか」


久我透が低い声で言った。


彼は昨日の夜、怜司から連絡を受け、朝一番で資料館へ来ていた。腕を組み、壁際に立っている。


焦れているのが分かった。


透だけではない。


怜司自身も聞きたかった。


十和田悠一が何を歌ったのか。

カヨの名がそこにあるのか。

榊原が言った「あの女が守ったのは、アラムだけではない」とは何なのか。


答えが、この小さなテープに入っているかもしれない。


だが、怜司はテープに手を伸ばさなかった。


「今は再生しません」


「なぜ」


透の声が鋭くなる。


「機材がありません。古いテープです。劣化していたら、一度の再生で切れるかもしれない」


「それでも聞く価値はある」


「壊してまで聞く価値はありません」


怜司は、はっきり言った。


透の顔が硬くなった。


「父の手記も、悠一さんの声も、ここまでずっと隠されてきた。今さら慎重ぶって、また先延ばしにするのか」


その言葉は痛かった。


怜司は一瞬、反論できなかった。


先延ばし。


父がしたことも、それだった。


真実を守ると言いながら、出さなかった。

声を残しながら、聞かせなかった。

手紙を書きながら、渡さなかった。


自分も同じことをしているのか。


怜司はテープを見つめた。


違う、と言いたかった。


だが、言葉だけでは意味がない。


「透さん」


怜司は静かに言った。


「僕がやろうとしているのは、先延ばしではなく保全です」


「保全?」


「はい。専門の業者か、音声資料の扱いに慣れた人に状態を見てもらいます。必要ならデジタル化して、原本を守る。聞くのはその後です」


「その間に、誰かに奪われたら?」


「だから、保管手順を決めます」


怜司は机の横の書類を指した。


「テープの写真、現物確認記録、保管場所、立会人。全部残します。僕一人では持ちません」


透は黙った。


その表情はまだ納得していない。


しかし、怒鳴りはしなかった。


「父は、隠して壊した」


怜司は言った。


「僕は、壊さないために待ちます」


透の目が少し揺れた。


部屋の入口で、十和田澪が静かに立っていた。


彼女は朝から祖母の家へ行き、戻ってきたところだった。手には、一枚の紙を持っている。


「祖母が、少し思い出しました」


澪が言った。


「カヨの歌です」


怜司と透は、同時に彼女を見た。


澪は机に紙を置いた。


そこには、鉛筆で短い節が書かれていた。


――かよは手を引く

――雪は道を消す

――子は泣かず

――母が泣く


怜司は息を止めた。


母。


その言葉が、部屋の中に落ちた。


アラムは子どもだった。


カヨは手を引いた人。


では、母とは誰だ。


カヨなのか。

アラムの実の母なのか。

それとも、歌の中でカヨが母のように泣いたということなのか。


澪が言った。


「祖母も、全部は覚えていません。これは節の一部だそうです」


「この“母”は?」


怜司が尋ねると、澪は首を横に振った。


「分からないと。ただ、祖母は、これを思い出した時に泣きました」


「なぜ」


「カヨは、アラムの母ではなかった。でも、母のように泣いたのではないか、と」


怜司は紙を見つめた。


子は泣かず。

母が泣く。


もし、この歌が本当にカヨに関するものなら、アラムは泣かなかった。


泣いたのは、手を引いたカヨだった。


守ろうとして、守れなかった者の泣き声。


透が低く言った。


「榊原の言葉は?」


「カヨが守ったのはアラムだけではない、ですね」


怜司は紙から目を離さずに答えた。


「この歌だけでは分かりません」


澪が椅子に座った。


「祖母は、もう一つ言っていました」


「何ですか」


「女名控に、カヨの名前の横に別の名前があるはずだ、と」


怜司は顔を上げた。


「別の名前?」


「はい。祖母は昔、曾祖母から聞いたそうです。カヨの名は、一人では書かれていない、と」


「誰の名でしょう」


澪は小さく息を吸った。


「“リク”という名かもしれない、と」


リク。


また、新しい名。


怜司は手帳に書いた。


カヨ。

リク。


「女性名ですか」


「たぶん。祖母は、母の名だと言っていました」


透が眉をひそめる。


「誰の母だ」


誰も答えられなかった。


怜司は、父の手紙を思い出した。


カヨは、アラムを匿い、逃がそうとした。


それは善意だった。


しかし、その逃避が、アラムを沢へ向かわせた。


もし、そこにリクという母がいたなら。


アラムの母。

あるいは、カヨの母。

あるいは、清之進の母。


関係はまだ分からない。


だが、女名控という文書の意味がさらに重くなる。


本帳から外されたのは、カヨ一人ではない。


女たちの関係そのものが外されたのだ。


「三上さん」


澪が言った。


「祖母は、悠一の録音には、その節の続きがあるかもしれないと言っています」


透がすぐに反応した。


「なら聞くべきだ」


怜司は首を横に振った。


「聞くために、まず守ります」


「またそれか」


「はい」


怜司は透の目を見た。


「またそれです。ここで壊したら、悠一さんの声は二度と戻りません」


透は拳を握った。


しばらく沈黙が続いた。


やがて、透は低く言った。


「分かった」


その声には、まだ苛立ちが残っていた。


それでも、彼は引いた。


怜司は深く息を吐いた。


午前中、怜司は編集デスクと相談し、音声資料の保全先を探した。


新聞社の過去取材音源をデジタル化した経験のある技術担当。

県内の博物館資料保存担当。

大学の民俗学研究室。


いくつか連絡を取った結果、青森市内の大学に、古い民俗音声資料を扱った経験のある准教授がいることが分かった。


名を、相馬由紀という。


電話口の相馬は、落ち着いた声の女性だった。


「古いカセットテープですね。状態によっては再生前の確認が必要です」


「はい。無理に再生したくありません」


「賢明です。磁性体が劣化している場合、一度で傷むこともあります。まず外観確認、必要なら業者に依頼してデジタル化します」


その言葉に、怜司は少し安堵した。


「音源の内容は、十和田悠一さんの歌である可能性があります」


電話の向こうが少し静かになった。


「十和田悠一さん」


「ご存じですか」


「名前だけは。民俗芸能の調査資料で見たことがあります」


怜司は背筋を伸ばした。


「資料があるんですか」


「大学の古い研究室資料に、十和田悠一氏の歌唱に関するメモがあったはずです。ただ、整理中で未公開です」


新しい線がまた現れた。


大学資料。


悠一の歌は、父のテープだけではないかもしれない。


「確認できますか」


「すぐには難しいですが、関連資料として探します。テープも見ますので、持参できますか」


「はい。ただし、立会人を置きたいです」


「もちろんです。関係者の同意も必要でしょう」


怜司は澪を見た。


澪は頷いた。


「十和田家の同意は取ります」


「分かりました。明後日の午後なら時間を取れます」


電話を切ると、怜司は予定表に記入した。


明後日。

青森市。

相馬准教授。

テープ外観確認。

デジタル化可否。


これで、声を壊さずに聞く道ができた。


午後、怜司は第二回の原稿を仕上げた。


女名控そのものは出さない。


だが、記録の外に置かれた名について触れる。


記事の中で、怜司はこう書いた。


――古い記録を読む時、書かれていることだけを追えばよいわけではない。誰の名が書かれ、誰の名が書かれなかったのか。何が本帳に入り、何が外へ置かれたのか。その判断には、共同体の力関係や恐れが反映される。


編集デスクからは、すぐに返信が来た。


――いい。

――ただし、少し抽象的。

――読者が離れないよう、座帳・手記・歌・証言の違いを具体例で補え。

――女名控はまだ伏せる方針で了解。


怜司は修正を始めた。


座帳は、共同体が残した記録。

手記は、外から来た研究者の視点。

歌は、言葉にしきれなかった記憶。

証言は、後から自分の責任を引き受ける声。


そして、どれも完全ではない。


完全ではないもの同士を重ねることで、ようやく輪郭が見える。


その輪郭の中に、カヨとリクがいる。


夕方、怜司たちは十和田家を訪ねた。


澄江は、いつもより疲れて見えた。


だが、怜司たちを見ると、すぐに言った。


「思い出した歌は、澪から聞いたね」


「はい」


怜司は座って頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うことではない」


澄江はそう言ったが、声は柔らかかった。


「忘れていたことを、思い出しただけだ」


「“リク”という名について伺いたいです」


怜司が言うと、澄江は目を伏せた。


「私も、はっきりとは知らない」


「聞いた範囲で構いません」


澄江はゆっくり話し始めた。


「リクは、アラムの母の名だと聞いた」


部屋の空気が止まった。


澪も、息を呑んだ。


「アラムの母……」


「そう伝わっている。ただし、村に来たかどうかは分からない」


「村に来たかどうか?」


「アラムは、母とはぐれていたのかもしれない。あるいは、母を探していたのかもしれない」


怜司は手帳に書き込む。


リク。

アラムの母。

村に来たか不明。

母を探していた可能性。


澄江は続けた。


「カヨは、アラムから母の名を聞いた。だから、逃がそうとした」


「どこへ?」


「母のいる方へ」


「それが沢の向こう?」


「そう聞いた」


怜司の胸が締め付けられた。


沢は、ただ逃亡の道ではなかった。


アラムにとっては、母へ向かう道だったのかもしれない。


カヨは、その手を引いた。


だが、雪が道を消した。


子は泣かず。

母が泣く。


歌の意味が、少しずつ変わっていく。


「リクの名は、なぜ女名控に?」


怜司が尋ねると、澄江は首を横に振った。


「分からない。ただ、曾祖母は言っていた。リクの名を残さなければ、アラムは永遠に迷子になる、と」


その言葉に、澪の目が潤んだ。


「迷子……」


澄江は頷いた。


「アラムをかわいそうな子として語るだけでは足りない。あの子には、帰りたい場所があった。呼びたい母がいた」


怜司は、その言葉を聞きながら、榊原の警告を思い出していた。


あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。


その意味は、少し違って見え始めていた。


アラムは、悲劇の象徴ではない。


母を呼ぶ子どもだった。


帰ろうとしていた人間だった。


そして、カヨはその帰り道を作ろうとした。


「カヨを美談にするな、と榊原は言いました」


怜司が慎重に言うと、澄江の顔が少し険しくなった。


「榊原は、昔から言葉の汚し方を知っている」


「どういう意味ですか」


「カヨは善いことをしようとした。だが、それでアラムは死んだ。だから、カヨを美談にするなという言い方は、半分だけ正しい」


「半分」


「半分だけ正しい言葉は、人を傷つけやすい」


澄江ははっきりと言った。


「カヨは、アラムを救えなかった。だが、救おうとしたことまで汚してはいけない」


怜司は深く頷いた。


半分だけ正しい言葉。


それは、榊原の武器だった。


宗一郎の沈黙にも似ている。

久我の急ぎにも似ている。

怜司自身の記事にも、いつか入り込むかもしれない。


注意しなければならない。


「悠一の録音についてですが」


怜司は話題を変えた。


「明後日、大学の先生に状態を見てもらいます。無理に再生はしません。十和田家として、立ち会いますか」


澄江は澪を見た。


「澪、行きなさい」


「私が?」


「あなたが聞くべきだ」


澪は不安そうに祖母を見た。


「おばあちゃんは?」


「私は、まだ聞けない」


澄江は静かに言った。


「悠一の声を聞いたら、私はたぶん昔へ戻ってしまう」


その言葉に、誰も何も言えなかった。


四十年経っても、声は人を戻してしまう。


だからこそ、扱いを間違えてはいけない。


「澪が聞いて、必要なら教えて」


澄江は言った。


「全部でなくていい。今の私が聞ける形で」


澪は涙をこらえながら頷いた。


「分かった」


帰り道、澪は黙っていた。


資料館へ戻る車の中、怜司も無理に話しかけなかった。


しばらくして、澪が言った。


「悠一の声を聞くのが怖いです」


「はい」


「私、悠一に会ったことがありません。でも、家の中にはずっと悠一がいました」


怜司はハンドルを握ったまま、耳を傾けた。


「祖母の沈黙。歌の途中で止まる母。沢へ行くなという言葉。全部、悠一の不在でした」


「不在が、いる」


「はい」


澪は窓の外を見た。


「声を聞いたら、その不在が形になってしまう気がします」


怜司は静かに言った。


「無理なら、立ち会わなくてもいいです」


澪は首を横に振った。


「行きます」


その声は震えていたが、決まっていた。


「祖母だけに背負わせたくないので」


怜司は頷いた。


夜、第二回が公開前確認に回った。


怜司は机に向かい、次の取材メモを整理していた。


女名控の専門家確認。

相馬准教授との面会。

悠一の歌の保全。

リクの名。

カヨの歌。

榊原のメッセージ。

田崎取材。


やることは増えている。


だが、不思議と混乱はしていなかった。


一つずつ、確認する。


そのための順番がある。


深夜、編集デスクから第二回の最終確認が届いた。


――第二回、明朝公開。

――タイトルは「記録に残る名、残らない名」。

――いいか、第三回で女名控に入るなら、専門家確認を先に取れ。

――それと、榊原には返信するな。こちらで対応を考える。


怜司は返信した。


――承知しました。


スマートフォンを置く。


父のテープを見る。


悠一の歌。


まだ聞こえない声。


だが、もうただの証拠ではなかった。


それは、十和田家にとって不在の形であり、澪にとって継ぐべき痛みであり、怜司にとって父の罪に繋がる声だった。


そして、おそらくカヨとリクの名をつなぐものでもある。


怜司は、手帳に書いた。


――声は、事実だけを運ぶのではない。声を聞く準備ができていない者には、声そのものが刃になる。


だから、準備する。


声を壊さないために。

聞く人を壊さないために。

そして、聞いた後で、言葉を壊さないために。


外では雪が止んでいた。


月が薄く雲の向こうに見える。


雪の下から出てきた名は、今、声になろうとしている。


怜司はカセットテープのケースをそっと閉じた。


聞くのは、まだ先だ。


だが、逃げているのではない。


声を迎えるために、待っているのだ。

お読みいただきありがとうございます。

第21話では、十和田澄江が「カヨの歌」の一部を思い出し、さらにアラムの母とされる「リク」の名が語られました。


カヨはアラムを母のいる方へ逃がそうとした。

しかし、その善意が悲劇につながった可能性があります。


次回は、大学の相馬准教授のもとで、悠一の録音テープの確認が始まります。

そこに、カヨとリクをつなぐ歌が残っているのかが焦点になります。

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