第十六話 沢へ行く前に
十和田家の証言により、歌の中に残された名の欠片が明らかになった。
そして榊原は、怜司に告げる。
沢へは行くな。
本当に燃やすべきものは、沢にある。
久我玲一と十和田悠一が向かい、三上宗一郎が止めようとした場所。
怜司は、そこへ向かう前に、まず「行くための手順」を整え始める。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
榊原道隆からの電話が切れた後、三上怜司はしばらく動けなかった。
スマートフォンの画面には、通話終了の表示だけが残っている。
たった数分の会話だった。
だが、その声は、部屋の空気を変えてしまった。
沢へは行くな。
死人が増える。
本当に燃やすべきものは、沢にある。
アラムの名を返したいなら、覚悟しろ。
あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。
三上宗一郎は知っていた。
だから黙った。
一つ一つの言葉が、雪の中に刺さった杭のように、怜司の中へ残っていた。
「三上さん」
十和田澪の声で、怜司はようやく顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「はい」
そう答えたが、声は少し硬かった。
大丈夫ではない。
榊原は、怜司がまだ知らない何かを握っている。
それは間違いなかった。
「沢へ行くんですか」
澪が尋ねた。
怜司はすぐには答えなかった。
行きたい。
知りたい。
父が何を知っていたのか。
久我玲一と十和田悠一が、最後に何を見ようとしたのか。
アラムの名を返すことが、なぜ「かわいそうな子どもでは終わらない」のか。
だが、今すぐ行くことは、久我玲一と同じだった。
正しさに押されて、手順を飛ばす。
その先で、誰かを巻き込む。
「今すぐには行きません」
怜司は言った。
「警察と消防、それから村役場に確認します。場所が危険なら、専門の人にも同行してもらう」
澪は少し安堵したように息を吐いた。
「よかった」
「よかった、ですか」
「はい」
澪は机の上の冊子に手を置いた。
「正直に言うと、三上さんがすぐ行くと言ったら、止めるつもりでした」
「止められていたら、たぶん助かりました」
「たぶん?」
「少し迷ったかもしれません」
澪は困ったように笑った。
「記者ですね」
「悪い意味で」
「良い意味にもできます」
その言葉が、少しだけ怜司を落ち着かせた。
良い意味にする。
それは、焦りを否定することではない。
焦りを、手順に変えることだった。
怜司はノートパソコンを開いた。
連載企画書の下に、新しいメモを作る。
――沢調査に関する確認事項。
一つ目。
警察への情報共有。
榊原からの電話内容。
沢に何かがある可能性。
脅迫か、証言かの判断。
二つ目。
村役場への確認。
沢の位置。
所有者。
立ち入り可否。
過去の雪崩・事故記録。
三つ目。
消防または山岳救助経験者への同行依頼。
積雪状況。
地盤。
沢筋の危険性。
四つ目。
十和田家への確認。
悠一が話していた祠の位置。
歌の古い節との関係。
五つ目。
久我透への確認。
久我玲一の手記以外に、沢に関する資料が残っていないか。
六つ目。
編集部への報告。
当事者性と危険性。
単独行動禁止。
取材計画書作成。
書き出していくうちに、呼吸が整っていく。
恐怖も、焦りも、紙の上に置けば少しだけ扱える。
「三上さんは、そうやって落ち着くんですね」
澪が言った。
「そうかもしれません」
「書くことで?」
「はい」
怜司は画面を見た。
「書かないと、頭の中で勝手に大きくなるので」
「それは、歌も似ています」
澪はぽつりと言った。
「歌にすると、怖いものを少しだけ外に出せる」
怜司は彼女を見た。
「でも、歌にしたままにすると、言葉に戻れなくなる」
澪は頷いた。
「だから、今は戻す時なんだと思います」
歌から、言葉へ。
伝承から、記録へ。
沈黙から、証言へ。
だが、その過程で、何かが壊れるかもしれない。
壊さないために慎重にするのではない。
壊れるものを知った上で、どう扱うかを決めるのだ。
その夜、怜司は警察に連絡した。
榊原から電話があったこと。
沢へ行くなと言われたこと。
「本当に燃やすべきものは沢にある」と告げられたこと。
脅しとも取れる内容だったこと。
対応した刑事は、しばらく黙ってから言った。
「三上さん、単独では動かないでください」
「もちろんです」
「もちろんと言いながら動く人が多いんです」
怜司は返す言葉に詰まった。
「動きません」
「こちらでも榊原の供述と照合します。沢の場所について、心当たりは?」
「十和田家に伝わる古い祠があったそうです。正確な位置は、これから確認します」
「分かりました。位置が分かっても、先に連絡してください」
「はい」
電話を切った後、怜司はその内容を編集デスクにも送った。
すぐに返信が来た。
――絶対に単独行動するな。
――現場へ行くなら取材計画を先に出せ。
――警察同行が無理なら、最低でも役場・消防・地元案内人を入れろ。
――お前が記事になるな。
最後の一文に、怜司は苦笑した。
だが、笑えるほど軽い言葉ではなかった。
久我玲一は、記事を書く側から、事件の当事者になった。
十和田悠一も巻き込まれた。
父も、そこから戻れなくなった。
自分が同じ場所へ行くなら、同じ失敗をしてはいけない。
翌朝、怜司は村役場を訪ねた。
応対したのは、地域振興課の坂本という職員だった。四十代半ばほどの男性で、疲れた顔をしていた。昨日から報道対応と問い合わせに追われているのだろう。
「沢の件ですか」
坂本は、怜司が名乗るとすぐに言った。
「警察からも連絡が来ています」
「場所を確認したいんです」
坂本は地図を広げた。
新郷村の山あい。
伝承地から少し離れた沢筋。
冬は人がほとんど入らない場所。
坂本は赤いペンで一点を示した。
「おそらく、この辺りです。昔、小さな祠があったという話は聞いたことがあります」
「今は?」
「ありません。少なくとも、地図上には残っていません。昭和五十年代の土砂崩れで流されたという話もあります」
怜司は地図を見つめた。
「久我玲一さんと十和田悠一さんが向かったのも、この沢ですか」
坂本は少し言いにくそうにした。
「記録上は、そうです」
「事故記録は残っていますか」
「あります。ただし、詳細は警察記録になります。役場に残っているのは、捜索協力と災害対応の記録程度です」
「見せてもらえますか」
坂本は迷った。
「公開できる範囲なら」
「お願いします」
しばらくして、古いファイルが出てきた。
昭和四十八年二月二十一日。
沢筋で二名遭難。
久我玲一、十和田悠一。
雪崩および滑落の可能性。
捜索難航。
翌日、久我玲一の遺体発見。
十和田悠一は下流側で発見。
発見時、意識なし。後に死亡。
怜司はその記録を読みながら、胸が重くなった。
文字は淡々としている。
だが、その淡々とした行の間に、叫び声が埋まっている。
「三上宗一郎の名前はありますか」
怜司は尋ねた。
坂本はページをめくった。
「あります。捜索協力者として」
「協力者?」
「はい。事故直後、現場付近にいた人物として聴取されています。その後、捜索にも参加したとあります」
怜司は目を閉じた。
父は、逃げたわけではなかった。
逃げきれなかったのかもしれない。
悠一の声を聞き、助けられず、その後で捜索に加わった。
どんな顔で、雪を掘ったのだろう。
「もう一人、修二という名前はありますか」
坂本はページを探した。
「十和田修二、ですね。あります。同じく聴取。事故当時、現場付近にいた可能性」
「可能性?」
「当時の記録では、本人が否定していたようです。後年の証言とは食い違います」
榊原が言った「燃やすべきもの」。
それは、この食い違いに関わるものなのか。
あるいは、沢そのものに残された別の記録なのか。
怜司はコピー可能な範囲を依頼し、役場を出た。
外に出ると、澪が待っていた。
「どうでしたか」
「沢の場所は分かりました」
怜司は地図のコピーを見せた。
澪の顔が少し青ざめる。
「ここです」
「知っているんですか」
「小さい頃、祖母から近づくなと言われていました」
「祠の話も?」
「はい。でも、ただ危ない場所だからだと思っていました」
怜司は地図を折りたたんだ。
「午後、澄江さんに確認したいです」
澪は頷いた。
「連絡してみます」
十和田家は、村の外れにあった。
古い木造の家で、屋根にはまだ厚い雪が残っていた。庭の端には、小さな石碑のようなものがあり、そこにも雪が積もっている。
澄江は、居間で待っていた。
昨日よりも疲れて見えたが、目ははっきりしている。
「沢の場所が分かったそうだな」
「はい」
怜司は地図を広げた。
澄江はそれを見ると、目を細めた。
「ここだ」
「祠があった場所ですか」
「正確には、祠はもう少し上だ」
澄江は震える指で地図を示した。
「この沢の曲がったところ。岩が二つ並んでいた。昔は、その間に小さな木の祠があった」
「そこに、歌の始まりがあると悠一さんは言っていた」
澄江は頷いた。
「悠一は、祠の裏に古い板があると言っていた」
「板?」
「文字のようなものが刻まれていたらしい」
怜司は身を乗り出した。
「見たことは?」
「私はない。悠一が一度だけ見たと言っていた」
「内容は?」
澄江は目を伏せた。
「全部は読めなかったそうだ。ただ、アラムに似た音と、清之進の名があったと言っていた」
怜司の胸が早くなる。
アラムと清之進。
ならば、その板は座帳よりも古い可能性がある。
「なぜ、それを座帳に書かなかったんでしょう」
怜司が言うと、澄江は静かに首を振った。
「書けなかったのだと思う」
「なぜですか」
「祠は、清之進が建てたものだと言われていたから」
怜司は言葉を失った。
清之進。
アラムの死に関わった男。
異国の子を傷つけ、村の罪の始まりとなった男。
その清之進が、祠を建てた。
「罪滅ぼしですか」
「そう伝わっている」
澄江は言った。
「でも、悠一は違うと言っていた」
「違う?」
「清之進は、ただ悔いたのではない。何かを残したのだと」
「何を?」
澄江は答えなかった。
代わりに、遠くを見るような目をした。
「悠一は、あの日の朝、私に言った」
怜司はペンを握った。
「何と」
「もし祠の板が本物なら、アラムの話は村が思っているよりも複雑になる、と」
榊原の言葉が蘇る。
あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。
「複雑とは、どういう意味ですか」
澄江は首を横に振った。
「分からない。悠一は、それ以上言わなかった」
澪が祖母を見る。
「おばあちゃん、それ初めて聞いた」
澄江は頷いた。
「言えなかった」
「どうして」
「言えば、あなたも沢へ行きたくなると思った」
澪は黙った。
その沈黙には、責める気持ちと、理解する気持ちが混じっていた。
怜司は地図を見た。
沢には、祠があった。
祠には、清之進が残した板があったかもしれない。
そこに、アラムの話を変える何かが刻まれていたかもしれない。
久我玲一は、それを見ようとした。
悠一は案内した。
宗一郎は止めた。
修二は何かをした。
榊原は燃やすべきものと言った。
すべてが、沢へ集まっていく。
だが、今はまだ行けない。
怜司は自分に言い聞かせた。
「澄江さん」
「はい」
「この話を警察に共有します」
澄江は頷いた。
「そうしなさい」
「記事には、まだ書きません」
「それでいい」
澄江は、怜司をじっと見た。
「三上さん」
「はい」
「あなたは、沢へ行く時、何を見に行くのか決めてから行きなさい」
「何を見に行くのか」
「証拠を取りに行くのか。父親の罪を確かめに行くのか。アラムの名を探しに行くのか。悠一の死に向き合いに行くのか」
澄江の声は厳しかった。
「全部だと思って行けば、きっと足を取られる」
怜司は、その言葉を深く受け止めた。
全部を見たい。
だが、全部を一度に抱えれば、判断が鈍る。
久我玲一は、名を返すことと、榊原に奪われる前に書くことと、村の沈黙を暴くことを、一度に背負った。
父は、村を守ることと、真実を隠すことと、自分の罪を抱えることを、一度に背負った。
どちらも潰れた。
「僕は」
怜司はゆっくり言った。
「まず、悠一さんと久我さんが何を見ようとしていたのかを確認しに行きます」
澄江は黙って聞いていた。
「父を裁くためでも、アラムの名を見出しにするためでもありません。まず、四十年前にそこで何が確認されようとしていたのか。それを知るために行きます」
澄江は小さく頷いた。
「なら、まだ行ける」
その言葉は、許可ではなかった。
覚悟の確認だった。
夕方、怜司は資料館へ戻り、関係者に連絡を入れた。
警察。
編集デスク。
久我透。
村役場の坂本。
消防団の担当者。
沢の調査は、早くても翌々日。
天候と安全確認次第。
単独行動なし。
撮影範囲は事前確認。
発見物には触れない。
警察と役場の判断を優先。
記事化は、確認後。
一つずつ、約束を増やしていく。
約束が増えるたびに、自由は減る。
だが、自由に動けば、また誰かを傷つける。
怜司は、それをようやく理解し始めていた。
夜、久我透が資料館に来た。
「沢へ行くんだってな」
「準備が整えば」
怜司は答えた。
「俺も行く」
「危険です」
「父が死んだ場所だ」
透の声は低かった。
「行かない理由にはならない」
怜司は透を見た。
その目には、怒りだけではなく、長い間置き去りにされていた子どものような痛みがあった。
「行くなら、警察と役場の許可を取った上で、同行者としてです。勝手な行動はできません」
透は少し鼻で笑った。
「仕切るな」
「仕切ります」
怜司ははっきり言った。
透の目が鋭くなる。
怜司は続けた。
「久我さんと悠一さんが戻れなかった場所です。誰かの感情だけで動くなら、僕は行きません」
透は黙った。
しばらくして、視線を逸らした。
「分かった」
その一言に、怜司は少しだけ息を吐いた。
「お父さんの資料で、沢や祠に関するものはありますか」
透は鞄から封筒を取り出した。
「探したら、これがあった」
中には、一枚の白黒写真が入っていた。
雪に埋もれた沢。
二つ並んだ岩。
その間に、小さな木の祠。
写真の裏には、久我玲一の字で短く書かれていた。
――歌の始まり。清之進の祠。二月二十日撮影。
怜司は写真を見つめた。
久我玲一は、事故の前日に祠を見ていた。
ならば、翌日に再び向かった理由がある。
何かを見落としたのか。
誰かに確認したかったのか。
板を持ち出そうとしたのか。
あるいは、そこに隠された別のものを見つけたのか。
透が言った。
「父の手記には、その写真のことは詳しく書かれていなかった」
「なぜでしょう」
「分からない」
透は写真を見た。
「だが、父は写真を残した。なら、そこに意味がある」
怜司は頷いた。
写真をスキャンし、コピーを取る。
原本は透に返した。
「預からないのか」
「今はコピーで十分です。原本は透さんが持っていてください」
透は少し意外そうな顔をした。
「慎重だな」
「そうしないと、また誰かのものを奪ってしまう気がします」
透は黙った。
そして、低く言った。
「それでいい」
その夜、怜司は机に写真のコピーを置いた。
座帳。
手記。
歌詞の控え。
役場の事故記録。
沢の地図。
祠の写真。
点が線になり始めている。
だが、線はまだ途中で切れている。
榊原は、その先を知っている。
あるいは、知っているふりをしている。
怜司は榊原の言葉をノートに書いた。
――あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん。
その下に、自分の問いを書く。
――アラムは、何者だったのか。
――清之進は、なぜ祠を建てたのか。
――宗一郎は、何を知って黙ったのか。
――榊原は、何を燃やそうとしているのか。
書き終えた時、スマートフォンが震えた。
編集デスクからだった。
――企画書、読んだ。
――通せる可能性がある。
――ただし、社内でタイトル案が出ている。
――「青森キリスト伝説の闇」みたいな方向にしたがる奴がいる。
――お前の案を明朝までに出せ。負けるな。
怜司は画面を見つめた。
負けるな。
それは、社内政治の話だけではなかった。
見出しに負けるな。
分かりやすさに負けるな。
怒りに負けるな。
父への感情に負けるな。
榊原の挑発に負けるな。
怜司はノートパソコンを開いた。
連載タイトル案。
少し考え、打ち込んだ。
――雪の下の名 新郷村伝承と沈黙の記録
悪くない。
だが、もう少しだけ整える。
――雪の下の名 伝承に埋もれた声を追う
これなら、煽りではない。
だが弱いかもしれない。
さらに考え、三つ案を作った。
一つ目。
――雪の下の名 新郷村伝承をめぐる証言
二つ目。
――名を返す 伝承と沈黙の四十年
三つ目。
――歌の奥にあった名 新郷村・伝承の記録
怜司は三案を編集デスクへ送った。
すぐには返信は来なかった。
窓の外を見る。
雪は止んでいる。
夜空には、薄い雲の向こうに星がわずかに見えた。
沢へ行く日は近い。
そこに何があるのかは分からない。
だが、怜司はようやく、自分が何をしに行くのかを決めていた。
証拠を奪いに行くのではない。
父を裁きに行くのでもない。
アラムを見出しにするためでもない。
四十年前、そこで止まった確認作業を、もう一度始めるために行く。
久我玲一が急ぎすぎた場所へ。
十和田悠一が歌の始まりを見ようとした場所へ。
三上宗一郎が止めきれず、助けきれなかった場所へ。
怜司は机の上の写真を見た。
二つの岩。
小さな祠。
雪の白。
その白さの中に、まだ誰かの声が埋もれている。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ。
歌は、問いの形をしていた。
そして怜司は、その問いに答えるための準備を、ようやく始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
第16話では、榊原の警告を受け、怜司が沢へ向かうための手順を整え始めました。
沢には、清之進が建てたとされる祠があり、そこにアラムと清之進に関わる古い板があった可能性が出てきます。
久我玲一と十和田悠一が向かった理由も、少しずつ見えてきました。
次回は、沢へ向かう当日。
久我透、澪、警察、役場関係者とともに、四十年前に止まった場所へ踏み込んでいきます。




