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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第十八話 父の箱

沢で見つかった新たな名。


カヨ。


それは、座帳にも手記にも、まだはっきりとは現れていなかった名だった。

だが榊原は言った。


三上宗一郎は知っていた。

だから黙った。


怜司は、実家に残された父の遺品を開く。

沈黙の箱の中に、父は何を残していたのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

三上怜司の実家は、八戸市内の古い住宅街にあった。


新郷村から車で戻る道のりは、思っていたより長く感じた。


山あいの白い景色が、少しずつ街の灰色へ変わっていく。道路脇の雪は黒く汚れ、信号の赤が濡れた路面に滲んでいた。


助手席には、澪が座っていた。


彼女は迷った末に同行することを選んだ。


「本当にいいんですか」


怜司は運転しながら尋ねた。


「父の遺品を見るだけです。取材ではありますけど、かなり個人的な作業になります」


澪は窓の外を見たまま答えた。


「だから、一人で見ない方がいいと思いました」


怜司は少し黙った。


「僕が感情的になるから?」


「それもあります」


澪は正直だった。


「でも、それだけではありません。三上さんが一人で見たら、たぶん全部を背負おうとします」


その言葉に、怜司は返事ができなかった。


図星だった。


父の箱を開ける。


それは、記事のためだけではない。


息子として、避け続けてきた作業でもある。


父が何を隠したのか。

何を悔いたのか。

何を残したのか。

そして、自分に何を渡さなかったのか。


知りたい。


だが、知った後で、父をどう呼べばいいのか分からない。


悪人。

弱い人。

記録者。

逃げた人。

謝った人。

父。


そのどれもが当てはまり、どれも足りない。


「ありがとうございます」


怜司が言うと、澪は少しだけ笑った。


「取材協力です」


「助かります」


「でも、無理に見せなくていいものは見せなくていいです」


「はい」


その線引きも必要だった。


記事のために、父のすべてを暴く必要はない。


だが、必要なものから目を逸らすわけにもいかない。


実家に着いたのは、昼前だった。


家は静かだった。


母は数年前に亡くなっている。父が死んだ後、怜司はこの家を売ることも片づけることもできず、ときどき風を通しに来るだけになっていた。


玄関を開けると、冷えた空気が出迎えた。


古い木の匂い。

畳の匂い。

少しだけ埃の匂い。


「寒いですね」


澪が言った。


「暖房を入れます」


怜司は居間のエアコンをつけ、納戸へ向かった。


廊下の奥。


そこに、父の箱があった。


段ボール三つ。


死後、最低限のものだけを詰めて、そのまま置いた。


表面には、怜司自身の字で「父 書類」「父 手帳・小物」「新聞関係」と書かれている。


その字を見た瞬間、胸が少し苦しくなった。


父。


自分は、父の名前すら書かなかった。


三上宗一郎ではなく、ただ「父」。


それは親しみではなかった。


向き合うことから逃げるためのラベルだった。


「ここです」


怜司は言った。


澪は段ボールを見て、小さく頷いた。


「ゆっくりで大丈夫です」


怜司は一つ目の箱を持ち上げ、居間へ運んだ。


テーブルの上に置く。


ガムテープは劣化し、端が少し剥がれていた。


カッターを当てる手が止まる。


澪は何も言わなかった。


急かさない。


それがありがたかった。


怜司は息を吐き、テープを切った。


箱の中には、新聞の切り抜きが入っていた。


青森日日新聞。

地方紙。

全国紙。

観光特集。

キリストの墓に関する記事。

新郷村の祭り。

ナニャドヤラ。

昭和四十八年の小さな事故記事。


怜司は、その事故記事を手に取った。


――民俗研究者と地元青年、沢で遭難

――一名死亡、一名重体


久我玲一と十和田悠一のことだった。


記事は短かった。


雪による遭難事故。

現場は危険な沢筋。

調査中だった可能性。

警察が原因を調べている。


そこに、村の沈黙は書かれていない。

宗一郎の名もない。

修二の名もない。

アラムも、カヨもない。


ただ、事故として処理された。


父はこの記事を切り抜いて、残していた。


なぜか。


自分の罪を忘れないためか。

それとも、いつか誰かに渡すためか。


切り抜きの裏に、鉛筆の書き込みがあった。


怜司は息を止めた。


――声は聞こえていた。


たった一文。


父の字だった。


怜司の指が震えた。


澪がそっと覗き込む。


「三上さん」


「父の字です」


怜司は声を絞り出した。


「声は聞こえていた、と」


澪は何も言わなかった。


怜司はその切り抜きをテーブルに置いた。


父は、自分に嘘をつかなかった。


いや、世間には黙った。


村にも黙った。


怜司にも言わなかった。


だが、紙の裏には書いた。


声は聞こえていた。


それは、告白というより、罰だった。


次の切り抜き。


キリストの墓を紹介する観光記事。


父は赤ペンで一部に線を引いていた。


――村人は古くから伝承を守り続けてきた。


その横に、父の字で書かれている。


――守ったのではない。押し込めた。


怜司は唇を噛んだ。


父は分かっていた。


自分たちが何をしたのか、分かっていた。


それでも、書かなかった。


書けなかった。


箱の底には、古い封筒があった。


表には何も書かれていない。


怜司は中を開けた。


数枚のメモと、一枚の写真。


写真には、若い父が写っていた。


二十代の終わりか、三十代の初め。


隣には、久我玲一がいた。


二人は雪の中に立っている。


背景には、沢の二つの岩が見えた。


怜司は息を呑んだ。


「父と久我さんが、一緒に沢へ行っている」


澪も目を見開いた。


「事故の日より前ですか」


写真の裏を見る。


昭和四十八年二月二十日。


久我玲一の祠写真と同じ日だった。


父も、そこにいた。


手記には「写真を撮った」とあったが、父の同席までは明確ではなかった。


つまり、父は祠を見ていた。


カヨの名も、見ていた可能性が高い。


メモを開く。


父の字。


乱れている。


――久我氏、祠の板を確認。

――清之進の名。アラムの名。

――「守リシ者 カヨ」と読める。

――久我氏は、清之進の罪だけではないと言う。

――カヨとは誰か。


怜司の鼓動が速くなった。


父は、本当に知っていた。


少なくとも、カヨの名を見ていた。


次のメモ。


――葛原に確認。

――カヨの名を出すと顔色を変える。

――古い座帳の別紙にあるかもしれないと言う。

――本帳には残せなかった名。


本帳には残せなかった名。


怜司は、メモを握りしめた。


座帳は、完全な記録ではない。


葛原も言っていた。


事実の形だけを書いた。

人間の言葉を書かなかった。


だが、それだけではない。


書けなかった名がある。


カヨ。


「別紙……」


澪が呟いた。


「座帳とは別に、何かがあったんでしょうか」


「おそらく」


怜司は次のメモを開いた。


――カヨ。

――清之進の妹、または許嫁との伝え。

――異国の子を最初に匿った女。

――清之進が連れ戻したのではない。

――カヨが逃がそうとした。


怜司は、文字を追う目が止まった。


カヨが逃がそうとした。


アラムは、ただ村に迷い込んだ異国の子ではなかった。


誰かに匿われた。


そして、誰かに逃がされようとしていた。


「カヨは、アラムを守ろうとした人……」


澪が小さく言った。


怜司は頷いた。


「少なくとも、父はそう書いています」


次の行。


――だが、逃がせば村に災いが来ると清之進は言った。

――清之進はアラムを奪い返し、カヨは追った。

――沢で何が起きたかは不明。

――清之進は後年、祠を建てた。

――祠はアラムのためだけではない。カヨのためでもある。


部屋の空気が、また変わった。


アラムの死。


それは、清之進が一方的に異国の子を傷つけた話だけではなかった。


そこには、カヨという女がいた。


守ろうとした者。

手を引いた者。

逃がそうとした者。


そして、おそらく、失敗した者。


怜司は榊原の言葉を思い出した。


あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。


それは、アラムを貶める言葉ではなかったのかもしれない。


アラムの周りに、人間の関係があったという意味だったのかもしれない。


守った者。

奪った者。

逃げようとした者。

追った者。

隠した者。


アラムはただの象徴ではない。


誰かに愛され、誰かに恐れられ、誰かに利用され、誰かに隠された子どもだった。


「三上さん」


澪の声が震えていた。


「歌の中の“手を引いた人”は、カヨだったのかもしれません」


「はい」


「なら、歌はアラムだけじゃなく、カヨの後悔も残していた」


怜司はメモを見つめた。


父は、そこまで知っていた。


それでも黙った。


なぜか。


次の封筒に、その答えが近づいていた。


封筒には、父の字で小さく書かれていた。


――出せなかった理由。


怜司は、その文字を見て、喉が渇くのを感じた。


澪も何も言わなかった。


開けるかどうかは、怜司が決めることだった。


怜司は封筒を開けた。


中には、三枚の便箋が入っていた。


誰かに宛てた手紙の下書きのようだった。


宛名はない。


ただ、冒頭にこう書かれていた。


――怜司へ。


怜司の呼吸が止まった。


自分宛てだった。


だが、渡されなかった手紙。


父は、書いた。


そして、出さなかった。


怜司は便箋を持つ手に力を込めた。


読み始める。


――怜司。

――お前がこれを読む時、私はもういないかもしれない。

――生きているうちに話すべきだった。だが、私は最後までうまく話せなかった。

――これは言い訳ではない。言い訳にしてはいけない。

――私は、悠一の声を聞いた。

――助けなかった。

――助けられなかったのではなく、助けに行かなかった。


怜司の目が滲んだ。


父は、はっきり書いていた。


助けに行かなかった。


そこに逃げはない。


便箋の続き。


――私は、久我玲一を止めようとした。

――だが、止める理由を言わなかった。

――言えば、私もまたカヨの名を表に出すことになるからだ。


カヨ。


やはり、そこだった。


――カヨは、三上の血に連なる女だった。

――清之進の妹であり、伊佐衛門の妻となるはずだった人だ。

――だが、彼女はアラムを匿い、逃がそうとした。

――それは善意だった。

――しかし、その逃避が、アラムを沢へ向かわせた。


怜司は息を呑んだ。


三上の血に連なる女。


カヨは、三上家の人間だった。


父が黙った理由。


村を守るだけではない。


三上家の名を守るためでもあった。


いや、もっと複雑だ。


カヨは守ろうとした。

だが、その行動がアラムを死へ近づけた。


善意が、悲劇の一部になった。


それを出せば、アラムの物語は単純な被害者の話ではなくなる。


三上家は、加害と救済の両方に関わっていたことになる。


怜司は便箋を読み進めた。


――久我氏は言った。

――カヨを隠すことは、アラムをもう一度消すことだ、と。

――私は言った。

――カヨを出せば、アラムは村を恨むための道具にされる、と。

――どちらも正しかった。

――そして、どちらも臆病だった。


怜司の目から、涙が落ちた。


父は、自分を裁いていた。


だが、裁くだけで終わった。


便箋の文字は、後半になるほど乱れていた。


――悠一は、カヨの名を歌に戻そうとしていた。

――十和田の歌は、アラムだけでなくカヨの名も抱えていると言った。

――久我氏はそれを聞き、沢へ行く決意を固めた。

――私は止めた。

――修二も止めた。

――だが、修二の止め方は違った。

――あいつは、秘密を守るために人を押した。


怜司の手が震えた。


修二。


久我玲一を落とした男。


その動機が、ここで繋がる。


単に久我を憎んだのではない。


秘密を守るため。


それも、カヨの名を含む秘密。


便箋の最後に近い部分。


――私は修二を止められなかった。

――久我氏が落ちた。

――悠一が叫んだ。

――雪が強くなった。

――私は足が動かなかった。

――悠一は生きていた。

――助けを呼んでいた。

――私は聞いていた。

――それでも、降りなかった。

――死ぬのが怖かった。

――真実が出るのも怖かった。

――自分が何をしたのか分かるのが怖かった。


怜司は便箋を置いた。


もう読めないと思った。


だが、読まなければならない。


父は、書いた。


出せなかったとしても、書いた。


なら、怜司は読む。


最後の段落。


――怜司。

――もしお前が記者としてこのことに触れるなら、私を許す必要はない。

――三上の名を守る必要もない。

――ただ、カヨを悪人にするな。

――清之進を怪物だけにするな。

――アラムをかわいそうな子として閉じ込めるな。

――悠一の声を、私の罪の飾りにするな。

――久我氏を英雄にするな。

――誰も、簡単な形にするな。

――私はそれができなかった。

――お前は、できるなら、そうしてくれ。


便箋は、そこで終わっていた。


署名はなかった。


だが、父の字だった。


怜司はしばらく、何も見えなかった。


涙で視界が滲んでいた。


澪は黙っていた。


彼女は、怜司の泣く時間を邪魔しなかった。


どれくらい経ったのか分からない。


やがて怜司は、深く息を吐いた。


「父は、僕に渡すつもりだったんでしょうか」


澪は静かに答えた。


「渡したかったんだと思います」


「渡せなかった」


「はい」


「最後まで」


「はい」


その答えは厳しかった。


でも、優しかった。


父は渡せなかった。


だからといって、書いたことが無意味になるわけではない。


だが、渡さなかった罪も消えない。


「澪さん」


「はい」


「この手紙は、すぐには記事にしません」


「その方がいいと思います」


「でも、内容は無視できない」


「はい」


「まず、葛原さんに確認します。カヨの別紙があるのか。十和田澄江さんにも聞きます。歌の中にカヨの名があるのか。榊原にも、なぜ知っていたのか確認する必要があります」


澪は頷いた。


「三上さん自身は、大丈夫ですか」


怜司は少し笑った。


「大丈夫ではないです」


「はい」


「でも、一人で読まなくてよかった」


澪は何も言わず、小さく頷いた。


怜司は便箋を丁寧に戻した。


封筒には、もう一度「怜司へ」と書かれている。


父の字。


生きている間に届かなかった声。


それでも、今、届いた。


午後、怜司は父の箱をさらに調べた。


二つ目の箱には、手帳が数冊入っていた。


仕事用のメモ。

村での聞き取り。

葛原との会話。

十和田家への訪問記録。

榊原道隆の名前も、何度も出てきた。


あるページに、赤い線が引かれていた。


――榊原、カヨの名を知る。

――観光化に使う気配。

――「聖者を導いた女」として売る案を口にする。

――許せない。


怜司は歯を食いしばった。


榊原は、四十年前から同じだった。


真実ではなく、売れる形だけを見ていた。


カヨもまた、商品にされかけていた。


父はそれを恐れた。


その恐れは正しかった。


だが、恐れた結果、すべてを閉じた。


それが間違いだった。


三つ目の箱には、万年筆と古い録音テープが入っていた。


ラベルには、父の字でこう書かれている。


――悠一の歌。


怜司は息を止めた。


「これ……」


澪も顔色を変えた。


「悠一の声ですか」


「たぶん」


再生機は家にはない。


テープは古い。無理に再生すれば壊れるかもしれない。


怜司はすぐに箱へ戻した。


「専門の業者か、資料館で相談します」


澪は安堵したように頷いた。


「はい」


怜司は、その自分の判断に少し驚いた。


以前なら、すぐに聞きたいと思ったかもしれない。


今も聞きたい。


だが、壊してまで聞いてはいけない。


声は、そこにある。


なら、急がなくていい。


夕方、父の箱の整理を終える頃、外は薄暗くなっていた。


怜司は重要な資料をリスト化した。


切り抜き。

祠で撮った父と久我の写真。

カヨに関するメモ。

怜司宛ての未送付手紙。

榊原に関する手帳記録。

「悠一の歌」と書かれた録音テープ。


すべてを写真に撮り、原本は元の封筒に戻す。


持ち出すものは、必要最小限にする。


父の箱を閉じる時、怜司は手を止めた。


閉じれば、また父を箱に戻すことになる気がした。


だが、もう違う。


今度は、閉じ込めるためではない。


持ち運べる形に整理するためだ。


「また来ます」


怜司は、誰にともなく言った。


澪は黙って聞いていた。


帰りの車の中で、雪が降り始めた。


小さな雪が、フロントガラスに当たっては溶ける。


怜司はハンドルを握りながら、父の手紙の最後を思い出していた。


誰も、簡単な形にするな。


それは、記者として最も難しい注文だった。


記事は、分かりやすくする仕事でもある。


だが、分かりやすさは時に、人を切り捨てる。


複雑なまま出せば、読まれない。

単純にすれば、誰かを消す。


その間を探さなければならない。


「三上さん」


澪が声をかけた。


「はい」


「カヨのこと、怖いですか」


怜司は少し考えた。


「怖いです」


「なぜですか」


「三上家の人間だからです」


正直に答えた。


「清之進も、カヨも、伊佐衛門も、宗一郎も。三上の名が、あまりにも深く関わっている」


澪は窓の外を見た。


「それでも、カヨはアラムを守ろうとした」


「はい」


「でも、その善意が悲劇につながった」


「はい」


澪は小さく息を吐いた。


「人間ですね」


怜司は、その言葉に目を向けた。


澪は続けた。


「きれいな人でも、悪い人でもなくて。人間だったんですね」


怜司は頷いた。


「たぶん、それを書くんだと思います」


「読者は、受け止めてくれるでしょうか」


「分かりません」


怜司は前を見た。


「でも、受け止めやすいように嘘をつくわけにはいきません」


雪が強くなってきた。


ヘッドライトの中で、白い粒が斜めに流れる。


怜司は速度を落とした。


急がない。


道路でも、記事でも。


資料館へ戻ると、編集デスクからメッセージが来ていた。


――企画会議、通った。

――連載タイトルは「雪の下の名」。

――初回は三日後。

――ただし、第一回は現場保全と報道姿勢から入る。

――人名の核心はまだ出さない。

――準備しろ。


怜司は画面を見つめた。


通った。


ついに、連載が始まる。


だが、喜びよりも重さが先に来た。


雪の下の名。


その名は、アラムだけではなくなった。


カヨ。

伊佐衛門。

悠一。

久我玲一。

宗一郎。

清之進。


そして、まだ読めない誰か。


怜司は父の手紙を鞄から出し、机の上に置いた。


記事にはまだしない。


だが、その言葉を自分の前に置いておく必要があった。


誰も、簡単な形にするな。


それは父の願いであり、父が果たせなかった責任であり、怜司への最後の取材依頼でもあった。


夜、怜司は連載第一回の原稿を書き始めた。


冒頭は、沢ではなかった。


カヨでもなかった。


父の手紙でもなかった。


最初に書いたのは、こうだった。


――雪は、音を消す。

――だが、消えたように聞こえる声が、本当に消えたとは限らない。


怜司はその二行を見つめた。


少し迷った。


小説のようすぎるかもしれない。


記事としては危うい。


だが、連載の導入として、これ以上の言葉は今の自分にはなかった。


その下に、事実を書いていく。


新郷村の伝承地。

地下遺構。

古記録。

沢の保全。

未確認情報の拡散。

関係者の尊厳。

地域の生活。


そして最後に、こう置いた。


――本連載では、関係者の証言と資料確認を重ねながら、伝承の陰に置かれてきた名と声を追う。断定を急がず、消費を避け、残された記録と向き合う。


怜司は送信せず、保存した。


まだ足りない。


だが、始まりにはなる。


外では雪が降っている。


父の箱は、もう閉じたままではない。


その中から出てきた声は、怜司の前に置かれている。


声は聞こえていた。


その一文を、怜司は忘れない。


父が聞いていた声。


自分が今、聞かなければならない声。


そして、これから書く声。


夜は深い。


だが、雪の下にあった名は、確かに少しずつ姿を現し始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

第18話では、怜司が父・宗一郎の遺品を開き、カヨが三上家に連なる女性であり、アラムを匿い逃がそうとした存在だったことが明らかになりました。


宗一郎は、カヨを悪人にも美談にもできず、真実を出せないまま沈黙していました。

しかし、その沈黙は罪を消すものではなく、怜司への未送付の手紙として残されていました。


次回は、連載「雪の下の名」第一回の公開と、それに対する村・社内・ネットの反応が描かれます。

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