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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第十九話 雪の下の名

父の箱から出てきた未送付の手紙。

そこには、宗一郎が聞いていた声と、隠していた名が記されていた。


だが怜司は、すぐには核心を書かない。

まず必要なのは、読者が真実を消費しないための入口だった。


連載「雪の下の名」が、静かに始まる。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

連載第一回の原稿を送ったのは、午前二時を過ぎてからだった。


三上怜司は送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめていた。


送った。


もう、戻せない。


いや、正確には戻せる。編集デスクが差し戻すこともできるし、紙面掲載前なら修正もできる。電子版の公開時間もまだ先だ。


だが、怜司の中では、何かが一つ進んでしまっていた。


連載が始まる。


「雪の下の名」。


その題名の下に、父が避け続けたもの、久我玲一が急ぎすぎたもの、葛原重蔵が形だけ残したもの、十和田家が歌に押し込めたものが、少しずつ出ていく。


怜司は椅子にもたれた。


資料館の仮眠室は静かだった。


机の上には、父の手紙のコピーが置かれている。


――誰も、簡単な形にするな。


その一文を、怜司は何度も読んだ。


簡単な形にしない。


だが、読者が追える形にはしなければならない。


難しい。


記者としての腕を問われている、というより、人間としての乱暴さを問われている気がした。


午前三時前、編集デスクから返信が来た。


――読んだ。

――第一回としては通せる。

――冒頭二行は少し文学寄りだが、今回は残す。

――ただし、以降は事実の積み上げをさらに強く。

――明朝公開。紙面は夕刊扱いで調整。


怜司は短く返信した。


――ありがとうございます。修正対応します。


すぐに、追加のメッセージが来た。


――三上。

――いい導入だ。

――でも、ここからが本番だ。

――お前自身が物語に酔うな。


怜司は画面の前で、小さく息を吐いた。


厳しい。


でも、ありがたかった。


自分はすでに当事者だ。


父の手紙を読んだ。

沢でカヨの名を見た。

澪の歌を聞いた。

透の怒りを見た。

澄江の許さない声を聞いた。


感情は入っている。


入らないわけがない。


だからこそ、酔ってはいけない。


怜司は原稿をもう一度開いた。


第一回では、アラムの名も、カヨの名も出していない。


書いたのは、現場で何が起きているか。


新郷村の伝承地周辺で確認された地下遺構。

古い記録の存在。

旧集会所の火災未遂。

沢での保全作業。

未確認情報の拡散。

関係者への過剰な接触を避ける必要。

伝承を消費せず、記録として検証する姿勢。


それだけだった。


それだけなのに、重かった。


なぜなら、その行間に、まだ出していない名が眠っているからだ。


怜司は少しだけ仮眠を取った。


眠ったというより、目を閉じていただけに近い。


朝八時。


スマートフォンの通知で目が覚めた。


電子版に連載第一回が掲載されていた。


見出しは、編集部で少し整えられていた。


――雪の下の名 第一回

――新郷村伝承地で進む確認作業 「断定」より先に必要なこと


派手ではない。


だが、逃げてもいない。


怜司は本文を開いた。


冒頭。


――雪は、音を消す。

――だが、消えたように聞こえる声が、本当に消えたとは限らない。


そこに続いて、事実が並ぶ。


一文一文、確認していく。


誤字はない。

編集で意味が変わった箇所もない。

煽りも足されていない。


怜司は、少しだけ胸を撫で下ろした。


その時、部屋の扉が軽く叩かれた。


「三上さん」


十和田澪だった。


「起きています」


怜司が答えると、澪が入ってきた。


手にはスマートフォンを持っている。


「読みました」


「どうでしたか」


怜司は思わず聞いた。


記者としてではなく、関係者に確認するような声になった。


澪は画面を見つめたまま言った。


「怖くありませんでした」


「怖くない?」


「はい。この記事を読んで、誰かが急に押しかけてくる感じはしませんでした」


怜司は息を吐いた。


それは、何より大事な感想だった。


「でも、隠している感じもしませんでした」


澪は続けた。


「まだ言っていないことがあるのは分かる。でも、出し惜しみではなく、順番を守っている感じがしました」


怜司は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


「祖母にも読ませます」


その言葉に、怜司は少し緊張した。


「反応が怖いですね」


「怖いです」


澪は正直に言った。


「でも、読ませます。これは、私たちにも必要な記事だと思うので」


私たちにも必要な記事。


その言葉は、怜司の胸に静かに残った。


記事は外へ出すものだと思っていた。


読者へ。

社会へ。

世間へ。


だが、今回は違う。


村の中の人たちが、自分たちの記憶をもう一度見るための記事でもある。


それを忘れてはいけない。


午前九時を過ぎると、反応が増え始めた。


青森日日新聞のサイト。

ニュースアプリ。

SNS。

地域掲示板。

動画サイトのコメント欄。


怜司は、反応を確認するための表を作っていた。


事実誤認。

過剰な推測。

現地訪問を煽る投稿。

関係者名の晒し。

建設的な反応。

取材協力の申し出。


感情で追うと飲まれる。


分類して見る。


そう決めていた。


最初に増えたのは、やはり好奇心だった。


「キリストの墓の真相ついに来た?」

「地下遺構って何?」

「古記録ってやばくない?」

「もっと出せよ」

「隠すな」


怜司は一つずつ記録した。


怒らない。


焦らない。


反応は反応として見る。


次に、現地へ行こうとする投稿が出てきた。


「週末行ってみる」

「沢ってどこ?」

「地元民なら分かる?」

「誰か案内して」


怜司はすぐに編集デスクへ共有した。


同時に、役場の坂本にも連絡する。


坂本からはすぐに返信が来た。


――こちらでも確認しています。

――立ち入り制限と注意喚起を出します。

――記事内の呼びかけ、助かりました。


怜司は画面を見ながら、少しだけ安堵した。


記事は、火をつけるだけではない。


火の広がりを抑えることもできる。


もちろん、完全には止められない。


だが、やらないよりはいい。


昼前、編集部からオンライン会議の通知が来た。


怜司は資料館の一室を借り、パソコンを開いた。


画面には、編集デスクと、社会部の上長、デジタル担当、法務担当が映った。


空気は硬かった。


上長が最初に言った。


「第一回は数字が出ています」


怜司は黙って聞いた。


「通常の地域連載よりかなり読まれている。滞在時間も長い。ただ、検索流入は『キリストの墓』『真相』『地下』あたりが多い」


デジタル担当が続ける。


「見出しを強めれば、もっと伸びます」


怜司は画面越しに、その言葉を聞いた。


来た。


予想していた。


「例えば」とデジタル担当が言う。


「第二回で、古記録にあった人名を一つ出す。見出しに入れる。読者を引っ張れます」


編集デスクが眉をひそめた。


「まだ確認段階だ」


「でも、連載は初速が大事です。ここで引っ張らないと、他のまとめサイトに持っていかれます」


「持っていかれないために雑に出すのは違う」


二人の声が少し強くなる。


上長が怜司を見た。


「三上、お前の考えは」


怜司は背筋を伸ばした。


「第二回で核心の人名は出しません」


デジタル担当が少し不満そうな顔をした。


「理由は?」


「まだ関係者確認が終わっていません。特に、沢で見つかった文字は専門家の確認前です。名前を見出しにすれば、検索対象になります。関係者や地域への接触も増えます」


「でも、読者は知りたがっている」


「知りたがっていることと、今出していいことは違います」


怜司ははっきり言った。


画面の向こうが少し静かになった。


怜司は続けた。


「第二回は、伝承と記録の違いを扱いたいです。なぜ断定を急がないのか。座帳や手記、歌、祠跡という資料が、それぞれ違う性質を持つことを書く。読者に読むための準備をしてもらう回にします」


デジタル担当は腕を組んだ。


「地味ですね」


「地味です」


怜司は認めた。


「でも、ここを飛ばすと、第三回以降が全部“隠された名前の暴露”になります」


編集デスクが頷いた。


「俺も三上案でいいと思う」


上長はしばらく考えていた。


「数字も大事だ」


その言葉に、怜司は黙った。


上長は続けた。


「だが、この連載は扱いを間違えれば新聞社の信用を落とす。第二回は三上案で行く。ただし、読ませる工夫はしろ。資料の種類と検証手順を、読者が離れない形で書け」


「はい」


会議はそこでまとまった。


だが、最後に法務担当が口を開いた。


「榊原道隆氏の扱いについて確認したいです」


怜司の体が少し硬くなった。


「はい」


「火災未遂や過去の発言について書く場合、裏取りと表現には注意が必要です。特に“真実を商品にしようとした”という評価は、証言だけでは危うい」


「分かっています」


「本人への取材は?」


「必要だと思っています」


編集デスクが顔をしかめた。


「会うのか」


「会わずに書くのは危険です」


怜司は言った。


「ただし、単独では会いません。場所も記録も整えます」


上長が頷いた。


「それで進めろ。榊原が話すなら、録音必須。できれば社側からもう一人入れる」


「承知しました」


会議が終わると、怜司は深く息を吐いた。


社内にも、戦いがある。


敵というほど単純ではない。


デジタル担当の言うことも、完全に間違いではない。


読まれなければ、届かない。


他の媒体に雑に扱われるくらいなら、自分たちが先に丁寧に出すべきだという考え方もある。


だが、読ませるために人名を餌にしたら、榊原と同じになる。


その線を、毎回引かなければならない。


午後、村の反応が届き始めた。


坂本から、役場に問い合わせが増えているとの連絡。


資料館には電話が鳴り続けている。


保存会の一部からは、「伝承を壊す記事ではないか」という懸念。


若い村民からは、「ちゃんと書いてほしい」という声。


古い世代からは、沈黙。


その沈黙が、一番重かった。


夕方、怜司は十和田家を訪ねた。


澄江は居間で記事を読んでいた。


紙に印刷されたものだった。


画面ではなく、紙で読みたいと言ったらしい。


怜司が頭を下げると、澄江はゆっくり顔を上げた。


「読みました」


「はい」


「まだ、何も書いていないね」


怜司は一瞬、胸を突かれた。


澄江は続けた。


「でも、何も書かないための記事ではなかった」


怜司は静かに頷いた。


「はい」


「なら、いい」


その短い言葉に、怜司は救われた気がした。


澄江は紙面を折り畳んだ。


「村では、いろいろ言われるだろう」


「はい」


「十和田にも来る」


「申し訳ありません」


「謝るのは早い」


澄江の声は鋭かった。


「謝るなら、最後まで書いてからにしなさい」


怜司は言葉を失った。


澄江は続けた。


「途中で怖くなって止まるなら、最初から書かない方がいい。でも、急いで壊すなら、それも違う」


「はい」


「あなたは、難しい道を選んだ」


「そう思います」


「選んだなら、歩きなさい」


澄江はそう言って、窓の外を見た。


「私も、話すことを選んだ。澪も歌うことを選んだ。透さんも、父親を英雄にしないことを選んだ。あなただけが逃げるのは許さない」


厳しい言葉だった。


だが、不思議と温かかった。


信頼とは、優しい言葉だけではない。


逃げるなと言われることも、信頼なのだと怜司は思った。


「逃げません」


怜司は言った。


澄江は、ほんの少しだけ頷いた。


その帰り道、澪が言った。


「祖母、三上さんに厳しいですね」


「ありがたいです」


「本当に?」


「はい」


怜司は苦笑した。


「怖いですけど」


澪は少し笑った。


その笑いを聞いて、怜司の胸も少し軽くなった。


資料館へ戻る途中、怜司のスマートフォンが震えた。


知らない番号。


一瞬、榊原かと思った。


だが、表示された番号は違っていた。


怜司は車を止め、電話に出た。


「三上です」


電話の向こうから、年配の男性の声が聞こえた。


「青森日日新聞の三上さんですか」


「はい」


「記事を読みました」


「ありがとうございます」


「私は、昔、三上宗一郎さんと同じ役場にいた者です」


怜司の背筋が伸びた。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「田崎と申します。田崎昭夫」


怜司は手帳を開いた。


聞いたことのない名前だった。


「田崎さん。父をご存じなんですか」


「ええ。昭和四十八年当時、私は資料整理の担当でした」


資料整理。


怜司の指が止まる。


田崎は続けた。


「あの時、宗一郎さんから一つ頼まれたことがあります」


「何でしょうか」


「座帳の別紙を、役場の古い文書箱に移した」


怜司の呼吸が浅くなった。


別紙。


父のメモにあった言葉。


カヨの名があるかもしれないもの。


「その別紙は、今もありますか」


電話の向こうで、田崎は少し沈黙した。


「分かりません。私は退職して長い。ただ、処分されたとは聞いていません」


「どんな内容でしたか」


「私は読んでいません」


田崎はすぐに答えた。


「宗一郎さんに、読まないでくれと言われました。ただ、表紙に一つだけ文字がありました」


「何と?」


「女名控」


怜司は、ペンを握る手に力を込めた。


女名控。


女性の名を控えた記録。


おそらく、座帳本体に残せなかった名。


「田崎さん、その件について直接お話を伺えますか」


「構いません。ただし、私の名前をすぐに出すのは控えてほしい」


「もちろんです。公開範囲は確認します」


田崎は、ほっとしたように息を吐いた。


「宗一郎さんは、ずっと苦しんでいました」


怜司は黙った。


田崎の声は、少し遠くなった。


「あの人は悪いことをした。私もそう思います。でも、全部を一人で持とうとしていた。それもまた、間違いでした」


「はい」


「三上さん」


「はい」


「あなたは、一人で持たないでください」


怜司は目を閉じた。


父を知る人から、その言葉を聞くとは思わなかった。


「ありがとうございます」


電話を切った後、怜司はしばらく動けなかった。


澪が静かに尋ねた。


「何か分かったんですか」


怜司は頷いた。


「座帳の別紙が、役場に残っているかもしれません」


「別紙……」


「表紙には、“女名控”とあったそうです」


澪の目が大きくなる。


「カヨのこと?」


「たぶん」


怜司は手帳を閉じた。


連載第一回は、まだ核心に触れていない。


だが、記事が出たことで、沈黙していた人が動き始めた。


澄江が言った通りだった。


何も書いていないようで、何かを開けた。


夜、怜司は編集デスクに連絡した。


田崎昭夫からの連絡。

座帳別紙の可能性。

女名控という表題。

役場文書箱に移された可能性。


編集デスクは短く言った。


「明日、役場に正式照会をかけろ」


「はい」


「それと、田崎氏の取材も進めろ。ただし、名前を出すのは慎重に」


「分かっています」


「三上」


「はい」


「第一回、効いたな」


怜司は黙った。


「派手な見出しじゃなくても、届く時は届く」


編集デスクの声は、少しだけ柔らかかった。


「第二回、落とすなよ」


「はい」


電話を切ると、怜司はノートパソコンを開いた。


第二回の構成。


テーマは決まっている。


伝承と記録の違い。

そして、記録にも残せなかった名。


ただし、女名控の存在は、まだ出さない。


まず確認する。


役場にあるのか。

本物なのか。

誰が書いたのか。

なぜ本帳から分けられたのか。


怜司は構成メモの最後に、こう書いた。


――記録に残る名と、記録から外された名。その差に、共同体の恐れがある。


打ち終えたところで、外から声が聞こえた。


資料館の前で、誰かが騒いでいる。


怜司と澪は顔を見合わせた。


窓から外を見る。


数人の若者が、スマートフォンを掲げていた。


「ここが例の場所?」

「ライブ回ってる?」

「沢ってどっち?」


胸が冷えた。


もう来た。


記事では止めきれなかった人たち。


怜司はすぐに坂本へ連絡した。


同時に、資料館の職員が外へ出る。


若者たちは悪意があるようには見えなかった。


ただ、軽かった。


軽さが、一番怖い。


怜司は窓越しに、その様子を見ながら拳を握った。


これが現実だ。


どれだけ慎重に書いても、消費する人はいる。


それでも書くのか。


自分に問いかける。


答えは、すぐには出なかった。


だが、澪が隣で言った。


「だから、続けるんですよね」


怜司は彼女を見た。


澪は外を見たまま続けた。


「軽く扱う人がいるから、重く扱う言葉が必要なんだと思います」


怜司は、ゆっくり頷いた。


そうだ。


止めるためではない。


対抗するためだ。


正確な言葉で。

手順を踏んだ記録で。

簡単に消費されない形で。


若者たちは、職員と坂本に促され、やがて車へ戻っていった。


大きな騒ぎにはならなかった。


だが、始まったのだと怜司は思った。


連載は、もう紙面の中だけにはない。


村の道に出ている。

役場の電話に出ている。

十和田家の居間に届いている。

父を知る田崎の沈黙を破っている。

そして、軽い好奇心も呼び込んでいる。


書くとは、そういうことだった。


夜が深くなった頃、怜司は第二回の冒頭を書き始めた。


――伝承は、時に人を守る。

――だが、記録は、守られなかった人の名を問い返す。


そこで手を止める。


少し強い。


だが、今度は逃げたくなかった。


第二回は、第一回より踏み込む。


ただし、まだ名前は出さない。


読者に、問いを渡す。


名を知る前に、名が消される構造を見てもらう。


それが次の一歩だった。


机の上には、父の手紙。

久我玲一の手記。

十和田家の歌詞控え。

沢の写真。

そして、新しく書いたメモ。


女名控。


その四文字が、静かに光って見えた。


雪の下の名は、一つではない。


そして、名が複数あるということは、痛みも複数あるということだった。


怜司はキーボードに指を置いた。


逃げない。


急がない。


止まらない。


その三つを、心の中で繰り返しながら、第二回を書き始めた。

お読みいただきありがとうございます。

第19話では、連載「雪の下の名」第一回が公開されました。


慎重な記事でありながら、村・社内・ネットに反応が広がり、父を知る元役場職員・田崎昭夫から「女名控」という座帳の別紙の存在が示されます。


次回は、役場に残された可能性のある「女名控」の確認へ進みます。

カヨの名が、正式な記録からなぜ外されたのかが焦点になります。

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