表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/49

第十五話 歌を継ぐ家

久我玲一の手記を読み、怜司は連載企画書を書き始めた。

真実を急ぎすぎないために。

誰かを英雄にも、悪人だけにも変えないために。


次に向き合うのは、十和田家。

ナニャドヤラを歌い継いできた家だった。


歌は何を隠したのか。

そして、何を守ってきたのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

翌朝、雪は止んでいた。


空はまだ白く濁っていたが、昨日までの吹雪の気配は薄れている。資料館の屋根からは、溶け始めた雪が細い水となって落ちていた。


ぽたり。


ぽたり。


その音を聞きながら、三上怜司はノートパソコンを閉じた。


連載企画書は、まだ途中だった。


だが、骨格はできている。


企画名。

取材目的。

公開する情報。

公開を保留する情報。

確認が必要な関係者。

二次被害を避けるための配慮。

現地への過度な流入を避ける呼びかけ。


記事を書く前に、記事が踏み荒らすものを想像する。


それは、これまで怜司が記者として十分にできていたことではなかった。


自分は事実を追っている。


そう思えば、どこまでも進める気がしていた。


だが、久我玲一の手記を読んだ後では、その考え方が少し怖くなっていた。


事実は、人の上にある。


掘れば出てくるのではない。


誰かの生活の中から、誰かの傷の中から、ようやく差し出されるものだ。


怜司は席を立ち、待機所の外へ出た。


冷たい空気が頬に触れる。


資料館の前には、十和田澪が立っていた。


彼女は昨日と同じように背筋を伸ばしていたが、顔色は少し悪い。手には古い風呂敷包みを持っている。


「おはようございます」


怜司が声をかけると、澪は振り返った。


「おはようございます」


「眠れましたか」


澪は少し笑った。


「眠った気はします」


「それは、あまり眠れていない答えですね」


「三上さんも同じでしょう」


「はい」


二人は小さく笑った。


笑えるほどには、朝だった。


「今日は、十和田家の話を聞かせてもらえますか」


怜司が尋ねると、澪は風呂敷包みを少し持ち上げた。


「そのつもりで来ました」


「無理はしないでください」


「無理をしないと、話せないこともあります」


澪の声は静かだった。


怜司は何も言えなかった。


資料館の一室を借り、二人は向かい合って座った。


机の上に、澪が風呂敷包みを置く。


ほどかれた中から出てきたのは、古い冊子と、数枚の写真だった。


「これは?」


「十和田家に残っていた歌詞の控えです」


「ナニャドヤラの?」


「はい。ただし、一般に知られているものとは少し違います」


怜司は姿勢を正した。


「録音してもいいですか」


「はい」


澪はすぐに答えた。


「ただ、一部はまだ記事にしないでください」


「分かりました。公開範囲は確認します」


怜司は録音を開始した。


「まず、十和田家は、いつから歌を継いでいるんですか」


澪は少し考えた。


「家の言い伝えでは、伊佐衛門の代からです」


その名が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。


三上伊佐衛門。


キリストと呼ばれる墓に名を重ねられた男。


アラムを守ろうとし、守りきれなかった男。


「伊佐衛門から、十和田家へ?」


「はい」


澪は古い冊子を開いた。


紙は茶色く変色し、端が傷んでいた。文字はところどころ崩れているが、歌の節らしきものが書かれている。


「伊佐衛門は、自分の名を墓に置かれることを嫌がったそうです」


「なぜですか」


「自分は、死んだ子の代わりにはなれないから」


怜司はペンを止めた。


澪は続けた。


「でも、寄合座は伊佐衛門を使った。異国の子の死をそのまま残せば、村は清之進の罪を背負わなければならない。だから、伊佐衛門の名と、外から来た聖者の話を重ねた」


「伊佐衛門は、それを受け入れたんですか」


「受け入れた、というより、止めきれなかったのだと思います」


澪は目を伏せた。


「その代わり、アラムの名を完全には消さない方法を探した」


「それが歌?」


「はい」


澪は冊子の一部を指でなぞった。


「ナニャドヤラは、元々いくつもの意味が重なった歌です。祝いの歌でもあり、別れの歌でもあり、由来が分からなくなった言葉の集まりでもある。でも、十和田家に伝わる節には、少し違う言い回しが残っていました」


怜司は身を乗り出した。


「どんな言い回しですか」


澪はすぐには答えなかった。


そして、低い声で歌うように言った。


「ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

アラ、ムナシヤ。

ナニャドヤラ」


怜司は、息を呑んだ。


「アラ、ムナシヤ」


「はい」


澪の指が、古い文字の上で止まる。


「今はもう、ほとんど歌われません。祖母も、人前では絶対に歌うなと言っていました」


「アラムの名が、そこに隠れている?」


「隠れているとも言えますし、変わってしまったとも言えます」


澪は慎重に言葉を選んだ。


「アラム。アラ。ム。ムナシヤ。意味が溶けて、音だけが残った。名前としては失われた。でも、完全には消えなかった」


怜司は手帳に書き込んだ。


名前は、意味を失って音になった。


それは守ったと言えるのか。


それとも、消したと言うべきなのか。


「十和田家は、その意味を知っていたんですか」


「全員ではありません」


澪は首を横に振った。


「代ごとに、一人か二人だけです。歌を継ぐ者にだけ、本当の由来が伝えられていたそうです」


「澪さんは、いつ知ったんですか」


「高校生の時です」


「誰から?」


「祖母から」


澪は写真の一枚を手に取った。


そこには、年配の女性が写っていた。小柄で、柔らかな顔をしている。だが目は強い。


「十和田澄江。私の祖母です」


「お祖母さんは、まだ」


「生きています。今は家にいます。昨日からずっと、誰とも会いたがりません」


「取材は難しいですか」


「今日、私が話した後なら、会ってくれるかもしれません」


怜司は頷いた。


「無理には進めません」


「はい」


澪は写真を机に置いた。


「祖母は、私に言いました。歌は、嘘ではない。でも、本当のことでもない、と」


「どういう意味ですか」


「歌は、アラムを忘れないために残された。でも、アラムがどんな子だったかまでは残せなかった。伊佐衛門が何を悔いたかも、清之進が何をしたかも、村がどう隠したかも、歌だけでは伝えられない」


澪の声が少し震えた。


「だから、歌は守ったけれど、同時に隠したんです」


怜司は、その言葉をゆっくりメモした。


守ったけれど、隠した。


それは、この事件の核心に近い気がした。


宗一郎もそうだった。

葛原もそうだった。

久我玲一も、ある意味ではそうだった。


守ろうとしたものが、別のものを傷つける。


隠したものが、形を変えて残る。


「澪さんは、そのことをどう受け止めていますか」


怜司が尋ねると、澪は少しだけ目を閉じた。


「ずっと誇りだと思っていました」


「歌を継ぐことが?」


「はい。十和田家は、村の大事な歌を守ってきた。祖母も母も、そう言っていました。私もそう思っていました」


「今は?」


澪は冊子を見つめた。


「今も、誇りではあります」


そして、少し間を置いた。


「でも、それだけではありません」


「それだけではない」


「歌を守るという言葉の中に、逃げもあったと思います」


怜司は黙って聞いた。


澪は続けた。


「歌っていれば、語らなくて済む。歌の意味は分からないと言っていれば、誰にも責められない。伝承だから、昔からだから、そう言っていれば、誰が何をしたのかを言わずに済む」


その声は静かだった。


静かだからこそ、重かった。


「十和田家も、沈黙に加担していたんです」


怜司は録音中のスマートフォンを見た。


その言葉を記事にするには、慎重さが必要だった。


澪自身の言葉ではある。


しかし、家の歴史に関わる。


地域にも響く。


「今の言葉は、記事にしてもいいですか」


怜司が聞くと、澪はすぐには答えなかった。


しばらくして、小さく頷いた。


「はい。でも、私一人の言葉として書いてください。十和田家全体の公式な見解ではなく」


「分かりました」


「それと、歌を悪者にしないでください」


「しません」


「歌は、悪くないんです」


澪は少し強く言った。


「悪いのは、歌に全部を押し込めた人間です」


怜司は、その言葉をメモした。


歌は悪くない。


歌に全部を押し込めた人間がいる。


「澪さん」


「はい」


「歌ってもらうことはできますか」


澪の表情が固まった。


怜司はすぐに続けた。


「無理なら大丈夫です。録音も、記事に使うかどうかは別です。ただ、僕自身が聞いておく必要があると思いました」


澪は机の上の冊子に目を落とした。


長い沈黙があった。


やがて、彼女は小さく息を吸った。


「一度だけ」


怜司は頷いた。


「録音は?」


澪は少し考えた後、言った。


「してください。ただし、公開はまだしないでください」


「約束します」


怜司は録音を続けたまま、ペンを置いた。


澪は目を閉じた。


そして、歌った。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

アラ、ムナシヤ。

ナニャドヤラ。


声は大きくなかった。


だが、部屋の中に深く沈んだ。


祭りの歌ではなかった。

観光客の前で披露される明るい節でもなかった。


それは、誰かを呼ぶ声だった。


遠い場所にいる子どもへ向けて、何度も名前を呼ぼうとして、けれど名前の形を失ってしまった声。


怜司は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


アラム。


確かに、そこにいた。


名前としてではない。

意味としてでもない。


音の欠片として。


歌の底に、沈んでいた。


澪が歌い終えると、部屋にはしばらく沈黙が残った。


怜司は、すぐには言葉を出せなかった。


感動した、と言うのは違った。


美しい、と言うのも違った。


それは、もっと痛いものだった。


「ありがとうございます」


ようやく言うと、澪は目を開けた。


「これを、どう書きますか」


その問いは、怜司に向けられているようで、同時に彼自身を試しているようだった。


怜司は正直に答えた。


「今は、まだ分かりません」


澪は少し驚いたようだった。


怜司は続けた。


「ただ、歌の中にアラムの名が残っていた、と単純には書きません。それでは、発見の見出しになってしまう」


「はい」


「十和田家が歌を守ってきたこと。守ることで、同時に隠してきたこと。歌が悪いのではなく、人間がそこに語れないものを押し込めたこと。その形で考えたいです」


澪はゆっくり頷いた。


「それなら、聞いてもらってよかったです」


その時、部屋の外で小さな物音がした。


振り向くと、入口に年配の女性が立っていた。


写真の女性だった。


十和田澄江。


澪が立ち上がる。


「おばあちゃん」


澄江は杖をつきながら、ゆっくり部屋へ入ってきた。


「聞こえた」


その声は細かったが、はっきりしていた。


澪の顔に緊張が走る。


「ごめんなさい」


「謝ることではない」


澄江は椅子に座った。


そして怜司を見た。


「あなたが、三上宗一郎の息子さんか」


怜司は背筋を伸ばした。


「はい。三上怜司です」


「似ている」


その一言に、怜司の胸が少し痛んだ。


澄江は続けた。


「でも、目が違う」


「そうですか」


「宗一郎さんの目は、いつも奥へ逃げていた」


怜司は返事ができなかった。


澄江は澪の冊子を見た。


「それを出したのか」


「うん」


澪は頷いた。


「もう、私だけで持っているものではないと思ったから」


澄江は長く沈黙した。


怒るのかと思った。


だが、澄江は静かに息を吐いた。


「そうだな」


その声には、諦めではなく、長い時間の疲れがあった。


「十和田さん」


怜司は慎重に言った。


「お話を伺ってもよろしいでしょうか」


澄江は怜司を見た。


「記事にするのか」


「公開範囲を確認した上で、必要な部分だけ」


「必要かどうかを決めるのは、あなたか」


鋭い問いだった。


怜司は一瞬言葉に詰まった。


「最終的に書く責任は、僕にあります」


澄江はじっと怜司を見ていた。


怜司は続けた。


「でも、勝手には決めません。澪さんや十和田さん、関係者に確認します。書かない判断も含めて、考えます」


澄江は小さく頷いた。


「宗一郎さんは、それができなかった」


怜司は黙った。


「久我さんは、それを待てなかった」


澄江の言葉に、部屋の空気が深く沈んだ。


この人もまた、四十年前を知っている。


「十和田さんは、久我玲一さんに会ったことがありますか」


怜司が尋ねると、澄江は頷いた。


「ある」


「どんな方でしたか」


澄江は目を細めた。


「真面目な人だった。怖いくらいに」


「怖い?」


「人の話を、途中で笑わなかった。分からないことを分からないままにしなかった。だから、こちらも嘘をつきにくかった」


葛原の証言と重なる。


久我玲一は笑わなかった。


「久我さんは、ナニャドヤラについて聞きましたか」


「聞いた」


「答えましたか」


「少しだけ」


澄江は澪の冊子に手を置いた。


「その頃、私はまだ若かった。歌の本当の意味を全部は知らなかった。ただ、祖母から言われていた。あの歌の中には、泣いている子がいる、と」


怜司は息を止めた。


泣いている子。


アラム。


「久我さんには、それを?」


「言った」


澄江は静かに答えた。


「久我さんは、その言葉を聞いて、顔色を変えた」


「それで、悠一さんに?」


澄江の目が揺れた。


「そうだと思う」


澪が小さく息を呑む。


澄江は続けた。


「悠一は、私の弟だ」


怜司はペンを止めた。


十和田悠一。


四十年前、沢の下で声を残した青年。


「悠一さんは、歌の意味を知っていたんですか」


「知っていた」


澄江の声が少し低くなった。


「私より深く知っていた。あの子は、歌をただの節として覚えるのではなく、なぜその音になるのかを考える子だった」


「だから、久我さんは悠一さんに会いに行った」


「そうだ」


澄江は目を閉じた。


「私が余計なことを言ったから」


「余計なことではありません」


澪がすぐに言った。


澄江は首を横に振った。


「そう言ってくれるのはありがたい。でも、あの時の私は怖くなって逃げた。久我さんに聞かれて、私は途中で話をやめた。そして、悠一なら分かるかもしれないと言ってしまった」


怜司は何も言えなかった。


それは、澄江にとって四十年消えなかった後悔なのだろう。


「悠一さんは、久我さんに何を話したんですか」


怜司が尋ねると、澄江は目を開けた。


「全部は知らない」


「一部でも」


澄江はゆっくり頷いた。


「悠一は、久我さんに言ったそうだ。歌は墓を守っているのではない。墓に入れられなかった名を守っているのだ、と」


怜司の胸が震えた。


墓に入れられなかった名。


それは、アラムのことだった。


そして、もしかすると悠一自身のことにもなった。


「悠一さんは、なぜ沢へ行ったんですか」


怜司は聞いた。


澄江の顔に深い影が落ちた。


「歌の古い節が、沢の近くの祠に残っていると言ったから」


「祠?」


「今はもうない。雪崩で崩れた。昔、アラムが倒れていた場所に近いと言われていた」


怜司は手帳に書いた。


沢の祠。


まだ知らない場所だった。


「そこに、何があったんですか」


澄江は首を横に振った。


「私は見ていない。ただ、悠一は言っていた。あそこには、歌の始まりがある、と」


歌の始まり。


怜司は、その言葉に寒気を覚えた。


事件は、まだ終わっていない。


座帳と手記だけではない。


沢にも、何かが残っている。


「三上さん」


澄江が怜司を呼んだ。


「はい」


「沢へ行くつもりか」


怜司はすぐには答えなかった。


行くべきだと思った。


だが、久我玲一も、十和田悠一も、その場所へ向かって戻らなかった。


「今すぐには行きません」


怜司は言った。


「警察や関係者の確認を取ってからです。場所も危険なら、専門の人に同行してもらいます」


澄江は、怜司を長く見た。


「それでいい」


その声は、少しだけ柔らかくなっていた。


「宗一郎さんにも、それを言ってほしかった」


怜司は目を伏せた。


父は、止めた。


だが、説明しなかった。


止める理由を共有しなかった。


だから、久我は進んだ。


悠一も巻き込まれた。


「十和田さん」


怜司は静かに言った。


「父は、悠一さんを守ろうとしていたようです」


澄江の顔が少しこわばる。


「久我さんの手記にありました。父は、悠一を巻き込むな、と言っていた」


澄江は黙っていた。


「でも、守れませんでした」


怜司は続けた。


「そして、助けられなかった。聞こえないふりをした」


澄江の手が、膝の上で震えた。


澪が祖母の背に手を添える。


長い沈黙の後、澄江は言った。


「知っている」


怜司は顔を上げた。


「知っていたんですか」


「宗一郎さんが、あとで私に言った」


怜司の呼吸が止まりかけた。


「父が?」


澄江は頷いた。


「あの人は、葬儀の後に一人で来た。雪の中で土下座して、悠一の声を聞いたと言った」


怜司は言葉を失った。


父は、澄江に話していた。


完全に黙っていたわけではなかった。


だが、それは許しを求めるためだったのか。

罪を渡すためだったのか。

それとも、耐えきれなかっただけなのか。


「私は許さなかった」


澄江は言った。


「許せるわけがない。今でも許していない」


怜司は頷いた。


「当然だと思います」


「でも、あの人が何も感じていなかったとは思わない」


澄江の声は震えていた。


「それが余計につらかった。悪人なら、憎むだけで済んだ。けれど、宗一郎さんは泣いていた。悠一の声を聞いたと、何度も言った」


怜司は拳を握った。


父の泣く姿を、怜司はほとんど知らない。


自分の前では、父はいつも硬かった。


沈黙していた。


だが、その沈黙の裏にあったものが、少しずつ形を持ち始めている。


「十和田さん」


怜司は声を絞り出した。


「その話を、記事にしてもいいですか」


澄江は怜司を見た。


「書きたいのか」


「書かなければいけないと思います」


「あなたの父親が、泣いて謝ったことを?」


「はい」


怜司は逃げなかった。


「父を救うためではありません。父が聞いていたこと、助けなかったこと、その後に謝ったこと。全部を分けずに書かないと、父はまた単純な悪人か、苦しんだ被害者にされる」


澄江はしばらく黙っていた。


やがて、静かに言った。


「書きなさい」


澪が祖母を見る。


「いいの?」


「いい」


澄江は頷いた。


「ただし、私が許していないことも書きなさい」


怜司は深く頷いた。


「はい」


「許さなくても、語ることはできる」


澄江は言った。


その言葉は、部屋の中に長く残った。


許さなくても、語ることはできる。


怜司は、その一文を手帳に書いた。


取材が終わる頃には、昼を過ぎていた。


澄江は疲れた様子だったが、帰る前に一つだけ言った。


「歌を録るなら、いつか私も歌う」


澪が驚いた顔をした。


「おばあちゃんが?」


「澪だけに背負わせるものではない」


澄江はそう言って、杖をついた。


「ただし、まだ人前では歌わない。あの子の名前を、見世物にはしたくない」


「分かりました」


怜司は頭を下げた。


澄江が部屋を出ていく。


澪はしばらく、その背中を見ていた。


「祖母が、あんなに話すとは思いませんでした」


「僕もです」


「三上さん」


「はい」


「歌は、記事になりますか」


怜司は机の上の冊子を見た。


「なります」


そして、少し考えてから言い直した。


「でも、歌そのものを記事にするというより、歌に何を背負わせてきたのかを書くことになると思います」


澪は頷いた。


「その方がいいです」


怜司は録音を保存した。


ファイル名を入力する。


十和田澪証言。

十和田澄江証言。

ナニャドヤラ非公開音源。


非公開。


その文字を入れた時、少しだけ息が楽になった。


書かないことは、隠すことと同じではない。


今はまだ出さない。


守るために、段階を置く。


それは父の沈黙とは違う。


違うものにしなければならない。


夕方、怜司は連載企画書に新しい項目を加えた。


――歌の扱いについて。


本文には、こう書いた。


――十和田家に伝わる歌の節には、一般に知られる歌詞とは異なる形が残る。ただし、その音源や詳細な歌詞は、関係者の意向と地域への影響を踏まえ、現段階では公開しない。歌を「証拠」として消費するのではなく、何を語り、何を語れなかったのかを検証する対象として扱う。


怜司はその一文を読み返した。


まだ足りない。


だが、入口にはなる。


その時、スマートフォンが震えた。


知らない番号だった。


怜司は少し迷ってから出た。


「三上です」


電話の向こうで、しばらく沈黙があった。


そして、低い男の声が聞こえた。


「榊原だ」


怜司の背筋が冷えた。


榊原道隆。


旧集会所に火を放とうとした男。

四十年前から、真実を商品にしようとしていた男。


「何の用ですか」


怜司の声は硬くなった。


榊原は、かすかに笑った。


「記事を読んだ」


「そうですか」


「ずいぶん慎重だな。三上宗一郎の息子らしい」


怜司は黙った。


「慎重なふりをして、結局は隠す。血は争えん」


「用件を言ってください」


電話の向こうで、榊原の息が聞こえた。


「沢へは行くな」


怜司は目を細めた。


「なぜですか」


「死人が増える」


「脅しですか」


「忠告だ」


榊原の声から笑いが消えた。


「お前はまだ分かっていない。座帳も、手記も、歌も、全部入口だ。本当に燃やすべきものは、沢にある」


怜司は立ち上がった。


「何があるんですか」


榊原は答えなかった。


代わりに、低く言った。


「アラムの名を返したいなら、覚悟しろ。あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん」


「どういう意味ですか」


「三上宗一郎は知っていた」


怜司の手に力が入る。


「父が?」


「だから黙った」


それだけ言って、電話は切れた。


怜司はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。


澪が顔を上げる。


「どうしました」


怜司は、ゆっくり息を吐いた。


「榊原からです」


澪の顔色が変わった。


「何と?」


「沢へ行くな、と」


「沢……」


「それと」


怜司は言葉を選んだ。


「本当に燃やすべきものは、沢にあると言っていました」


澪は冊子を抱きしめるように持った。


部屋の外では、夕方の光が雪に反射していた。


白いはずの景色が、少し青く見えた。


怜司は手帳を開き、今日聞いた言葉をもう一度見た。


歌は守ったけれど、隠した。

許さなくても、語ることはできる。

墓に入れられなかった名。


そして、新しい言葉が加わった。


沢にあるもの。


怜司は窓の外を見た。


雪の下には、まだ何かがある。


歌の始まり。

悠一が向かった場所。

久我玲一が戻れなかった場所。

宗一郎が知っていたもの。

榊原が燃やそうとしているもの。


怜司は、静かにノートを閉じた。


急ぐな。


そう自分に言い聞かせた。


だが、止まるな。


父のように、そこで固まってはいけない。


夜が近づいていた。


ナニャドヤラの歌は、まだ耳の奥に残っている。


ナニャドヤラ。

ナニャドナサレノ。

アラ、ムナシヤ。

ナニャドヤラ。


その音は、今度は問いかけのように聞こえた。


名を返す覚悟はあるのか、と。

お読みいただきありがとうございます。

第15話では、十和田家に伝わるナニャドヤラの節と、歌が「守ること」と「隠すこと」の両方を担っていたことが明かされました。


十和田澄江の証言により、宗一郎が悠一の声を聞いていたこと、そして謝罪していたことも判明します。

ただし、それは許しではありません。


次回は、榊原の警告をきっかけに、「沢」に残されたものへ向かう準備が始まります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ