第十五話 歌を継ぐ家
久我玲一の手記を読み、怜司は連載企画書を書き始めた。
真実を急ぎすぎないために。
誰かを英雄にも、悪人だけにも変えないために。
次に向き合うのは、十和田家。
ナニャドヤラを歌い継いできた家だった。
歌は何を隠したのか。
そして、何を守ってきたのか。
※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。
※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。
※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。
翌朝、雪は止んでいた。
空はまだ白く濁っていたが、昨日までの吹雪の気配は薄れている。資料館の屋根からは、溶け始めた雪が細い水となって落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
その音を聞きながら、三上怜司はノートパソコンを閉じた。
連載企画書は、まだ途中だった。
だが、骨格はできている。
企画名。
取材目的。
公開する情報。
公開を保留する情報。
確認が必要な関係者。
二次被害を避けるための配慮。
現地への過度な流入を避ける呼びかけ。
記事を書く前に、記事が踏み荒らすものを想像する。
それは、これまで怜司が記者として十分にできていたことではなかった。
自分は事実を追っている。
そう思えば、どこまでも進める気がしていた。
だが、久我玲一の手記を読んだ後では、その考え方が少し怖くなっていた。
事実は、人の上にある。
掘れば出てくるのではない。
誰かの生活の中から、誰かの傷の中から、ようやく差し出されるものだ。
怜司は席を立ち、待機所の外へ出た。
冷たい空気が頬に触れる。
資料館の前には、十和田澪が立っていた。
彼女は昨日と同じように背筋を伸ばしていたが、顔色は少し悪い。手には古い風呂敷包みを持っている。
「おはようございます」
怜司が声をかけると、澪は振り返った。
「おはようございます」
「眠れましたか」
澪は少し笑った。
「眠った気はします」
「それは、あまり眠れていない答えですね」
「三上さんも同じでしょう」
「はい」
二人は小さく笑った。
笑えるほどには、朝だった。
「今日は、十和田家の話を聞かせてもらえますか」
怜司が尋ねると、澪は風呂敷包みを少し持ち上げた。
「そのつもりで来ました」
「無理はしないでください」
「無理をしないと、話せないこともあります」
澪の声は静かだった。
怜司は何も言えなかった。
資料館の一室を借り、二人は向かい合って座った。
机の上に、澪が風呂敷包みを置く。
ほどかれた中から出てきたのは、古い冊子と、数枚の写真だった。
「これは?」
「十和田家に残っていた歌詞の控えです」
「ナニャドヤラの?」
「はい。ただし、一般に知られているものとは少し違います」
怜司は姿勢を正した。
「録音してもいいですか」
「はい」
澪はすぐに答えた。
「ただ、一部はまだ記事にしないでください」
「分かりました。公開範囲は確認します」
怜司は録音を開始した。
「まず、十和田家は、いつから歌を継いでいるんですか」
澪は少し考えた。
「家の言い伝えでは、伊佐衛門の代からです」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。
三上伊佐衛門。
キリストと呼ばれる墓に名を重ねられた男。
アラムを守ろうとし、守りきれなかった男。
「伊佐衛門から、十和田家へ?」
「はい」
澪は古い冊子を開いた。
紙は茶色く変色し、端が傷んでいた。文字はところどころ崩れているが、歌の節らしきものが書かれている。
「伊佐衛門は、自分の名を墓に置かれることを嫌がったそうです」
「なぜですか」
「自分は、死んだ子の代わりにはなれないから」
怜司はペンを止めた。
澪は続けた。
「でも、寄合座は伊佐衛門を使った。異国の子の死をそのまま残せば、村は清之進の罪を背負わなければならない。だから、伊佐衛門の名と、外から来た聖者の話を重ねた」
「伊佐衛門は、それを受け入れたんですか」
「受け入れた、というより、止めきれなかったのだと思います」
澪は目を伏せた。
「その代わり、アラムの名を完全には消さない方法を探した」
「それが歌?」
「はい」
澪は冊子の一部を指でなぞった。
「ナニャドヤラは、元々いくつもの意味が重なった歌です。祝いの歌でもあり、別れの歌でもあり、由来が分からなくなった言葉の集まりでもある。でも、十和田家に伝わる節には、少し違う言い回しが残っていました」
怜司は身を乗り出した。
「どんな言い回しですか」
澪はすぐには答えなかった。
そして、低い声で歌うように言った。
「ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ」
怜司は、息を呑んだ。
「アラ、ムナシヤ」
「はい」
澪の指が、古い文字の上で止まる。
「今はもう、ほとんど歌われません。祖母も、人前では絶対に歌うなと言っていました」
「アラムの名が、そこに隠れている?」
「隠れているとも言えますし、変わってしまったとも言えます」
澪は慎重に言葉を選んだ。
「アラム。アラ。ム。ムナシヤ。意味が溶けて、音だけが残った。名前としては失われた。でも、完全には消えなかった」
怜司は手帳に書き込んだ。
名前は、意味を失って音になった。
それは守ったと言えるのか。
それとも、消したと言うべきなのか。
「十和田家は、その意味を知っていたんですか」
「全員ではありません」
澪は首を横に振った。
「代ごとに、一人か二人だけです。歌を継ぐ者にだけ、本当の由来が伝えられていたそうです」
「澪さんは、いつ知ったんですか」
「高校生の時です」
「誰から?」
「祖母から」
澪は写真の一枚を手に取った。
そこには、年配の女性が写っていた。小柄で、柔らかな顔をしている。だが目は強い。
「十和田澄江。私の祖母です」
「お祖母さんは、まだ」
「生きています。今は家にいます。昨日からずっと、誰とも会いたがりません」
「取材は難しいですか」
「今日、私が話した後なら、会ってくれるかもしれません」
怜司は頷いた。
「無理には進めません」
「はい」
澪は写真を机に置いた。
「祖母は、私に言いました。歌は、嘘ではない。でも、本当のことでもない、と」
「どういう意味ですか」
「歌は、アラムを忘れないために残された。でも、アラムがどんな子だったかまでは残せなかった。伊佐衛門が何を悔いたかも、清之進が何をしたかも、村がどう隠したかも、歌だけでは伝えられない」
澪の声が少し震えた。
「だから、歌は守ったけれど、同時に隠したんです」
怜司は、その言葉をゆっくりメモした。
守ったけれど、隠した。
それは、この事件の核心に近い気がした。
宗一郎もそうだった。
葛原もそうだった。
久我玲一も、ある意味ではそうだった。
守ろうとしたものが、別のものを傷つける。
隠したものが、形を変えて残る。
「澪さんは、そのことをどう受け止めていますか」
怜司が尋ねると、澪は少しだけ目を閉じた。
「ずっと誇りだと思っていました」
「歌を継ぐことが?」
「はい。十和田家は、村の大事な歌を守ってきた。祖母も母も、そう言っていました。私もそう思っていました」
「今は?」
澪は冊子を見つめた。
「今も、誇りではあります」
そして、少し間を置いた。
「でも、それだけではありません」
「それだけではない」
「歌を守るという言葉の中に、逃げもあったと思います」
怜司は黙って聞いた。
澪は続けた。
「歌っていれば、語らなくて済む。歌の意味は分からないと言っていれば、誰にも責められない。伝承だから、昔からだから、そう言っていれば、誰が何をしたのかを言わずに済む」
その声は静かだった。
静かだからこそ、重かった。
「十和田家も、沈黙に加担していたんです」
怜司は録音中のスマートフォンを見た。
その言葉を記事にするには、慎重さが必要だった。
澪自身の言葉ではある。
しかし、家の歴史に関わる。
地域にも響く。
「今の言葉は、記事にしてもいいですか」
怜司が聞くと、澪はすぐには答えなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「はい。でも、私一人の言葉として書いてください。十和田家全体の公式な見解ではなく」
「分かりました」
「それと、歌を悪者にしないでください」
「しません」
「歌は、悪くないんです」
澪は少し強く言った。
「悪いのは、歌に全部を押し込めた人間です」
怜司は、その言葉をメモした。
歌は悪くない。
歌に全部を押し込めた人間がいる。
「澪さん」
「はい」
「歌ってもらうことはできますか」
澪の表情が固まった。
怜司はすぐに続けた。
「無理なら大丈夫です。録音も、記事に使うかどうかは別です。ただ、僕自身が聞いておく必要があると思いました」
澪は机の上の冊子に目を落とした。
長い沈黙があった。
やがて、彼女は小さく息を吸った。
「一度だけ」
怜司は頷いた。
「録音は?」
澪は少し考えた後、言った。
「してください。ただし、公開はまだしないでください」
「約束します」
怜司は録音を続けたまま、ペンを置いた。
澪は目を閉じた。
そして、歌った。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ。
声は大きくなかった。
だが、部屋の中に深く沈んだ。
祭りの歌ではなかった。
観光客の前で披露される明るい節でもなかった。
それは、誰かを呼ぶ声だった。
遠い場所にいる子どもへ向けて、何度も名前を呼ぼうとして、けれど名前の形を失ってしまった声。
怜司は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
アラム。
確かに、そこにいた。
名前としてではない。
意味としてでもない。
音の欠片として。
歌の底に、沈んでいた。
澪が歌い終えると、部屋にはしばらく沈黙が残った。
怜司は、すぐには言葉を出せなかった。
感動した、と言うのは違った。
美しい、と言うのも違った。
それは、もっと痛いものだった。
「ありがとうございます」
ようやく言うと、澪は目を開けた。
「これを、どう書きますか」
その問いは、怜司に向けられているようで、同時に彼自身を試しているようだった。
怜司は正直に答えた。
「今は、まだ分かりません」
澪は少し驚いたようだった。
怜司は続けた。
「ただ、歌の中にアラムの名が残っていた、と単純には書きません。それでは、発見の見出しになってしまう」
「はい」
「十和田家が歌を守ってきたこと。守ることで、同時に隠してきたこと。歌が悪いのではなく、人間がそこに語れないものを押し込めたこと。その形で考えたいです」
澪はゆっくり頷いた。
「それなら、聞いてもらってよかったです」
その時、部屋の外で小さな物音がした。
振り向くと、入口に年配の女性が立っていた。
写真の女性だった。
十和田澄江。
澪が立ち上がる。
「おばあちゃん」
澄江は杖をつきながら、ゆっくり部屋へ入ってきた。
「聞こえた」
その声は細かったが、はっきりしていた。
澪の顔に緊張が走る。
「ごめんなさい」
「謝ることではない」
澄江は椅子に座った。
そして怜司を見た。
「あなたが、三上宗一郎の息子さんか」
怜司は背筋を伸ばした。
「はい。三上怜司です」
「似ている」
その一言に、怜司の胸が少し痛んだ。
澄江は続けた。
「でも、目が違う」
「そうですか」
「宗一郎さんの目は、いつも奥へ逃げていた」
怜司は返事ができなかった。
澄江は澪の冊子を見た。
「それを出したのか」
「うん」
澪は頷いた。
「もう、私だけで持っているものではないと思ったから」
澄江は長く沈黙した。
怒るのかと思った。
だが、澄江は静かに息を吐いた。
「そうだな」
その声には、諦めではなく、長い時間の疲れがあった。
「十和田さん」
怜司は慎重に言った。
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」
澄江は怜司を見た。
「記事にするのか」
「公開範囲を確認した上で、必要な部分だけ」
「必要かどうかを決めるのは、あなたか」
鋭い問いだった。
怜司は一瞬言葉に詰まった。
「最終的に書く責任は、僕にあります」
澄江はじっと怜司を見ていた。
怜司は続けた。
「でも、勝手には決めません。澪さんや十和田さん、関係者に確認します。書かない判断も含めて、考えます」
澄江は小さく頷いた。
「宗一郎さんは、それができなかった」
怜司は黙った。
「久我さんは、それを待てなかった」
澄江の言葉に、部屋の空気が深く沈んだ。
この人もまた、四十年前を知っている。
「十和田さんは、久我玲一さんに会ったことがありますか」
怜司が尋ねると、澄江は頷いた。
「ある」
「どんな方でしたか」
澄江は目を細めた。
「真面目な人だった。怖いくらいに」
「怖い?」
「人の話を、途中で笑わなかった。分からないことを分からないままにしなかった。だから、こちらも嘘をつきにくかった」
葛原の証言と重なる。
久我玲一は笑わなかった。
「久我さんは、ナニャドヤラについて聞きましたか」
「聞いた」
「答えましたか」
「少しだけ」
澄江は澪の冊子に手を置いた。
「その頃、私はまだ若かった。歌の本当の意味を全部は知らなかった。ただ、祖母から言われていた。あの歌の中には、泣いている子がいる、と」
怜司は息を止めた。
泣いている子。
アラム。
「久我さんには、それを?」
「言った」
澄江は静かに答えた。
「久我さんは、その言葉を聞いて、顔色を変えた」
「それで、悠一さんに?」
澄江の目が揺れた。
「そうだと思う」
澪が小さく息を呑む。
澄江は続けた。
「悠一は、私の弟だ」
怜司はペンを止めた。
十和田悠一。
四十年前、沢の下で声を残した青年。
「悠一さんは、歌の意味を知っていたんですか」
「知っていた」
澄江の声が少し低くなった。
「私より深く知っていた。あの子は、歌をただの節として覚えるのではなく、なぜその音になるのかを考える子だった」
「だから、久我さんは悠一さんに会いに行った」
「そうだ」
澄江は目を閉じた。
「私が余計なことを言ったから」
「余計なことではありません」
澪がすぐに言った。
澄江は首を横に振った。
「そう言ってくれるのはありがたい。でも、あの時の私は怖くなって逃げた。久我さんに聞かれて、私は途中で話をやめた。そして、悠一なら分かるかもしれないと言ってしまった」
怜司は何も言えなかった。
それは、澄江にとって四十年消えなかった後悔なのだろう。
「悠一さんは、久我さんに何を話したんですか」
怜司が尋ねると、澄江は目を開けた。
「全部は知らない」
「一部でも」
澄江はゆっくり頷いた。
「悠一は、久我さんに言ったそうだ。歌は墓を守っているのではない。墓に入れられなかった名を守っているのだ、と」
怜司の胸が震えた。
墓に入れられなかった名。
それは、アラムのことだった。
そして、もしかすると悠一自身のことにもなった。
「悠一さんは、なぜ沢へ行ったんですか」
怜司は聞いた。
澄江の顔に深い影が落ちた。
「歌の古い節が、沢の近くの祠に残っていると言ったから」
「祠?」
「今はもうない。雪崩で崩れた。昔、アラムが倒れていた場所に近いと言われていた」
怜司は手帳に書いた。
沢の祠。
まだ知らない場所だった。
「そこに、何があったんですか」
澄江は首を横に振った。
「私は見ていない。ただ、悠一は言っていた。あそこには、歌の始まりがある、と」
歌の始まり。
怜司は、その言葉に寒気を覚えた。
事件は、まだ終わっていない。
座帳と手記だけではない。
沢にも、何かが残っている。
「三上さん」
澄江が怜司を呼んだ。
「はい」
「沢へ行くつもりか」
怜司はすぐには答えなかった。
行くべきだと思った。
だが、久我玲一も、十和田悠一も、その場所へ向かって戻らなかった。
「今すぐには行きません」
怜司は言った。
「警察や関係者の確認を取ってからです。場所も危険なら、専門の人に同行してもらいます」
澄江は、怜司を長く見た。
「それでいい」
その声は、少しだけ柔らかくなっていた。
「宗一郎さんにも、それを言ってほしかった」
怜司は目を伏せた。
父は、止めた。
だが、説明しなかった。
止める理由を共有しなかった。
だから、久我は進んだ。
悠一も巻き込まれた。
「十和田さん」
怜司は静かに言った。
「父は、悠一さんを守ろうとしていたようです」
澄江の顔が少しこわばる。
「久我さんの手記にありました。父は、悠一を巻き込むな、と言っていた」
澄江は黙っていた。
「でも、守れませんでした」
怜司は続けた。
「そして、助けられなかった。聞こえないふりをした」
澄江の手が、膝の上で震えた。
澪が祖母の背に手を添える。
長い沈黙の後、澄江は言った。
「知っている」
怜司は顔を上げた。
「知っていたんですか」
「宗一郎さんが、あとで私に言った」
怜司の呼吸が止まりかけた。
「父が?」
澄江は頷いた。
「あの人は、葬儀の後に一人で来た。雪の中で土下座して、悠一の声を聞いたと言った」
怜司は言葉を失った。
父は、澄江に話していた。
完全に黙っていたわけではなかった。
だが、それは許しを求めるためだったのか。
罪を渡すためだったのか。
それとも、耐えきれなかっただけなのか。
「私は許さなかった」
澄江は言った。
「許せるわけがない。今でも許していない」
怜司は頷いた。
「当然だと思います」
「でも、あの人が何も感じていなかったとは思わない」
澄江の声は震えていた。
「それが余計につらかった。悪人なら、憎むだけで済んだ。けれど、宗一郎さんは泣いていた。悠一の声を聞いたと、何度も言った」
怜司は拳を握った。
父の泣く姿を、怜司はほとんど知らない。
自分の前では、父はいつも硬かった。
沈黙していた。
だが、その沈黙の裏にあったものが、少しずつ形を持ち始めている。
「十和田さん」
怜司は声を絞り出した。
「その話を、記事にしてもいいですか」
澄江は怜司を見た。
「書きたいのか」
「書かなければいけないと思います」
「あなたの父親が、泣いて謝ったことを?」
「はい」
怜司は逃げなかった。
「父を救うためではありません。父が聞いていたこと、助けなかったこと、その後に謝ったこと。全部を分けずに書かないと、父はまた単純な悪人か、苦しんだ被害者にされる」
澄江はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「書きなさい」
澪が祖母を見る。
「いいの?」
「いい」
澄江は頷いた。
「ただし、私が許していないことも書きなさい」
怜司は深く頷いた。
「はい」
「許さなくても、語ることはできる」
澄江は言った。
その言葉は、部屋の中に長く残った。
許さなくても、語ることはできる。
怜司は、その一文を手帳に書いた。
取材が終わる頃には、昼を過ぎていた。
澄江は疲れた様子だったが、帰る前に一つだけ言った。
「歌を録るなら、いつか私も歌う」
澪が驚いた顔をした。
「おばあちゃんが?」
「澪だけに背負わせるものではない」
澄江はそう言って、杖をついた。
「ただし、まだ人前では歌わない。あの子の名前を、見世物にはしたくない」
「分かりました」
怜司は頭を下げた。
澄江が部屋を出ていく。
澪はしばらく、その背中を見ていた。
「祖母が、あんなに話すとは思いませんでした」
「僕もです」
「三上さん」
「はい」
「歌は、記事になりますか」
怜司は机の上の冊子を見た。
「なります」
そして、少し考えてから言い直した。
「でも、歌そのものを記事にするというより、歌に何を背負わせてきたのかを書くことになると思います」
澪は頷いた。
「その方がいいです」
怜司は録音を保存した。
ファイル名を入力する。
十和田澪証言。
十和田澄江証言。
ナニャドヤラ非公開音源。
非公開。
その文字を入れた時、少しだけ息が楽になった。
書かないことは、隠すことと同じではない。
今はまだ出さない。
守るために、段階を置く。
それは父の沈黙とは違う。
違うものにしなければならない。
夕方、怜司は連載企画書に新しい項目を加えた。
――歌の扱いについて。
本文には、こう書いた。
――十和田家に伝わる歌の節には、一般に知られる歌詞とは異なる形が残る。ただし、その音源や詳細な歌詞は、関係者の意向と地域への影響を踏まえ、現段階では公開しない。歌を「証拠」として消費するのではなく、何を語り、何を語れなかったのかを検証する対象として扱う。
怜司はその一文を読み返した。
まだ足りない。
だが、入口にはなる。
その時、スマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
怜司は少し迷ってから出た。
「三上です」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
そして、低い男の声が聞こえた。
「榊原だ」
怜司の背筋が冷えた。
榊原道隆。
旧集会所に火を放とうとした男。
四十年前から、真実を商品にしようとしていた男。
「何の用ですか」
怜司の声は硬くなった。
榊原は、かすかに笑った。
「記事を読んだ」
「そうですか」
「ずいぶん慎重だな。三上宗一郎の息子らしい」
怜司は黙った。
「慎重なふりをして、結局は隠す。血は争えん」
「用件を言ってください」
電話の向こうで、榊原の息が聞こえた。
「沢へは行くな」
怜司は目を細めた。
「なぜですか」
「死人が増える」
「脅しですか」
「忠告だ」
榊原の声から笑いが消えた。
「お前はまだ分かっていない。座帳も、手記も、歌も、全部入口だ。本当に燃やすべきものは、沢にある」
怜司は立ち上がった。
「何があるんですか」
榊原は答えなかった。
代わりに、低く言った。
「アラムの名を返したいなら、覚悟しろ。あの子は、かわいそうな子どもでは終わらん」
「どういう意味ですか」
「三上宗一郎は知っていた」
怜司の手に力が入る。
「父が?」
「だから黙った」
それだけ言って、電話は切れた。
怜司はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
澪が顔を上げる。
「どうしました」
怜司は、ゆっくり息を吐いた。
「榊原からです」
澪の顔色が変わった。
「何と?」
「沢へ行くな、と」
「沢……」
「それと」
怜司は言葉を選んだ。
「本当に燃やすべきものは、沢にあると言っていました」
澪は冊子を抱きしめるように持った。
部屋の外では、夕方の光が雪に反射していた。
白いはずの景色が、少し青く見えた。
怜司は手帳を開き、今日聞いた言葉をもう一度見た。
歌は守ったけれど、隠した。
許さなくても、語ることはできる。
墓に入れられなかった名。
そして、新しい言葉が加わった。
沢にあるもの。
怜司は窓の外を見た。
雪の下には、まだ何かがある。
歌の始まり。
悠一が向かった場所。
久我玲一が戻れなかった場所。
宗一郎が知っていたもの。
榊原が燃やそうとしているもの。
怜司は、静かにノートを閉じた。
急ぐな。
そう自分に言い聞かせた。
だが、止まるな。
父のように、そこで固まってはいけない。
夜が近づいていた。
ナニャドヤラの歌は、まだ耳の奥に残っている。
ナニャドヤラ。
ナニャドナサレノ。
アラ、ムナシヤ。
ナニャドヤラ。
その音は、今度は問いかけのように聞こえた。
名を返す覚悟はあるのか、と。
お読みいただきありがとうございます。
第15話では、十和田家に伝わるナニャドヤラの節と、歌が「守ること」と「隠すこと」の両方を担っていたことが明かされました。
十和田澄江の証言により、宗一郎が悠一の声を聞いていたこと、そして謝罪していたことも判明します。
ただし、それは許しではありません。
次回は、榊原の警告をきっかけに、「沢」に残されたものへ向かう準備が始まります。




