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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第二十話 女名控

連載「雪の下の名」第一回は、静かに村の沈黙を揺らした。

その記事を読んだ元役場職員・田崎昭夫は、怜司に告げる。


座帳の別紙。

女名控。


本帳に残せなかった女たちの名。

その中に、カヨはいるのか。


怜司は、役場の古い文書箱へ向かう。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

翌朝、三上怜司は村役場の会議室にいた。


窓の外には、まだ雪が残っている。


道路は除雪されていたが、庁舎の端には白い塊が積み上げられ、灰色に汚れていた。空は薄く晴れている。昨日のような重い雲はない。


それでも、怜司の胸の中は晴れなかった。


テーブルの上には、取材申請書、身分証、連載第一回の紙面、そして田崎昭夫から聞いた内容を整理したメモが置かれている。


向かいには、地域振興課の坂本と、総務課の文書管理担当者が座っていた。


「正式な照会として受け付けます」


文書管理担当者が言った。


「ただし、古い文書箱については、整理が完全ではありません。存在するかどうかも、すぐには分かりません」


「承知しています」


怜司は答えた。


「こちらとしても、確認できないものを記事にはしません」


坂本は少し疲れた顔をしていた。


昨日から問い合わせがさらに増えているのだろう。役場の代表電話は朝から何度も鳴っていた。


「三上さん」


坂本が言った。


「正直に言うと、役場内でも意見が割れています」


「女名控の確認についてですか」


「それもありますし、連載そのものについてもです」


坂本は手元の紙を見た。


「伝承を壊すのではないか。村がまた面白おかしく扱われるのではないか。役場が協力しているように見えるのはまずいのではないか。そういう声があります」


怜司は頷いた。


「当然だと思います」


「当然、ですか」


「はい。村の生活に影響が出ます。外から人が来る。電話が鳴る。ネットで言われる。負担を受けるのは、まず地元の方です」


坂本は怜司を見た。


怜司は続けた。


「だからこそ、役場の確認なしに“役場に女名控があるらしい”とは書きません。文書が確認できた場合でも、公開範囲は相談します」


文書管理担当者が小さく頷いた。


「その点は助かります」


「ただ」


怜司は、少しだけ声を強くした。


「存在する記録を、なかったことにはできません」


会議室の空気が止まった。


怜司は自分の言葉を確認するように続けた。


「公開の仕方には慎重であるべきです。でも、記録があるなら、確認する必要があります。特に、本帳から外された名があるなら、それは伝承の理解に関わるだけではなく、記録の作られ方そのものに関わります」


坂本はしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「分かりました」


文書管理担当者も頷いた。


「倉庫を確認します。ただし、三上さんが直接触れることはできません。こちらで箱を出し、状態を確認します」


「もちろんです」


「写真撮影も、許可した範囲だけです」


「承知しています」


話がまとまり、三人は庁舎奥の文書倉庫へ向かった。


廊下の空気は少し冷えていた。


古い建物特有の匂いがする。紙、埃、暖房、湿気。


階段を下りると、地下に小さな倉庫があった。


金属製の扉を開けると、棚が並んでいた。


段ボール、古いファイル、帳簿、図面の筒。


文書管理担当者が台帳を見ながら棚を探す。


「昭和四十年代の地域資料……災害対応……観光関連……伝承資料……」


怜司は少し離れた位置で見守った。


触れない。


急がない。


しかし、心臓は速く打っていた。


女名控。


その四文字が頭の中で繰り返される。


本帳に残せなかった女たちの名。


カヨだけではないのかもしれない。


伝承の陰には、男性の名前が多く残っていた。


清之進。

伊佐衛門。

久我玲一。

十和田悠一。

三上宗一郎。

葛原重蔵。

榊原道隆。


だが、歌を継いだのは十和田家の女性たちだった。

アラムを匿ったのはカヨだった。

許さないまま語ったのは澄江だった。

今、歌を戻そうとしているのは澪だった。


記録の中心にいなかった者たちが、実は記憶を支えていたのではないか。


そう思うと、女名控という言葉の重さが変わっていく。


「ありました」


文書管理担当者の声がした。


怜司の背筋が伸びる。


棚の奥から、古い文書箱が出された。


灰色の箱。端が少し傷み、蓋には手書きのラベルが貼られている。


――伝承関連資料 昭和四十八年移管


坂本が低く言った。


「昭和四十八年……」


文書管理担当者が箱を作業台へ置いた。


「開けます」


全員が少し緊張した。


蓋が開く。


中には、古い封筒や冊子、写真、メモが入っていた。


文書管理担当者が一つずつ確認する。


「観光パンフレット草案。伝承案内文。新聞切り抜き。祭礼記録。旧集会所資料……」


そして、手が止まった。


茶色い封筒。


表に、墨で書かれた文字。


――女名控


怜司は、思わず息を止めた。


本当にあった。


田崎の記憶は正しかった。


坂本も文書管理担当者も、言葉を失っている。


封筒は古く、端が脆くなっていた。


文書管理担当者が手袋を替え、慎重に封を開いた。


中から出てきたのは、薄い和紙の束だった。


紙は黄ばみ、ところどころ虫食いがある。


表紙のような紙に、細い筆文字で書かれていた。


――寄合座外控

――女名并言伝


怜司は声に出さず、その文字を読んだ。


寄合座外控。


女名并言伝。


本帳の外に置かれた記録。


女たちの名と言い伝え。


「これは……」


坂本が呟いた。


「座帳の別紙、ということになりますか」


文書管理担当者は慎重に答えた。


「正式な判断は専門家が必要です。ただ、形式としては関連文書に見えます」


怜司はペンを握った。


「撮影は可能ですか」


担当者は少し考えた。


「全体ではなく、まず表紙のみ。内容は確認してから判断します」


「分かりました」


怜司は許可された範囲で表紙を撮影した。


手が震えないように、慎重に。


文書管理担当者が一枚目を開いた。


古い文字が並んでいる。


その場ですべてを読むのは難しい。


だが、いくつかの名は見えた。


サヨ。

トメ。

ミツ。

カヨ。


怜司の目が止まった。


カヨ。


あった。


本帳から外された名。


沢の板に刻まれた名。


父の手紙にあった名。


ここに、正式ではないが、記録として残されていた。


「カヨ……」


坂本が小さく言った。


文書管理担当者がさらに目を近づける。


「この部分、読めますか」


怜司は首を横に振った。


「崩し字は専門ではありません。断定は避けた方がいいです」


自分で言いながら、心の中の焦りを抑えた。


読みたい。


今すぐ知りたい。


だが、読めないものを読めたことにしてはいけない。


坂本が言った。


「文化財担当に連絡します。県にも相談した方がいいかもしれません」


「お願いします」


怜司は答えた。


「記事化は保留します。存在確認についても、役場の判断を待ちます」


坂本は少し驚いたように怜司を見た。


「すぐ出さないんですか」


「出しません」


「なぜ」


「今出せば、“女名控発見”という見出しになります」


怜司は封筒を見た。


「その言葉は強すぎます。中身を読まずに見出しだけが広がる」


坂本は黙った。


文書管理担当者も、ほっとしたように息を吐いた。


「助かります」


怜司は頷いた。


だが、心の中では別の声もあった。


出したい。

この発見を伝えたい。

読者に示したい。


しかし、それは怜司自身の興奮でもある。


興奮で記事を書けば、久我玲一の急ぎと同じになる。


ここは止まる。


止まって、確かめる。


表紙と一部の名だけを確認した後、女名控は一時的に封を戻された。


今後は専門家の立ち会いで確認することになった。


役場は正式な保存措置を検討する。


怜司は、その場で記録を整理した。


確認できたこと。


文書箱「伝承関連資料 昭和四十八年移管」が存在。

その中に「女名控」と書かれた封筒あり。

中に「寄合座外控 女名并言伝」と記された和紙束あり。

複数の女性名らしき記載あり。

「カヨ」と読める名あり。

内容の詳細は未確認。

専門家確認待ち。


確認できないこと。


カヨが何をしたか。

女名控がいつ書かれたか。

本帳との関係。

誰が役場へ移したか。

宗一郎の意図。

公開可能範囲。


確認できないことを書くのも、記録だった。


役場を出ると、外の空気がまぶしかった。


雪に反射した光が目に刺さる。


怜司は深く息を吸った。


資料館へ戻る前に、田崎昭夫に電話を入れた。


「三上です。女名控、確認されました」


電話の向こうで、長い沈黙があった。


「そうですか」


田崎の声は震えていた。


「ありましたか」


「はい。まだ内容確認はこれからですが、表紙は確認できました」


「宗一郎さんが、持ってきたものです」


田崎は言った。


怜司は手帳を開いた。


「詳しく伺えますか」


「昭和四十八年の春でした。事故の後です」


「事故の後」


「はい。宗一郎さんは、ひどく痩せていました。ほとんど眠っていない顔でした。古い封筒を持ってきて、役場の伝承資料として保管してほしいと言いました」


「なぜ役場に?」


「三上家に置いておけば、いつか自分が燃やすかもしれない、と」


怜司は息を止めた。


父は、自分を信用していなかった。


だから役場に預けた。


それは弱さでもあり、最後の踏みとどまりでもあった。


「田崎さんは中を読まなかったんですね」


「読まない約束でした」


「父は、何か言っていましたか」


田崎はしばらく考えた。


「女たちは、いつも本帳の外に置かれる、と言っていました」


怜司の胸に、その言葉が深く刺さった。


女たちは、いつも本帳の外に置かれる。


父は分かっていた。


記録から外された名の意味を。


「それから、もう一つ」


田崎は続けた。


「宗一郎さんは言いました。カヨを出せば、村は清之進だけを責められなくなる、と」


「清之進だけを責められなくなる?」


「はい。私は意味が分かりませんでした」


怜司は黙った。


清之進だけを責められない。


それは、カヨにも責任があるという意味ではない。


おそらく、もっと違う。


カヨを出せば、村の中に、アラムを助けようとした者がいたことも分かる。


同時に、助けようとした善意を、村が隠したことも分かる。


清之進という一人の悪人に罪を集められなくなる。


村全体の構造が問われる。


「田崎さん」


「はい」


「直接お話を伺いたいです」


「分かりました」


田崎は少し間を置いた。


「ただ、年寄りの記憶です。間違いもあるかもしれません」


「その前提で伺います」


「三上さん」


「はい」


「宗一郎さんは、あなたに話せなかったことを悔いていました」


怜司は目を閉じた。


「はい」


「でも、話せなかったからといって、あなたが全部背負う必要はありません」


また、その言葉だった。


一人で持つな。


怜司は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


電話を切った後、怜司はしばらく雪の上を見ていた。


父の沈黙は、ただの隠蔽ではなかった。


しかし、だからといって正当化もできない。


宗一郎は、女名控を燃やさなかった。

役場に預けた。

だが、公開しなかった。

息子にも話さなかった。

それが、父の限界だった。


資料館へ戻ると、澪が待っていた。


「どうでしたか」


怜司はコートの雪を払いながら答えた。


「ありました」


澪の顔が強張る。


「女名控が?」


「はい」


「カヨの名は?」


「確認できました。ただし、詳細はまだです」


澪は椅子に座り込むように腰を下ろした。


「本当にいたんですね」


「はい」


「歌の中だけじゃなくて」


「記録にもいました」


その言葉を言った瞬間、怜司は胸が熱くなった。


記録にもいました。


それは、名を返すための最初の一歩だった。


ただし、まだ返したわけではない。


名前を見つけることと、その人を理解することは違う。


「澄江さんに伝えますか」


怜司が聞くと、澪は少し考えた。


「伝えます。でも、私から話します」


「お願いします」


澪は頷いた。


「祖母は、たぶん泣くと思います」


怜司は何も言わなかった。


澄江はずっと、歌の中に泣いている子がいると言っていた。


だが、もしかすると、歌の中で泣いていたのは子どもだけではなかった。


カヨも、そこにいた。


夕方、怜司は第二回の原稿に取りかかった。


本当なら、女名控のことを書きたい。


だが、まだ書かない。


第二回では、記録の種類を説明する。


座帳。

手記。

歌詞控え。

祠跡。

役場資料。

証言。


それぞれの違い。


誰が、何のために、どの場面で残したのか。


記録には、書かれた事実だけでなく、書かれなかったものがある。


その構造を書く。


怜司は冒頭を修正した。


――伝承は、時に人を守る。

――だが、記録は、守られなかった人の名を問い返す。


その下に続けた。


――一方で、記録そのものもまた完全ではない。何が本帳に書かれ、何が外へ置かれたのか。その差を見なければ、過去は再び誰かの都合のよい形に整えられてしまう。


怜司は手を止めた。


本帳に書かれたもの。

外へ置かれたもの。


女名控のことを、直接書かずに準備する。


読者に、次の問いを受け取る器を作る。


それが今すべきことだった。


夜、澪が戻ってきた。


十和田家へ行っていたのだ。


顔は少し赤く、目元も濡れていた。


「祖母に話しました」


「どうでしたか」


澪は椅子に座った。


「泣きました」


怜司は黙って頷いた。


「カヨの名が記録にあったと言ったら、祖母は、よかった、と言いました」


「よかった」


「はい」


澪は目を伏せた。


「でも、その後で、かわいそうに、とも言いました」


「カヨが?」


「はい。歌に残って、記録から外されて、ようやく見つかった。長かったね、と」


怜司は、その言葉を手帳に書いた。


長かったね。


それは、記事の言葉ではないかもしれない。


だが、忘れてはいけない言葉だった。


澪は続けた。


「祖母が、カヨの歌を知っているかもしれないと言っていました」


怜司は顔を上げた。


「カヨの歌?」


「ナニャドヤラとは別に、短い節があるそうです。祖母も子どもの頃に一度だけ聞いたくらいで、ほとんど覚えていないらしいです。でも、明日までに思い出してみると」


新しい歌。


また、歌だった。


記録から外された名は、歌に残る。


文字と声が、互いに欠けた部分を補っていく。


「澪さん」


「はい」


「明日、澄江さんに取材をお願いできますか」


「はい。祖母も、そのつもりだと思います」


その時、怜司のスマートフォンが震えた。


メッセージ。


送信者は非通知ではなかった。


榊原道隆。


本文は短かった。


――女名控を見たか。


怜司の背筋が冷えた。


なぜ知っている。


役場での確認は、まだ外に出していない。


怜司はすぐに返信しなかった。


澪が画面を見て、顔色を変えた。


「榊原……」


次のメッセージが届く。


――カヨを美談にするな。

――あの女が守ったのは、アラムだけではない。


怜司は画面を見つめた。


指先が冷える。


あの女が守ったのは、アラムだけではない。


どういう意味だ。


カヨは、他に何を守ったのか。


誰を守ったのか。


清之進か。

伊佐衛門か。

三上家か。

村か。


それとも、まだ別の何かか。


すぐに三通目が来た。


――知りたければ、宗一郎が隠した録音を聞け。


録音。


怜司は、父の箱にあったテープを思い出した。


ラベルには、こう書かれていた。


悠一の歌。


榊原は、それも知っている。


なぜ。


どこまで知っている。


怜司はスマートフォンを置き、深く息を吸った。


返信はしない。


まず記録。


メッセージをスクリーンショットで保存し、警察と編集デスクへ共有する。


その手順を踏む。


澪が静かに言った。


「怖いですね」


「はい」


怜司は答えた。


「でも、焦らせようとしている」


「分かりますか」


「分かります」


榊原はいつも、こちらの手順を崩そうとする。


沢へ行かせようとした。

女名控を煽った。

今度は録音を聞かせようとしている。


だが、録音テープは古い。


焦って再生すれば壊れるかもしれない。


悠一の声を、二度失うことになる。


「聞きますか」


澪が尋ねた。


怜司は首を横に振った。


「すぐには聞きません。専門の人に確認してからです」


「はい」


「でも、次の焦点は決まりました」


怜司は手帳を開いた。


女名控。

カヨの歌。

悠一の録音。


文字。

歌。

声。


三つが繋がり始めている。


夜が深くなる。


怜司は第二回の原稿を保存し、父のテープの写真を開いた。


悠一の歌。


その中に、カヨがいるのか。


アラムだけではない、何かがあるのか。


まだ聞こえない声が、そこに眠っている。


父は、それを隠した。


いや、残した。


どちらなのかは、まだ分からない。


怜司は、画面を閉じた。


焦らない。


声を守るために、今は聞かない。


それもまた、聞くための準備だった。


外では、夜の雪が静かに降っていた。


雪の下の名は、文字として現れた。


次は、歌の中から現れる。


怜司はそう思いながら、手帳の最後に一行を書いた。


――本帳の外に置かれた名は、声の中で生きていた。

お読みいただきありがとうございます。

第20話では、役場の古い文書箱から「女名控」が確認され、そこにカヨの名があることが分かりました。


本帳から外された女たちの名。

カヨは、歌だけではなく、記録にも残されていました。


しかし榊原は、カヨを美談にするなと警告し、父が隠した「悠一の歌」の録音へ視線を向けさせます。

次回は、十和田澄江が思い出す「カヨの歌」と、悠一の録音テープの扱いが焦点になります。

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