第十七話 歌の始まりの沢
榊原の警告を受け、怜司は沢へ向かう準備を整えた。
単独では動かない。
発見物には触れない。
記事化を急がない。
四十年前、久我玲一と十和田悠一が向かい、三上宗一郎が止めきれなかった場所。
そこに、清之進の祠はまだ残っているのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
沢へ向かう朝、空は低かった。
雪は降っていない。
だが、雲は山の上に重く垂れ込み、いつまた白いものを落としてもおかしくなかった。
三上怜司は資料館の前で、手袋をはめ直した。
足元には長靴。上着の内ポケットには手帳。鞄の中には録音機、カメラ、予備バッテリー、地図のコピー、久我玲一が撮った祠の写真の複写。
そして、取材計画書。
それがあるだけで、少しだけ自分を抑えられる気がした。
資料館の駐車場には、すでに数人が集まっていた。
村役場の坂本。
消防団の佐伯。
警察の刑事が二人。
十和田澪。
久我透。
澪は厚手の上着を着込み、首元までしっかり覆っていた。顔色はよくないが、目は逸らしていない。
透は無言で車の横に立っていた。黒い手袋を握りしめるようにしている。
「全員そろいましたね」
坂本が地図を広げた。
「沢の入口までは車で行けます。ただし、その先は徒歩です。積雪が残っていますし、沢筋は崩れやすい。佐伯さんの判断に従ってください」
消防団の佐伯は五十代ほどの男だった。日に焼けた顔に、深い皺がある。
「危ないと思ったら止めます」
佐伯は短く言った。
「祠が見えそうでも、足場が悪ければ近づきません。発見物があっても触らない。写真も、警察の確認が先です」
怜司は頷いた。
「分かっています」
佐伯は怜司をじっと見た。
「分かっていても、近づきたくなる場所です」
その言葉に、怜司は息を呑んだ。
佐伯も、何かを知っているのだろうか。
「佐伯さんは、あの沢へ行ったことがあるんですか」
怜司が尋ねると、佐伯は少し間を置いて答えた。
「若い頃に一度だけ」
「祠を見ましたか」
「崩れた後でした。祠そのものはありませんでしたが、岩は覚えています」
佐伯は山の方を見た。
「あそこは、音が変なんです」
「音?」
「沢の音が近いのに、人の声は遠くなる。風向きのせいか、地形のせいかは分かりません」
怜司の胸に、父の言葉が蘇る。
雪の音を聞いていた。
声を聞いていたのに、雪の音のせいにした父。
だが、本当にあの場所は、声を歪ませるのかもしれない。
だからといって、罪が消えるわけではない。
ただ、現場はいつも、記憶より複雑だ。
警察の一人が言った。
「では、出発しましょう」
車で山道を進む間、誰もあまり話さなかった。
窓の外には、雪をかぶった杉林が続いている。道は細く、ところどころ凍っていた。車体が小さく揺れるたびに、怜司は膝の上の鞄を押さえた。
後部座席には澪が座っていた。
彼女は窓の外を見ている。
「大丈夫ですか」
怜司が小声で聞くと、澪は少しだけ振り返った。
「分かりません」
正直な答えだった。
「怖いですか」
「怖いです」
澪は言った。
「でも、ここへ来ないまま歌う方が、もっと怖くなりました」
怜司は頷いた。
歌を継ぐ家。
その歌の始まりが沢にあるなら、澪もまた、そこへ向き合わなければならない。
たとえ、それが望んだことではなくても。
「三上さんは?」
澪が尋ねた。
「怖いです」
怜司は答えた。
「父が何を知っていたのか、知りたい。でも、知りたくない気持ちもあります」
「それは普通だと思います」
「普通ですか」
「はい。父親のことですから」
怜司は窓の外を見た。
父親。
その言葉は、まだうまく持てなかった。
宗一郎は父だった。
沈黙の人だった。
見殺しにした人だった。
謝った人だった。
一度はアラムの名を返そうとした人だった。
止まりすぎた人だった。
そのどれか一つではない。
だから書くのが難しい。
沢の入口に着いた時、空はさらに暗くなっていた。
車を降りると、冷気が体の内側まで入ってくるようだった。
沢へ続く道は、道と呼べるほどはっきりしていなかった。雪の下に踏み跡らしいものがあるが、ほとんど消えている。
佐伯が先頭に立った。
次に警察。
坂本。
怜司。
澪。
透。
ゆっくり進む。
足を置くたびに、雪が軋む。
ざく。
ざく。
その音が、やけに大きく聞こえた。
杉林の中へ入ると、外の世界が遠くなった。
車の音も、人の声も消える。
聞こえるのは、自分たちの足音と、遠くの沢の音だけ。
細い水の流れ。
雪の下でも、水は止まらない。
怜司は何度もそう思った。
隠されていても、流れている。
やがて、佐伯が手を上げた。
「ここから下ります。足元に注意してください」
斜面は緩く見えたが、雪の下に石が隠れていた。踏み出すたびに足首が取られそうになる。
怜司は一歩ずつ、慎重に下りた。
焦るな。
自分に言い聞かせる。
焦るな。
でも、止まるな。
下りきると、沢が見えた。
細い流れだった。
雪に囲まれた黒い水が、岩の間を滑るように流れている。水音は近い。けれど、なぜか遠く聞こえた。
佐伯が言った通りだった。
音の距離が分からない。
澪が小さく息を呑んだ。
「ここ……」
「覚えがありますか」
怜司が聞くと、澪は首を横に振った。
「来たことはありません。でも、歌で聞いた場所に似ています」
「歌で?」
「祖母が昔、言っていました。歌の始まりは、水の音が遠くなる場所にある、と」
怜司は沢を見た。
水の音が遠くなる場所。
そこに、名前が沈んでいる。
一行は沢沿いに進んだ。
佐伯が何度も足場を確認し、危険な場所では全員を止めた。警察の一人が写真を撮り、位置情報を記録していく。
透は黙っていた。
しかし、その顔は硬い。
父が死んだ場所に近づいている。
四十年という時間は、距離を作る。
だが、その距離は、現場に立つと一瞬で縮む。
「透さん」
怜司が声をかけると、透は前を向いたまま答えた。
「何だ」
「無理なら戻れます」
透は少し笑った。
「今それを言うか」
「今だからです」
透は黙った。
そして、低く言った。
「戻らない」
それ以上、怜司は言わなかった。
沢が大きく曲がる場所に出た。
佐伯が立ち止まる。
「この辺りです」
全員の視線が、一斉に前へ向いた。
二つの岩があった。
久我玲一の写真に写っていた岩。
年月を経て苔むし、片方は少し崩れている。雪に半分埋もれながらも、確かに並んでいた。
その間に、祠はなかった。
ただ、朽ちた木片のようなものが、雪と土の間に覗いていた。
怜司の心臓が強く打った。
「近づかないでください」
警察の声が飛ぶ。
怜司は足を止めた。
佐伯と警察が先に進み、周囲を確認する。
写真を撮る音がする。
位置を示す声。
足場の確認。
怜司は、そのすべてを聞きながら、手を握りしめていた。
見たい。
近づきたい。
確かめたい。
だが、動かない。
これが約束だった。
これを破れば、ここまで積み上げたものが崩れる。
警察官がしゃがみ、朽ちた木片を見た。
「木材があります。文字のようなものも見える」
澪が口元を押さえた。
透が一歩前に出そうになり、怜司が腕を掴んだ。
透が鋭く振り返る。
怜司は首を横に振った。
「まだです」
透は怜司の手を見た。
しばらくして、力を抜いた。
「分かってる」
その声は震えていた。
警察が木片の周囲の雪を慎重にどける。
完全に掘り出すわけではない。
状態を確認するだけ。
やがて、一枚の古い板が見えた。
黒ずみ、割れ、文字はほとんど読めない。
だが、いくつかの刻みは残っていた。
佐伯が低く言った。
「触らない方がいい。かなり脆い」
警察官が写真を撮る。
坂本が記録する。
怜司は、許可を得て少し離れた位置から撮影した。
望遠で覗く。
板の表面に、刻まれた文字。
読める部分は少ない。
清――。
進。
そして、その横に、片仮名のようにも、崩れた仮名のようにも見える刻み。
アラ。
ム。
怜司は息を止めた。
あった。
アラムの名が、ここにもあった。
歌だけではない。
座帳だけではない。
沢の祠にも、名前は残されていた。
澪の目から涙が落ちた。
「本当に……」
声になりきらない声だった。
透は何も言わなかった。
ただ、板を見つめていた。
父が最後に見ようとしたもの。
あるいは、すでに見ていたもの。
そこに、今、自分も立っている。
警察官がさらに角度を変えて写真を撮った。
その時だった。
坂本が声を上げた。
「待ってください」
全員が彼を見る。
坂本は板の下側を指していた。
「これ、文字がもう一段あります」
警察官がライトを当てる。
雪の反射で見えにくかった部分に、細い刻みが浮かび上がる。
怜司は望遠を調整した。
読めない。
ほとんど読めない。
だが、一部だけ見えた。
――守リシ者。
その下に、さらに別の名。
清之進ではない。
アラムでもない。
伊佐衛門でもない。
怜司は目を凝らした。
佐伯が低く読む。
「……カヨ?」
澪が顔を上げた。
「カヨ?」
坂本が地図を持つ手を止めた。
「女性名でしょうか」
警察官が写真を拡大する。
「かよ、に見えますね」
怜司の中で、何かが引っかかった。
カヨ。
その名は、座帳にあっただろうか。
記憶を探る。
清之進。
伊佐衛門。
アラム。
寄合座。
久我玲一。
十和田悠一。
宗一郎。
修二。
カヨ。
出ていない。
少なくとも、これまで中心に出てきた名ではない。
榊原の言葉が、また蘇る。
あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。
アラムの話は、まだ別の誰かに繋がっている。
「この板は、どうしますか」
怜司が警察に尋ねた。
「この場で動かすのは危険です。専門家を呼びます」
「文化財関係ですか」
「そうなります。事件性の確認も必要です」
怜司は頷いた。
記事にはまだできない。
少なくとも、詳細は出せない。
今は記録するだけ。
澪が小さく歌い始めた。
本当に小さな声だった。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ。
誰も止めなかった。
沢の音が、その歌を運ぶ。
いや、飲み込む。
どちらか分からなかった。
水の音は近いのに、歌は遠くへ行く。
怜司は、ふと想像した。
四十年前。
ここに久我玲一が立った。
十和田悠一が板を指した。
宗一郎が追ってきた。
修二が何かを叫んだ。
雪が強くなった。
水の音が遠くなった。
声も遠くなった。
そして、人が落ちた。
怜司は足元を見た。
雪の下の石が、少しだけ動いた。
佐伯がすぐに声を出す。
「そこ、下がって」
怜司は従った。
ほんの少しの油断で、足を取られる。
ここは、そういう場所だった。
その時、透が突然言った。
「父は、ここで何をしたんだ」
誰も答えなかった。
透は板を見つめている。
「見つけたなら、なぜ戻らなかった。なぜ一人で抱えた。なぜ悠一さんを連れてきた」
声が震えていた。
怒りではなく、迷子のような声だった。
澪が透を見た。
「久我さんだけじゃありません」
透は彼女を見る。
澪は涙を拭わずに言った。
「悠一も来ると決めたんだと思います。歌を継ぐ者として」
「だからって」
透の声が荒くなる。
「だからって、死んでいい理由にはならない」
「ありません」
澪は即答した。
「そんな理由はありません」
透は言葉を失った。
澪は続けた。
「でも、誰か一人だけが連れてきたわけではないと思います。久我さんも、悠一も、宗一郎さんも、修二さんも、それぞれが何かを守ろうとして、ここで間違えた」
怜司は、その言葉を聞きながら沢を見た。
間違えた場所。
それが、この沢だった。
警察官が言った。
「今日はここまでです。板は保全します。専門家が来るまで周囲を封鎖します」
怜司は頷いた。
もっと見たい気持ちはあった。
だが、今日はここまで。
そう決められることが、今は大事だった。
引き返す前に、怜司はもう一度だけ板を見た。
清之進。
アラム。
守リシ者。
カヨ。
その四つの欠片が、雪の上に浮かんでいる。
清之進は、ただ罪を悔いたのではない。
何かを残した。
その何かの中心に、カヨという名がある。
帰り道、誰もほとんど話さなかった。
沢から離れるにつれ、水の音が遠くなる。
だが、耳の奥には残っていた。
歌と混じって、消えない。
車に戻った時、空から細かな雪が降り始めた。
佐伯が言った。
「早めに切り上げて正解でした」
怜司は空を見上げた。
もし、もう少し長くいたら。
もし、もっと近づこうとしていたら。
そう考えると、背中が冷えた。
資料館へ戻ると、警察はすぐに正式な保全手続きを始めた。坂本は役場へ報告に戻り、佐伯も消防団へ連絡を入れた。
怜司は待機所に入り、濡れた手袋を外した。
指先が震えていた。
寒さだけではない。
澪が向かいに座る。
透は少し離れた椅子に腰を下ろしたまま、何も言わない。
怜司はノートを開いた。
今日見たものを書く。
沢の位置。
二つの岩。
祠跡。
朽ちた板。
清之進。
アラム。
守リシ者。
カヨ。
書いた瞬間、カヨという名だけが、強く目に残った。
「澪さん」
「はい」
「十和田家に、カヨという名の伝承はありますか」
澪は考えた。
「すぐには思い当たりません。ただ……」
「ただ?」
「祖母が昔、歌の中の泣いている子には、手を引いた人がいたと言っていました」
「手を引いた人」
「はい。子どもは一人では沢まで来られない、と」
怜司の背筋が冷えた。
アラムは、ただ迷い込んだ子どもではなかったのかもしれない。
誰かが手を引いた。
それが、カヨなのか。
透が低く言った。
「父の手記に、女の名前はなかった」
「見落としていた可能性があります」
怜司は言った。
「あるいは、久我さんも知らなかった」
「宗一郎は知っていたのか」
透の問いに、怜司は答えられなかった。
榊原は言った。
三上宗一郎は知っていた。
だから黙った。
父が知っていたのは、カヨのことなのか。
もしそうなら、父の沈黙の理由はさらに変わる。
アラムを守るためだけではない。
村を守るためだけでもない。
別の誰かの名を守るためだったのかもしれない。
いや、守るという言葉は危うい。
それはまた、隠すことだったのかもしれない。
夜、怜司は編集デスクに報告書を送った。
沢で祠跡と見られる木片を確認。
アラムおよび清之進に関わる可能性のある文字あり。
未確認の人名らしき刻みも確認。
警察と役場が保全。
詳細記事化は保留。
現時点では連載企画の準備を継続。
返信はすぐに来た。
――よく止まった。
――詳細は出すな。
――連載タイトル、「雪の下の名」で上に出す。
――明日、企画会議。お前もリモートで入れ。
怜司は短く返信した。
――承知しました。
その後、しばらく画面を見つめていた。
よく止まった。
その一文が、思ったより深く胸に入った。
進むことだけではない。
止まることも、仕事になる。
ただし、止まったままではいけない。
怜司はノートを開き、次の取材対象を書いた。
十和田澄江。
葛原重蔵。
久我透。
村役場。
文化財専門家。
榊原道隆。
そして、父・三上宗一郎の遺品。
カヨ。
その名を知るには、父の遺品を見る必要がある。
怜司は、まだ開けていない父の段ボールを思い出した。
実家の納戸に置いたままの箱。
新聞の切り抜き。
古い手帳。
使い古した万年筆。
封をしたままの茶封筒。
父が死んだ時、怜司はそれを整理できなかった。
整理しないまま、父を沈黙の箱に閉じ込めていた。
今度は、自分が開ける番だった。
窓の外では、雪が静かに降っている。
沢はまた白く覆われていくだろう。
しかし、今日見た名は消えない。
清之進。
アラム。
カヨ。
そして、まだ読めない文字。
怜司は、手帳の最後に一文を書いた。
――雪の下には、名だけでなく、関係が埋まっている。
その関係を掘り起こすことは、きっと痛みを伴う。
誰かを救うとは限らない。
誰かを許すとも限らない。
むしろ、許せない理由が増えるかもしれない。
それでも、書く。
ただし、奪わないように。
急ぎすぎないように。
止まりすぎないように。
夜が深くなった頃、澪が小さく言った。
「三上さん」
「はい」
「今日、沢で歌った時、少しだけ思いました」
「何をですか」
「歌は、アラムを呼んでいたんじゃなくて、カヨを呼んでいたのかもしれないって」
怜司は顔を上げた。
「カヨを?」
澪は頷いた。
「アラムの名を消さないために歌っていた。でも、その歌を始めたのがカヨなら、歌はその人の後悔でもあったのかもしれません」
怜司は黙った。
歌の始まり。
それは、アラムのためだけではなかったのかもしれない。
手を引いた者。
守りし者。
あるいは、裏切った者。
カヨ。
その名はまだ、何も語っていない。
だが、確かに沢からこちらを見ていた。
怜司はノートを閉じた。
明日は、父の箱を開ける。
沢で見つけた名が、父の沈黙とどう繋がるのか。
それを確かめなければならない。
外では雪が降り続いている。
けれど怜司には、もうその白さが、すべてを隠すものには見えなかった。
雪は隠す。
だが、同時に、形を浮かび上がらせる。
二つの岩。
朽ちた板。
刻まれた名。
そして、まだ呼ばれていない声。
沢の水音は、遠く離れた今も耳の奥で続いていた。
お読みいただきありがとうございます。
第17話では、怜司たちが沢へ向かい、清之進の祠跡と思われる場所で、アラムの名とともに「カヨ」という新たな名を見つけました。
沢は、久我玲一と十和田悠一が急ぎすぎ、宗一郎が止めきれなかった場所でした。
怜司はそこで「近づきたい衝動」を抑え、手順を守ることで、父や久我とは違う進み方を選びます。
次回は、怜司が父・宗一郎の遺品を開きます。
そこに、カヨの名へつながる手がかりが残されているかもしれません。




